第8話 明日の書類
工場の警笛が鳴るより少し前に、ミラは目を覚ましていた。
寝台の上で毛布を胸元まで引き上げ、まず窓際の椅子を見る。二つ目の椅子は、今日もそこにあった。次に棚の上を見る。縁に薄い青い線の入った白い皿も、欠けずに置かれている。
それから、机の端に置かれた紙切れへ目を移した。
昨夜、レオンが寝る前に書いたものだった。字は少し曲がっていて、ミラにはまだ読めない。けれど、レオンは書きながら、「明日のことを忘れないための紙だ」と言った。だから、そこに大事なものがあることだけは分かっていた。
「あります」
床の上で古い外套にくるまっていたレオンが、目を閉じたまま返した。
「何が」
「椅子と、お皿と、明日の紙です」
レオンは片目を開けた。
「明日の紙か」
「なくなっていません」
「椅子と皿より逃げたら困るな」
「紙は軽いです」
「軽いから余計に困る。風でも逃げる」
ミラは窓を見た。閉まっている。
「今日は大丈夫です」
「今日だけで終わらないけどな」
レオンは外套を肩からはがし、体を起こした。床で寝る生活には少し慣れてきたが、慣れたから痛くないわけではない。背中を伸ばすと、首のあたりが変な音を立てた。
ミラがじっと見る。
「壊れましたか」
「まだ使える」
「紙より?」
「紙よりは丈夫だ」
「でも、紙がないと明日の場所ができません」
レオンは返事をしようとして、少し遅れた。
ミラはまだ字を読めない。けれど、昨日までの椅子や皿と同じように、今日も何かを増やさなければならないことは分かっているらしい。
「作る」
レオンは言った。
「今日は、その紙をちゃんとした紙にする」
「ちゃんとした紙」
「先生か誰かが出すやつだ。俺の字よりは真っすぐだと思う」
「レオンさんの字は曲がっていますか」
「少しな」
「曲がっていると、明日の場所も曲がりますか」
「そこは曲げない」
ミラは納得しきれない時ほど丁寧に頷く。今朝もそうだった。レオンはその頷きを見て、頭をかいた。
そこで、工場の警笛が鳴った。
窓ガラスが細く震えた。ミラは毛布を胸元で押さえたまま、机の紙切れを見ている。大きな音にはまだ慣れていないが、今朝はそれよりも、明日の場所の方が気になっているようだった。
「今日も、乱暴な朝です」
「工場の朝だからな」
「明日の場所も、乱暴ですか」
「工場よりは静かだと思う」
「静かな場所なら、聞こえますか」
「何が」
「迎えに来る音」
レオンは水差しを持ち上げかけて、少し止まった。
「俺の足音か」
「はい」
「じゃあ、夕方は少し大きめに歩く」
「怒られませんか」
「廊下なら少し怒られるかもしれない。道なら大丈夫だ」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
朝食は硬いパンと薄いスープだった。黒い鍋は相変わらず黒く、レオンの皿は相変わらず欠けている。ミラは自分の欠けていない皿を手元へ引き寄せ、パンが置かれるのを待った。昨日よりは力が抜けているが、まだ乱暴には扱わない。
レオンはパンを分けながら、机の端の紙切れをちらりと見た。
そこには、ひどく短い字で「預け先」と書いてある。その下に、もっと小さく「役所」と書いたつもりだったが、自分で見ても少し怪しい。
昨夜、エリーズに「明日こそちゃんと動きなさい」と言われ、デュラン工場長にも「犬の木箱より先に子どもの場所だ」と言われた。さらに、一週間後にまた確認へ来るという役所の言葉も、いよいよ明日に近づいている。
忘れないように書いたのに、朝になっても紙の方が自分よりしっかりしている気がした。
ミラがパンを両手で持ちながら聞いた。
「今日は、エリーズさんのところですか」
「朝はな。その前に少しだけ工場へ寄る」
「パンを見ますか」
