いつものように
気持ち悪いなどと言われ、乱れに乱れていた心と呼吸をなんとか整え直す。
景色は変わらないが、取り巻く空気は一変していた。ジメジメしていて重苦しかったのが、張り詰めたものに変わっている。手足に何かが纏わりつく心地がした。
「牢獄って。自分のためのフィールドだよね?」
「ああ。多大な禊力コストを支払って作る、自分にバフそれ以外にデバフの結界だよ。さらに使用者による各種トッピングもついてくる。例えば雪女フレーバーはトぶぞ。意識が」
右袖を左手で振り払った。指に粘り気を感じる。見ると細かな繊維がついていた。蜘蛛の糸。極細のそれが網状に重なり合って、空から降ってきている。
雪の如く地面に積もり始めていた。
「下手人は、大方デカい蜘蛛と言ったところだろうな」
「えっ!? 私、蜘蛛苦手なんだよね」
「僕の感性でも、少なくとも美しくはないな」
あの蠢く八本足の魅力は分からない。好き過ぎて何百匹も飼ってる猛者がいるらしいのも知っているが。世界は広い。
右手からマクラが出てくる。
「おい。危ないかもしれない。お前は弱いんだ。大人しく待っとけ」
「日文。前みたいに、早く乗っ取ってしまってくれ!」
マクラはそう主張した。僕は首を横に振る。
「所有権の強奪が、いつも最適反応とは限らない」
柔道場の裏から出て、グラウンドにやってきた。一面、遠目で見ると綿菓子だがしっかりと形のある蜘蛛の糸で覆われている。雲の上に立っていると勘違いしそうだ。
「牢獄は学校敷地全体を元に張られているな。あの駅よりもずっと広い。乗っ取るには禊力を全体に張り巡らせなきゃならない。相当の時間がかかる。術者を見つけ出し直接叩いた方がいい」
「広いんだから、探す手間も増えるんだよ? 隠れられる場所も多いし」
「その通りだ。だが、妖気を完全に隠すのは不可能。人には視覚以外に捉える術がないが、こっちには妖怪がいる。大体の方角くらいは分かるはずだ」
落ちている糸を拾って弄るマクラに視線を寄越した。彼女はコクリと頷いてみせた。瞼を閉じて集中する。
「あっち!」
教室棟に指が差された。マクラを体内に戻し、急ぎ向かう。走っている最中に、町代が問いかけてきた。
「襲ってきたのは、やっぱりVOTEの候補者?」
「分からないが、違うんじゃないかと思う。勝ちに来た刺客にしては、敵意を全然感じないんだ。正直僕も戸惑っている」
候補者じゃないのならば、僕たちに仕掛けるメリットなどないはずだ。火鼠たちは敵意どころか殺意が剥き出しだった。しかしこの牢獄の空気に、取り込んだ僕たちに対するネガティブな意思は見受けられない。
むしろ、
「優しい感じがする」
教室棟に辿り着いた。下駄箱は靴でいっぱいだ。どれもぴっちりと揃えられていて、かつ履かれた形跡がまったくない。不気味だった。「靴屋なら完璧な配列だな」と軽口を叩いてみせる。町代はぎこちなく笑った。滑ったかもしれない。
『この建物に絶対いる。でもどこにいるかは分からないぞ』
「ありがとう」
一年生の教室から順に調べていくことにする。「懐かしいね」と言いながら、町代は一組の教室を開けた。誰もいない。伽藍堂だ。二組三組四組とスライド式の扉を開く。妖怪の姿はない。
一階には職員室もある。そこも無人無妖だった。
「次、私たちの学年だ」
「三学期もあと少しか」「もうすぐ三年生だね」
僕は自分のクラス、つまり二年一組に充てがわれる教室の扉に手をかけた。
思考が入れ替わる。
すべてが塗り替わる。
いつものように、何気なく入っていく。
数人がこちらに振り向いた。「おはよう」「おはよっす」などと気軽に挨拶をしてくれる。特殊な施設で育ち、妖怪などに人の常識を刷り込まれた得体の知れない男には、もったいないくらいにいい環境だ。
「おはよう」
ぶっきらぼうに答えて、自分の席に赴く。教科書を机の中に入れ、荷物を横にかけた。クラスメイトの男二人が近づいてくる。
「昨日の芸能人対決見た? やばくなかった?」
「すまないが見てない。誰かすごいプレーをしたのか?」
「コックリコの連携がすごくて」「背の高い方のシュートが」
「相方のパスも本当に良かったんだけど、やっぱりシュートがやばかったわ」
「そうそう。相手チームにプロいたんだけど圧倒されてたもん。神プレー神プレーって超連呼してた」
「ああ」
僕は笑って頷いた。
「コックリコののっぽは妖怪なんだ」
二人は爆笑する。本当の話なのだが、ジョークと取られたのだろう。実は芸能界には妖怪が多く進出している。表社会では最も魑魅魍魎が跋扈している場所だ。裏社会まで入れるとヤクザに軍配が上がるが。妖怪が人の社会に進出するのは、人を食って糧にするためではなく、単純に人の社会の方が暮らしやすいと感じるかららしい。
フッと視界が閉ざされる。
「だーれだ?」
一瞬、なぜか「あり得ない」と感じた。疑問はすぐに霧散する。「未交か?」と冗談めかして答えれば、ギリギリと締め付けられた。目玉が潰れそうだ。
「正解は、あなたの可愛い彼女」
僕の前に陣取っていた男二人を蹴散らし、胸を張って存在を主張する。何がとは言わないが、大きい。
「真島柿厨荏ちゃんでした!」
「気づかなかったよ」
大袈裟に肩を竦めた。「なんでよー」と不満を表しつつ戯れてくる。当たる。何がとは言わないが。僕は決して、これを見越して意地悪したわけではなかった。
「あっ。数学のワークで分かんないとこあったから写させてー」
「分かったと思い込んでいる問題が一番危険なんだ。全部写せ」
「それ絶対間に合わないよ。提出って五限だったっけ?」
「二限だ」「マジでやばい!」
真島柿は僕のノートを強奪した。自分の席に戻り、急いで手を動かす。もうすぐ予鈴が鳴る。武良咲先生が少し早めにやってきた。真島柿のズルに気づいた様子はない。尤も、武良咲先生は宿題の模写を咎めるタイプの人ではないが。
僕という異端分子を抱えていても、日常はなお続く。流されるままに流れていく。それはまさしく、大妖怪ギツネが僕に話した理想だった。




