第9話 養子って言うな
翌朝、レオンは工場の警笛より少し早く目を覚ました。
床の上で外套にくるまりながら、まず自分の靴を見た。昨夜、明日の朝は絶対に遅れられないと思って結び直した靴ひもは、片方だけ少し緩んでいる。
寝台の上では、ミラがもう起きていた。
毛布を胸元まで引き上げ、机の上に置かれた幼年教室の申込用紙を見ている。昨日、レオンが何度もペンを止めながら書いた紙だった。ミラはまだ字を読めない。けれど、自分の名前がある場所だけは、レオンが指で教えたので覚えている。
ミラはレオンの足元を見た。
「ほどけましたか」
「まだ負けてない」
「負けるんですか」
「靴ひもに負ける朝はある」
ミラは少し考えた。納得しきれない時ほど丁寧に頷く癖が出かけたが、途中で止まる。
「今日は、負けない方がいいです」
「分かってる。今日は幼年教室の初日だからな」
レオンは起き上がり、背中を少し丸めた。床の硬さには慣れたくないが、体は勝手に慣れようとしている。寝台の脚に頭をぶつけないようになっただけ、自分も少しは成長しているのかもしれない。成長する場所がそこなのかは分からない。
ミラは机の紙を見た。
「今日、持っていきますか」
「持っていく。これで幼年教室に入れる」
「なくしたら、帰れませんか」
レオンは水差しを取ろうとして、手を止めた。
「帰る時は俺が行く」
「紙がなくても?」
「なくても行く」
「紙より、レオンさんですか」
「今日は俺の方が強い」
「今日は?」
「明日も強い予定だ」
ミラはそこで少しだけ眉を寄せた。
レオンは頭をかいた。
「予定は曲がることもある。けど、迎えは曲げない」
ミラは頷かなかった。ただ、机の上の紙からレオンへ目を移した。その視線を受けて、レオンは言い直す。
「迎えには行く。紙がなくても行く」
それでミラは、ようやく寝台から下りた。
警笛が鳴ると、窓ガラスが細く震えた。
ミラは警笛の音に、もう大きく身をすくめない。けれど、音が響いた瞬間、外套を取る手が一度だけ止まる。
「今日も、乱暴な朝です」
「工場の朝だからな」
「幼年教室の朝も、乱暴ですか」
「工場よりは静かだと思う」
「静かなら、聞こえますか」
「何が」
「帰る音」
レオンは桶に水を移しながら、少し考えた。
「俺の足音か?」
「はい」
「じゃあ、夕方は少し大きめに歩く」
「怒られませんか」
「廊下なら少し怒られるかもしれない。道なら大丈夫だ」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
朝食は硬いパンと薄いスープだった。黒い鍋は相変わらず黒く、レオンの皿は相変わらず欠けている。ミラは自分の欠けていない皿を手元へ引き寄せ、パンが置かれるのを待った。昨日よりは慣れているが、まだ乱暴には扱わない。
レオンはパンを分けながら、ミラの横顔を見た。
「緊張してるのか」
ミラはすぐには答えなかった。
「緊張は、持っていくものですか」
「持っていきたくなくても、ついてくることはある」
「じゃあ、あります」
「そうか」
レオンはそれ以上、無理に聞かなかった。
身支度をして中庭へ下りると、労働者アパートはもう朝の音で満ちていた。洗濯場では水桶が置かれ、共同廊下では子どもが靴を探して騒いでいる。トトは中庭の端で丸くなり、片目だけ開けてこちらを見た。
エリーズは腕を組んで待っていた。髪を後ろでまとめ、籠を腕に提げている。マノンはその横で縄跳びを持ち、ルルは木の匙を両手で握っていた。
エリーズはレオンを見るなり、眉を上げた。
「初日から遅れたら、幼年教室じゃなくて、あんたを預ける場所を探すからね」
「俺はもう工場に預けられてる」
「返却されないように働きなさい」
「工場長にも似たようなことを言われそうだな」
「言われる前に直せばいいのよ」
「それができる人間なら、床で寝てない」
エリーズはため息をつき、ミラへ向き直った。声が少しやわらかくなる。
「初めての場所だから、困ったら先生に言うのよ。黙って我慢しなくていいからね」
ミラは丁寧に頷いた。
「はい」
