第4話 二つ目の椅子
工場の警笛が鳴った。
レオンは反射で起き上がり、寝台に頭をぶつけかけて、いつもの寝台ではない場所にいることを思い出した。
床だった。
古い外套を敷いた床の上で、肩にかけていた毛布が半分ずり落ちている。背中は痛いし、首も少し変な角度になっていた。昨日までなら寝台から飛び起きて、顔を洗い、パンを口に押し込んで工場へ向かうだけでよかった。
今日は、寝台の上にミラがいた。
ミラは毛布を両手で握ったまま、目を開けていた。驚いて泣くでもなく、起き上がるでもなく、天井を見ている。
「今の音、毎日?」
「毎日だ」
レオンは肩を回しながら立ち上がった。
「毎日、あんなに怒るの?」
「怒ってるんじゃない。起きろって言ってる」
「怖い起こし方」
「慣れる」
「慣れない人は?」
「遅刻する」
ミラはそこで少し考え、毛布の端から顔を出した。
「レオンさんは、遅刻したことある?」
「ある」
「何回?」
「朝から数える話じゃない」
レオンは簡易台所の横に置いた水差しを取った。昨日の夜にくんでおいた水は、部屋の冷えを吸って少し冷たくなっている。顔を洗おうとして、ふと手を止めた。
一人なら、桶に顔を突っ込んで終わりだった。
ミラは寝台に座り、レオンの手元を見ている。
「顔を洗うか」
「洗う」
「じゃあ、先に使え」
ミラは寝台から下りると、靴をそろえて履いた。五歳の子どもにしては、動きが妙にきちんとしている。レオンはまた「しっかりしている」と言いかけ、ベルナールの顔を思い出して黙った。
ミラは桶の前に立ったが、背が低くて少し届きにくそうだった。
「持つか」
「持つ?」
「桶を。顔を洗う間、俺が持ってる」
「落とさない?」
「工場で部品を落としたら怒鳴られる仕事をしてるんだぞ」
「落としたことは?」
「朝から聞くことが多いな」
「おうちなら、しゃべっていいって言った」
言われて、レオンは返す言葉を失った。
昨日、自分で言った。うるさかったらうるさいと言う。でも追い出さない、と。ミラはそれをもう覚えている。
「言ったな」
「うん」
「じゃあ、今のは許す」
「今のは?」
「今のも、だ」
ミラは桶の水で顔を洗った。水が袖にかかりそうになると、レオンは片手で桶を支え、もう片方の手で布を差し出した。布は清潔とは言いにくいが、昨日のうちに洗って干したものだった。
ミラは顔を拭きながら、部屋を見回した。
「椅子は一つです」
「昨日も言ってたな」
「朝になっても一つ」
「一晩で増えたら怖いだろ」
「増えないの?」
「増えない。だから探す」
「寝るところも?」
「探す」
「皿も?」
「欠けてないのを探す」
「毛布も?」
「探す」
「たくさん探すんだね」
「昨日まで一人だったからな」
レオンはパンを切った。硬くなりかけたパンを二つに割り、昨日の残りの豆のスープを温める。鍋は相変わらず黒い。ミラがそれをじっと見ているので、レオンは少しだけ鍋の向きを変えた。
「黒いのは味じゃないからな」
「味だったら困る」
「そこまで焦がしてない」
「そこまでは?」
「お前、朝からベルナールさんみたいな聞き方するな」
ミラは椅子に座った。レオンは木箱を引き寄せ、そこへ腰を下ろす。箱は寝起きの体には低く、膝が変な角度になった。
ミラはパンを両手で持ち、欠けた皿を見た。
「欠けている方が、レオンさん?」
「今日は俺が欠けてる方だ」
「明日は?」
「明日までに欠けてない皿を探す」
「椅子と同じ」
「そうだ。椅子と皿は本日の重要任務だ」
「任務」
ミラはその言葉を小さく繰り返した。気に入ったのか、覚えようとしているのかは分からない。
レオンはスープをすすりながら、頭の中で今日の段取りを並べた。工場に行く。工場長に何か言われる。昼休みに椅子を探す。帰りに毛布をどうにかする。役所の書類もあった気がする。施設への報告もある。考えることが多すぎて、どこから手をつければいいのか分からない。
