第10話 動物園へ行く
日曜の朝は、工場の警笛が鳴らなかった。
ミラは、いつもの音が来ないことに先に気づいていた。寝台の上で毛布を胸元まで引き上げ、窓の外を見ている。煙突はある。空もある。朝も来ている。それなのに、部屋の窓を震わせる乱暴な音だけがなかった。
床の上では、レオンが古い外套にくるまっていた。背中を丸め、顔の半分を毛布に埋めている。日曜だから寝ていていいと体は思っているらしいが、床板の硬さまでは日曜になってくれない。
ミラは小さく言った。
「今日は、工場が怒ってない」
レオンは目を閉じたまま答えた。
「日曜だからな」
「朝は来てる?」
「来てる。工場が黙ってるだけだ」
ミラは窓の外から、机の方へ目を移した。二つ目の椅子は窓際にある。欠けていない皿も棚にある。幼年教室から帰ってきたあとも、夜の間も、どちらも逃げなかった。
「静かな朝、少し変」
「俺は好きだぞ。背中はまだ怒ってるけど」
レオンはようやく起き上がった。肩を回すと、骨か床板か分からない音がした。ミラは少し眉を寄せる。
「壊れた?」
「まだ使える」
「日曜でも?」
「日曜だから、できれば使いたくない」
レオンはそう言いながら、水差しを取って顔を洗った。日曜の朝は工場へ急がなくていい。顔を洗う水も、いつもより少しゆっくり使える。だが、爪の間の油汚れは、日曜だからといって消えてはくれなかった。
朝食は硬いパンと、前の晩のスープを薄めたものだった。ミラは自分の皿を手元へ寄せ、パンが置かれるのを待つ。皿の扱いは前より少し慣れたが、まだ指は慎重だった。
レオンはパンを二つに割りながら言った。
「今日は幼年教室も休みだ」
「先生も休む?」
「たぶんな」
「鳥は?」
「鳥?」
ミラはパンを両手で持ったまま、少しだけ顔を上げた。
「先生が、動物園には大きい鳥がいるって言ってた」
「鳥なら中庭にもいるだろ」
「中庭の鳥は、名前を聞く前に逃げる」
「動物園の鳥も、たぶん名前は答えないぞ」
「でも、逃げない」
レオンはパンを口へ運びかけて、少し止まった。
ミラは幼年教室でのことを言わなかった。何を言われたかも、木片を払ったことも、自分からはもう話していない。ただ、朝からいつもより少し静かで、皿や椅子を確かめる時間が少し長かった。
そのミラが、鳥の話をしている。
「動物園か」
「うん」
「休みの日は休む日だぞ」
ミラは真面目に考えた。
「動物も休む?」
「たぶん働いてる」
「じゃあ、見に行ける」
レオンは口の中でパンを噛みながら、天井を見た。
「俺の言葉が負けたな」
「負けたの?」
「かなり負けた」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
部屋を出る頃には、日曜のアパートもゆっくり動き始めていた。共同廊下には洗濯物が少なく、階段を下りても、平日のように工場へ急ぐ足音はない。中庭ではマノンが縄跳びを持ち、ルルは木の匙を持ったままトトの前にしゃがんでいた。トトは匙を覚える気がまったくなさそうな顔で、片目だけ開けている。
エリーズは洗濯場のそばにいた。籠を腕にかけ、レオンとミラを見つけるなり眉を上げる。
「今日はどこへ行くの」
「まだ決まってない」
ミラがレオンを見上げた。
「動物園」
「決まってるじゃない」
レオンは帽子の縁を直した。
「俺の中では、休む案もまだ残ってた」
エリーズはミラの顔を見た。幼年教室でのことを思い出したのだろう。すぐにはからかわず、少しだけ声をやわらげた。
「動物園、いいじゃない。日曜に床で寝直す十八歳より、役に立つわ」
「俺、動物園に負けたのか」
「今日は負けて」
洗濯場の女が水桶を置いて笑った。
「今度は何を拾いに行くんだい」
「拾わない。見るだけです」
「あんたが見るだけで済むといいけどね」
マノンが走ってきて、ミラの手元をのぞき込んだ。
「動物園行くの?」
「うん。大きい鳥がいるって」
「鳥だけじゃないよ。山羊もいるって聞いた。山羊は紙も食べるんだって」
ミラは少し驚いた顔でレオンを見た。
「紙も食べる?」
「俺の書類を食べられたら困るな」
エリーズがすかさず言った。
「山羊に食べられる前に、あんたがなくす方が早そうだけど」
