金の巫女
「ぬおっ!?」
ゲートから吐き出された。コケそうになったが、施設で培われたバランス感覚で立て直す。脊髄反射的に戻ろうとした時には、空間の揺らぎは消えていた。
そもそも戻る必要はない。
「なんて吸引力だ。ダ◯ソンか。コードレスが本当にいい」
『マクラの髪を吸い込んだあれか?』
「カツラじゃなくて良かったな。ゴロゴロ寝転がってるお前が悪い」
辺りを見回す。イグサの匂い。どこかの家の書斎らしい。暗い部屋の中を、蝋燭の火がぼんやり照らし出していた。内装のセンスは古いが、どこも綺麗に保たれている。
全身を覆う禊力を解いた。モウフを背負い直す。その衝撃で、コートの左袖がハラリと落ちた。爪で切り裂かれて、もうダメになっている。下に来ていたベージュのカッタウェイなども同様。油断すると脱げそうだ。少なくともコートは邪魔なだけである。割り切って、モウフのためのおんぶ紐に使うことにした。
右手からマクラが出てくる。
「安心しろ。切り口からちらちら見える引き締まった筋肉がセクシーだぞ。正直そこに潜り込みたいくらいだ。はぁはぁ」
荒い息遣いにドン引きする。僕も成熟した女性の巨乳には飛び込みたいと思うが、決して本人の前で態度には出さない節度は持っている。己の変態性とは上手く向き合わなければならない。そうでなければ逮捕の道が待っている。
「日文だって、マクラの裸を見たくせに」
「猫の体を洗っただけだ」「四足歩行と同じ扱いするな」
怒るマクラを無視して、もう一度部屋の様相を確認する。書斎の花たる本棚に近づいた。字体で判断するに、古い本ばかりだ。一冊取り出した。紙は黄ばんでいるが、崩壊の兆しはない。出版年を見ると、1930年代の本だった。大正時代の護憲運動を振り返り、その是非について論じられている。
「大正デモクラシーか。もう歴史の遺物だ」
「大将でも暗し?」「あまり魅力的な職場じゃないな」
大将ですら暗いということは、部下は尚更陰の者に違いない。政治運動の中心人物だった尾崎行雄は精力的な人物だったようだが。94歳まで衆議院議員を勤め上げた。「議会政治の父」は伊達じゃない。
本を棚に戻す。政治系の硬派なものが多い。この書斎の主には、堅物という印象を抱かざるを得なかった。
扉の開く音がする。
「誰だい?」
女の子の声だった。にしては妙に威厳がある。真面目に生きてきた者特有のプレッシャーを感じた。
振り返る。外見年齢は中学一年生。だが髪の毛は真っ白だ。頭の上で大きな耳がしなだれている。猫又だ。どうやら里の外に飛ばされたわけではないようだった。元々僕たちは、神下ろしの生贄だろうモウフを連れて外に逃げ出すことが目的だった。落胆しつつ、白い猫又の質問に答える。
「当瀬日文。人間だ。こっちはマクラ。馬か鹿かで飼育員の意見が分かれている」
「猫又だし、動物園で飼育されてるつもりはないぞ。もしそうだとしたら、パンダじゃ足元にも及ばない絶対的スターになってしまうけどな」
「間違えた。リスかトラかで論争が起きている」「クビにしようとするな」
場を和ませるために軽くコントをしてみたが、白い猫又には通用しなかったらしい。わざとらしく目を瞬かせ、露骨に眉根を曲げる。
「こりゃ驚いた。我らが里のこんな端っこにまで、人間の男の空き巣が現れるなんて。やれやれ。物騒な世の中になったもんだねえ」
「空き巣じゃない。僕に泥棒なんてさせたら大したものだ。ゲート発生直後一秒間のランダム転移に巻き込まれたんだ。気付いたらここにいた」
「ふん。まあこの家には盗んで得するものなんてほとんどありやしない。せいぜいあたしのハートくらいだよ」
別にいらない。と思ったが黙っておく。
盗むに値するものなら他にもある。本棚を親指で差し、「いいコレクションじゃないか」と言ってみた。「それらの価値を解するなんて、多少の教養はあるようだ」と白い猫又はニヒルに笑う。
無自覚だった認識の過ちに気づき、僕も笑った。少しの沈黙ののち、「もしかして」と口を開く。
「高橋是清蔵相を見かけたことあります?」「ありゃいい男だった」
「日銀の国債引き受けについて、後世にとってとんでもない前例を残しましたが」「あの時は仕方なかったとあたしは思う」
白い猫又は嘆息した。
「値段が底なしに下がっていく恐怖を日本中に植え付けた。この里の家計簿も冷え込んだもんだ。男が来なくなったから、遊女をやってた友人が何人か飢え死んだ。せっかく煮干しをくれてやったのに。年季が入ったのをな」
「あの、おいくつですか?」「今年でちょうど生誕100周年だね」
お母さまほどではないが、人生の大先輩だった。「失礼」と背筋を伸ばす。
「お若く見えたもので」
「かまやしないよ。猫又は生涯ちんちくりんだ。時代に適応する力は、老いてく度にちゃんとなくなってくがね。もう中心部の感性にゃあもうまったくついていけんよ。長く生きてるとつまらなくなる。死んで行った友人たちが羨ましいね。ほんと、お母さまはどういう精神構造してるんだか」
会食で色々とやり取りした、五百年以上生きているというお母様の姿を思い浮かべる。結構楽しそうだったが。
「それよりだ」
白い猫又は言葉を切って、僕の背中で眠るモウフを見やる。世界的恐慌の話題時よりも、さらに大きな溜息を吐いた。
「金の巫女じゃないか。隠居した老婆の家に、なんてモンを連れ込んでくれるんだい」「金の巫女?」
疑問符を浮かべる。先ほどの襲撃者も、警告として「巫女を渡す」よう僕に言ってきたが。恐らく、神下ろしの儀式についてのキーワードだ。
「なんですかそれは」
「半世紀に一度生まれる金の巫女は、猫神様によるご降臨の意思なんだと。つまり神の依代らしい。前の巫女はまだ小さいうちに死んじまって、神下ろしは結局出来なかったはずだよ」
納得はする。モウフが水晶玉に封印されていたのは、死なないようにするためか。前回の反省を踏まえて。
舌打ちを抑えた。次の質問をする。
「神下ろしが失敗したとして、何か支障はあるのですか?」
「さあね。知らないよ。あたしは部外者だからね。おっと、まだ気になってることがたくさんありそうな顔つきだ。でも答えられない。答えられるほど知識がないんだよ。お母さまにでも聞け」
タン、と白い猫又は足を踏み鳴らした。厳しい口調で言い放つ。
「もういいだろ。面倒事は背負いたくない。さっさと出て行きな」
玄関まで僕たちを追い立てる。「ああ、ちょっと待っとれ」と言い残し、家の奥に引っ込んだ。すぐに戻ってくる。強引に何かを渡された。
「煮干しを持っていきな。仲良く分けてくれ。じゃあな若者ども」「えっあの」
足早に去る彼女の背中に向かって、力なく手を伸ばす。
「賞味期限が十五年も前なんですが」




