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拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第一章 名前のある部屋
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第11話 名前の字

挿絵(By みてみん)

動物園へ行った翌日、幼年教室の帰り道で、ミラは鞄を両手で持っていた。


昨日の夜は、寝る前までずっと動物の話をしていた。首の長い動物は寝る時に困らないのか。しましまの動物は、誰があの線を描いたのか。大きな猫は、檻の中でも自分のことを猫だと思っているのか。


レオンが返事に困るたび、ミラは真面目な顔で次の質問を出してきた。


けれど今日は、あまりしゃべらない。


鞄の口を何度も確かめ、歩くたびに中身が動いていないか気にしている。中に皿が入っているわけでも、犬のパンが丸まっているわけでもないはずなのに、大事そうに胸の前へ寄せていた。


レオンは隣を歩きながら、横目でそれを見た。


「今日は重いのか」


「重くない」


「じゃあ、何が入ってるんだ」


「紙」


「紙なら軽いだろ」


「なくしたら、もっと軽くなる」


「それは軽くなっても喜べないやつだな」


ミラは鞄の取っ手を持ち直した。


幼年教室の先生は、帰り際にレオンへ紙を一枚見せていた。


「宿題です。今日は、自分の名前を書く練習をします。家の人に見てもらってください」


家の人。


レオンはそれが自分のことだと気づくまでに一拍遅れた。気づいた後は、分かった顔をしようとして、たぶん余計にぎこちなくなった。先生はそれを見逃さず、「なくさないように」とだけ付け足した。


だから今、緊張しているのは、鞄を抱えているミラだけではなかった。


通りには夕方の匂いが流れている。パン屋の前には焼けた匂いが残り、石畳の上を馬車の車輪がゆっくりこすっていく。工場帰りの男たちの声が向こうの通りから聞こえ、煙突の煙は夕方の空に薄く伸びていた。


レオンは少し考えてから言った。


「宿題ってやつは、そんなに怖いのか」


ミラはすぐには答えなかった。


「怖いものなの?」


「俺はあまり得意じゃなかった」


「やったことある?」


「子どもの頃にな」


「レオンさんも、子どもだったの?」


「そこを疑うな。俺にも小さい時代はあった」


ミラはレオンを見上げた。


「今より小さかった?」


「今より大きい子どもだったら怖いだろ」


ミラは少しだけ口元をゆるめたが、すぐにまた鞄へ視線を落とした。


公営労働者アパートの中庭へ入ると、マノンが縄跳びを持って駆け寄ってきた。ルルは木の匙を握ったまま、その後ろを追っている。トトは中庭の端で寝そべり、片目だけ開けてこちらを見た。


「ミラ、今日遊べる?」


マノンが聞く。


ミラは鞄を少し抱え直した。


「宿題がある」


「宿題?」


マノンは興味津々で鞄をのぞこうとしたが、途中で止まった。ミラが大事そうに持っているのを見て、手を伸ばさなかった。


「何の宿題?」


「名前」


「名前を忘れたの?」


「忘れてない」


「じゃあ、何するの?」


「書く」


マノンは目を丸くした。


「自分の名前?」


「うん」


「すごい。私も書けるよ。ちょっと曲がるけど」


レオンは横で言った。


「曲がる字は多いんだな。安心した」


マノンが胸を張る。


「私のは、元気に曲がるの」


「うちの宿題も元気に曲がるかもしれない」


ミラはその言い方に少しだけ目を動かしたが、鞄の取っ手から手は離さなかった。


エリーズが部屋の前から出てきた。籠を腕にかけ、レオンとミラを順番に見る。


「今日は早かったじゃない」


「工場長に怒鳴られる前に出た」


「怒鳴られなかったの?」


「怒鳴られる気配はあった」


「気配で帰ってきたのね」


「危険を察知した」


エリーズは呆れたように息を吐き、ミラへ顔を向けた。


「宿題が出たの?」


ミラは丁寧に頷いた。


「はい。家の人に見てもらってください、って言われました」


エリーズの視線がレオンへ向いた。


「聞いた?」


「聞いた」


「ちゃんと見なさいよ」


「見る。字くらい俺にも分かる」


「字くらい、って言ったわね」


レオンは少しだけ身構えた。


「言いました」


「そういう時のあんたは、だいたい一つ踏むのよ」


「今日は紙だけ踏まないようにする」


「紙以外も踏まないで」


ミラはそのやり取りを聞きながら、鞄を胸元に寄せた。笑ったわけではないが、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