その頷きが少しきれいすぎることに、レオンは気づいた。けれど、中庭でそれを指摘できるほど、うまい言葉は持っていなかった。
マノンが近づいてくる。
「ミラ、帰ったら遊べる?」
ミラはレオンを見てから答えた。
「迎えに来たら、帰ります」
「そのあと」
「そのあとなら、たぶん」
「たぶん?」
レオンが横から言った。
「初日は、たぶんが多いんだ」
マノンはよく分からない顔をしたが、すぐに笑った。
「じゃあ、夕方ね」
ミラは小さく頷いた。
幼年教室へ向かう道で、ミラはいつもより口数が少なかった。
通りには仕事へ向かう男たちがいて、馬車の車輪が石畳をこすっている。パン屋の前からは焼けた匂いが流れ、路地の奥では誰かが水をまいていた。レオンはミラの歩幅に合わせて歩く。最初の頃よりは、ずいぶん自然に速度を落とせるようになった。
「遠いか」
「昨日よりは近いです」
「場所は同じだぞ」
「昨日は、知らない場所でした」
「ああ。そういう近さか」
ミラは頷く。
「知っている道は、少し近いです」
「じゃあ、そのうち工場も近くなるな」
「工場は、油の匂いが先に来ます」
「道案内に使えるな」
「レオンさんも、少し油の匂いです」
「俺を目印にするな」
そんな話をしているうちに、幼年教室の建物が見えてきた。
古い集会所を使ったその場所は、工場ほど大きくない。壁には戦争前から残っているらしい掲示板の跡があり、入口の横には小さな木札が下がっている。窓の向こうから、子どもの声が聞こえた。
ミラの歩く速さが、少しだけ落ちた。
レオンは扉の前で止まり、申込用紙を内ポケットから取り出した。折れていない。油もついていない。本人はそれだけで少し誇らしそうな顔をした。
「見ろ。無事だ」
ミラは紙を見た。
「レオンさんも、無事ですか」
「俺は紙より丈夫だ」
「床で寝ると壊れます」
「まだ使える」
扉が開き、先生が顔を出した。髪をきちんとまとめた女性で、昨日と同じように必要なことを順番に見る目をしている。
「おはようございます」
「あ、レオンです。レオン・メレル。紙、持ってきました」
「名前は昨日聞きました」
「紙も俺も無事です」
「紙を先に出してください」
レオンは大人しく用紙を渡した。先生は手早く確認し、いくつかの欄に目を通す。ペン先で保護者名のところを軽く押さえた。
「ここは、あなたの字ですね」
「はい。曲がってますけど、読めますか」
「読めます。曲がっていることと、読めないことは別です」
「助かります」
「助かるのはこちらではありません。ミラさんが通うための紙です」
レオンは少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
先生は用紙の端に印を押し、控えの一枚を切り離してレオンに渡した。
「こちらは、家で保管してください。今日から通い始めたことの控えです」
「役所に見せるやつですか」
「まず、あなたが迎えの時間を忘れないための紙です」
「役所より俺に必要な紙でしたか」
「はい」
レオンは控えを受け取り、内ポケットへ入れかけて、油がつかないように封筒へ挟み直した。先生はそれを見届けてから、ミラへ視線を移した。
「ミラさん。中へどうぞ」
ミラは丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
教室の中には、低い机がいくつも並んでいた。小さな椅子、古い黒板、壁に貼られた子どもの絵、木箱に入った木片、布の人形。床はよく掃かれている。豪華ではないが、昼間に子どもがいる場所として整えられていた。
ミラは入口で立ち止まり、部屋の中を見回した。
窓。出口。先生の机。子どもたちが座っている場所。レオンの立っている扉。順番に確かめている。
レオンはそれを見て、余計なことを言った。
「この子、よくしゃべります。でも、困ったことほどしまうかもしれません」
先生の眉が少し動いた。
「それを本人の前で言いますか」
「あ」
ミラは丁寧に頷いた。
「大丈夫です」
先生はミラを見た。
「大丈夫かどうかは、こちらで見ます」
レオンは帽子を胸の前で持ち直した。