「今日は書類を持ってない」
「持ってない日は強いわね」
ミラはそのやり取りを聞いて、幼年教室の帰り道より少しだけ表情を動かした。
市営公園の一角にある動物園は、レオンが思っていたより小さかった。
古い柵で囲まれた入口に、手書きの看板がかかっている。切符売り場の窓は少し歪み、横の板には入園料が書かれていた。中からは子どもの声と、鳥の鳴き声と、干し草の匂いが流れてくる。
レオンは財布の中を見た。硬貨は少ない。このところ皿や細かなものをそろえ、犬のパンのことで工場へ少し出したこともある。日曜だからといって、財布までは休んでくれなかった。
切符売りの女が言った。
「五歳は半額です」
レオンは自分の胸を指した。
「俺も中身はまだ半分くらい大人なんですけど」
「年齢でお願いします」
ミラが横から言った。
「レオンさんは、書類では大人です」
「ここでそれを出すな」
切符売りの女が笑いをこらえた顔で切符を渡した。レオンは少しだけ肩を落としながら硬貨を払った。
「書類では大人なのに、半額にならないんだね」
「世の中は厳しいな」
「役所より?」
「今日は役所の話はやめよう」
ミラは頷いた。いつもの丁寧な頷きだったが、表情は少しやわらかい。
中へ入ると、最初に山羊の柵があった。白と茶色の山羊が干し草を食べている。山羊は見られていることなど気にせず、口をもぐもぐ動かしていた。
ミラは柵の前に立ち、じっと見た。
「この子、椅子も食べそう」
「椅子は食べ物じゃない」
「ルルなら触る」
「ルル基準で動物を見るな」
「レオンさんの紙も食べる?」
「俺の紙を狙う山羊なら、役所より怖い」
山羊はその会話には関心を示さず、干し草を噛んでいた。
次に猿の檻へ行くと、小さな猿が枝を渡っていた。尻尾を揺らし、器用に手を使ってぶら下がる。ミラは目を丸くする。
「レオンさんより、手が上手」
「何の手だ」
「ぶら下がる手」
「俺は工場でぶら下がらない」
「床では寝てる」
「それは関係ない」
猿は枝の上から、二人を見下ろしていた。レオンが少し睨むと、猿はすぐに別の枝へ移った。
「逃げたか」
「勝った?」
「相手が猿だと、勝ってもあまり自慢にならないな」
ミラは猿が枝を渡るたび、少し顔を上げた。笑い声は出さないが、口元が何度もゆるむ。幼年教室の帰り道で黙っていた顔とは違っていた。
鳥小屋の前に着いた時、ミラの足は少し速くなった。
鳥小屋には、色のきれいな鳥が何羽かいた。戦争の前からいたのか、どこかから譲られたのか、羽の色はこの街では見慣れないほど鮮やかだった。青や緑の羽を持つ鳥が止まり木にいて、時々首を傾げる。別の鳥は、胸を張って歩き、まるで誰かに怒っているような顔をしていた。
ミラは柵に近づきすぎないところで止まった。
「この鳥、きれい。でも怒ってる顔」
「工場の警笛と仲良くなれそうだな」
「朝に鳴いたら、嫌」
「じゃあ日曜だけ鳴く鳥だ」
「日曜は静かな朝」
「鳥にも休日を守らせるのか」
「守ってほしい」
レオンは鳥の方を見た。鳥は守る気などなさそうに、羽をふくらませている。
「パンが見たら、どうする?」
「犬は動物園に入れない」
「パンも動物だよ」
「パンは工場所属の動物だ」
「レオンさんも工場」
「俺を動物園に入れるな」
ミラは少し笑った。今度は声が少しだけ出た。小さな笑いだったが、レオンにはよく聞こえた。
鳥小屋の横には看板があった。手書きの文字で、鳥の名前と世話の注意が書いてある。ミラはそれを見上げた。
「これは何て書いてある?」
「鳥小屋」
「鳥の名前?」
「いや、鳥がいる場所の名前だ」
「字は、場所も名前も書けるんだ」
「まあな」
「名前も?」
「名前も書ける」
ミラは看板をしばらく見ていた。読めない文字が並んでいるだけのはずなのに、自分の知らないものがそこにあると分かっている顔だった。けれど、それ以上は聞かなかった。視線はまた、止まり木の上の鳥へ戻る。
鳥小屋の前には、親子連れがいた。
父親らしい男が、小さな男の子を肩に乗せている。男の子は高いところから鳥を見て、何かを指差して笑った。少し離れたところでは、母親が女の子の手を引いている。子どもは鳥よりも母親の袖を引っ張ることに忙しそうだった。