「見る。あいつが逃げてないか確認する」
「パンも明日の場所がありますか」
「工場長が許せばな」
ミラは少し考えた。
「犬は、書類を書きますか」
「犬が書いたら、たぶん足跡だな」
「それで分かりますか」
「工場長が頭を抱える」
ミラはほんの少し笑った。けれど、すぐにまた机の紙を見る。
「わたしは、足跡ではだめですか」
「だめだ。お前は名前を書く方だ」
「名前」
ミラはその言葉を小さく繰り返しただけで、それ以上は聞かなかった。
それでも、パンを持つ指が少しだけ止まった。自分の名前が、まだ読めない紙の中で先に場所をもらう。その不思議さだけは、五歳のミラにも分かるようだった。
食事を終えると、ミラは自分で外套の襟を直した。レオンが手を出す前に、きれいに左右を整える。
「俺もそろそろ上達する頃だぞ」
「今日は、大事な日です」
「襟が?」
「明日の紙の日です」
レオンは返事に詰まった。ミラの方が、よほど順番を分かっている気がした。
二人はいつもより少し早くアパートを出た。
通りには仕事へ向かう男たちがぽつぽつ歩き始めていて、石畳の上に朝の湿り気が残っていた。エリーズも籠を腕にかけ、少し離れてついてきている。ミラがパンを見たがったので、エリーズの家へ行く前に工場へ寄ることになっていた。
「パンは、起きていますか」
「犬だからな。人間より早いかもしれない」
「レオンさんより?」
「それは比べる相手が悪い」
「パンは、遅刻しますか」
「まだ正式に雇われてないから、遅刻かどうか分からない」
ミラは少し考えた。
「仕事がないと、遅刻じゃない?」
「たぶん、そうだ」
「じゃあ、パンは強いです」
「犬の立場がどんどん強くなるな」
工場の門へ着くと、夜番の男があくびをしながら門の横に立っていた。エリーズは門の内側までは入らず、ミラの少し後ろで籠を持ち直した。足元には、昨日使った浅い器が置かれている。奥の倉庫裏に、薄茶色の犬が丸くなっていた。
パンだった。
古い木箱の中に敷かれた布の上で、前足に鼻を乗せている。逃げてもいないし、暴れてもいない。耳だけが少し動いて、レオンたちの足音を聞いている。
ミラは門のところで立ち止まった。
「います」
「いるな」
「箱もあります」
「箱も逃げなかったな」
夜番の男が笑った。
「犬も箱も無事だ。夜中に一回、倉庫の裏で吠えたけどな」
ミラの肩が少し上がった。
「怒られましたか」
「いや、ねずみが走ったんだ。こいつが先に気づいた」
レオンはパンを見た。
「もう仕事してるじゃないですか」
「お前より早い採用かもな」
「俺はもう働いてます」
「こいつは文句を言わない」
「名前がパンなのは文句じゃないんですか」
夜番の男は犬を見て、少し考えた。
「本人がよければいいんじゃないか」
「本人に聞けないから困ってるんです」
ミラはパンへ向かって、小さく手を振った。パンは来なかったが、目だけは開けた。
そこへ、事務棟の扉が開き、デュラン工場長が出てきた。朝から煙草をくわえているが、まだ火はついていない。レオンとミラとエリーズ、それから倉庫裏の犬を順番に見て、眉を少しだけ動かした。
「犬の様子を見に来たのか」
「約束したので」
「犬の約束は守るんだな」
「人間の約束も守ります」
エリーズが横から言った。
「守らせます」
「いい監督がいる」
レオンは帽子の縁を直した。
「五歳と十七歳に監督される十八歳って、どうなんですか」
「今のお前にはちょうどいい」
工場長は倉庫裏のパンを見た。
「夜番から聞いた。荒らしてはいないらしい。倉庫番にも確認するが、ひとまず今日も置く」
ミラの顔が少し上がった。
「今日も、ここですか」
「今日もここだ。ただし、正式に決めるにはもう少し様子を見る」
「正式」
ミラはその言葉を小さく繰り返した。
