第6話 欠けていない皿
工場の警笛が鳴った。
レオンは床の上で目を開け、すぐには起き上がらなかった。古い外套を敷いているとはいえ、床は床だった。背中は昨日より痛いし、首も少し変な角度になっている。
寝台の上では、ミラが先に起きていた。
毛布を胸元まで引き上げ、窓際を見ている。そこには、昨日直した二つ目の椅子があった。脚はまだ少し頼りなく、座面の端には古い割れ目がある。それでも、夜の間に倒れもせず、朝の光の中でちゃんと椅子の顔をしていた。
ミラは小さく言った。
「ある」
レオンは外套を肩からはがしながら、寝ぼけた声で返した。
「何が」
「椅子。朝になっても、ある」
「一晩で逃げたら、俺が捕まえるって言っただろ」
「椅子には足があります」
「だから逃げるかもしれない」
ミラは少し考え、納得しきれない時ほど丁寧に頷く癖で、きちんと頷いた。
「でも、歩くところは見てません」
「俺もない。じゃあ、今朝は無事だな」
ミラはようやく寝台から下り、靴をそろえて履いた。それから机の上へ視線を移す。
机には、昨日のままの皿があった。
一枚は縁が欠けている。もう一枚も、細いひびが入っていた。役所の人がそこへ目を向けた時の沈黙を、レオンは思い出した。
寝具を増やすこと。食器を整えること。昼間の預け先を決めること。一週間後にもう一度見に来ること。
紙に書かれたわけではないのに、その四つは頭の中で勝手に並んでいる。
ミラが欠けた皿を指差した。
「これは、まだ欠けています」
「皿は今日どうにかする」
「欠けていない方?」
「欠けていない方だ」
「高い?」
レオンは水差しを持ち上げながら、少し考えた。
「車よりは安い」
「車と比べるの?」
「高いものの代表が車だった」
「パンよりは?」
「パンよりは高い」
「椅子よりは?」
「椅子はもらったから、皿と比べると皿がかわいそうだ」
ミラはまた丁寧に頷いた。やはり、納得した顔ではなかった。
レオンは顔を洗い、ミラにも桶を渡した。水は冷たく、ミラは最初に指先だけ入れて、少し眉を寄せる。
「冷たい」
「朝の水だからな」
「昼の水は?」
「少しはましだ」
「夜は?」
「質問で水がぬるくなるなら、いくらでも答えるんだけどな」
ミラは桶の水を見た。
「ぬるくならない」
「世の中、そういうこともある」
朝食は硬くなりかけたパンと、昨日の残りの豆のスープだった。黒い鍋は相変わらず黒く、欠けた皿も相変わらず欠けている。
レオンはパンを二つに分け、ミラの前に置いた。ミラはすぐ食べず、皿の欠けた縁へそっと指を近づけた。
「触ると切れるかもしれないぞ」
ミラは手を引いた。
「レオンさんの皿は、いつから欠けていますか」
「覚えてないな。気づいた時には欠けてた」
「怒られた?」
「誰に」
「皿を欠けさせた人に」
「たぶん俺だぞ」
「じゃあ、レオンさんがレオンさんを怒ったの?」
「一人暮らしでそれを始めると、部屋がかなり寂しくなる」
ミラは少しだけ首を傾げた。分かったような、分からなかったような顔だった。
食事を終える頃には、工場へ行く時間が迫っていた。ミラは今日もエリーズの家で預かってもらうことになっている。正式な預け先はまだ決まっていないが、部屋に一人で残すよりはずっとましだった。
レオンは帽子をかぶり、ミラの外套の襟を直そうとして、また片方だけ上げすぎた。
ミラが自分で襟を直す。
「昨日も、こっちだけ変でした」
「今日は直すつもりだった」
「つもりは、曲がる?」
「曲がることもある」
「皿も?」
「皿は割れる」
「割れるのは困る」
「だから今日、割れてないやつを探す」
ミラはしばらくレオンを見ていた。
「探したら、ある?」
「ある。たぶん」
「たぶん」
「皿の話なら、たぶんでも許される」
「役所の人の前では?」
「許されない」
「ベルナールさんの前では?」
「もっと許されない」
ミラは少しだけ目を伏せた。笑ったようにも見えたが、すぐにいつもの顔へ戻った。
二人が中庭へ下りると、朝の公営労働者アパートはすでに動き出していた。洗濯場では女たちが水をくみ、共同廊下では子どもが靴を探して騒いでいる。どこかの部屋から薄いスープの匂いが流れ、別の窓からは石鹸の泡を流す水音が落ちてきた。
