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第5話 役所の人が来る

朝になっても、椅子は逃げていなかった。


レオンが床の外套の上で目を開けると、寝台の上のミラはもう起きていた。毛布を胸のところまで引き上げたまま、窓でも天井でもなく、部屋の隅を見ている。


昨日、工場の倉庫から運んできて、夜に釘を打ち直した二つ目の椅子だった。脚はまだ少し頼りなく、座面の端にも古い割れ目が残っている。それでも、倒れずにそこにあった。


ミラは毛布から顔を出した。


「あります」


「何が」


レオンは起き上がりながら肩を回した。床で寝る生活は二日目だが、慣れるにはまだ早い。背中のどこかが、ずっと文句を言っている。


「わたしの椅子。逃げてない」


「椅子は逃げないって言っただろ」


「レオンさんは、逃げたら捕まえるって言った」


「逃げた時の話だ」


「逃げてない」


「なら大丈夫だな」


ミラは寝台から下りると、靴をそろえて履き、椅子のところまで歩いた。背をそっと触り、座面を指でなぞる。そこにあると分かっているものを、もう一度確かめるような手つきだった。


「朝も、ある」


「一晩でなくなる椅子なら、俺が困る」


「レオンさんが?」


「お前の椅子を一晩でなくす男だと思われる」


ミラは少し考えた。


「それは、困る」


「だろ」


レオンは水差しを取って、顔を洗うための桶へ水を移した。冷たい水が木の桶に当たり、小さな音を立てる。顔を濡らしたところで、ふと手が止まった。


今日、役所の人が来る。


昨日、デュラン工場長には遅れて工場へ入ることを伝えてある。養子の仮手続きが進んだ以上、生活環境の確認が入る。そんな話を聞いた時、レオンは分かったような顔で頷いた。だが、朝になるまで、それがこの部屋を見られるという意味だと深く考えていなかった。


レオンは濡れた顔のまま部屋を見回した。


寝台は一つ。毛布も足りない。机は小さい。椅子は二つになったが、一つは昨日まで脚が曲がっていた。ミラの鞄は机の下に押し込んである。皿は二枚あるが、一枚は縁が欠けている。鍋は、使い込んでいるという言葉では少し足りないくらい黒い。


「……今日だった」


ミラが椅子の背から手を離した。


「何が?」


「役所の人が来る」


「椅子を見に?」


「椅子だけなら、まだ何とかなる」


「ほかも見る?」


「たぶん見る」


ミラは部屋を見回した。寝台、机、鍋、皿、床に敷かれたレオンの外套。見る順番は昨日より少し速い。もう部屋の中の物の位置を覚え始めているのだろう。


「鍋も?」


「鍋も、見える場所にあれば見るな」


レオンは簡易台所へ行き、黒い鍋を棚の奥へ押し込もうとした。鍋は棚の縁に引っかかり、がたりと音を立てる。


ミラが横からのぞき込んだ。


「鍋、隠すの?」


「隠すんじゃない。見えにくくする」


「黒いから?」


「黒さにも限度がある」


「味じゃないって言った」


「役所の人が、そこまで信じてくれるとは限らない」


鍋は結局、奥へ入りきらなかった。レオンは少し角度を変えて置き直し、布を一枚かけようとしてやめた。布で隠した方が、かえって怪しい気がした。


ミラはその様子を静かに見ていた。昨日までなら「どうして怪しいの」くらいは聞きそうなところだが、今日は少し口数が減っている。


役所の人。


その言葉だけで、部屋の空気が変わったのがレオンにも分かった。


朝飯は、硬くなったパンと薄い豆のスープだった。レオンは木箱に座り、ミラは自分の椅子ではなく、机に近い方の椅子に腰かけた。昨日直した椅子は、食事の時には少し不安定だったからだ。


「今日は、こっちでいいのか」


「はい」


返事が丁寧に戻っている。


レオンはパンをちぎりながら、少し眉を寄せた。


「今、はいって言ったな」


「言いました」


「さっきは、逃げてないって言った」


ミラはパンを両手で持ったまま、目だけを動かした。


「役所の人が来るから」


「役所の人が来ると、はいになるのか」


「はい」


レオンは言い返そうとして、やめた。何と言えばいいのか分からなかった。はいでも、逃げてないでも、ミラの言葉に違いない。ただ、その使い分けが何を意味しているのかを、レオンはまだうまくつかめない。


