承認欲求
もう一度勝負を挑んだ。
もちろん勝てなかった。モウフを生き永らえさせるため、僕の命がガンガン消費されている。勝てる道理がない。
まるで動けない。906番が教えてくれたライフハックを使ってもだ。神下ろしの台の手すりに、捨てられる時機を逃したボロ雑巾みたくもたれかかる。
【アサギよ。余はそろそろ帰らねば。汝に幸福を与えよう】
「ははっ。感無量でございます」
【大変良き戰演舞だった。期間を百年追加する価値はある】
羽振りがいい。たかが十七の小僧が足掻く姿に、面白さを感じていただけたようで何よりだ。高額紙幣を燃やし、暗闇に明かりをもたらす金持ちの風刺画が脳裏に浮かぶ。薄く笑った。笑わないと泣きそうだった。
背もたれにしていた手すりが外れた。壊れたわけではない。組み立て式だったのが、高校生男子の体重に耐えられなかったのだろう。ここには元々、祠があっただけの開けた森の一角に過ぎない。つまり、夜中に急ピッチで建てられた祭壇なのだ。ある程度の欠陥は仕方がないことである。
台の下に落下する。頭を打ち付ける直前に、モウフの体と繋げた糸がピンと張った。善行は積んでおくものだ。「落ちましたね」【安心しろ。引っ張ってやった】「さすがです」というやりとりが、くぐもって聞こえてくる。
虚しい。殺す価値もない矮小な生き物を保護してやった、そういう態度だ。
立とうとするも、膝に力が入らない。軋む。痛い。そして怠い。一度コケてから、台の基礎に背中を預ける。
『だっ、大丈夫か?』
内側から、無理に取り繕ったような声がする。右手からマクラが出てきた。
泣いている。歯を食いしばっている。
「マクラ。起きたのか。痛いだろ。お前こそ大丈夫なのか?」
そう都合よく、痛みのハウリングが止まったりはしない。マクラの痛覚は、今までにないほどの悲鳴をあげているはずだ。傷がないのに痛いという感覚がどういうものなのかは分からないが。とにかく、治療に必要な禊力はもうない。
「痛いぞ。痛い。痛い。痛い。痛いけど、我慢するぞ。日文に比べたら万倍マシだもん」「……僕は」
強がる。
「平気だ」「嘘だ」
すぐ喝破された。額が引っ付く寸前まで顔を近づけてくる。頼りはないが曇りもない銀の瞳が、僕をじっと見つめる。思わず引き込まれそうになった。パーソナルスペースが、ほぼゼロ距離の親身に侵食されている。
「バカだからこそ、マクラには分かる」「何をだよ」
「自分の無力に苛まれる時が、人生で一番辛い」
「…………」
押し黙るほかない。
えんじ色に輝く神の力が、冬の夜空を照らし出す。あの神が、お母様の脳に向こう二百年の快楽物質を保証するメカニズムを植え付け、そして帰るところなのだろう。大きなファイルの転送に時間がかかるのと同じく、すぐに自分の世界へ戻れるとは思わないが。
長い溜息を吐く。赤くて見えづらいが、白く濁っていた。寒くて手の感覚がなくなっているのに、初めて気づく。
「昼に言ったな。浅ましい日文は見たくないと」「……ああ」
「負ける日文も見たくない」「ごめん」
謝る。正確には、謝って済まそうとする。
「ごめんな」「卑屈な日文も見たくないぞ」
「かっこ悪い僕をこれ以上突きつけるな」
頭に血が上った。無責任だと感じた。人に理想を押し付けるとは、つまり「お前は俺の理想通りでない」と言っているのと同じだ。自分勝手な言い分なのだ。
唇を尖らせる。
「僕はな」「うん」
「906番みたいに、誰かの理想でありたい。誰もの理想でありたい。そんなちっぽけな承認欲求で、ずっと頑張ってきたんだ。厳しい施設でも、急にそこから放り出されても」
「すごい。マクラじゃ到底出来ないぞ」
「でも。今日は十分頑張ったじゃないか。連結牢獄を破って。格上に挑んで。生贄のモウフに命を与えて。命を懸けてる。感じるか。僕の心臓が弱まってきているのを。明日生きてるかも不明なんだよ。なあ。本当にもう、十分に格好つけたじゃないか。頼むから、諦めさせてくれ」
「やだ」「やだじゃない」「いーやーだ」「聞き分けのない子猫だな」
「子猫じゃないぞ。同い年だ」
マクラは、僕の鼻をつまみ上げた。詰まっていた鼻血を指で押し出す。ベロンと舐めた。
憤慨したように続ける。
「お前と一緒の学年で、隣の席で並んでてもおかしくなかったんだ」
マクラは僕の中に入った。直ちに、表情と発声器官以外の、全身の操縦権を乗っ取られる。動かなかったはずの体が動いた。
無傷なマクラの肉体が、支えとして機能しているようだ。立ち上がって血を拭う。
『痛い……痛いけど我慢っ! マクラが日文として勝つ! お母さまに! 日文は、お母さまには絶対あげない!』
「……マクラじゃ、僕のポテンシャルは引き出せない。卓球でも精彩を欠いていたじゃないか。絶望的だ」『やる! やるってったらやる!』
「お前」
困惑する。心底からの疑問が湧き上がった。尋ねる。
「どうして僕に、そんなに期待してくれるんだ?」
互いが互いに、VOTEで繋がっただけのただのパートナーだったはずだ。そりゃあ同じ屋根の下で一緒に暮らしていれば、多少の情は生まれる。しかし、友人関係の垣根を越えてなどないと、僕はそう思っていた。
マクラには、マクラ以上を期待していない。白々燐、未交、町代、そして真島柿なら果たしてくれる役割など、別に期待していなかった。
しかしマクラは、当瀬日文という男に、僕以上の何かを望んでいるらしい。
『日文はマクラのヒーローなんだぞ』
猫又は悩むことなく、あっけらかんと答える。
『落ちこぼれのマクラに、手を……自分の肉と魂を差し伸べてくれた、あの時から』
「……そうか」
目を瞑る。納得と呆れが交じる。そうか。なんだ。そうだったのか。
僕はお前の、ヒーローだったのか。
ちっぽけな承認欲求を糧に生きている、打たれ弱く、実は自分を諦めるのが早い人間である僕にとって、この上ない称号だった。
肩と肘の張りが抜ける。
「マクラ」『何だぞ?』
「僕のすべてを貸してやる。昼間は失敗したけれど。僕が考えた通りに動け。僕が命じた通りに妖力を使え」
『りょーかいだぞっ!』
嬉しそうな返事が響いた。裏と表を入れ替える。僕が内側に引きこもる。悪くない感覚だった。
台の上を睨め付けた。『一応』とばかりに伝える。
『陽の気不足で生かせなかったが。一応布石は打ってある』