エリーズは中庭の端で待っていた。腕には小さな籠を提げている。中には布と針箱と、たぶん昼に食べるパンが入っている。
「遅い」
「警笛は鳴った」
「鳴ってからの話よ」
レオンは返事に困り、ミラを見た。
「俺たちは遅いのか」
「レオンさんは、靴ひもを結び直しました」
「ほどけたからな」
「片方だけ二回」
エリーズがため息をついた。
「五歳の子に証言されてるじゃない」
「正確すぎる証言は時々困る」
ミラは丁寧にエリーズへ頭を下げた。
「今日もお願いします」
エリーズの顔が少しやわらかくなる。
「ええ。マノンも待ってるわ。ルルは朝から木の匙をなくしたって騒いでるけど、たぶん手に持ってる」
「持っていても、なくなりますか」
「ルルの場合はなるの」
ミラは真面目に頷いた。
レオンは中庭を出ようとして、エリーズに呼び止められた。
「皿、ちゃんと探しなさいよ」
「そのつもりだ」
「あんたのそのつもりは、よく鍋の底で焦げてるから」
「鍋の話と俺の話を混ぜるな」
「似てるのよ。黒くなるまで気づかないところが」
洗濯場の女が、水桶を置きながら口を挟んだ。
「皿くらい、先に用意しときな」
「飯を乗せるものが増えるって考えが遅れました」
「そこが遅れる男が、子どもを迎えたんだからねえ」
中庭のあちこちで笑いが起きた。レオンは帽子の縁を下げた。返す言葉はあったが、だいたい負ける気がしたので飲み込んだ。
工場へ向かう途中、レオンは市場の端にある古道具屋をのぞいた。
店先には皿や鍋、古い燭台、取っ手の取れた籠、誰が使うのか分からない鉄の輪まで並んでいる。皿は木箱の中に積まれていた。白いもの、花模様のもの、縁に青い線が入ったもの。どれもレオンの部屋にある欠けた皿よりは立派に見えた。
レオンは一枚を持ち上げ、裏返し、値札を見た。
すぐに戻した。
「皿って、こんなにするのか」
後ろから声がした。
「割れるくせに高いのね」
振り返ると、エリーズがいた。さっき別れたばかりなのに、別の道を通って市場へ来たらしい。籠には布だけでなく、青菜も増えていた。
「お前、先回りしたのか」
「買い物よ。あんたを見張るほど暇じゃないわ」
「今、見張ってるだろ」
「皿を値段だけ見て帰りそうな顔をしてたから」
レオンは木箱の中の皿をもう一度見た。
「割れにくい皿はないのか」
「それは皿じゃなくて鍋のふたよ」
「鍋のふたで食べるのは駄目か」
「本気で考えた顔をしないで」
「丸いし、平たいし」
「子どもに飯を出すものとして、まず負けてるわ」
レオンは鍋のふたを見るのをやめた。エリーズは呆れた顔をしていたが、棚の下の方を少し探してくれた。けれど、安い皿はほとんど欠けている。欠けていないものは、レオンの財布には少し重かった。
「無理して買うより、誰かに聞いた方が早いかもね」
「皿を持ってる人間は多いからな」
「たいていの人は持ってるわよ。問題は、あんたに譲ってもいいと思うかどうか」
「俺の信用が皿以下なのか」
「今朝の時点では、鍋のふたより少し上くらい」
「上ならいいか」
「喜ぶところじゃない」
レオンは皿を買わずに工場へ向かった。
工場に着くと、いつもの音が体の中へ戻ってきた。鉄板の音、台車の車輪、工具を置く音。油の匂いと煙草の匂い。朝から鳴っている機械の低い唸り。
作業に入る前、レオンはデュラン工場長に呼ばれた。
工場長室の机には、昨日より少し書類が増えていた。役所からの封筒もある。レオンはそれを見ないようにしたが、見ないようにすると余計に目に入る。
デュラン工場長は椅子に座り、レオンを見た。
「今度は皿か」
「耳が早いですね」
「アパートの者は、工場の門まで来る途中で三人に話す」
「広報が強い」
「お前の段取りが弱い」
レオンは帽子を手の中で回した。
「役所に言われたんです」
「役所に言われる前に気づけ」
「飯は二人分に増えたんで、皿もそのうち気づく予定でした」
「予定で子どもを待たせるな」
「今日は待たせません」
「今日は、だな」
デュラン工場長は立ち上がり、隣の倉庫へ向かった。レオンも後についていく。倉庫の奥には、壊れた椅子、古い木箱、使わなくなった棚板、割れたランプの笠などが置かれていた。
工場長は棚の下から、布に包まれた食器をいくつか出した。
「休憩所で使っていたものだ。残っていれば持っていけ」
