第7話 犬の養子
その日の工場は、いつも通り油の匂いでいっぱいだった。
鉄板を置く音、台車の車輪、奥の機械の低い唸り。レオンは流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置く。手は動いているのに、頭の中では別のものが順番待ちをしていた。
毛布。寝る場所。正式な預け先。役所の再確認。
それから、ミラの皿。
今朝、ミラは起きてすぐ棚を見た。欠けていない皿が朝になってもあることを確かめ、昨日より少しだけ力を抜いてパンを乗せた。洗ってもなくならなかった、と言った声は、まだ完全には安心していなかった。
レオンは部品を置きながら、昨夜の音を思い出した。
皿が机に当たった音。ミラの肩が上がったこと。自分が先に皿ではなく、ミラの手を見たこと。
隣の工員が声をかけてきた。
「おい、部品を眺める仕事に変わったのか」
「悪い」
「父親は考えることが多いって顔してるぞ」
「父親じゃない」
「じゃあ何だ」
レオンは少し詰まった。
養父、と言えばそうなのだろう。保護者、と役所は言う。エリーズはたぶん、まだまだ保護者未満だと言う。自分では、運命共同体と言った。あれはエリーズに止められたが、ミラは少し納得していた。
「……相棒に近い」
工員は笑った。
「五歳の相棒か。厳しそうだな」
「朝から皿を確認される」
「それは厳しい」
「それに、外套の襟も直される」
「お前よりしっかりしてるじゃないか」
「そこは否定しにくい」
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。
市場へ寄って毛布を見るか、まっすぐ迎えに行くかで少し迷った。新品は無理だ。中古でも財布は軽い。工場長に聞くべきことも残っている。考えながら歩いているうちに、結局、足はアパートへ向かっていた。
公営労働者アパートの中庭へ入ったところで、レオンは足を止めた。
ミラが、犬と一緒にいた。
トトではない。
洗濯場と壁の間に、薄茶色の犬が立っている。毛はところどころ汚れ、耳の先が少し欠けたように見えた。痩せてはいるが、怯えて逃げるほどではない。人の距離を知っている犬だった。
ミラはその犬の少し横に立っている。手には小さなパンの欠片を持っていた。
マノンが興奮した声で言った。
「レオン、ミラが犬を見つけた!」
ルルは木の匙を握ったまま、犬の後ろに回ろうとしてエリーズに止められている。トトは少し離れた場所から、新入りをじっと見ていた。
レオンはミラを見た。
「何だ、その犬」
ミラは落ち着いて答えた。
「パンです」
「犬にパンって名前をつけるな」
「前に、トトは焼きすぎたパンの顔って言いました」
「じゃあ、こいつは何なんだ」
ミラは犬の顔を見た。犬はその間もパンの欠片を見ている。
「こっちは、落ちてたパンです」
「犬を拾った話だよな?」
「はい。パンを拾いました」
レオンは額に手を当てた。
洗濯場の女が笑う。
「今度は犬まで拾ってきたのかい」
「俺じゃないです」
「あんたの周りは、拾うか拾われるかで忙しいね」
片腕の男が二階の廊下から顔を出した。
「工場で犬まで組み立てるようになったのか」
「工場は関係ない」
「じゃあ、今度はアパートで犬を生産するのか」
「しない」
エリーズが犬を見て、レオンを見る。その顔は、朝から嫌な予感が当たった時の顔だった。
「レオン」
「俺が連れてきたんじゃない」
「連れてきたのが誰かじゃなくて、これからどうするかよ」
「今から考える」
「ほら、また増えた」
レオンは言い返せなかった。
ミラは犬にパンの欠片を差し出した。犬は一度ミラの手を見てから、そっと欠片を取った。指を噛まないようにしている。誰かに飼われたことがあるのかもしれない。
「水もいるよ」
マノンが言い、ミラの袖を軽く引いた。
ミラは犬から目を離しにくそうにしながらも、パンの欠片をマノンへ預けた。二人はルルを連れて洗濯場の水桶の方へ移る。ルルは匙を持ったままついていき、犬はその場に残って、マノンの手元のパンだけを目で追っていた。
ミラの声が水音にまぎれるくらい離れたところで、エリーズはレオンへ少し声を落とした。
「あんた、こういうことを一人で決める前に、少しは人に相談しなさいよ」
「犬のことか?」
「犬だけじゃない。ミラのことも、あんた自身のことも」
レオンは言い返しかけて、口を閉じた。エリーズの声は怒っているのに、いつものように真っ直ぐ刺してこなかった。