朝飯を片づける途中で、階段を上がってくる足音が聞こえた。


共同廊下の板が、一定の間隔で鳴る。住民の慣れた足音とは違う。途中で誰かに声をかけられても止まらず、レオンの部屋の前でぴたりと止まった。


扉を叩く音がした。


レオンは袖口を見た。油の汚れは昨日よりましだが、爪の間にはまだ黒い筋が残っている。いまさらどうにもならない。帽子をかぶりかけて、部屋の中で帽子はいらないと思い直し、机の上に置いた。


「はい」


扉を開けると、灰色の上着を着た中年の男が立っていた。小さな革鞄を持ち、帽子のつばには雨でもないのに水気の跡がある。目は鋭くないが、見落としはしなさそうだった。


「養子確認担当のロベールです。レオン・メレルさんですね」


「はい。レオンです。どうぞ。狭いですけど」


「確認します」


「先に言っておいた方がいいかと」


「広さは記録します」


「記録されるんですか」


「確認事項です」


レオンは扉を大きく開けた。ロベールは部屋へ入り、帽子を取った。挨拶以上のことは言わず、まず部屋を見た。


二つ目の椅子。寝台一つ。床に畳んで置かれた外套。机の下の鞄。簡易台所の鍋。棚の皿。窓の外に見える工場の煙突。


ロベールの目は、ゆっくり動いた。責めるでも、驚くでもない。ただ、目に入ったものを一つずつ紙の上に置いていくような見方だった。


レオンはその視線を追いながら、落ち着かなくなった。


「椅子は昨日増えました」


ロベールは手帳を開いた。


「昨日ですか」


「昨日です」


「それ以前は一脚」


「昨日までは一人だったので」


「子どもは、来た日から一人分増えます」


レオンは口を開きかけて、閉じた。


まったくその通りだった。椅子が昨日増えたことは、褒められる話ではない。昨日まで足りなかったという話でもある。


ロベールは寝台を見た。


「寝具は一組ですね」


「今は、俺が床で寝ています」


「子ども用は未準備」


「準備中です」


ロベールの視線が棚へ移る。皿は二枚。そのうち一枚は、縁が欠けていた。黒い鍋は棚の奥へ押し込んだつもりだったが、取っ手の半分がこちらを向いている。


「食器も、整っているとは言えませんね」


「……はい」


「昼間の預け先は」


「昨日はエリーズの家に」


「正式な預け先は未定」


レオンは帽子を握った。部屋の中で帽子を持っていることに気づいたが、今さら置く場所もない。


「……未定です」


ロベールはそこで初めて、ミラへ目を向けた。


ミラは椅子に浅く座っていた。膝に手を置き、背筋を伸ばし、顔は静かだった。さっきまで椅子が逃げていないと確かめていた子と、同じ子に見えないほどだった。


「ミラさん」


「はい」


「困っていることはありますか」


「ありません」


「食事は取れていますか」


「はい」


「眠れましたか」


「はい」


「レオンさんは、あなたに乱暴なことをしていませんか」


「していません」


ミラは、聞かれたことだけを丁寧に答えた。


鍋が黒いことも言わない。椅子が朝もあったことも言わない。レオンが床で寝ていることも、工場の警笛が怒っている音に聞こえることも言わない。


レオンは最初、少しだけほっとしかけた。


余計なことを言わないでくれて助かった。


そう思いかけて、すぐに胸の奥が引っかかった。


昨日のミラは、聞かれていないこともよくしゃべった。煙突のこと、鍋のこと、トトの顔が焼きすぎたパンに見えること、椅子が明日もあるかどうか。どうでもよさそうなことを、いくつも口にした。


そのミラが、今は何も言わない。


レオンは、養子支援施設の面談室を思い出した。「手のかからない子」と言った時、ベルナールが目を細めた。あの時は何を間違えたのか分からなかった。今は、少しだけ分かる。