「お願いします」
「夕方、迎えに来てください。時間に遅れると、ミラさんが困ります」
「遅れません」
「工場の都合で遅れる時は、連絡を」
「工場長に言われる前に走ります」
「走るより、先に予定を見てください」
レオンはまた少し刺された顔をした。ベルナールほど穏やかに深く刺す人ではないが、この先生も、レオンがごまかそうとした場所を見逃さない。
レオンはミラの前にかがんだ。
「夕方、迎えに来る」
ミラはレオンを見た。
「幼年教室が終わったら?」
「終わったら」
「パンが逃げても?」
「パンには工場長がいる。俺はこっちに来る」
ミラは少しだけ頷いた。今度の頷きは、朝より少しだけ短かった。
レオンは立ち上がり、教室を出た。
扉が閉まる直前、ミラはもう一度だけこちらを見た。レオンは帽子を持った手を少し上げる。ミラは表情を大きく変えなかったが、視線だけはそれを受け取った。
工場へ向かう道で、レオンはいつもより何度も振り返った。幼年教室の建物はすぐに見えなくなる。それでも、門を曲がるまで、ミラのいる方角を何度か確認した。
工場では、朝から鉄の音が鳴っていた。
門の近くで、夜番の男が薄茶色の犬に水をやっている。犬のパンは、昨日より少しだけ落ち着いた顔で古い木箱のそばにいた。レオンを見ると、耳だけを動かした。
「おい、レオン」
夜番の男が声をかけた。
「犬の方は逃げてないぞ」
「助かります」
「今日はそっちより、子どもの初日だろ」
「犬より人間を先にします」
「当たり前のことを、少し誇らしそうに言うな」
レオンは帽子をかぶり直した。
「俺にしては順番が合ってる」
「その言い方だと、普段がかなり不安になるな」
「普段は周りが不安がってくれます」
「それは助けられてるって言うんだ」
レオンは返せず、作業場へ向かった。
その日の仕事は、やけに長く感じた。
流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置く。次の部品を受け取り、渡す。いつもの動きなのに、頭の隅では幼年教室の低い机や、小さな椅子がちらついた。ミラは今、座っているだろうか。しゃべっているだろうか。聞かれていないことも話しているだろうか。それとも、施設にいた時のような顔で、必要な時だけ丁寧に返事をしているのだろうか。
隣の工員が声をかけた。
「おい、部品を見送ってるぞ」
「あ、悪い」
「子どもが学校へ行った父親みたいな顔してるな」
「父親じゃない」
「毎回そこは否定するな」
「書類では養父だ」
「なら、だいたい父親じゃないか」
レオンは部品を置きながら、少しだけ黙った。
養父。
紙の上では、そういう言葉があった。最初に工場長室で見た、自分の名前が載っていた紙とは違うはずなのに、やはり役所の言葉は硬い。自分が思っているよりも硬く、重く、簡単には動かせないものに思えた。
昼休みに、レオンはパンの様子を見に行った。犬は木箱のそばで眠そうに丸くなっている。工員の一人が残り物のパンを少し置いていったらしく、皿は空になっていた。
「お前はいいな」
レオンが言うと、パンは片目だけ開けた。
「字を書かなくても、パンで通る」
犬は返事をしない。レオンは自分で言って、自分で少しだけ変な顔になった。
「いや、犬にも犬の都合があるか」
パンはあくびをした。
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。
作業着の袖には油がついている。爪の間も黒い。水場で手をこすったが、全部は落ちない。ミラの前に出るならもう少し落としたいと思ったが、時間をかけすぎると迎えが遅れる。
レオンは手を拭き、工場を出た。
幼年教室へ着く頃には、夕方の光が窓へ斜めに差していた。中から子どもたちの帰り支度の声が聞こえる。布の人形を片づける子、椅子を引く子、先生に何かを聞く子。朝より空気が動いている。
レオンが扉を開けると、ミラは小さな椅子に座っていた。
膝の上に手を置き、背筋を伸ばしている。朝、部屋で皿や紙を確認していた時とは違う。施設で初めて会った時のような、聞き分けのいい顔だった。