その時、ミラが言った。
「今日は、わたしはどこにいますか」
レオンの手が止まった。
それが一番先だった。
「……部屋に一人は駄目だな」
「駄目?」
「五歳を部屋に置いて工場に行ったら、たぶん全員に怒られる」
「全員」
「工場長とベルナールさんと、下の洗濯場のおばさんと、昨日のマノンと、犬以外はだいたい怒る」
「トトは怒らない?」
「あいつは吠えるかもしれない」
ミラは少しだけ窓の方を見た。外はまだ朝の薄い光で、工場の煙突から白い煙が上がり始めている。
「じゃあ、わたしも工場へ行く?」
レオンは真面目に考えた。
部屋に一人よりは、目の届く場所にいる方がいい。工場には人もいる。デュラン工場長もいる。危ない場所に近づけなければ、入口の横か事務棟あたりに置いておけるかもしれない。
「見学なら、いけるか」
ミラはパンを持ったまま、目を瞬いた。
「車の少しを見るの?」
「俺が作ってるのは車の少しだからな」
「わたしも、置くの?」
「置かない。たぶん」
「たぶん」
「今のは忘れろ。置かない」
レオンは言いながら、自分でも少し危ない気がしてきた。工場には油も鉄板もある。台車も走る。火花が飛ぶ場所もある。五歳の子どもを連れていく場所ではないような気もする。
ただ、ほかの案がない。
レオンは食事を急いで片づけ、ミラの外套の襟を直した。直し方が下手だったらしく、襟は片方だけ少し曲がった。
ミラが指でそれを直す。
「わたしがやる」
「助かる」
「レオンさんは、大人なのに襟が下手」
「大人にも得意不得意がある」
「得意なことは?」
「部品を置くことと、箱に座ること」
「箱は、得意じゃなくても座れる」
「朝から手厳しいな」
ミラは鞄を持とうとしたが、レオンが先に取った。
「今日は俺が持つ」
「自分の荷物です」
「俺の手が空いてる」
「工場でも物を運ぶから?」
「そうだ。昨日覚えたな」
「レオンさんは、車の少しと、荷物の少し」
「俺の仕事がどんどん小さくなる」
二人が部屋を出ると、共同廊下には朝の匂いが流れていた。石鹸、薄いスープ、湿った木の床。どこかの部屋で子どもが靴を探して騒ぎ、別の部屋から母親の声が飛ぶ。
階段を下りて中庭に出たところで、洗濯場の女が水桶を持ったままこちらを見た。
「レオン」
「おはようございます」
「あんた、その子を連れてどこへ行く気だい」
「工場です」
洗濯場の女は、水桶を置いた。
「今、何て言った」
レオンは少しだけ身構えた。
「工場です」
二階の廊下から、昨日の片腕の男が顔を出した。
「おい、工場で子どもまで働かせる気か」
「働かせない。見学だ」
「油と鉄粉の見学なんて、五歳には早いよ」
「じゃあ何歳ならいいんですか」
「一生早いね」
中庭の端で縄跳びを持っていたマノンが、ミラに駆け寄ってきた。後ろからルルが木の匙を持ってよちよちついてきて、さらにトトが尻尾を振りながら走ってくる。
「ミラ、もう行くの?」
「工場へ行くそうです」
「工場って、煙のところ?」
「車の少しのところです」
マノンは分かったような、分からないような顔をした。
洗濯場の女が腰に手を当てた。
「レオン、あんた本気で言ってるのかい」
「部屋に一人で置いていけないでしょう」
「だからって工場へ連れていく発想になるのが怖いんだよ」
その声に重なるように、中庭の入口から別の声がした。
「朝から何してるの」
レオンが振り返ると、エリーズが立っていた。
仕事前なのか、髪を後ろでまとめ、籠を腕にかけている。レオンより一つ下で、子どもの頃から同じ通りで育った幼なじみだ。顔を合わせれば小言を言うが、困った時ほど逃げない。
エリーズはミラを見て、次にレオンの持っている鞄を見た。