デュラン工場長はレオンへ視線を戻した。
「犬の次は、ミラの預け先だ」
レオンは少しだけ背筋を伸ばした。
「今日、動きます」
「聞きに行くだけで終わるな。決めるために動け。それから、明日だ」
「明日?」
「移民局のロベールから、工場へ連絡があった。一週間後の再確認に来る」
レオンの手が、帽子の縁で止まった。
「明日ですか」
「お前の部屋を見て、椅子と皿と寝る場所と、昼間の預け先を確認するそうだ」
ミラはレオンを見た。
「役所の人が、来ますか」
「来る」
レオンは答えた。なるべく軽くならないようにしたつもりだったが、少し声が硬くなった。
工場長は、煙草に火をつけないまま続ける。
「だから、今日は紙をもらって終わりじゃない。明日、見せられる状態にしろ」
「見せられる状態」
「子どもを毎朝その辺へ置いていくつもりじゃないと、相手に分かる状態だ」
「俺、そこまで悪い顔してましたか」
「顔の問題に逃げるな」
エリーズがミラの肩に手を置いた。
「大丈夫よ。今日は私のところにいて、レオンが昼に行く。夕方、紙を書く。明日、見せる」
「見せると、戻されませんか」
ミラの声は小さかった。
工場長はすぐには答えなかった。代わりに、レオンを見た。ここはお前が答えろ、という目だった。
レオンは帽子を握り直す。
「戻すために見せるんじゃない。戻さないために見せる」
ミラはすぐには頷かなかった。ただ、レオンの顔を見ていた。
「明日の紙ですか」
「そうだ。明日のための紙だ」
工場長は事務棟の中へ戻り、すぐに紙切れを一枚持ってきた。通りの名前が太い字で書いてある。レオンの字よりずっとまっすぐだった。
「昼休みに、労働者区の集会所へ行け。幼年教室をやっている。戦後の子どもを預かって、読み書きの初歩も見る場所だ」
「学校ですか」
「学校ほど立派ではない。だが、今のお前には必要な場所だ」
「俺もそこに置かれた方がいいですかね」
「お前は工場に置いてある。今のところ返品予定はない」
「今のところ」
「余計なところを拾うな」
工場長は紙切れをレオンへ渡した。
「昼休みは短い。迷うな」
「迷ったら?」
「戻ってきてから怒る」
「戻れたら怒られるんですね」
「戻れなかったらもっと面倒だ」
レオンは紙切れを受け取った。
ミラはその紙を見た。
「それが、明日の紙ですか」
「まだ道の紙だ。本物は、これからもらう」
「紙が増えます」
「今日は増やしていいやつだ」
エリーズはミラの手を取った。
「行くわよ。レオンは昼休みに迷わず行くこと」
「迷わない」
「昨日、犬を工場へ連れてきた人間の言葉とは思えないわ」
「あれは迷ったんじゃなくて、相談したんだ」
「結果だけ聞くと少しまともね」
「少しが多い日もあるだろ」
「調子に乗らない」
ミラはパンをもう一度見てから、エリーズと一緒にアパートの方へ戻っていった。何度か振り返ったが、泣きもせず、走り寄りもしなかった。ただ、木箱がそこにあることを目で確かめているようだった。
警笛が鳴った。
窓ガラスが震え、工場の煙突から白い煙が上がり始める。ミラは少し遠くで足を止め、エリーズの手を握った。あの音が体に来ることは、まだ変わらないらしい。
レオンはその背中を見てから、作業場へ入った。
その日の工場は、いつも通り油の匂いでいっぱいだった。鉄板を置く音、台車の車輪、奥の機械の低い唸り。レオンは流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置く。手は動いているのに、頭の中では昼休みに行く場所のことばかり考えていた。
隣の工員が声をかけてきた。
「おい、犬の方が先に正式採用されたらしいな」
「まだ仮だ」
「犬は送還されないから強いな」