レオンはその顔を見て、少しだけ足を止めた。
「ミラ」
ミラは顔を上げた。
「来ました」
「来たぞ」
「紙は、なくしませんでした」
「紙より先に、お前を見に来た」
ミラはすぐには返事をしなかった。膝の上の手が、少しだけ動く。
先生がレオンへ歩いてきた。
「レオンさん。今日、少しありました」
レオンはミラを見る。
「少し?」
「自由時間に、言葉の行き違いがありました。相手の子にも話しました。ただ、ミラさんは理由をあまり話していません」
ミラは視線を落とした。
レオンは先生へ向き直った。
「何を言われたんですか」
先生は、子どもを悪者にしないよう、少し言葉を選んでいるようだった。
「養子、という言葉です」
レオンは、すぐには反応できなかった。
「養子って……まあ、間違いでは」
先生の声は静かだった。
「間違いかどうかではありません。明日からはこちらでも気をつけます」
レオンは口を閉じた。
その一言で、自分が今どこかを踏み外したことだけは分かった。けれど、何をどう踏み外したのか、まだ全部は見えていない。
先生は続けた。
「相手の子は、大人から聞いた言葉をそのまま使ったようです。悪意が強かったわけではありません。ただ、ミラさんは嫌がりました」
「ミラは、何て」
「『ミラって呼んでください』と」
レオンはミラを見た。
ミラは膝の上の手を少し握っている。泣いてはいない。怒ってもいない。けれど、朝までよく動いていた目が、今はあまり動かない。
先生は責めるのではなく、確認する声で言った。
「今日は、帰り道で急かさず見てあげてください。無理に聞き出す必要はありません」
レオンは頷いた。
「分かりました」
「明日も来るなら、同じ時間にお願いします。遅れると困るのは、ミラさんです」
「遅れません」
「その返事を、明日の朝も覚えていてください」
「覚えます」
ミラが小さく言った。
「忘れたら、言っていいんですよね」
レオンは少しだけ困った顔をした。
「そこは覚えてるのか」
先生はそのやり取りを見て、ほんのわずか表情をゆるめた。
「では、また明日」
ミラは立ち上がり、先生へ丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
声はきちんとしていた。きちんとしすぎていた。
帰り道、ミラはあまりしゃべらなかった。
通りは夕方の色に変わっている。仕事帰りの男たちが歩き、買い物籠を下げた女たちが店先で話している。朝と同じ道なのに、ミラの歩幅は少し小さくなっているように見えた。
レオンは隣を歩きながら、言葉を探していた。
「何を言われた」
ミラは足元を見たまま答えた。
「言われただけです」
「養子って?」
ミラは丁寧に頷いた。
その頷きは、分かった時のものではない。話をそこで終わらせる時のものだと、レオンにも少し分かるようになっていた。
レオンは頭をかいた。
「養子でも、けっこう正式だぞ」
ミラが顔を上げた。
「けっこう?」
「いや、かなり正式だ」
「かなり?」
「役所が嫌になるくらい正式だ」
「嫌になるんですか」
「俺はなった」
ミラはすぐに笑わなかった。ただ、目の端だけが少し動いた。レオンは、それで今の言い方が半分くらいしか役に立っていないと分かった。
「でも、そういう話じゃないな」
ミラは答えない。
レオンは歩きながら、もう一度言葉を選んだ。うまいことを言おうとすると、だいたい間違える。だから、うまくなくても、分かる範囲で言うしかなかった。
「俺、その言葉を紙の方で見てた。役所とか、手続きとか、そういう方で」
ミラは黙って歩いている。
「でも、お前が嫌なら、俺が思ってたより、ずっと重いんだな」
ミラは小さく言った。
「言葉は、戻りません」
レオンはすぐに返せなかった。
「先生を呼んでも、戻りません」
「そうだな」
「木片を払っても、戻りません」
「それも戻らない」
ミラは、今日初めて自分からそのことを話した。木片を払ったという言い方をするあたり、たぶん相手を押したわけではないのだろう。けれど、ミラにとっては、それでも十分に大きな出来事だったのだと分かる。