「その子が、昨日みんなが騒いでた子?」
「騒いでたのはみんなで、俺じゃない」
「原因はあんたでしょ」
ミラが丁寧に頭を下げた。
「ミラです」
エリーズの顔が少しやわらかくなった。
「エリーズよ。昨日はちゃんと挨拶できなくてごめんね」
「はい」
「はいって、許したの?」
「挨拶できなかった理由は、今聞きました」
エリーズは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「しっかりした子ね」
レオンは反射で口を開きかけたが、言わなかった。エリーズはその顔を見逃さない。
「何よ」
「いや、そこは危ない言葉だと思って」
「何が?」
「あとで刺される」
「誰に?」
「主にベルナールさんに」
エリーズは眉を寄せたが、すぐに話を戻した。
「で、まさか工場へ連れていくつもり?」
「部屋に置いていけないだろ」
「だからって、油まみれの工場に連れていくのが、あんたの怖いところよ」
「さっき似たようなことを言われた」
「みんな同じことを思うからよ」
レオンは困ってミラを見た。
ミラは黙っている。さっきまでなら質問が出てきそうなのに、今は鞄の取っ手に触れたまま、レオンとエリーズの顔を交互に見ていた。
エリーズはその様子に気づき、声を少し落とした。
「今日だけなら、うちで見てあげる。午前は母さんがいるし、私は昼に戻る。マノンもいるから退屈はしないでしょ」
マノンがすぐに手を上げた。
「遊ぶ!」
ルルも意味が分からないまま木の匙を上げた。トトがそれを遊びの合図だと思ったのか、短く吠える。
レオンは息をついた。
「助かる」
エリーズはすぐに目を細めた。
「助かる、じゃない」
「ありがとう」
「そうじゃなくて。今日だけよ。明日からどうするかは、あんたが考えなさい。子どもは、朝になってから置き場所を探すものじゃないの」
レオンは言い返せなかった。
「覚えます」
「覚えることが増えてよかったわね」
「よくはないけど、増えた」
エリーズは呆れたようにため息をつき、ミラへ向き直った。
「ミラ、うちはこの奥の部屋。マノンとルルがいるから少し騒がしいけど、嫌だったら私の母さんに言ってね」
ミラはすぐに返事をしなかった。
レオンを見る。
「夕方、戻りますか」
その声は小さくない。けれど、朝から続いていた質問とは違った。パンや鍋や警笛を聞く時とは、少しだけ目の動きが違う。
レオンは、ここで軽く答えてはいけない気がした。
「戻る」
「工場が終わったら?」
「終わったら迎えに来る」
「忘れませんか」
「忘れない」
「工場長さんに怒鳴られたら?」
「怒鳴られてから来る」
「怒鳴られなくても、来る?」
レオンはミラの目を見た。
何があったのかは知らない。ミラがどこの誰に置いていかれたのか、あるいは置いていかれる前に何を覚えたのかも知らない。ミラはそれを言わないし、レオンもまだ聞けるほどの大人ではない。
それでも、今聞かれていることだけは分かった。
「来るよ」
ミラは少しだけ鞄の取っ手を握り直した。
「はい」
エリーズが横で黙っていた。いつものようにすぐ刺してこないので、レオンは少し落ち着かなくなった。
「何だよ」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「今のは、まあ、悪くなかったと思っただけ」
「褒めてるのか」
「調子に乗る前に工場へ行きなさい」
レオンは帽子をかぶり直した。
「ミラ。夕方な」
「はい。レオンさん」
マノンがミラの手を引こうとして、少し手前で止めた。昨日会ったばかりの子に、いきなり強く引っぱるのはよくないと思ったらしい。
「こっち。ルルは何でも触るから、鞄は高いところに置いた方がいいよ」
「これは食べません」
「ルルは食べないけど、トトが嗅ぐ」