ミラは鳥を見ていたはずなのに、いつの間にかその親子連れを見ていた。
レオンは最初、それに気づかなかった。鳥が羽を広げたので、そちらを見ていたのだ。けれど、隣のミラが静かになっていることに気づき、視線の先を追った。
ミラは何も言わない。
親子連れから目をそらさないのに、ミラは何も聞かなかった。
少しして、ミラが聞いた。
「肩に乗ると、遠くが見える?」
「見えるだろうな」
「重くない?」
「子どもなら重くないんじゃないか」
「レオンさんは、重い?」
「俺を誰が肩に乗せるんだ」
ミラはレオンを見上げた。真面目な顔だったので、レオンは少し困った。
肩車は、できなくはないかもしれない。だが、いきなりそれをするには、何かが早すぎる気がした。自分も、ミラも、たぶんその形に慣れていない。
ちょうど鳥小屋の奥で、大きな鳥が高い止まり木へ移った。ミラの背では、柵越しに少し見えにくい。
レオンは帽子を取り、片手で持った。
「ちょっと持ち上げるか」
ミラの肩がわずかに固くなった。
「落ちませんか」
「落とさない」
レオンはミラを抱き上げようとしたが、最初の持ち方が悪かった。荷物のように脇を支えかけて、ミラの体が少し縮こまる。
「痛いか」
「少し、変です」
「変か。じゃあ、こっちか」
レオンは慌てずに持ち直した。片腕で背中を支え、もう片方の腕を膝の下へ回す。工場の重い部品とはまったく違う。軽いのに、どこを持てばいいのか分からない。軽いからこそ、雑にしてはいけない気がした。
ミラはレオンの肩に片手を置いた。
「落ちませんか」
「落とさない。部品より慎重に持つ」
「わたしは部品ですか」
「違う。だから部品より慎重にする」
ミラは少し考えたあと、鳥の方を見た。
高い位置から見る鳥小屋は、さっきと違って見えたらしい。奥の止まり木、羽の色、床に落ちた餌、端に置かれた水皿までよく見える。ミラはいつもより少し長く黙っていた。親子連れの方はもう見ていない。けれど、レオンの肩に置いた手は、すぐには離れなかった。
「見えるか」
「見える」
「遠くまで?」
「鳥の足まで」
「そこまで見たいのか」
「足も鳥」
「まあ、そうだな」
ミラは少しだけ笑った。
動物園を出る頃には、ミラの歩く速さが落ちていた。
本人は疲れたとは言わない。だが、鳥小屋の前であれだけ動いていた目が、今は少し眠そうになっている。山羊の柵を通り過ぎる時も、もう一度見るかと聞く前に、ミラの足は出口の方へ向いていた。
それでも、門を出る前に一度だけ振り返った。
「もう一回、鳥を見る?」
「今日は見た」
「明日もある?」
「動物園は逃げない」
「椅子と同じ?」
「椅子より逃げないと思う」
「山羊は逃げそう」
「山羊はな」
レオンは切符売り場の横を通りながら、軽い調子で言った。
「また来ればいい」
ミラはすぐに顔を上げた。
「また?」
「次の休みに。金が残ってたら」
「金がなかったら?」
「外から鳥の声だけ聞く」
「それは動物園?」
「かなり安い動物園だ」
「中に入りたい」
「じゃあ、金を残す」
レオンは財布を軽く叩いた。中身は心もとないが、次の休みまでに何とかなる気がした。何とかなる、という言葉はベルナールの前では危ない。だが、日曜の帰り道なら、少しだけ使ってもいいような気がした。
帰り道の途中で、ミラの足がさらに遅くなった。
石畳の道を歩きながら、何度か目を伏せる。転びはしないが、明らかに眠い。レオンは歩幅をさらに落とした。
「歩けるか」
「歩けます」
「今、歩きながら目を閉じてたぞ」
「見ていました」
「まぶたの裏を?」
ミラは返事をしなかった。
レオンは少し迷った。手を引くか、抱くか、歩かせるか。子どもは疲れたらどうするものなのか、まだ正しく知らない。けれど、眠そうな五歳を日曜の夕方の道に立たせ続けるのは違う気がした。
レオンは道端でしゃがんだ。
「乗れ」
ミラは眠そうな目で首を傾げた。
「どこに?」
「背中。荷物じゃないから、鞄みたいには持たない」
「鞄は、自分の荷物です」
「今日は俺が持つ。お前ごと」
ミラは少しだけ迷った。知らない形だったのかもしれない。それでも、レオンの肩に手を置き、ゆっくり背中へ乗った。