レオンは少し歩いてから言った。
「でも、俺は迎えに来る」
ミラが顔を上げた。
「木片を払っても?」
「払っても」
「また言われても?」
「迎えに来る」
「養子って言われた子は、戻されませんか」
そこだけ、声が少し違った。
パンや鍋や警笛を聞く時とは違う。五歳の子どもの声なのに、言葉の端だけが妙に静かだった。
レオンは、すぐに軽く答えなかった。
「お前を返すために書いた紙じゃない」
ミラは黙っている。
「ここに置くために書いた紙だ。幼年教室へ行くためにも書いた。夕方、迎えに行くためにも、俺の名前を書いた」
ミラは足元を見る。
「書類には、養子ってあります」
「書類にはある。でも、誰かがお前の名前みたいに言っていい言葉じゃない」
「名前みたいに?」
「俺が呼ぶ時は、ミラだ」
ミラは顔を上げた。
「幼年教室でも?」
「先生には言う。ミラって呼んでくださいって」
「相手の子にも?」
レオンは少し考えた。
「先生と話す。俺が勝手に怒鳴ると、たぶん話が増える」
「増えますか」
「かなり増える。でも、ミラって呼ぶことは言う」
ミラはしばらく黙っていた。
「レオンさんが喧嘩しますか」
「言葉とは殴り合えない」
「じゃあ、どうしますか」
「役所より面倒な顔をする」
「強いですか」
「エリーズには効かない」
ミラは、ほんの少しだけ笑った。
声は出なかった。けれど、口元が少しゆるみ、歩幅が朝の帰り道くらいに戻った。レオンはそれを見て、ようやく息を少し吐いた。
アパートの中庭に戻ると、エリーズが待っていた。
マノンは縄跳びを持っていて、ルルは相変わらず木の匙を手にしている。トトは寝転んでいたが、レオンたちが戻ると顔だけを上げた。
エリーズはミラの顔を見て、すぐに何かあったと察したらしい。レオンへ視線を移す。
「どうだったの」
レオンは少し迷ってから答えた。
「養子って言われた」
エリーズの顔が変わった。だが、ミラが隣にいるので、声は荒げなかった。
「誰に」
「幼年教室の子どもだ。先生が見てくれた」
エリーズはミラの前に少しかがんだ。
「嫌だった?」
ミラはすぐには答えなかった。
「木片を払いました」
「そっちじゃなくて」
ミラは少し黙る。
「ミラって呼んでほしいです」
エリーズはすぐに頷いた。
「分かった。私はそう呼ぶ」
レオンも言った。
「俺もそう呼ぶ」
ミラがレオンを見る。
「書類にはあります」
「書類にはある。でも、俺が呼ぶ時はミラだ」
エリーズはレオンを見た。いつものように、すぐには突っ込まない。
「今のは、少しだけよかったわ」
「少しだけか」
「全部よくしたら、あんたが調子に乗るでしょ」
「俺はそこまで単純じゃない」
ミラが小さく言った。
「少し、単純です」
エリーズが笑う。
「ほら、ちゃんと見られてる」
レオンは言い返せなかった。
マノンがミラの隣へ来る。いつもの勢いで手を引こうとして、途中で止めた。ミラの顔を見て、今日は少し違うと分かったらしい。
「明日も行く?」
ミラは少しだけレオンを見てから答えた。
「行きます」
「じゃあ、帰ったら遊べる?」
「帰ったら」
「じゃあ待ってる」
ミラは頷いた。今度の頷きは、さっきより少しだけ自然だった。
その時、共同廊下の階段から革靴の音がした。
このアパートでは、革靴の音は少し浮く。木靴やすり減った靴底、子どもの走る音なら住民の誰かだと分かるが、その足音はきちんとしすぎていた。
レオンが振り向く前に、テレーズが洗濯場から顔を上げた。
「来たよ、役所の人」
階段を下りてきたのは、灰色の上着を着たロベールだった。手には小さな革鞄を持っている。養子確認に来た時と同じ、怒っても笑ってもいない顔だ。だが、中庭の子どもたちがいるのを見て、帽子を取る動きだけは少しゆっくりになった。
ミラの手が、鞄の取っ手を握るように外套の端をつかんだ。
レオンはすぐに言った。
「戻す話じゃない」
ロベールがこちらを見る。
「こちらが言う前に断定しないでください」
「でも、先に言った方がよさそうだったので」