「焼きすぎたパンの犬ですね」
「トトは犬だよ」
「顔がパンです」
マノンはトトの顔を見て、すぐに笑った。
「ほんとだ!」
トトは自分が何を言われているのか分からず、尻尾を振った。
レオンはその様子を少し見てから、中庭を出た。工場へ向かう道は昨日までと同じだったが、足取りは少し違った。背中に鞄の重みがない。隣に小さな歩幅もない。なのに、頭の中にはミラの質問が残っている。
夕方、戻りますか。
忘れませんか。
工場に着くと、デュラン工場長はすぐにレオンを呼んだ。
現場の音は朝から容赦なく鳴っている。鉄板が置かれ、台車が通り、誰かが工具を落として悪態をつく。レオンが工場長室へ入ると、デュラン工場長は机の前で腕を組んでいた。
「子どもを迎えた翌朝に、預け先を探したそうだな」
レオンは帽子を手に持った。
「耳が早いですね」
「エリーズの母親が、門のところで俺に言った」
「あの人も耳が早い」
「耳ではなく、お前の段取りが遅い」
レオンは反論を探したが、見つからなかった。
「昨日の夜に考えました」
「考えただけか」
「考えた結果、朝になりました」
「結果が悪い」
デュラン工場長は短く言い、机の上の書類を横へどけた。
「レオン。子どもは、仕事へ行く時に帽子みたいに置き場所を決めるものじゃない」
「帽子はたまに探します」
「そういう話をしていない」
「分かってます」
「分かっている顔ではないが、昨日よりはましだ」
それは褒めているのかどうか、レオンには分からなかった。
工場長は椅子に座り、煙草を手に取ったが、火はつけなかった。
「昼間の預け先は正式に相談しろ。労働者棟にも、役所にも当たれるところはある。だが、書類はお前が出せ」
「書類、多いですね」
「子ども一人の生活を抱えるよりは少ない」
レオンは黙った。
デュラン工場長はそこで、少しだけ声を緩めた。
「それと、倉庫に古い椅子がある。脚がぐらついて使っていなかったものだ。直せるなら持っていけ」
レオンは顔を上げた。
「くれるんですか」
「子どもを床に座らせるよりはましだ」
「俺は床でもいいですか」
「お前はしばらく床で反省しろ」
「床はもう昨夜からやってます」
「なら続けろ」
レオンは少しだけ笑い、すぐに真面目な顔に戻した。
「ありがとうございます」
デュラン工場長は、今度は煙草に火をつけた。
「礼は椅子が倒れなくなってから言え」
その日の仕事は、妙に長かった。
流れてくる部品を受け取り、置く。次を受け取り、渡す。いつもと同じ動きなのに、頭の隅で別のことを考えている。ミラは今、泣いていないか。マノンと話しているか。ルルに鞄を触られて困っていないか。トトを本当に焼きすぎたパンだと思っていないか。
隣の工員に声をかけられ、レオンは部品を持ったまま振り向いた。
「おい、手が止まってるぞ」
「あ、悪い」
「父親ってのは大変だな」
「父親じゃない」
「養子なんだろ」
「昨日からな」
「昨日からでも飯は食うぞ」
レオンは返せなかった。
本当に、そうだった。
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。倉庫で古い椅子を受け取る。片方の脚が少し曲がり、座面の端に割れ目がある。けれど、木はまだ生きている。釘と当て木があれば直せそうだった。
レオンは椅子を肩に担ぎ、工場を出た。
公営労働者アパートの中庭に戻る頃には、空は夕方の色になっていた。共同廊下には洗濯物が揺れ、どこかの部屋から煮込みの匂いが流れてくる。
中庭では、マノンが縄跳びをしていた。ルルは座り込んで木の匙を地面に並べ、トトはその横で眠そうにしている。
ミラは、エリーズの部屋の前にいた。
