カフェイン
いつものように授業を受ける。
いつものように友達と話す。いつものように真島柿と戯れ合う。
いつものようにバイトに行く。いつものように一人で寝る。
いつものように日々が過ぎる。
冗談混じりの会話をして。勉強して。料理して。ゲームして。真島柿と。
永遠に続けばいいのに。
その日は、真島柿とともに行きつけの喫茶店に向かった。放課後デートだ。今日はバイトがないからゆっくり出来る。受付の前に列はなかった。
「奢ろう」「やった。すみませんアメリカン一つ」
何の捻りもない注文だった。僕の部屋でも淹れられる。バイトのない日は来てくれないが。貞操観念が固い。真島柿が拒むのに、僕に何かする気が生まれるはずもない。
「ダークチョコレートアンドレアキャラメルフラペチーノウィズフローラルバニラエッセンス」
「え? なんて? モンスターでも召喚するの?」
つい二週間ほど前に辿り着いた、この店における最適解を頼む。もちろん呪文ではない。受付のお姉さんが微笑んだ。分かってるじゃないかという顔だ。
品を乗せたトレーを運ぶスタッフが、「こちらに」と案内してくれる。最も雰囲気のある席に連れられた。照明を少し暗くするよう伝える。
ヴィンテージ感が増した。
「普通のカフェと対応が全然違くない? VIP対応じゃん」
「今の時間は客が少ないからじゃないか?」
真島柿はアメリカンにコンデンスミルクと砂糖を入れた。ぐるぐるとかき混ぜる。爽快な飲み口はブラックでも美味いが、ミルクと砂糖は意外に合う。尤も、真島柿がコーヒーの飲み方をきちんと考えているとは思えない。アメリカンを注文したのは、店で最も安い上に量が多くコストパフォーマンスがいいと判断したから。そして、ミルクと砂糖は無料で使える。
フーフーと冷ます猫舌な彼女を横目に、店のオリジナルフラペチーノにほんの少し口をつける。豆と焙煎の質は並みより少し上程度。コクの強い甘み。ずっと続くと飽きるだろうが、時間が経つにつれ店謹製のダークチョコレートが溶け出し、だんだん苦味が増してくる。
「ねえ」
真島柿が口を開く。いつものように話しかけてくる。
「最近どう?」「答えにくい質問だな」
苦笑いした。大妖怪ギツネたちに見送られ、高校生として人間社会にデビューしてからの日々を思い浮かべる。友達、そして真島柿と過ごす楽しい記憶。
ずいぶんと昔のように感じた。
急速に色褪せていく。
おかしい。最近の出来事のはずだ。
なのに灰色になっていく。
「ずっとここにいたい?」
真向かいの彼女は美しく微笑んだ。
「ずっとここにいようよ」
「最近は、最近であるはずの日々が、本当に楽しいよ。ずっと、ずっとここにいたい」
頭を押さえる。思考が逆流する。痛みが酷い。
「ふふ、あはは」
朗らかな笑い声。フラペチーノの本来の楽しみ方を忘れ、水を流し込むようにグイと呷った。本当はもう分かっているはずなのに、薄々と感じていたのに、最後の最後で脳が理解を拒む。
カフェには僕たちしかいなかった。見慣れた店員たちすらどこにもいない。真島柿は笑い続ける。笑い声が響く。それ以外は静寂だった。
言葉は交わさない。交わせない。永遠とも思える時間が過ぎる。せいぜい十分ほどしか経ってないのに。
「らしくないよ」
真島柿は真剣な表情をした。
「私が好きになった日文らしくないよ」「うるさい」
遮った。耳を塞ぎたくすらなった。でもそれをすると、いよいよ幻滅されてしまうだろう。鋼の意志……冷えた鋼の不器用さで体を抑える。
「私を見て」
気づけば僕たちは、二年一組の教室にいた。いや、最初からずっとそこにいたのだ。僕と真島柿は。それも違う。真島柿はもういない。彼女の残滓があるだけだ。こびりついているだけ。僕は一人で閉じ込められていた。
大きな蜘蛛とともに。感情の読めない目で僕をじっと眺めている。
「もう一度聞くよ。最近どう?」
「悲しいよ。心の奥底で、僕は延々と泣いている」
