口の化け物
「待てっ!」
全速力で坂を下る。黒い化け物の進行方向を睨みつけた。
いない。気配もしない。だが直感で、すぐ近くにいると分かる。
「当瀬さんっ」「今の見たよな」
「は、はい……口のモンスターでした」
追いかけてきた婀歴と短く意思疎通する。坂の上では、写魏が困惑して立ち尽くしていた。見ていなかったらしい。やがて小走りで寄ってくる。
あれはどういう存在なのか。妖怪か? 祓い屋鑑識が持っているという検査キットがあればいざ知らず、人が元来備えている器官だけでは妖気を捉えることは出来ない。
こういう時こそマクラの出番なのに、奴は僕の右手で泥酔の真っ只中だ。役に立たない駄猫。霊青線である程度の感覚を共有しているにもかかわらず、僕の頭が冴えているのは、情事との遭遇及び得体が知れない存在の目撃と、二連続で驚いたおかげだ。
「どうしたの。露出狂でもいた?」
「だとしたら肌色日和だが。違う。記念すべき最初の事件現場で、真っ先に思い描いた犯人像と酷似した化け物がいた」「おう。露出狂の方がマシ」
「絶対この付近にいる。どこかに潜んでる」
「橋絵。後ろ」「ひっいやああっ!? ……何もいないじゃないですか!」
実際に姿を見ていないからか、写魏は緊張感に欠けていた。遊び心に溢れていて何よりだ。祓い屋の研究職は、現場のプロフェッショナリズムを習いはしないようである。
写魏の冗談へと反応する余裕はない。五感を総動員した。上下左右360度すべてを警戒する。陽の気を椽転し、禊力を練る。事態の重さを理解してくれたのだろう、婀歴と写魏も同じく備え始めた。
注意が一点に引き寄せられていく。側に、二階は住居だが一階はカフェとなっている建物があった。おしゃれなガラスの扉に、”Close”の札が掛けられていた。ありがちな間違いだ。正しくは”Closed”である。が、中身を覗き込む限りにおいて、開店の準備は整えてあると感じた。昼頃からやるのだろう。準備中なわけだから、”Getting Ready”の方が良いのではないかと、この非常時、細かくしょうもない難癖を一秒で拵えてしまった。
写魏をバカには出来ないな。自嘲して、カフェの建物へ向けた注意を意識的に抑えようとする。無理だった。どうしても気になる。
胸騒ぎがする。
居ても立ってもいられなくなった。大股で歩き出し、”Close”ドアを開けようとした。鍵が掛かっている。錠破りして押し入った。
「不法侵入だ日文さま」「お前と愉快な仲間たちからは言われたくないな」
「いっいるんですかね? さっきのが。ここに」「分かりません」
カンが働いただけだ。なのに、実に非科学的だけれど、いると確信する。
「いなかったら謝りましょう」
会計奥を覗き見る。短い廊下の先に階段があった。二階の住居に繋がっているのだろう。登る。上端すぐの部屋に明かりがついていた。小さな窓が一つしかなく、薄暗いからよく分かる。
あの扉を開けたらきっと、住民の生活がある。温かいか、冷え切ったものか、あるいは独居かは知らないが、とにかく、生きるプレイヤーが生きた力場を作っているはずだった。勝手に入り込んだのを咎められる。警察に通報されそうになる。マッドサイエンティスト写魏に記憶を消してもらう。そういうほのぼのとした未来を予見する。
ドアノブに手をかけた。引く。ギイと耳障りな音が鳴る。
カラカラと、足元に何か滑ってくる。フォトフレーム。キャラクターの着ぐるみと一緒に父と母と娘が笑顔で写っている、ありふれた構図の家族写真。施設育ちで、たった二年かそこらしかまともな社会生活を送っていない僕であっても、とても陳腐だと知っている。だがそれは、失われれば二度と戻らない、儚く尊いものである。
ガラスにヒビが入っている。
赤く汚れている。
ヒビを通じて、血が中に染み渡っていく。
顔を上げる。魂ごと咀嚼される人間たち、哀れな末路がそこにはあった。もはや個としての境界は非常に曖昧になっていたが、なんとなく三人分だと感じた。とてつもない量の赤い体液が、剥き出しの歯茎から流れ落ちる。噛み終えて、ゴクリと飲み込んだ黒い化け物は、僕たちに大きな口を向けた。次の獲物としてロックオンされたのか。あまり知性はなさそうだ。
心が、怒りで支配された。
写真の家族について、僕は一片も知らない。知る由もない。だからと言って、今日を普通に生きていた彼らの命が、突然現れたつまらない化け物によって食い散らかされることなど、あってはならないと思った。願った、という表現の方が正しいかもしれない。僕らの暮らす普通の社会は、もっと平和、平凡でなければならないと、強く望む。
顔見知りの死でもないのに、こうも動揺するとは。
以前の僕ではありえなかった。マクラの影響に違いない。
「守れなくてごめんなさい」
両の手に【刀】を握った。禊力製だ。迫る化け物を、切り刻む。人間はおろか、妖怪でも絶対に死ぬ致命傷を与える。殺意と悔恨が迸っていた。
バラバラにされた破片が、辺りに飛び散る。完膚なきまでに殺したはずだった。なのに蠢き出す。一片一片が動き始める。
入り口側で立ち竦んでいた婀歴が、呟いた。
「良くない、モノ……?」
呆気に取られる。妖怪未満の意思なき悪いモノ。人心を汚す。病を呼ぶ、不幸をもたらす。
だが、ボルボックスみたく集まって群体となり、人を襲うなど聞いたことがなかった。どうなっている。進化でもしたのか。
進化させられたのか。
頭が勝手に回り出す。自宅内「失踪」事件が、たった今バラバラにした化け物と同様の犯人によって引き起こされたのならば、痕跡のなかった謎が一気に解決する。良くないモノは、現世に爪痕を残せない。それほど定まった存在ではないからだ。形がなく、重さもない。
この世の闇を、ほんの少し引き寄せるだけ。あるがままにだ。そこに動機はない。動機を覚える知能がない。だからおかしいのだ。集合するだなんて。意思ある人か妖怪が、こねてまとめたりでもしない限り。
「【妨】」
牢獄が仕掛けられた。即刻妨害する。
外からの攻撃だ。VOTE参加者が僕を狙ってきたのか。あるいは、口の化け物発生と、関わりのある者たちか。捕らえて尋問せねばならない。
「もう外に出ようか」
祓い屋二人に誘いをかける。
「虫取りに行こうぜ。生きのいい薄馬鹿下郎がいる」