大人しく椅子に座っている。けれど、朝と同じではなかった。膝の上に手をきちんと置いてはいるが、マノンが縄を跳ぶたびに目が動く。ルルが匙を落とすと、少し身を乗り出す。トトが寝返りを打つと、口元がほんの少しゆるむ。
レオンに気づくと、ミラはすぐに立ち上がった。
「来ました」
「来たぞ」
「忘れませんでした」
「忘れる前に工場を追い出された」
「怒鳴られましたか」
「少し」
「怒鳴られなくても、来た?」
レオンは肩の椅子を下ろしながら言った。
「来たよ」
ミラはそれ以上聞かなかった。
ただ、椅子を見た。
「それは何ですか」
「椅子だ」
「脚が曲がっています」
「直せば椅子だ」
「直すまでは?」
「座る予定の椅子だ」
「予定なんですか」
「今日は予定を椅子にする」
マノンが横からのぞき込んだ。
「ミラの椅子?」
レオンは少しだけ迷い、それから頷いた。
「そうだ。ミラの椅子にする」
ミラは椅子の背を見つめた。
「わたしの?」
「部屋に椅子が一つしかないからな。二つ目だ」
エリーズが部屋から出てきた。腕を組み、レオンと椅子を交互に見る。
「壊れてるじゃない」
「直せば椅子だ」
「その理屈、今日何回目?」
「初めてだ」
「顔が二回目よ」
レオンは椅子を抱え直した。
「今日は助かった。ありがとう」
エリーズは少しだけ目を丸くした。
「ちゃんと言えるじゃない」
「俺を何だと思ってるんだ」
「五歳の子に運命共同体とか言いそうな男」
レオンは言葉に詰まった。
「……まだ言ってない」
エリーズの目が細くなる。
「言う予定だったの?」
「大事な将来設計として」
「やめなさい」
ミラがレオンを見上げた。
「運命共同体って何ですか」
レオンは咳払いをした。
「お前が十八になったら立派な大人だから独立するんだぞ。それまでは運命共同体だ。協力しよう」
エリーズが額に手を当てた。
「五歳の子に独立の話をする男、初めて見た」
「十三年後の話だぞ」
「まず今日の夕飯と明日の預け先を考えなさいよ」
ミラは真面目な顔で聞いていた。
「十三年あります」
「そうだ。長期戦だ」
「戦うんですか」
「役所と朝の支度とな」
「朝の支度は、明日もあります」
「強敵だな」
エリーズは呆れながらも、少しだけ笑った。
「ミラ、困ったらうちに来ていいからね。レオンが変なことを言った時も」
ミラは丁寧に頷いた。
「はい。変なことは、少し分かります」
「もう分かるのね」
「今日、増えました」
「増やすな、レオン」
「俺が増やしたわけじゃない」
「ほとんどあんたよ」
レオンは言い返さず、椅子を担いで階段へ向かった。ミラはその後ろをついてくる。昨日より少しだけ、階段の軋む音に驚かない。共同廊下の匂いにも、足を止めない。
部屋に入ると、レオンは椅子を窓際に置いた。
狭い部屋に椅子がもう一つ入るだけで、動ける場所はさらに減った。寝台一つ、小さな机一つ、椅子一つ、木箱一つ、黒い鍋。そこへ曲がった椅子が加わると、部屋はますます窮屈になる。
それでも、ミラはじっと見ていた。
レオンは工具箱を引っぱり出した。中には釘と小さな金槌、曲がった針金、使い古した布切れが入っている。
「すぐ直る?」
「すぐではない。だが、今日中に座れるくらいにはする」
「壊れない?」
「俺が座ると壊れるかもしれない」
「わたしなら?」
「たぶん大丈夫だ」
「また、たぶん」
「椅子の話なら許される」
レオンは椅子を倒し、脚のぐらつきを見た。釘がゆるみ、接ぎ目が少し開いている。工場の部品よりずっと雑な作りだが、直す場所は分かりやすい。釘を抜き、当て木を削り、布を挟んで締め直す。
ミラは椅子のすぐ横にしゃがみ、手を出さずに見ていた。
「触っていいぞ。金槌の近くは駄目だけど」
「見るだけにする」
「退屈じゃないか」
「車の少しより、椅子の全部」
「いい言い方だな」
「椅子は、全部直せる?」
「今日は座れるところまで。明日、もっとちゃんと直す」