「私だって、十八になれば、あんたをこの国に残す理由くらい作れるかもしれないでしょ」
レオンは真面目な顔で考えた。
「……身元保証人になってくれるのか?」
エリーズは一度だけ目を閉じた。
「そうじゃない」
「じゃあ、何の理由だ」
「今のあんたに説明すると、役所の用紙に書く欄を探しそうだから嫌」
「欄があるなら、書けるだろ」
「ほら、探してる」
レオンは返す言葉をなくした。
エリーズは小さく息を吐き、犬の方へ視線を戻した。
「今はその話じゃないわ。あの子がまた何かを拾って、あんたがまた何とかしようとしてる。それ自体は悪くない。でも、部屋では飼えない。そこは分かってる?」
「分かってる」
「役所の人にも見られてる。寝台も毛布も足りないのに、犬までいたら刺されるわ」
「役所にも?」
「役所にも。ベルナールさんにも。私にも」
「刺す人間が増えすぎだ」
「増やしてるのはあんたよ」
ミラとマノンが、小さな木の器に水を入れて戻ってきた。ミラは犬の前にそれを置き、少しだけ下がる。犬は器の匂いを嗅ぎ、用心しながら水を飲んだ。
レオンはしゃがんだ。
「ミラ。その犬は、うちには入れられないぞ」
ミラはすぐには返事をしなかった。
犬を見る。レオンを見る。エリーズを見る。もう一度、犬を見る。
「養子です」
中庭の声が少しだけ止まった。
レオンは言葉を探した。
「犬だぞ」
「家がありません」
「それは、まあ、そうかもしれないけどな」
「まねしました」
その一言は、責める声ではなかった。
ミラは泣いていない。怒ってもいない。自分が何か正しいことをしたと大声で言うわけでもない。ただ、覚えたことを使っただけのような顔をしている。
家がないものを連れてくる。
それを、養子と呼ぶ。
レオンは、自分の胸の奥を少し押されたような気がした。
自分は最初、役所の手続きを止めるためにミラを連れてきた。けれどミラの中では、レオンのしたことはそういう形で残っているのかもしれない。家のないものを連れて帰ること。戻る場所を作ること。
その受け取り方が正しいのか、間違っているのか、レオンには分からない。ただ、ここで「返してこい」とだけ言えば、何か大事なものを踏む気がした。
レオンは帽子を脱ぎ、頭をかいた。
「うちは狭い。パンは入った瞬間に鍋へぶつかる」
「パンは、鍋を食べない」
「鍋じゃなくて、俺が困る」
「パンは小さい」
「犬は動く。吠える。飯もいる。あと、トトと会議になる」
ミラはトトを見た。トトは新入りの犬をまだ見ている。会議をする気があるかどうかは分からない。
レオンは立ち上がった。
「工場に聞いてみる」
エリーズが目を細めた。
「工場?」
「夜番がいる。倉庫もある。残飯も出る。番犬にもなるかもしれない」
「また工場へ連れていく発想なのね」
「今日は犬だから、少しは合ってるだろ」
「少しだけね」
洗濯場の女が笑った。
「工場で犬まで雇ったら、あんたより働くかもしれないよ」
「それは犬次第です」
「レオン次第でもあるね」
レオンは犬を見る。犬はミラの手元をまだ気にしていた。
「よし。来い、パン」
犬は来なかった。
ミラがパンの欠片を持って歩き出すと、犬は少し遅れてついてきた。
レオンとミラと犬は、夕方の道を工場へ向かった。ミラは犬に近づきすぎず、けれど離れすぎもしない距離で歩く。犬はパン屑につられてついてくる。時々立ち止まり、匂いを嗅ぎ、また歩き出す。
「名前、変えないのか」
レオンが聞くと、ミラはすぐ答えた。
「パンです」
「犬としての誇りはどうなる」
「パンは、パンです」
「その理屈は強いな」
工場の門では、夜番の男が驚いた顔をした。
「レオン、今度は犬か」
「俺じゃないです。ミラが」
「お前、何でもその子のせいにするなよ」
「今回は本当にミラです」
ミラは丁寧に頭を下げた。
「パンです」
夜番の男は犬を見た。
「犬だな」
「パンです」
「名前がか」
「はい」
夜番の男は少し笑い、門を開けた。
デュラン工場長は、事務棟の入口でレオンたちを見た瞬間、煙草をくわえる手を止めた。
「今度は犬か」
レオンは帽子を持ったまま言った。
「俺が拾ったわけじゃないです」
「お前の周りで起きることは、だいたいお前の責任になる」
「犬の足で来ました」
「言い方を変えても、責任は歩いて逃げない」
ミラは犬の横で静かに立っている。施設で見せていたような、聞き分けのよい顔になりかけていた。
レオンはそれに気づいた。