ロベールは少しだけミラの方へ視線を下げた。
「本日は、一週間後の再確認です。ただちに施設へ戻すための訪問ではありません」
ミラは丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
「こんばんは、ミラさん」
その呼び方に、ミラはほんの少しだけ目を上げた。レオンも気づいた。今日の幼年教室の帰り道で、ミラが何を言ったかをロベールは知らない。それでも、役所の人間が最初に名前で呼んだことが、今は少しだけ助けになった。
ロベールはレオンへ向き直る。
「生活の様子を確認します。寝具、食器、昼間の預け先についてです」
「椅子も見ますか」
「前回、椅子は問題の中心ではありませんでした」
「でも増えました」
「増えたことは確認します」
エリーズが横から小さく言った。
「自慢できる増え方じゃないけどね」
「座れる椅子です」
「座れるところから始めるのが、もう低いのよ」
ロベールは二人のやり取りを記録せず、ただ一度だけ目を伏せた。笑ったわけではないが、完全に聞き流した顔でもなかった。
レオンはロベールを連れて三階へ上がった。ミラも隣を歩いた。階段の途中で、レオンは歩幅を落とす。ロベールはそれに気づいたらしく、何も言わずに後ろを少し空けた。
部屋へ戻ると、夕方の光が窓から入っていた。
二つ目の椅子。欠けていない皿。黒い鍋。木箱。床に敷いた古い外套。机の上には、幼年教室の控えの紙が置かれている。寝台の端には、エリーズが貸してくれた薄い毛布が一枚増えていた。
部屋は相変わらず狭い。寝台はミラが使い、レオンは床で寝ている。立派な寝床とは言えないが、一人分だった部屋には、少しずつ二人分のものが増えていた。
ロベールは入口で靴を止め、部屋の中を順番に見た。椅子、皿、寝台、床の外套、増えた毛布、机の上の紙。紙だけを先に見るのではなく、暮らしている場所を見ているのだと分かる視線だった。
「寝る場所は、どうしていますか」
「ミラが寝台です。俺は床です」
「床で寝ることを、誇らしそうに言う必要はありません」
「誇ってはいません。まだ背中が負けています」
エリーズが後ろから言った。
「毛布は一枚増やしたわ。薄いけど、ないよりはまし」
ロベールは短く頷き、手帳へ書いた。
「最低限の寝具は確認します。ただし、冬までにもう少し整えてください」
「冬までに、背中も相談しておきます」
「背中ではなく、寝具を整えてください」
「はい」
「食器は分けていますね」
「欠けていない方がミラです」
「なぜ少し誇らしそうなのですか」
「欠けていないものを用意できたので」
「本来、誇るより先に整えるものです」
「今は整えた後なので、少しなら」
エリーズが後ろから言った。
「少しもいらない」
ロベールは机の上の紙を見た。
「昼間の預け先は」
レオンは封筒から控えを取り出し、机に置いた。
「市立初等校の幼年教室です。今日から通い始めました」
「今日から」
「はい」
「初日はどうでしたか」
レオンはすぐに答えなかった。
楽しかった、と言えば簡単だった。通えました、とだけ言えば、役所の確認としては足りるのかもしれない。けれど、今日はそれだけの日ではない。
「言葉で、少しありました」
ロベールはペンを止めた。
「怪我は」
「ありません。木片を払ったくらいです」
ミラが小さく訂正した。
「払いました」
「そうだな。払った」
ロベールはミラを見た。
「明日も通えそうですか」
ミラはすぐには答えなかった。膝の上に置いた手を見て、それから机の紙を見る。
「名前で呼んでもらえるなら、行きます」
ロベールはその言葉を、急いで書き取らなかった。
「名前で呼んでもらえるよう、学校と確認してください」
レオンは頷いた。
「明日の朝、先生に言います」
「怒鳴らずに」
「役所の人に先に言われると、俺の信用がかなり低いですね」
「確認です」
「低い確認です」
ロベールはそこで、ようやく書類に短く何かを書いた。
「本日の確認では、ただちに施設へ戻す理由は認めません。昼間の預け先も確認しました。今後も生活状況は見ますが、今日ここでミラさんを連れて行くことはありません」
