写魏的乃
写魏的乃・十九歳は、朝からとても疲れていた。ここ一週間はずっと研究の追い込み。昨夜は遅くまでプレゼン資料を作成。事務書類の作成などと比べれば楽しい作業だ。が、彼女の体力は並以下である。疲労は避けられない。
加えて、遅刻ギリギリの時間に起きたら、命と同じくらい大事なスマホがなかった。
ハラハラとした心労を抱えながら発表した。
もう限界。終わった時には、燃え尽きていた。半ゾンビ状態だった。セミナーはあるが、春休みとして授業はない。今日の用事は終わり。帰れるのに、さらに言えばスマホがとても心配なのに、探して見つからなかった場合の絶望を予測してしまって、寮に戻るのが怖い。自然と歩幅が小さくなる。
一階のエントランスに降り立つ。見知らぬ少年がいた。知的な美貌につい目が惹かれる。俳優としてテレビで出てくれば絶対に推す。隣にいる銀髪の少女は猫又だろうか。にしては大きい。
少年は、直感で年下と思う。彼と楽しくお喋りしてみたい。コミュニケーションの欲望が心で渦巻く。いつもは赤の他人に話しかけたりしないが、今日の写魏の頭はだいぶガンギマっていた。精神的距離感覚がバグっている。
疲労で悪くなっている目付きを気にせず挨拶した。ズバズバと思ったことを喋りまくる。初めの方は何を言ったのかまったく記憶していない。が、当瀬日文という少年は、親しげに接してくれた。慣れない場所で緊張している少年の心へと、上手く寄り添えたに違いない。
会話の途中、写魏は何気なくスマホを触ろうとした。ないと気づきしょぼんと落ち込む。少年当瀬は、目敏くスマホの紛失に感づいた。事情を伝えてみる。
簡単なロジックで、彼は瞬く間にスマホの在処を特定してしまった。なぜ自分で気づかなかったのか。ルームメイト兼研究仲間に電話して、写魏の苦悩が消える。この子が神か。彼女は心底少年に感謝した。脳が幸福物質で満たされていく。
気分を良くして、つい自分の専門分野をベラベラと捲し立てた。理性が「ドン引きされるぞ」と注意してきている気がするが、楽し過ぎる。やめられない。
エレベータが降りてくる。史引教官と、「あの」石済灰學が現れた。驚き恐縮していると、少年当瀬と親しげに話し始める。なんと当瀬日文は、「天才」の客だったのか。常軌を逸し天元突破するあの男の周りには、若手祓い屋、及び彼と同年代の祓い屋見習いから、暗黙のうちに絶対不可侵とされている。太陽に近づき過ぎれば灼かれるのだ。
自分のような路傍の石コロに時間を取らせてはいけない。そそくさと退散し、女子寮に五分で帰り着く。
すぐベッドにダイブした。ルームメイトの花瀬が、台所から顔を出す。
「おかえり」「ただいま」
「ほい。的乃のスマホ。宝物でしょ? コンロの後ろにあったよ。変な所に放置しなさんな」「ありがと」
「あと、さっきの電話。誰のケータイ借りたの?」
「年下と思しき聡い美少年」「まじ? 写真撮った?」
「問題。私のスマホはどこにあったでしょう」「そっか。残念」
疲れていても、神経は高揚している。写魏は寝るに寝れない。天井を眺めながら、十分ほどボーッとする。当瀬日文。また会えるかな。
「うおっ」「どうした?」
洗い場横の丸椅子でスマホを弄っていたルームメイトが、突然叫んだ。上体をガバリと起こす。面白いイベントだったら嬉しい。
「なんか、石済灰學が模擬戦するらしいよ」「え?」
「第二グラウンド! 隣じゃん! 見に行こっ、どーせ眠れないんでしょ?」
「あ、うん。分かった」
ルームメイトに手を引かれ、小走りで目的地に着く。これといった設備も用具もない第二グラウンドは、いつもはガラガラに空いていた。よってすんなり入れる。だというに、現在、入口はひどく混んでいた。人の集団は苦手だ。外も得意とは言えない。待たされると予見して、頭が重くなる。異界はUVカットされてる分、アルビノである自分でも耐えられるが。それでも、と写魏は溜息を吐いた。
十分ほどしてようやく観客席に行けた。石済灰學の二つ名「覇人」へのコールで溢れかえって、正直うるさい。売り子たちが積まれた焼きそばを持って、席の隙間を練り歩いている。彼、彼女らは、確か史引先生の指導学生ではなかったか。
ぼんやりとする脳で思い出す。少年当瀬と石済灰學が言葉を交わす横に、あの先生がいたことを。
写魏はハッとした。もしかして、模擬戦の相手とは。
頭が冴えてきた。競技場の真ん中で、石済灰學と向かい合っている少年に視線を送る。やっぱり当瀬日文だ。少し目が合う。まさか、もう再会出来るなんて。