レオンは返そうとして、少し言葉に詰まった。
工員はすぐに気まずそうな顔になった。
「あ、悪い」
「いや。朝から縁起でもないこと言うなって言うところだった」
「言っとけ。俺が悪い」
レオンは倉庫裏の方をちらりと見た。パンはたぶん、木箱の中で丸くなっている。犬は工場長が許せば工場にいられる。けれど、ミラには書類がいる。自分にも書類がいる。紙一枚で追い出されることもあれば、紙一枚がないせいで明日の居場所が決まらないこともある。
昼休みになると、レオンはパンをかじりながら工場を出た。
デュラン工場長から渡された道順の紙切れを、作業着の内ポケットに入れてある。いつもなら食堂の隅で雑談している時間だが、今日は集会所へ向かわなければならない。
労働者区の古い集会所は、工場から歩いて少しのところにあった。戦争の前は集会や配給の説明に使われていた建物らしく、壁には古い掲示板の跡が残っている。入口の横には、小さな木札で「幼年教室」と書かれていた。
中から、子どもの声が聞こえる。
レオンは扉の前で作業着の袖を払った。油の匂いは消えない。爪の間の黒さも、昼休みに少しこすった程度では取れなかった。
扉を開けると、低い机がいくつも並んでいた。小さな椅子、古い黒板、壁に貼られた子どもの絵。窓枠にはひびがあるが、床はきれいに掃かれている。豪華ではない。けれど、子どもが昼間にいる場所として整えられていた。
奥から、髪をきちんとまとめた女性が出てきた。穏やかというより、必要なことを順番に片づける顔をしている。
「ご用件は」
「レオンです。レオン・メレル。工場で働いてます。幼年教室のことで来ました」
「デュラン工場長のところの方ですね」
「工場長、連絡してました?」
「昨日、犬の件で夜番の方が少し騒いでいましたから」
レオンは帽子を握り直した。
「犬は、今日は関係ありません」
「そう願います」
女性は机の上の帳面を開いた。
「アデル・ルノーです。子どもたちには、先生で通しています」
「じゃあ、俺も先生で」
「まず、お子さんのお名前を」
「ミラです」
「年齢は」
「五歳です」
「あなたとの関係は」
「養子です。仮の手続き中ですけど、今は俺のところにいます」
ルノー先生はペンを止めずに頷いた。ベルナールのように静かに深く刺してくるわけではない。だが、聞き逃すこともしない目だった。
「あなたの職業は」
「車の少しを作ってます」
「職業欄には工員と書いてください」
「そっちの方が広く聞こえますね」
「広く聞こえる必要はありません」
「はい」
レオンは大人しく頷いた。
ルノー先生は書類を一枚取り出した。
「通う時間、昼食、着替え、持ち物の名前について確認があります。守れない日がある時は、必ず先に知らせてください」
「名前を書くんですか」
「持ち物にです」
「皿にも?」
「皿は持ってこなくていいです」
「よかった。皿に字を書くところでした」
ルノー先生は一拍置いて、レオンを見た。
「本気で言っていますか」
「半分くらい」
「残りの半分をしまってください」
「しまいます」
レオンは帽子を胸の前で持ち直した。
ルノー先生は、今度は少し声を落とした。
「ミラさんは、施設では大人しくしていた子だと聞いています」
「はい。大人しく見えました」
「ここでは、大人しくすることが良いこととは限りません」
「騒いでもいいんですか」
「困ったことを言える方がいい、という意味です」
レオンは黙った。
ミラはよくしゃべる。鍋が黒いことも、警笛が乱暴なことも、皿が欠けていないかも、犬が反省するかどうかも聞く。
けれど、本当に大事なことは言わない。
戻されるかどうか。迎えに来るかどうか。明日もあるかどうか。そこだけは、質問の形でそっと差し出す。
「困ったことを言えるように、ですか」