ミラの肩が、ほんの少し下がった。
レオンはその動きを見て、自分の方が先に力を抜きそうになった。
「勝ちですか」
ロベールは顔を上げた。
「勝ち負けではありません」
「じゃあ、今日は残れた日ですか」
「それなら、間違いではありません」
レオンは帽子を胸の前で持ち直した。
「ありがとうございます」
ロベールは帽子を手に取り、扉へ向かった。出る前に、ミラへ向き直る。
「ミラさん。困ったことがあれば、先生か、この部屋の大人に言ってください」
「この部屋の大人」
ミラはレオンを見た。
「書類では大人です」
レオンが言うと、エリーズがすぐに刺した。
「生活でも大人になりなさいよ」
「今、その途中です」
「途中で止まらないで」
ロベールはその会話を聞いていたが、今度も記録はしなかった。
「では、また必要があれば伺います」
「次はもっと片づいている予定です」
「予定ではなく、片づけてください」
ロベールが廊下へ出ると、部屋の中の空気が少しだけ戻った。役所の紙と革鞄の匂いが遠ざかり、残ったのは薄いスープの匂いと、黒い鍋と、二つの皿だった。
ミラは自分の椅子に座り、机の上の紙を見た。
「わたしの名前、ありますか」
「ある」
レオンは紙の上を指差した。
「ここだ」
ミラは身を乗り出して見た。まだ読めない。けれど、そこが自分の名前だということは分かっている。
「養子って、どこにありますか」
レオンは少しだけ手を止めた。
「ここには、関係を書くところがある」
「そこですか」
「そうだな」
「ミラは、どこですか」
レオンはもう一度、名前の欄を指した。
「ここだ」
「レオンさんは?」
「こっち」
「迎えに来るところですか」
「そうだ」
ミラはしばらく紙を見ていた。養子という言葉がどこにあるのかまでは読めない。けれど、自分の名前とレオンの名前が同じ紙にあることだけは、何度も確かめるように見ていた。
レオンは水をくみ、夕飯の準備を始めた。黒い鍋に残りのスープを入れ、パンを切る。ミラは椅子に座ったまま、紙から皿へ、皿から窓へ、窓からレオンへと視線を移している。
「明日も幼年教室、行けるか」
レオンが聞くと、ミラはすぐには答えなかった。
「また言われるかもしれません」
「言われたら、先生に言え。俺にも言え」
「木片を払う前に?」
「払う前に」
「払った後でも?」
「その時は、迎えに行く」
ミラは少しだけ頷いた。
「明日も、行きます」
レオンは安心して、何か軽いことを言いかけた。けれど、今日は飲み込んだ。言葉は戻らない、とミラが言ったばかりだ。戻らないなら、出す前に少し考えるしかない。
夕飯はいつも通り、たいしたものではなかった。薄いスープと、少し硬いパン。ミラは欠けていない皿を使い、レオンは欠けた皿を使う。食卓はまだ小さいし、椅子も一つは直したばかりで頼りない。それでも、二人で向かい合って食べる形にはなっていた。
食事のあと、ミラは自分の皿を洗った。手つきは昨日より慣れている。皿が少し傾くと、レオンは手を出しかけたが、ミラが先に言った。
「大丈夫です」
「分かった」
「落ちそうなら、呼びます」
「呼べ」
ミラは皿を拭き、棚に置いた。欠けた皿の隣に、欠けていない皿が並ぶ。
それから椅子へ戻り、背もたれに手を置いた。
外は暗くなり始めていた。共同廊下からは水桶を運ぶ音がし、下の階ではマノンがルルを叱っている。遠くの工場からは、夜番の機械の低い音が届いていた。
ミラは机の上の紙を見て、それからレオンを見た。
「明日も、迎えに来ますか」
「来る」
「養子って言われても?」
レオンは机の上の紙ではなく、ミラを見た。
「ミラって呼んで迎えに行く」
ミラは椅子の背に手を置いたまま、小さく頷いた。
その頷きは、聞き分けのいい子のものではなかった。完全に安心した顔でもない。けれど、朝より少しだけ、この部屋に戻ってきた子の顔だった。
養子という言葉は、紙の中に残る。けれど、夕方の門で呼ぶ時に必要なのは、その言葉ではなかった。レオンはようやく、それを少しだけ覚えた。