困惑する。彼は間違いなく祓い屋ではない。はっきりとそう言える。名簿や写真で見たことがないからだ。率直な疑問として、天才にして最強である石済灰學の相手が果たして彼に務まるのか、と感じた。写魏の戦闘経験など、必修の護身術程度しかない。戦いの本職と比べればほぼ素人である。実力を見抜く審美眼など持っていない。当瀬と石済の双方について、戦闘能力の評価はまるで不可能だ。だが周囲の専門家たちは、史上稀に見る化け物として、石済をとても高く買っている。ならとても強いのだろう。当瀬日文の敗北は必至だ。
待てよ、と彼女は首を捻る。彼はVOTEの参加者だ。妖怪史について詳しいセミナー仲間が言っていた。妖怪が人に寄生して、棟梁を目指しバトルロワイヤルする。タッグを組んだ妖怪と人は、霊青線と呼ばれる糸で繋がっている。妖怪は人体を出入り出来る。ひょっとすると、今は収納されているようだが、タッグらしき大きな猫又が強いのかもしれないと考えた。妖怪の世界は魔窟だ。知らない実力者がいても不思議じゃない。
が、写魏の予想は裏切られた。当瀬に妖怪を出す気配はない。そのまま戦闘の火蓋が切って落とされる。バクバクと心臓が鳴る。彼女は目を瞑りかけた。あの推し美少年が、石済灰學によって一方的にやられるシーンは見たくない。
予想は尽く外される。
両者の姿が消えた。と思えば、禊力が激しくぶつかり合う。紫色の衝撃で、会場の空気が激しく揺れた。
何が起きたのか、ほとんど誰にも分からない。静まり返る。
力の残滓で沸き立つ煙から、二人の姿が現れた。華麗に舞って着地する。無傷。辺りでざわめきが轟く。どうせすぐ終わると、皆が皆内心で思っていた。石済灰學が敷く牢獄に呑まれ、身の程知らずの挑戦者は呆気なくやられる。いつも通りに。
しかしそうはならなかった。写魏含め、観客は置いてけぼりにされる。ステージの二人に気にした様子はない。ちょっとばかりの言葉を交わす。何を話しているのは全然聞こえない。
両雄、再び激突。ちょっとした小手調べののち、すぐに禊力製の武器を持ち出した。打ち合う。広いアリーナを縦横無尽に駆けている。両者の得物が重なり合う度、凄まじい衝撃波が写魏にも届く。
ただでさえ体の弱い彼女にとって、彼らの動きは、同じ人間とはとても思えない。次元が違う。理解の範疇を超えている。ただ一つ、ほぼ互角ということだけが分かった。
ハラハラと見守る。汗まみれの両掌を重ね合わせた。天に祈る。推しどころじゃない。彼はもはや、信仰の対象だった。
「日文さま」
いつの間にか、二人は開始位置に戻っていた。共に獰猛に笑っている。
大気が震える。
とてつもなくヤバい。とにかくヤバいムードだ。
観客席はえも言われぬ高揚に包まれる。大技をぶつけ合う気だ。常人では一生辿り着けない領域で、彼らは意地と矜持を張り合うのだ。
情念の籠った短い呪文は、写魏の耳にもはっきり聞こえた。
「【覇】」
「【朔】」
石済灰學の背後に、巨大な眼が一つ浮かんだ。射竦めたものすべてを憎み、存在を許さず塵と化す、地獄を統べる覇王の瞳。人間一人に使う術ではない。あれに睨まれれば、当瀬日文もただでは済まない。写魏の口が乾く。
そんな。日文さま。
当瀬日文の背後には、真っ黒な球があった。いや、球ではない。あれは穴、深淵である。写魏はそう直感した。中で、無数の手が蠢いている。気持ち悪い、はずだった。なのになぜか魅入られてしまう。
億兆もの手が、螺旋を描いて這い出てきた。写魏は、生物学で習ったDNAを想起する。生命の形を決定づける因子。脈々と受け継がれてきた遺伝情報が押し込められている。当瀬日文の術は、あれよりずっと複雑だった。生体の源どころか、命の真理まで内包している。
覇王の神眼と始源の闇。衝突すればどうなるのか。未知だ。祓い屋研究者の端くれとして、写魏は興味に取り憑かれた。
ギュッと片腕を掴まれる。ルームメイトの花瀬が、青褪めた表情で震えている。怯えて、「あれは」と口を開いた。
「ダメでしょ」「かもね」「いや、落ち着き過ぎ」
「やめろーっ! やめたまえ!」
一人の男が、戦う二人の間に入る。模擬戦主催者の史引だ。取り乱しながらも、決死の覚悟が伝わってくる。写魏は、あれもまた真の英雄だと感じた。
「中止だ! 頼むからやめてくれ!」
泣きそうな声だった。叫んで訴える。
「君らは『祓い場』を消滅させる気か!」
牢獄は、ホストたる術者によりゲストとして閉じ込められなければ、一般に中を見ることは出来ません。しかし当瀬たちが戦っている第二グラウンドには、牢獄の様相を覗ける術的な仕掛けがあります。牢獄ありの試合で使われます。
その仕掛けのせいで予算が足りなくなり、第二グラウンドの設備は貧弱になってます。