フラフラと本音を吐いた。
「ノーテンキな猫又のおかげで、どうにか取り繕えているようなものだ」
「日文は囚われている。当たり前だよね。可愛い彼女の私を亡くしたんだもの。だからあなたは呼ばれたの」
蜘蛛に。苦悩する学生へと、糸口を与える優しい蜘蛛に。
「お望み通り、あなたはずっとここにいられるよ」
真島柿は、大きな蜘蛛を優しく撫でた。
「どうする?」
唇を噛む。深呼吸した。鈍る心を叩く。
そうだ。僕らしくないじゃないか。時は不可逆。後には戻れない。前がある限り歩き続ける。
決意した。
「戻ろう。助けてしまった妖怪がいてね。放って置けない。責任は持つさ」
肩を竦めてみせた。精一杯の強がりだ。真島柿は満面の笑みを浮かべる。
「心の整理はついたかな。それでこそ。私の日文」
景色が薄れていく。パラパラと崩れる。真島柿が消えていく。
「私なんか置いていって。でも忘れないで」
彼女は最後にそう言った。言われなくても忘れやしない。絶対、側に置いておく。僕が生きている限り、君は僕の中で輝き続ける。
意識が覚醒に向かう。途端、喉に気持ち悪さを感じた。ゲホゲホと咳き込みつつ、目を開ける。
「大丈夫か、大丈夫か日文!」
体がゆらゆら揺らされていた。マクラが心配そうに顔を覗き込んでくる。動揺が、糸――ここでは蜘蛛の糸ではなく霊青線――を通して伝わってきた。上体を起こせば、未だに二年一組にいた。
あくまで、蜘蛛の牢獄における二年一組だ。
「気がついた? 当瀬くん、突然倒れちゃって、その」
先ほど僕が自販機で買った缶をコトンと床に置き、町代はおずおずと言う。
「コーヒーを飲ませたら、めちゃくちゃ苦しみ出したの」
「なるほどな」
僕は頷いた。蜘蛛にカフェインは麻痺毒だ。「あと」と町代が涙目で付け加える。教室の真ん中に指を差した。
「突然大きな蜘蛛が」
学校の制服を着た数人の少年少女に、彼は囲まれていた。人の魂。柔道場の裏に良くないモノが溜まっていた理由か。彼らは誰だ。なるほどそうか。若さに苦悩し、蜘蛛に救われ、夢を見せられ、そして残ることを選択し、取り込まれた。現実では死んでいるだろう。
立ち上がり、逡巡なく近づいていく。少年少女は蜘蛛を庇い、口々に頼み込んできた。
『殺さないで』『殺さないであげて』『お願い許して』
「なんで殺すんだよ」
この優しい蜘蛛を、駆除したりはしない。確かに捕食行為だ。僕も食われそうになったのだ。しかし自分のためではなく、生徒を苦しいだけの現実から救おうとしているだけなのは明らかだ。理想の夢から覚めて、帰るという選択肢を示してくれていたから。
美しい在り方に敬意を払う。蜘蛛を好む人たちの気持ちが、少しだけ理解出来た気がした。
僕はゆっくりと頭を下げる。
「ありがとう。素晴らしい夢だった」
蜘蛛の感情は読み取れない。少年少女を背中に乗せて、ゆっくりと去っていく。すぐに牢獄が解除された。
夕暮れのオレンジが、二年一組の教室を染める。ツーと涙がこぼれ落ちた。慌てて拭う。泣くなんて、キャラじゃない。
「厄介な妖怪だったな」
町代とマクラは首を傾げる。困惑しているようだった。当然ながら、事の顛末を理解していないらしい。「早く学校を出よう」と声をかける。
「バイトに行かなきゃいけない」
柔道場裏を教えてくれた白々燐には感謝だ。
こんなに囚われているということを、蜘蛛の糸に囚われて実感した。僕はどうやら、真島柿をちゃんと愛していたようである。人を好きになる気持ちは、僕にも普通に備わっていた。まだ何か引っかかるが、気持ちが少しだけ晴れやかになる。仕事に集中出来そうだ。
優しい蜘蛛に礼を言いたかったが、それきり彼に会うことはなかった。どころか、翌日再び柔道場裏に行った時、そこには、惨らしく殺された大蜘蛛の死体があった。
当瀬は、蜘蛛の夢から出ようと思えばすぐに出られる能力はありました。でも出られなかったのです。