ミラは大丈夫なのではない。


大丈夫そうにしている。


ロベールはレオンへ向き直った。


「生活に問題はありませんか」


レオンは反射で答えそうになった。


「ありま――」


声が途中で止まる。


ミラは椅子に座ったまま、役所の人ではなく、床の一点を見ていた。手は膝の上でそろっている。施設で初めて会った時と同じ顔だった。大人の前で、間違えないようにしている顔だ。


レオンは握っていた帽子を机に置いた。


「……いや、あります」


ロベールのペンが止まった。


「ありますか」


「あります。椅子は昨日増えました。寝るところは一つで、今は俺が床です。毛布も足りません。皿も欠けています。昼間の預け先も、まだ正式には決まってません」


ロベールはレオンを見た。


「それを認めるんですか」


「認めます」


「不利になりますよ」


「隠しても、部屋を見れば分かります」


「では、なぜ申請を続けますか」


レオンは少し言葉を探した。


ここで立派なことを言えば、たぶん嘘になる。ミラのためだけに始めた話ではなかった。自分がこの国に残るために、養子という手段へ飛びついた。それは変わらない。


けれど、今のミラを見て、黙っている方が正しいとも思えなかった。


「足りないものはあります。でも、足りないから戻すんじゃなくて、足りないなら増やします。椅子は増やしました。次は寝るところと、皿と、毛布です。順番は、かなり間違えました」


「かなり、ですか」


「はい。かなりです。でも直します」


レオンはミラを見なかった。


見てしまうと、いいことを言おうとして、また変な言葉を選びそうだった。


「戻す理由にはしないでください。直します」


部屋の中が静かになった。


共同廊下の向こうで、誰かが水桶を置く音がした。中庭からトトの短い声も聞こえた。いつもの朝の音なのに、その時だけ遠く感じた。


ロベールはすぐには返事をしなかった。手帳にいくつか書き込み、それから紙を一枚取り出した。


「本日、ただちに施設へ戻す判断はしません」


レオンは息を吸った。


「ただし、問題なしでもありません。一週間後に再確認します」


「一週間」


「それまでに、最低限の寝具、食器、昼間の預け先を整えてください」


「全部ですか」


「子ども一人分です」


レオンは口を閉じた。


子ども一人分。


その言葉は、役所の紙に書かれた条件というより、この部屋に足りない重さそのものに聞こえた。


「……はい」


ロベールは紙を読み上げるように続けた。


「食器は、欠けていないものを用意してください」


「はい」


「寝具は、床ではなく、子どもが安心して眠れるものを」


「はい」


「昼間の預け先は、口約束ではなく、継続して預けられる形を確認してください」


「はい」


返事をするたびに、レオンの頭の中で必要なものが増えていく。皿、毛布、寝る場所、預け先。工場の仕事なら部品の順番が決まっているが、生活は流れ作業ではないらしい。何から手をつければいいのか、まだ分からない。