「部屋では飼えません」
デュラン工場長は短く言った。
「分かっているなら、なぜ連れてきた」
「工場なら、どうにかならないかと思って」
「工場は孤児院でも犬小屋でもない」
「でも、夜番がいます。倉庫もあります。残飯も出ます。番犬にもなるかもしれません」
「かもしれない、で工場に犬は置けん」
夜番の男が横から言った。
「工場長、倉庫の裏、最近ねずみが出ますよ」
工場長はそちらを見た。
「犬で解決するとは限らん」
「人間よりは鼻がいいです」
別の工員が工具箱を持って通りかかり、犬を見て笑った。
「おい、レオンより先に犬が正式採用か」
「俺はもう働いてる」
「こいつは遅刻しなさそうだな」
「朝の警笛で逃げるかもしれない」
「逃げたら、お前より判断がいい」
工員たちが少し笑った。ミラは黙って聞いている。
デュラン工場長は、しばらく犬を見てから、レオンへ視線を戻した。
「工場で置くなら条件がある」
レオンは背筋を伸ばした。
「はい」
「餌をやる者を決める。夜番と倉庫番に確認する。子どもが拾ったからといって、飽きたら終わりにはしない。病気や怪我があれば、町の獣医に見せる。金がいるなら、出す者を決める」
「俺も出します」
「その前に、お前はミラの毛布と寝る場所と正式な預け先だ」
「順番が多いですね」
「お前が増やしている」
レオンは返事に詰まった。
デュラン工場長は犬の方へ歩き、少し離れたところでしゃがんだ。手は出さない。犬も逃げない。互いに距離を見ている。
「名前は」
ミラが答えた。
「パンです」
工場長は一瞬だけ動きを止めた。
「……パン」
「はい」
「犬の名前か」
「はい」
「理由を聞くと、仕事が遅れそうだな」
レオンが横から言った。
「落ちてたパンらしいです」
「聞くべきではなかった」
工場長は立ち上がった。
「倉庫裏に古い木箱がある。布を敷け。今日一晩置いて、逃げず、荒らさず、夜番が困らなければ考える」
ミラの目が少しだけ上がった。
「ここに、いていいんですか」
「今日一晩だ」
工場長はそう言ってから、ミラの顔を見た。少しだけ声を整える。
「追い払うためではない。工場で飼えるか確かめるためだ」
ミラは丁寧に頷いた。
「はい」
その頷きは、納得しきった時のものではなかった。けれど、さっきより肩の力は少し抜けていた。
レオンは倉庫裏へ回り、古い木箱を出した。底に割れはあるが、犬が丸まるには十分だ。使い古した布を敷き、夜番の男が水の入った浅い器を置く。工員の一人が休憩所から残り物のパンを少し持ってきた。
犬は木箱の匂いを嗅ぎ、水を飲み、パンを食べた。尻尾は大きく振らない。ただ、その場からすぐには離れなかった。
ミラは少し離れて見ている。
「うちには、来ませんか」
レオンは犬ではなく、ミラを見た。
「うちは狭い。パンは工場の方が走れる」
「レオンさんも工場にいる」
「俺は工場で飼われてるわけじゃない」
「少し似てる」
「そこは似てないと言ってくれ」
ミラは犬を見たまま、しばらく黙った。
レオンは言葉を探した。立派なことを言おうとすると、だいたい言葉を間違える。ベルナールならもっと静かに、正しく言うのだろう。エリーズなら現実を混ぜて、でも分かりやすく言うのだろう。デュラン工場長なら、まず責任者を決めろと言う。
レオンにできる言い方は、そのどれとも違った。
「パンは、ここで飯をもらえる。夜はこの箱がある。勝手に追い払われないように、工場長に話した」
ミラはレオンを見た。
「帰る場所ですか」
「まだ、今日一晩の場所だ」
「今日一晩」
「でも、そこらへんに戻して終わりにはしない。駄目なら、また考える」
ミラは、すぐには返事をしなかった。
犬が木箱の中で丸くなった。まだ眠ってはいない。耳は立っていて、周りの音を聞いている。それでも、石畳の上ではなく、布の上にいた。
「わたしの椅子みたいです」
ミラが言った。
レオンは返事に少し遅れた。
「……まあ、少しな」
ミラは犬をもう一度見た。犬は木箱の中からミラを見返している。名前を呼んでも来ないかもしれない。けれど、逃げてもいない。
デュラン工場長が事務棟の入口から声をかけた。
「レオン」
「はい」
「犬の心配をした後は、自分の子どもの預け先の書類を出せ」
「今ですか」
「明日の朝だ。忘れる顔をしているから今言った」
「忘れません」
ミラが横から言った。
「言っていいんですよね」
レオンは嫌な予感がしてミラを見た。
「何を」
「忘れたら、言えって」