レオンは一枚ずつ見た。最初の皿は縁が大きく欠けている。次の皿は油染みが濃く、洗っても色が抜けそうにない。三枚目は中央に細いひびが走っていた。
「これは?」
「お前の今の皿よりひどい」
「欠け方にも上下があるんですね」
「ある。子どもに出すな」
レオンは布をたたみ直した。
「全部、駄目ですか」
「大人が自分で使うなら勝手だ。子どもに出すなら別だ」
デュラン工場長はそれだけ言って、机の方へ戻った。レオンは少し遅れてついていく。
「皿一枚で、ずいぶん難しいですね」
「皿一枚の話じゃないからだ」
レオンは返事をしなかった。
工場長は書類へ目を落としながら、煙草に手を伸ばした。
「正式な預け先も忘れるな。椅子と皿をそろえれば終わりじゃない」
「分かってます」
「今のは、分かっている顔に少し近い」
「褒めてます?」
「油断するな」
レオンは現場へ戻った。
その日の仕事は、いつもより少し長く感じた。流れてくる部品を受け取り、置く。次を受け取り、渡す。手は勝手に動くのに、頭の隅では皿のことを考えている。新品は高い。工場の古皿は使えない。帰りにもう一度市場をのぞくか。けれど、時間をかけすぎるとミラを迎えに行くのが遅くなる。
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。
市場へ寄るか、直接アパートへ戻るか迷いながら門を出る。空は夕方の色に変わり始め、工場の煙突から出る煙が薄く伸びていた。
アパートの中庭へ入ると、洗濯場の女が水桶の横に立っていた。
「あんた、皿は見つかったのかい」
レオンは正直に首を振った。
「新品は高かったです。工場のは欠けてました」
「だろうね」
「分かってたんですか」
「工場で使い古した皿が、子どもに出せる顔をしてるわけないだろ」
洗濯場の女はそう言って、自分の部屋の方へ手を振った。
「少し待ちな」
レオンが中庭で待っていると、マノンが縄跳びを持って走ってきた。その後ろからルルが木の匙を握ってついてくる。トトはさらに後ろで、何かの匂いを嗅いでいた。
「レオン、ミラの皿、まだ?」
「今、たぶん来る」
「皿も歩くの?」
「今日は人に運ばれて来る」
「椅子よりえらいね」
「どういう基準だ」
マノンは返事をする前に、ルルの手を見た。
「ルル、匙あるじゃない」
ルルは自分の握っている木の匙を見て、驚いた顔をした。どうやら本当に見失っていたらしい。
そこへ、エリーズの部屋の前からミラが出てきた。椅子に座って待っていたのか、スカートの裾を両手で整えている。レオンを見ると、少しだけ顔を上げた。
「来ました」
「来たぞ」
「皿も?」
「今、皿が来るところだ」
ミラはそれ以上聞かず、洗濯場の女の方を見た。
しばらくして、女が戻ってきた。布に包んだ皿を一枚持っている。丸い、白い皿だった。縁には薄い青い線が入っているが、ところどころかすれている。模様は古い。新品ではない。けれど、縁は欠けていなかった。
「うちじゃ使わなくなったやつだよ。きれいに洗えば使える」
レオンは両手で受け取った。
「助かります」
「礼は、この子にちゃんと飯を乗せてから言いな」
洗濯場の女はミラを見た。さっきまでレオンに向けていた口の悪さが、少しだけやわらぐ。
「お嬢ちゃん、古いけど欠けてないよ」
ミラは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「割っても、すぐ泣くんじゃないよ。皿は割れるものだからね」
ミラの手が、外套の前で少し動いた。
レオンはその小さな動きに気づいたが、洗濯場の女はわざと明るく続けた。
「もっとも、今日は割らない方がいい。レオンが皿を見つけるまでに、半日かかってるから」
「半日もかけてないです」
「昨日から数えれば一日だよ」
「それは計算が厳しい」
「役所はもっと厳しいんだろ」
レオンは黙った。言い返せない話が増えている。
エリーズが部屋から出てきた。ルルを抱き上げ、ミラと皿を見比べる。
「見つかったのね」
「見つけたというか、もらった」
「それも大事な能力よ」
「褒めてるのか」
「今日は少しだけ」
「少しが多い日もあるのか」
「調子に乗る前に、その皿を洗いなさい」
レオンは皿を布で包み直し、ミラと一緒に階段を上がった。