「はい。最初からできる子ばかりではありません。だから、大人が先に急がないことです」
「俺は、よく急ぎます」
「それは今後、減らしてください」
「書類に書きますか」
「必要なら」
「減らします」
ルノー先生はようやく少しだけ表情を動かした。笑ったというより、呆れを飲み込んだ顔だった。
「今日中にこの申込用紙を書いてください。明日の朝、ミラさんと一緒に持ってきてください。空きは一つあります。明日から試しに通えます」
「明日から」
「はい。初日は短く見ます。夕方まで預かれるかどうかは、本人の様子を見て判断します」
「紙は、今日ここで出さなくていいんですか」
「保護者名と迎えの者の欄があります。落ち着いて書いてください」
「落ち着きは、うちの部屋に少なめです」
「増やしてください」
「明日、役所の人にも見せたいんです。一週間後の確認で」
ルノー先生の視線が、少しだけ鋭くなった。
「ミラさんを通わせるための紙です。役所に見せるためだけの紙ではありません」
レオンは帽子を握り直した。
「はい。順番を間違えました」
「では、間違えないように。明日の朝、受け取った印を出します。それを確認の時に見せてください」
「印があると強いですか」
「ミラさんが通う場所を決めた証明にはなります」
「じゃあ、強い紙です」
「強い弱いではなく、必要な紙です」
「必要な紙」
レオンはその言葉を、少し真面目に繰り返した。
ルノー先生は申込用紙を差し出した。
「油をつけないように」
「それは難しいですね」
「努力してください」
「努力はします」
「努力した紙を持ってきてください」
レオンは書類を作業着の内ポケットへ入れた。今度は朝の道順の紙とは違う。折れないように、油がつかないように、慎重に入れる。
工場へ戻ると、昼休みはほとんど終わっていた。
作業中、レオンは何度も胸元を気にした。油が飛んでいないか。紙が折れていないか。部品を受け取り、棚へ置きながらも、頭の隅では書類の欄が並んでいる。
保護者名。子どもの名前。年齢。住所。迎えに来る者。
それは役所の紙とよく似ていた。名前を書き、住所を書き、関係を書く。けれど、同じ紙ではないはずだった。
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。
アパートへ戻る道で、胸元の書類を何度も押さえる。折れていない。油も、たぶんついていない。たぶん、という言葉をベルナールが聞いたらどう言うかを考え、レオンは足を少し速めた。
中庭へ入ると、マノンの声がした。
「レオン、来た!」
エリーズの部屋の前で、ミラが立ち上がる。マノンと遊んでいたらしく、床には布の人形と小さな木片が並んでいた。ルルはその木片を一つ握ったまま、トトの前に差し出している。
ミラはレオンを見ると、すぐに歩いてきた。
その反応が少し早い。レオンは、ミラがずっと迎えを待っていたのだと分かった。
「明日の場所、聞いてきたぞ」
「どこですか」
「幼年教室。子どもがいる。小さい机がある。俺の椅子より足がちゃんとしてた」
「机も、逃げませんか」
「たぶん逃げない。先生が強そうだった」
ミラはすぐには喜ばなかった。知らない場所だから、不安もあるのだろう。鞄の取っ手に触れる時のように、外套の前で指を少し動かした。
「エリーズさんの家ではないんですか」
「毎日エリーズに預けたら、俺が毎日刺される」
「刺されるから、変えるんですか」
「それも少しある。でも、違う」
エリーズが横で目を細めたが、レオンはそちらを見なかった。今は言い間違えたくなかった。
「お前が明日も行ける場所を作る。俺が工場に行ってる間、ちゃんといる場所だ。今日だけの場所じゃない」
ミラは黙った。