「明日も、ここにある?」
レオンは金槌を持つ手を止めた。
また、それだ。
ミラは何でもない顔で聞いている。椅子の話にしている。けれど、聞いているのは椅子だけではないのだと、レオンにも少し分かるようになってきた。
「ある」
「わたしの椅子も?」
「お前の椅子だからな」
ミラは椅子の背にそっと触れた。
「わたしの椅子」
声は小さかったが、部屋の中ではよく聞こえた。
レオンは釘を打ち直した。最後に椅子を起こし、手で座面を押す。少しだけ鳴ったが、倒れはしない。
「よし。座ってみろ」
ミラは椅子の前に立ち、慎重に腰を下ろした。足は床につかない。昨日の椅子より少し低いが、それでもミラには大きい。両手を座面の端に置き、背筋を伸ばすと、施設で見た時のような大人びた顔になりかけた。
けれど、すぐに足先が少し揺れた。
「どうだ」
「椅子」
「無事に椅子になったな」
「少し、椅子」
「明日にはもっと椅子になる」
ミラは座ったまま、部屋を見回した。寝台、机、黒い鍋、窓の外の煙突、床の上の外套。そして、自分が座っている椅子。
「レオンさんは、どこに座る?」
「箱だな」
「箱も椅子なの?」
「箱は箱だ。だが座れる」
「じゃあ、レオンさんの場所は箱」
「言い方が少し寂しいな」
ミラは少しだけ笑った。
その夜、夕飯は昨日とほとんど同じだった。パンとスープ。黒い鍋。欠けた皿。レオンは箱に座り、ミラは二つ目の椅子に座った。
部屋はまだ狭い。
寝台は一つしかない。毛布も足りない。ミラの服を掛ける場所も、昼間の正式な預け先も決まっていない。明日の朝になれば、また警笛が鳴り、ミラはきっと質問を始める。レオンはまた何かを間違えて、誰かに刺されるかもしれない。
それでも、昨日とは一つ違っていた。
ミラは食事の途中で、自分の椅子の背にそっと手を置いた。確かめるような手つきだった。
レオンはそれを見て、スープをすすった。
「明日、皿も探す」
ミラは顔を上げた。
「欠けていない方?」
「欠けていない方だ」
「毛布も?」
「毛布も」
「寝るところも?」
「それも」
「たくさんある」
「運命共同体だからな」
エリーズが聞いたらまた怒るだろう。ベルナールが聞いたら静かに刺すだろう。デュラン工場長なら、まず今日の書類を出せと言う。
それでもミラは、少し考えたあと、真面目に頷いた。
「じゃあ、協力する」
「まず何をする」
「明日の朝、警笛が怒っても、泣かないようにする」
「それは助かる」
「レオンさんは?」
「俺は、遅刻しないようにする」
ミラは少しだけ首を傾げた。
「それは、昨日までにできていることでは?」
「できてない日もあった」
「じゃあ、協力がいる」
「厳しい相棒だな」
ミラは椅子に座ったまま、足先を小さく揺らした。
その夜、レオンが床に外套を敷くと、ミラは寝台の上から二つ目の椅子を見た。何度も見る。まるで、朝になったら消えていないか確かめているようだった。
「明日も、ある?」
「ある」
「朝になっても?」
「一晩で逃げる椅子なら、俺が捕まえる」
「椅子は逃げない」
「じゃあ大丈夫だ」
ミラは毛布を引き上げた。
「おやすみなさい、レオンさん」
「おやすみ、ミラ」
部屋の外では、共同廊下を誰かが歩いている。中庭の方でトトが一度だけ吠え、すぐに静かになった。遠くの工場からは、夜番の機械の低い音が届いている。
レオンは床に横になり、昨日より少し痛む背中を外套に押しつけた。
部屋には、寝台が一つ、机が一つ、そして椅子が二つあった。まだ足りないものばかりだったが、昨日よりは少しだけ、二人で暮らす部屋に見えた。
読んでくださり、ありがとうございます。全十話程度を予定しています。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