「落としませんか」
「落とさない。落としたら、エリーズに俺が戻される」
「戻されるんですか」
「たぶん工場にも置いてもらえない」
ミラは小さく笑った。笑ったあと、レオンの背中に頬を近づける。眠いせいか、声は少し低くなっていた。
「油の匂い」
「日曜なのに残ってるのか」
「少し」
「動物園の匂いはしないか」
「鳥は、少しする」
「俺が鳥の匂いになったら困るな」
ミラは返事をしなかった。眠ったのかと思った時、小さな声が背中から聞こえた。
「動物園、またありますか」
「ある」
「わたしも、また行きますか」
「行く」
ミラは少し黙った。
道の向こうから、馬車の車輪の音が近づいて、ゆっくり遠ざかった。レオンは歩幅を揺らしすぎないように気をつけながら進む。
「この前みたいに言われても?」
声は小さかった。
幼年教室で何と言われたか。レオンは知っている。先生から聞いたし、帰り道でミラが少しだけ話した。言葉は戻らない、とも言った。
レオンは足を止めなかった。止めると、言葉が大げさになりそうだった。
「ミラが行く」
背中の上で、ミラが息を止めたように静かになった。
「名前で?」
「ミラで」
それ以上、ミラは何も聞かなかった。
背中の重みは、鞄よりずっと軽い。けれど、鞄みたいに片手で直すわけにはいかなかった。ずり落ちないように腕を回し、眠りかけたミラの息が肩に当たるたび、レオンは歩幅を少し小さくした。
公営労働者アパートの中庭へ戻る頃には、夕方の色が濃くなっていた。洗濯物が共同廊下で揺れ、どこかの部屋から煮込みの匂いが流れている。マノンが縄跳びを手に駆け寄ってきたが、レオンの背中のミラを見ると、途中で少し声を落とした。
「寝てる?」
「半分な」
洗濯場の女がこちらを見て笑った。
「おや、今度は何を拾ってきたんだい」
「拾ってない。動物園帰りのミラです」
「じゃあ、今日はあんたが運んでるんだね」
「連れて帰ってるだけです」
「少しは保護者らしくなったじゃないか」
レオンは返事に困った。
エリーズが廊下から下りてきた。ミラの顔を見て、すぐに声をやわらげる。
「疲れたのね」
「鳥をかなり見た」
「鳥だけでそこまで疲れないでしょ」
「山羊と猿もいた」
「そういう意味じゃないわ」
エリーズはレオンの背中を見て、少しだけ笑った。
「背中を貸すところまでは覚えたのね」
「次は何だ」
「寝かせるところまで」
「それはできる」
「床に落とさなければね」
「落とさない」
レオンは階段を上がった。ミラを背負っていると、いつもの階段が少し狭い。片手で手すりをつかみ、もう片方でミラの足を支える。共同廊下の床板が軋むたびに、背中のミラが少し動いたが、目は開けなかった。
部屋に入ると、夕方の光が窓から細く差していた。
部屋には、二つ目の椅子と、欠けていない皿と、黒い鍋があった。床には、レオンが夜に敷く古い外套が丸めて置いてある。
動物園で見た大きな鳥も、山羊も、猿も、この部屋にはいない。入口の看板も、切符売り場も、高い柵もない。
それでも、レオンの背中にいたミラは、動物園の匂いが少しすると言った。
レオンはミラを寝台に下ろした。
ミラは毛布に触れたところで、うっすら目を開けた。
「また、行きますか」
「行く」
ミラは眠気の中で、少しだけ眉を動かした。
「……ミラで?」
「ミラで」
それを聞くと、ミラはもう何も聞かなかった。
レオンは毛布をかけ直した。襟を直すのは相変わらず下手だが、毛布なら少しはましになってきた。ミラの手が毛布の上に出ていたので、そっと中へ入れる。指先に傷はない。皿を鳴らした日から、レオンは時々そこを見るようになっていた。
窓の外では、工場の煙突が夕方の空に黒く立っている。
今日は、最後まで警笛が鳴らなかった。
レオンは裸電球を消す前に、寝台の方をもう一度見た。ミラは眠っている。たぶん、動物園の鳥も、山羊も、猿も、もう見ていない。
それでも、眠る前に「また」と言った。
レオンはその言葉を覚えておくことにした。
また、という言葉は、次の約束だった。今日見た鳥や山羊よりも、レオンにはその小さな約束の方が少し重く感じられた。