デュラン工場長の目が少し細くなった。
「いい相棒だな」
「五歳に監督される工員って、どうなんですか」
「今のお前にはちょうどいい」
レオンは反論できなかった。
帰り道、ミラは何度も振り返った。工場の門の奥に、倉庫裏は見えない。それでも、犬がいる方角を確かめているようだった。
「パンは、警笛で起きる?」
「たぶんな」
「怒っている音です」
「犬も慣れる」
「慣れなかったら?」
「俺より先に工場を嫌いになる」
「レオンさんは、工場が嫌い?」
「嫌いなら毎朝行かない」
「怒られても?」
「怒られても行く」
ミラは少し考えた。
「パンも、明日いる?」
「いるようにする」
「ように」
「確実に言うと、工場長に怒られそうだ」
「たぶん?」
「今日は、たぶんより少し上だ」
ミラは丁寧に頷いた。完全に安心してはいない。だが、朝の皿を確認する時より、少しだけ表情がやわらかかった。
アパートに戻ると、マノンがすぐ駆け寄ってきた。
「パンは?」
「工場」
レオンが答えると、マノンは目を丸くした。
「犬なのに働くの?」
「働くかもしれない」
「何するの?」
「ねずみを見つける。夜番の相手をする。たぶん、吠える」
「レオンより仕事多いね」
「俺の仕事を軽く見るな」
ルルが木の匙を差し出した。
「パン」
「パンは工場だ」
ルルは匙を持ったまま首を傾げ、トトへそれを見せに行った。トトは匙を見ず、レオンの靴の匂いを嗅いだ。工場の犬の匂いがしたのかもしれない。
エリーズは部屋の前で待っていた。
「決まったの?」
「今日一晩は工場。夜番と倉庫番が見る。大丈夫なら工場犬になるかもしれない」
「部屋に入れなかったのね」
「入れたら、鍋と皿と役所が全部倒れる」
「分かってるならいいわ」
エリーズはミラを見た。
「大丈夫?」
ミラは少し間を置いて答えた。
「パンには、箱があります」
エリーズはその返事を聞いて、レオンへ目を向けた。
「箱だけで安心する子にしたら駄目よ」
「分かってる」
「分かってる顔に、今日は少し近い」
「工場長と同じこと言うな」
「工場長が正しい時もあるのよ」
レオンは黙って頷いた。
部屋に入ると、狭さはいつも通りだった。
寝台が一つ。小さな机。黒い鍋。木箱。二つ目の椅子。棚には欠けた皿と、欠けていない皿。犬はいない。だから見た目だけなら、昨日とほとんど変わっていない。
ミラはまず棚を見た。皿が二枚あることを確かめ、それから自分の椅子の背に手を置いた。最後に、窓の外へ目を向ける。工場の煙突が、夜の空に黒く立っていた。
「パンも、あっち」
「そうだ」
「工場は油の匂い」
「パンも油の顔になるかもしれない」
ミラはレオンを見た。
「レオンさんと同じです」
「犬と似てるところを増やすな」
ミラは少しだけ笑った。
夕飯は、昨日と似たスープだった。エリーズが少し分けてくれた野菜を足したので、昨日より具が多い。ミラは自分の皿を使った。今日は皿を引き寄せる時、音を立てなかった。レオンは欠けた皿を使い、木箱に座る。
食事のあと、ミラは自分の皿を洗った。昨日より手つきは少し慣れている。レオンは横で見ていたが、今回は口を出さなかった。皿が滑りそうになると、ミラが先に言う。
「大丈夫」
「分かった」
「でも、落ちそうなら呼びます」
「呼べ」
ミラは皿を拭き、棚に置いた。欠けた皿の隣に、欠けていない皿が並ぶ。
寝る支度をする頃には、外はすっかり暗くなっていた。共同廊下を誰かが歩く音がし、下の階ではマノンがルルを叱っている。トトが一度吠えたが、すぐに静かになった。遠くの工場からは、夜番の機械の音が低く続いている。
ミラは寝台に上がり、毛布を引き寄せた。けれど、すぐには横にならない。窓の方を見ていた。
「明日、パン見る?」
「工場へ行く前に見る」
「わたしも?」
「朝はエリーズの家に行く前に、少しだけな」
ミラは小さく頷いた。
「おやすみなさい、レオンさん」
「おやすみ、ミラ」
レオンは床に外套を敷き、横になった。背中は明日も痛いだろう。毛布もまだ足りない。正式な預け先の書類も出さなければならない。役所の人が来る日も近づいている。
部屋には、椅子が二つある。
皿も二枚ある。
そして、窓の向こうの工場には、古い木箱が一つ増えた。
犬はこの部屋にはいない。
それでもミラは、工場の煙突を少し長く見てから、自分の椅子に手を置いた。
パンが今夜いる場所も、あの煙の下にできたのだと、たぶん確かめていた。