部屋に入ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。寝台一つ。小さな机。黒い鍋。木箱。二つ目の椅子。床に敷いた古い外套。昨日と大きく変わったわけではない。けれど、レオンの手の中に皿が一枚あるだけで、やることが一つはっきりしていた。
レオンは水をくみ、皿を洗った。古い汚れを布でこすり、縁を指で確かめる。欠けていない。ひびもない。模様は薄いが、飯を乗せるには問題なかった。
ミラは椅子に座らず、机の横に立って見ていた。
「座って待ってていいぞ」
「見る」
「皿を?」
「洗ったら、変わるかもしれません」
「皿が?」
「きれいになる」
「それは変わるな」
レオンは皿を拭き、ミラの前に置いた。
「見ろ。欠けてない」
ミラは皿をじっと見た。
「古いです」
「欠けてない方を先に褒めろ」
「模様が薄い」
「そこは皿の年齢だ」
「皿にも年齢がある?」
「たぶんある。俺より年上かもしれない」
「じゃあ、大人の皿です」
「ミラ用だ」
ミラは両手で皿を持ち上げた。皿は軽い。五歳の手でも持てる重さだ。それなのに、ミラはまるで熱い鍋でも抱えるように慎重だった。
「これは、わたしの?」
「ああ」
「使っていい?」
「使うための皿だ」
「しまっておかなくていい?」
「しまったら飯が乗らないだろ」
「割ったら?」
「そりゃ少しは怒る」
ミラの指が、皿の縁で止まった。
レオンはその止まり方を見て、すぐに言い足した。
「怒るけど、戻さない」
ミラは皿から目を離し、レオンを見た。
「戻されませんか」
「皿一枚で戻すなら、俺が先に戻されてる」
「レオンさんも、皿を割ったことがある?」
「ある」
「戻された?」
「誰も引き取りに来なかった」
「それは、いいこと?」
レオンは少し考えた。
「今はいいことにしておく」
ミラはまだ皿を持っていた。両手の力は抜けていないが、さっきより肩は下がっている。
夕飯は、豆のスープに少しだけ野菜を足したものだった。エリーズが昼に分けてくれた青菜の端も入っている。パンは硬いが、火で少し温めるとましになった。
レオンは黒い鍋からスープをよそい、新しい皿を机の上に置いた。ミラは二つ目の椅子に座り、手を膝の上にそろえていた。
「手を出していいぞ」
ミラは皿に手を伸ばした。自分の前へ少しだけ引き寄せようとする。けれど皿の底が机の節に引っかかり、指がすべった。
ガン、と大きな音がした。
皿が机の角に当たった音だった。
割れてはいない。ひっくり返ってもいない。スープもこぼれていない。ただ、狭い部屋の中では、その音が妙に大きく響いた。
ミラは固まった。
すぐ謝らなかった。泣きもしなかった。皿を見て、レオンを見て、それから自分の手を胸の前で小さく握った。目は大きく開いているのに、体だけが動かない。
レオンは反射で声を出した。
「あっ」
その声に、ミラの肩がわずかに上がった。
レオンはそこで、皿ではなくミラの手を見た。指先。手のひら。袖口。血は出ていない。切れてもいない。
「手、切ってないか」
ミラは返事をしなかった。
「皿は?」
「皿より先に、お前の手だ」
レオンは皿を持ち上げ、縁を見た。欠けていない。ひびも入っていない。古い青い線が少しかすれているだけだ。
「割れてない」
「音がした」
「音はしたな」
「怒りますか」
レオンは皿を机に戻した。
「怒る前に、手を見る」
ミラは動かなかった。
レオンは少し声を落とした。
「手が切れてたら、そっちが先だ。皿はそのあとでいい」
ミラは自分の手を見た。指を少し開いて、手のひらを確かめる。どこにも傷はない。それでも、すぐには膝の上へ戻さなかった。
レオンは、少しだけ空気を緩めるように皿を指で軽く押した。
「皿が大きい声を出しただけだ」
ミラがようやく顔を上げた。
「皿が?」
「お前より先に皿が騒いだ」
「皿は、しゃべっていいの?」
「皿はできれば静かにしてほしい」
ミラの指が、少しだけゆるんだ。
レオンはその手を見てから、自分の胸の奥が少し遅れて動くのを感じた。皿の音がした時、最初に腹が立つと思っていた。せっかくもらった皿だ。欠けていない皿だ。また探すのは面倒だし、金もない。
けれど、実際に目が向いたのは、皿ではなかった。
ミラの指だった。