マノンも、めずらしく口を挟まなかった。ルルだけが木片をトトの鼻先に差し出し続け、トトは迷惑そうに目を細めている。
「戻る場所もありますか」
ミラが聞いた。
「ある。夕方、俺が迎えに行く」
「役所の人が来ても?」
「来ても」
「怒鳴られても?」
「怒鳴られてから行く」
「パンが逃げても?」
「パンを捕まえてから行く」
「皿が割れても?」
レオンは少しだけ止まった。
白い皿が机に当たった時、ミラの肩が上がったことを思い出す。あの時、皿より先にミラの手を見た。割れたかどうかより、怪我をしていないかを見た。
「皿はあとで拾う。お前を先に迎えに行く」
ミラは、少しだけ顔を上げた。
エリーズが横で黙っている。いつものように、すぐには刺してこない。
レオンは落ち着かなくなった。
「何だよ」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「今のは、少し保護者っぽかったと思っただけ」
「ぽかった、なのか」
「本物かどうかは、明日の朝に分かるわ」
「明日の朝、俺が何をすれば本物なんだ」
「遅れずに連れていくこと。それから、役所の人に見せる前に、ミラにちゃんと説明すること」
「説明か」
「書類を見せるだけで済ませないの」
レオンは少しだけ眉を寄せた。
「説明って、俺が一番怪しいところだな」
「分かってるなら、短く言いなさい」
「短い方がいいのか」
「長くなるほど事故るから」
ミラはそのやり取りを見て、ほんの少し笑った。
部屋へ戻ると、夕方の光が窓から斜めに入っていた。レオンは外套を脱ぐ前に、作業着の内ポケットへ手を入れた。
申込用紙は折れていなかった。
油の染みも、端にはついていない。レオンはそれを見て少しだけ息を吐き、机の上へ広げた。
ミラは自分の椅子に座り、その紙をじっと見た。
「何を書いていますか」
「お前が明日行く場所の紙」
「役所の紙ですか」
「似てるけど、少し違う」
「違うんですか」
「これは、お前をどこかへ戻す紙じゃない。明日、行く場所を作る紙だ」
ミラは紙を見つめた。
レオンはペンを取った。インク瓶の蓋を開ける。紙にはいくつもの欄があり、細い線で区切られている。
保護者名。
レオン・メレル。
字はうまくない。工場で部品番号を書く癖が抜けず、線は少し硬い。それでも、いつもよりゆっくり書いた。
次に、子どもの名前の欄で手が止まった。
ミラ。
書くのは簡単なはずだった。短い名前だ。何度も呼んだ名前だ。けれど、紙の上に名前を書くというだけで、レオンはあの日見せられた名簿を思い出した。
薄い紙の上に、自分の名前があった。
その紙は、自分をこの国から追い出すためにあった。工場も、アパートも、朝の警笛も、自分のものではないと言うための名前だった。
レオンはペン先を紙に近づけた。
今から書く名前は違う。そう思いたかった。
ここから明日の場所へ行くための名前だ。
レオンは、少し不器用な字でミラの名前を書いた。線は硬く、最後の一画が少しだけ曲がった。
「わたしの名前、ありますか」
「ある」
レオンは、まだ乾いていない字の少し横を指差した。
「ここだ」
ミラは身を乗り出して、その字を見た。まだ読めない。けれど、自分の名前だと言われた場所を、じっと見ている。
「これが、わたしですか」
「字ではな」
「細いです」
「そこは俺の腕前の問題だ」
「学校で直されますか」
「たぶん直される」
「レオンさんが?」
「字だけで済むといいな」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
レオンは残りの欄を書く。年齢。住所。勤務先。迎えに来る者。
迎えに来る者の欄にも、自分の名前を書いた。
レオン・メレル。
同じ名前なのに、さっきよりも少し重く感じた。紙の上にある自分の名前が、今度は自分だけのものではない気がした。