ロベールは最後にミラへ向いた。


「困ったことがあれば、言いなさい」


ミラは膝の上で手をそろえたまま、丁寧に頭を下げた。


「はい」


ロベールが帰ると、部屋の中には、さっきより濃い静けさが残った。


扉の向こうで足音が遠ざかっていく。階段の板が鳴り、中庭の方で誰かが役所の人だったのかい、と小さく言う声が聞こえた。レオンは扉を閉め、しばらくそこに立っていた。


ミラはまだ椅子に座っている。


レオンは息を吐いた。


「もう、しゃべっていいぞ」


ミラは顔を上げた。


「今も?」


「今も」


「役所の人、いない」


「いない時の方が、うちはしゃべっていい」


ミラはすぐには返事をしなかった。椅子の座面に置いた手が、少しだけ動く。


「戻されますか」


その言葉だけは、丁寧に戻った。


レオンは軽く「戻されない」と言いそうになって、やめた。言えば簡単だ。けれど、簡単な言葉ほど、あとで壊れた時に痛い気がした。


「今日は戻されない」


「今日は?」


「一週間後も戻されないようにする」


「ほんとに?」


「ほんとに、そうする」


「できる?」


「椅子は増やした」


ミラは少しだけ眉を寄せた。


「椅子だけ」


「だから次を増やす。皿と、毛布と、寝る場所と、昼間の場所」


「たくさんある」


「運命共同体だからな」


ミラは真面目な顔でレオンを見た。


「役所の人に言ったら、怒られます」


「じゃあ、うちだけの言葉にする」


「うちだけ?」


「外では言わない。ベルナールさんにも、たぶん言わない」


「怒られるから?」


「刺されるから」


ミラは少し考えたあと、小さく頷いた。


「うちだけ」


その言い方は、まだ頼りなかった。けれど、役所の人の前で聞いた「はい」よりは、ずっとこの部屋の声に近かった。


昼前、レオンはエリーズの家へ事情を話しに行った。正式な預け先のことは、すぐに解決する話ではない。だが、役所の人に言われた以上、昨日のように「今日だけ助かった」で済ませるわけにはいかなかった。


エリーズは腕を組み、話を聞きながら何度も眉を寄せた。


「だから昨日の朝に言ったでしょ。今日だけって」


「言われた」


「覚えてた?」


「今、かなり思い出してる」


「遅いのよ」


エリーズの母親も横から口を出した。洗い物の手を止めず、顔だけこちらへ向ける。


「しばらくなら見てあげられるけど、役所に言うならちゃんと話を通しな。あんたの都合で毎朝置いていかれても困るよ」


「はい。お願いします」


「お願いだけじゃ紙にはならないよ。預かる時間と、誰が見るかを、役所に確認しな。勝手に私の名前を書いたら、あんたを水桶で叩くからね」


レオンは真面目に頷いた。


「じゃあ、名前を書く時は水桶を避けます」


「そういう意味じゃない」


エリーズがすぐに突っ込んだ。


「役所で用紙をもらって、母さんにちゃんと頼んで、それから書くの」


「順番があるんだな」


「何にでもあるの。あんたはだいたい途中から始めるけど」


レオンは反論できなかった。今日だけで、順番をかなり間違えたと自分でも認めたばかりだった。


「分かった。役所で聞く。用紙をもらう。勝手に書かない。水桶は避けない」


エリーズの母親が鼻で笑った。


「最後だけ覚えがいいね」


ミラはそのやり取りを、エリーズの後ろで聞いていた。役所の人の前ほど硬くはないが、まだ丁寧な顔をしている。


エリーズはミラの方へ視線をやわらげた。


「ミラ、今日もうちでいい?」


ミラはレオンを見た。


昨日よりは少しだけ早く、返事をする。


「はい。お願いします」


エリーズはその丁寧すぎる声に気づいたようだったが、何も言わなかった。ただ、マノンとルルがいる奥の部屋を指す。


「マノンが待ってる。ルルは今日も何でも触るから、鞄は高いところね」


「はい」


「トトも来るかもしれないけど、あれは焼きすぎたパンじゃなくて犬だからね」


ミラは少しだけ口元をゆるめた。


「顔は、パンです」


「そこは変わらないのね」


レオンは工場へ向かう道で、頭の中に皿と毛布と寝具と預け先を並べた。どれも必要で、どれもすぐにはそろわない。今日は遅れて入ると伝えてあるとはいえ、工場の警笛はとっくに鳴っている。道を歩く足は自然と早くなった。


現場に入ると、デュラン工場長は遠くからレオンを見ただけで、何かあったなという顔をした。だが、すぐには呼ばなかった。流れてくる部品は待ってくれない。レオンは持ち場に入り、手を動かしながら考え続けた。


皿。毛布。寝る場所。昼間の場所。


どれから始めればいいのか分からないまま、流れてくる部品だけはいつもの順番で手元に来る。生活にも、こういう順番が印でついていればいいのにとレオンは思ったが、たぶんそれを口に出すと工場長に怒られる。


終業後、レオンは中庭へ戻った。夕方の公営労働者アパートは、朝よりも声が多い。洗濯物は乾き、どこかの部屋から煮込みの匂いが流れ、ルルの泣き声とマノンの笑い声が重なっている。