レオンはそのことを、うまく言葉にできなかった。ただ、机の上に皿を置き直し、スープの皿をミラの前へ押した。
「食べよう。冷める」
ミラはまだ少し慎重に、両手で皿を支えた。
「抱えて守らなくていいぞ」
「守らなくていい?」
「食べるための皿だ。守ってたら飯が減らない」
「食べるための皿」
「そうだ」
ミラは小さく頷き、スープを一口飲んだ。
レオンは木箱に座り、自分の欠けた皿を手に取った。縁の欠けた部分は、いつも通り親指の近くに来る。今までは何とも思わなかった。欠けた皿でも食べられる。自分一人なら、それでよかった。
机の向かいには、ミラがいた。
二つ目の椅子に座り、欠けていない皿の前で、スープをこぼさないように飲んでいる。まだ皿を少し怖がっているような手つきだが、それでも食べている。
「レオンさんの皿は、欠けています」
「俺は前からそれで食べてる」
「切れませんか」
「たまに危ない」
「直しますか」
「皿から先だ」
「レオンさんは、あとで?」
「俺は……まあ、そのうちな」
ミラは真面目に頷いた。
「そのうちも、忘れますか」
「忘れたら言え」
「言っていい?」
「それも言っていい」
ミラは皿を見た。
「皿も?」
「皿が欠けたら、それも言え」
「欠けてなくても?」
「それは見れば分かる」
「でも、朝になっても欠けていないか、言う」
「毎朝か」
「大事です」
レオンはスープをすすった。
「じゃあ、毎朝確認だな」
食事が終わると、ミラは自分の皿を両手で持った。
レオンが受け取ろうとすると、ミラは少しだけ皿を引いた。
「洗う」
「割るなよ」
言いかけて、レオンは口を閉じた。
ミラは皿を持ったまま、レオンを見ている。さっき音が鳴った時と同じように、指に力が入っていた。
レオンは言い直した。
「滑ったら呼べ」
「呼んだら?」
「持つ」
「怒る前に?」
「怒る前に」
ミラは少しだけ頷いた。
簡易台所の桶に水を張り、ミラは皿を洗った。背が低いので、木箱を寄せてその上に立つ。レオンは横で見ていた。見ているだけにしようと思ったが、皿が少し傾くたびに手が動きそうになる。
「持ちますか」
ミラが先に聞いた。
「持ちたい」
「でも、わたしの皿です」
「そうだな」
「滑ったら呼びます」
「分かった」
レオンは手を引っ込めた。
ミラは時間をかけて皿を洗った。水の中で何度も向きを変え、縁に指を沿わせ、欠けていないことを確かめる。洗えば消えてしまうものではないと、自分で確かめているようだった。
布で拭いたあと、ミラは棚の前で少し迷った。
棚には、レオンの欠けた皿が置いてある。ミラはその隣に、自分の欠けていない皿をそっと置いた。
白い皿は、棚の歪みのせいで少し傾いて見えた。縁の青い線も、ところどころ薄くなっている。新品ではない。立派でもない。けれど、欠けた皿の隣に並ぶと、そこだけが昨日とは違って見えた。
「そこでいいのか」
「隣の方が、分かります」
「何が」
「二枚あるって」
レオンは棚を見た。
欠けた皿と、欠けていない皿。
どちらも古い。どちらも安い。けれど、二枚並んでいる。昨日まで一人分だった棚に、もう一枚、飯を乗せるための皿がある。
外は暗くなっていた。
共同廊下では、誰かが水桶を運ぶ音がする。下の階から、ルルを呼ぶ声と、マノンの笑い声が聞こえた。遠くの工場からは、夜番の機械の低い音が届いている。
寝る支度をする頃、ミラはもう一度棚の皿を見た。
「明日も、使っていい?」
「明日もお前の皿だ」
「洗ったら、なくなりませんか」
「洗ったくらいで消える皿なら、食う前に逃げてる」
「逃げる皿は困る」
「俺も困る」
ミラは少しだけ笑った。
レオンは床に古い外套を敷いた。寝台はまだ一つしかない。毛布も足りない。明日考えなければならないことは、皿のほかにも残っている。
けれど、ミラは寝台に上がる前、もう一度だけ棚を見た。
「あります」
「何が」
「わたしの皿」
レオンは棚を見てから、頷いた。
「あるな」
ミラはそれを聞いて、毛布の中へ入った。
部屋の裸電球を消す直前、レオンは棚の方を見た。欠けた皿の隣に、欠けていない皿がある。暗くなると青い線はほとんど見えなくなったが、二枚並んでいる形だけは分かった。
明日の朝、ミラはきっとまた確かめる。
レオンはそう思いながら、床に横になった。