ミラが聞いた。
「明日も、ありますか」
「何が」
「行くところ」
「ある」
「帰るところも?」
「ある」
レオンは机の上の紙を指で押さえた。
「俺が、そう書いた」
ミラは、まだ読めない字を見ている。
「役所の人も見ますか」
「見る。先生が受け取った印をくれたら、それも見せる」
「見ると、決めますか」
「すぐには決めない。けど、俺が何もしてないとは言わせない」
言ってから、レオンは少しだけ息を止めた。
それはミラのためというより、自分が怒られないための言い方に聞こえる。ここで間違えると、エリーズなら即座に刺す。ベルナールなら静かに刺す。ルノー先生なら正確に直す。
レオンは言い直した。
「違うな。お前が昼間にいる場所があるって、見せる。夕方には俺が迎えに行くって、見せる」
ミラは紙を見た。
「戻されませんか」
レオンは、すぐに返事をしなかった。
軽く答えたら駄目なところだと、今は少し分かる。工場の音も、共同廊下の声も、ここまでは届かない。夕方の部屋で、ミラは紙を見ている。まだ読めない字の中に、自分の明日があるかどうかを確かめている。
「戻すために書いたんじゃない」
レオンは言った。
「行くために書いた。帰ってくるためにも、俺の名前を書いた」
ミラはしばらく黙っていた。
それから、紙の上の自分の名前をもう一度見た。
「曲がっていても、行けますか」
「行ける。字は曲がってても、場所は分かる」
「帰るところも?」
「分かる」
「レオンさんが?」
「俺が」
ミラは、ようやく小さく頷いた。施設で覚えた、納得できない時の丁寧な頷きとは少し違う。まだ不安は残っている。けれど、その頷きは、紙の上の名前を受け取るような動きだった。
レオンはインクが乾くまで、紙から手を離さなかった。
ミラはその横で、まだ読めない字を見ていた。
「明日、これを持っていきますか」
「持っていく」
「先生に渡しますか」
「渡す」
「渡したら、なくなりますか」
「先生のところには残る。ここには、俺が覚えておく」
ミラはすぐには頷かなかった。
レオンは自分の胸を指した。
「紙よりは曲がるけどな」
「曲がるんですか」
「たまに忘れそうになる」
「忘れたら?」
「言え」
ミラは紙を見たまま、小さく言った。
「明日の紙」
「そうだな」
「わたしの名前、あります」
「ある」
「レオンさんの名前も?」
「ある」
ミラはそれを聞いて、ようやく椅子から下りた。
レオンは書類を机の端へ移そうとして、靴ひもがほどけかけていることに気づいた。明日の朝は絶対に遅れられないと思った直後だったので、少しだけ嫌な気分になった。
ミラも同じところを見ていた。
「明日の朝、それも直しますか」
「今、直す」
「ほどけませんか」
「そこは、ほどけないようにする」
レオンは急いでしゃがみ、靴ひもを固く結び直した。
ミラは寝台に上がる前、もう一度机の書類を見た。
裸電球の下で、乾いたインクが少し黒く光っている。ミラの名前と、レオンの名前。明日行く場所と、迎えに来る者。
「明日、持っていく紙」
「そうだ」
「帰る時は?」
「俺が行く」
「大きめの足音で?」
「廊下で怒られないくらいにな」
ミラはほんの少し笑って、毛布の中へ入った。
レオンは裸電球を消す前に、机の上の書類をもう一度見た。あの日の名簿とは違う紙だった。名前を追い出すためではなく、明日の朝、ミラが行く場所へ持っていくための紙だった。
そして、明日の夕方、役所の人間に見せる紙でもある。
インクが乾いたのを確かめてから、レオンは書類を机の真ん中へ置いた。
同じ紙なのに、名前を遠ざけるものと、明日へ連れていくものがある。レオンはその違いを、まだうまく言葉にはできなかった。