ミラはエリーズの家の前で、マノンと並んで座っていた。ルルが木の匙を二本持ち、片方をミラへ渡そうとしている。トトはその足元で丸くなっていた。


レオンを見ると、ミラは立ち上がった。


「来た」


「来たぞ」


「今日は、怒鳴られた?」


「少し」


「役所の人に?」


「工場長に」


「たくさん?」


「そこそこ」


ミラは頷いた。


「そこそこ」


「覚えなくていい言葉だぞ」


エリーズが奥から出てきて、レオンへ布袋を差し出した。


「母さんが、古い布を何枚か出してくれた。毛布にはならないけど、外套だけよりはましでしょ」


レオンは受け取った。


「助かる。ありがとう」


「皿は?」


「明日探す」


「今日じゃないの?」


「今日は、預け先の話と布で手いっぱいだった」


エリーズは少し睨んだが、すぐにため息へ変えた。


「一つずつでも、ちゃんと進めなさいよ」


「進める」


「そこで変なこと言わないの?」


「言った方がいいか?」


「言わない方がいい」


ミラが横からレオンを見上げた。


「皿は、明日?」


「ああ、明日だな」


「欠けてない方?」


「欠けてない方」


「わたしの?」


「お前の」


ミラは少し黙り、それから小さく聞いた。


「割ったら?」


「割る前から心配するな」


「割ったら、戻されますか」


エリーズの顔から、からかう色が消えた。


レオンは布袋を持ち直した。ここで笑って流すのは簡単だ。けれど、ミラは本当に聞いている。


「皿一枚で戻すなら、俺が先に戻されてる」


ミラは目を瞬いた。


「レオンさんも?」


「俺は鍋も黒いし、床で寝てるし、役所の人にも心配された」


「皿より?」


「皿一枚より問題が多い」


エリーズが横で小さく息を吐いた。


「自覚が出たなら、少しはましね」


「褒めてるのか」


「今日は半分くらい」


「半分でも助かる」


それ以上、ミラは聞かなかった。


部屋へ戻ると、二つ目の椅子は朝と同じ場所にあった。机の横で、少しだけ脚を曲げたまま、部屋の狭さに混じっている。


レオンはエリーズからもらった布を床の外套の上に重ねた。


「今夜は、昨日よりはましだ」


ミラは床の布を見た。


「床は、寝台になりますか」


「そこまでは出世しない」


「じゃあ、床です」


「床だな」


「でも、少し増えました」


レオンは布の端を直しながら、少しだけ笑った。


「少しな」


ミラは机の下から鞄を引き出し、また戻した。それから棚に置かれた欠けた皿を見る。


欠けた皿は、朝と同じ場所にあった。縁の欠けたところが、裸電球の光を受けて少し白く見える。


「これも、明日?」


「明日、探す」


「欠けてない方」


「ああ」


「わたしの」


「お前の」


ミラは棚を見たまま、小さく頷いた。役所の人の前で見せた、きれいすぎる頷きではなかった。まだ不安は残っている。けれど、明日という言葉の方を少し見ている頷きだった。


レオンは欠けた皿を棚から取り、指で縁を確かめた。


「今日は、これで食べる」


「切れませんか」


「気をつける」


「明日も?」


「明日は、欠けてないやつを使う」


「ほんとに?」


レオンは皿を持ったまま、ミラを見た。


「ほんとに、探す」


ミラは少しだけ考えた。


「見つからなかったら?」


「見つかるまで探す」


「役所の人に言いますか」


「言われる前に用意する」


「ベルナールさんにも?」


「できれば刺される前に」


ミラはほんの少し笑った。


レオンはその顔を見て、皿を机に置いた。


机の上には、欠けた皿が一枚ある。明日、その隣に置く皿を探す。役所の人の紙ではなく、ミラが飯を食べるための皿だ。


「明日、まず一枚だ」


ミラは机の皿を見て、それからレオンを見た。


「欠けてない方」


「欠けてない方」


「わたしの」


「お前の」


ミラはもう一度、小さく頷いた。


読んでくださり、ありがとうございます。全十話程度を予定しています。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。


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