部屋に戻ると、夕方の光が窓から斜めに差していた。


狭い部屋には、寝台が一つ、小さな机が一つ、二つの椅子がある。黒い鍋は簡易台所の上で、相変わらず黒い顔をしていた。棚には、欠けた皿と、縁に薄い青い線の入ったミラの皿が並んでいる。


ミラはまず椅子を見た。次に皿を見た。それから鞄を机の上に置いた。


レオンは帽子を脱ぎ、壁の釘に引っかけた。


「先に飯にするか」


ミラは鞄を見たまま言った。


「宿題、あとでもある?」


「紙が逃げなければある」


「椅子より速い?」


「風が吹いたら椅子より速い」


ミラは少し考え、窓を見た。今日は閉まっている。


「大丈夫」


「じゃあ、飯の前に見るか」


レオンが言うと、ミラはようやく鞄の留め具を外した。


中から紙を一枚出す。折り目がつかないように、両手でゆっくり机の上へ置いた。薄い線が引かれた紙だった。上の方に、先生の字で「なまえ」と書いてある。その下に、見本として「ミラ」と整った字が書かれていた。


レオンは机の横に立ち、腕を組みかけてやめた。腕を組むと何か分かっている人間に見える気がしたが、今はそこまでの自信がない。


「名前か。ミラなら短いし、すぐ書けるだろ」


ミラはレオンを見た。


「短いと、簡単?」


「長い名前よりは、たぶん楽だ」


「たぶん」


「字の話なら、たぶんでも許される」


ミラは納得しきれない時の丁寧な頷きをした。レオンはそれを見て、少しだけ苦い顔をした。


「今の頷き、分かってない時のやつだな」


「短い名前が楽かどうか、まだ分からない」


「俺も言ってから自信がなくなった」


ミラは紙の前に座った。二つ目の椅子は、まだ少し脚が頼りない。けれど、ミラが座ると倒れずに受け止めた。レオンはインク瓶とペンを机に置いた。


「ペンは使ったことあるか」


「ある」


「じゃあ大丈夫だな」


「大丈夫かどうかは、書いてから」


「先生みたいなことを言うな」


ミラはペンを持った。


小さな手には、ペンが少し長く見える。指の位置を直し、紙の上で一度止まった。それから、一文字目を書き始める。


線は思ったよりも震えた。


ミラは息を止めるようにして、ペン先を動かす。見本の字はなめらかに曲がっているのに、ミラの線は途中で少し揺れ、最後で止まりすぎてインクが濃くなった。


次の字は、横へ少し倒れた。


最後の字は、途中でペン先が引っかかり、形がつぶれた。


ミラはしばらく、その三文字を見ていた。


レオンはすぐに何か言おうとして、やめた。褒めればいいのか、直せばいいのか、分からなかった。勢いで「うまい」と言うには、ミラの顔が真面目すぎた。


ミラは紙の端を持ち、裏返そうとした。


「終わりか?」


レオンが聞くと、ミラの手が止まった。


「違う」


「じゃあ、なぜ隠す」


「曲がった」


「俺の字も曲がる」


「レオンさんは大人」


「大人の字にも曲がる日がある」


「毎日?」


「そこは聞かなくていい」


ミラは紙をまだ裏返しそうにしている。レオンは椅子を引き寄せ、自分も机の横に座った。部屋が狭いので、膝が机の脚に当たった。


「見せろ。どこが曲がった」


ミラは紙を少しだけこちらへ寄せた。


「ここ」


「ここは……まあ、曲がってるな」


ミラの眉が少し下がった。


レオンは慌てて続けた。


「いや、曲がってるけど、読める。ミラって書いてある」


「先生の字と違う」


「先生の字と同じだったら、先生が二人になる」


「先生は二人いても困らない」


「俺は一人でも少し怖い」


ミラは先生の見本と自分の字を見比べた。


「きれいじゃない」


「一回目で先生に勝とうとするな」


「勝つの?」


「今のは言い方を間違えた。名前は勝ち負けじゃない」


レオンは頭をかき、ペンを取った。


「俺が書いてみる」


「レオンさんが?」


「手本にはならないかもしれないが、倒れても名前だって分かる」


レオンは紙の余白に、自分の名前を書いた。


レオン。


字は大きく、少し硬い。工場で部品の番号を急いで書く癖が残っていて、線に丸みがない。最後の字は、机の節に引っかかって少し傾いた。


ミラはそれをじっと見た。


「レオンさんの名前も、少し倒れてる」


「倒れても読める」


「倒れても、名前?」


「そうだ。倒れても、俺だ」


言ってから、レオンは少し黙った。


机の上の紙に書かれた自分の名前を見る。曲がった字。工場向きだと言い訳したくなる字。それでも、そこに自分の名前がある。


レオンは、自分の名前が載っていた別の紙を思い出した。


あの紙は、工場も、アパートも、この街も、自分から遠ざける顔をしていた。


ミラが、レオンの顔を見ていた。


「どうしたの」


「俺の名前は、前に嫌な紙にあった」


「嫌な紙?」


「俺をここから出そうとする紙だ」


ミラの手が、ペンを持ったまま少し止まった。


「名前があると、出される?」


レオンはすぐには答えなかった。


軽く言えばいい話ではない。けれど、重くしすぎると、ミラはまた聞き分けのいい顔をする。レオンは机の上の紙を見て、それからミラを見た。


「そういう紙もある。でも、全部じゃない」


ミラは、自分の宿題の紙へ目を落とした。


「この紙は?」


レオンは、先生の見本の下にある薄い線を指で押さえた。


「これは、役所に渡すやつじゃない」


「先生に渡す」


「それは明日だ。今は、お前が見るやつだ」


「わたしが?」


「そうだ。ミラって書いてあるって、お前が先に分かる紙だ」


ミラは黙った。


窓の外から、中庭の声が聞こえる。マノンがルルに何か言い、トトが短く吠えた。遠くでは工場の音がまだ少し残っている。夕方の部屋の中で、インクの匂いが小さく漂っていた。


ミラは、裏返しかけていた紙を表に戻した。


「もう一回、書く」


レオンは大げさに頷きそうになって、やめた。大げさにすると、ミラが良い子の顔に戻りそうだった。


「よし。俺の工場向きの字でよければ、横にいる」


「先生の字の方がいい」


「正しい判断だな」


「でも、レオンさんも見て」


「見る」


ミラは新しい行にペンを置いた。


一文字目は、まだ少し震えた。けれど、さっきより線が短く止まらない。二文字目は少し傾いたが、途中で投げ出さなかった。最後の字は、見本より小さく、少しつぶれた。


ミラはペンを置いた。


紙の上に、ミラ、とあった。


きれいではない。先生の字とは違う。線もそろっていない。けれど、読める。


レオンは机に肘をつきかけ、インク瓶に当たりそうになって慌てて手を引いた。


「危ない」


ミラが言った。


「今のは見なかったことにしろ」


「見た」


「宿題を見てくれ」


ミラは自分の字を見た。


「読める?」


「読める」


「曲がってる」


「ミラって書いてある」


「きれいじゃない」


「きれいかどうかは、二枚目から考えよう」


「一枚目は?」


「一枚目は、ミラって読めれば今日は勝ちだ」


ミラは少しだけ考えた。


「勝ちでいい?」


「今日は勝ちでいい」


ミラは紙を持ち上げようとして、レオンに止められた。


「まだ触るな。インクが乾いてない」


ミラの手が空中で止まった。


「乾くと、強くなる?」


「少しな。乾く前に触ると、名前が伸びる」


「名前が伸びるの?」


「俺の字なら伸びても大差ないけど、お前のはまだ大事にしとけ」


ミラは手を引っ込めた。


二人はしばらく、紙を見ていた。


レオンは、自分が何かを一つ渡したような気がした。椅子や皿のような物ではない。パンの居場所でもない。迎えに行く約束でもない。字の形を少し教えただけだ。


けれど、ミラはその紙を、朝に椅子を確かめる時と同じような目で見ていた。欠けていない皿を確かめた時と同じように、何度も見ていた。


レオンは言葉にするとまた間違えそうだったので、インク瓶の蓋を閉めた。


「乾いたら、どこに置く」


「しまう?」


「しまってもいいし、出しておいてもいい」


「出しておいたら、なくならない?」


「風が吹かなければな」


「風が吹いたら?」


「俺が捕まえる」


「紙にも足がある?」


「椅子より速いかもしれない」


ミラはほんの少し笑った。声は出なかったが、口元がゆるんだ。


夕飯の支度をする間、紙は机の端に置かれた。


黒い鍋で豆のスープを温め、パンを切る。ミラは何度も紙の方を見た。レオンが鍋をかき混ぜるたびに、紙が無事か確かめる。窓は閉まっているし、風もない。紙は逃げない。


「そんなに見なくても、あるぞ」


レオンが言うと、ミラは少しだけ頷いた。


「ある」


「皿もある。椅子もある。紙もある。今日は部屋が少し賑やかだな」


「鍋もある」


「鍋は前からある」


「黒い」


「そこも前からだ」


ミラは紙を見てから、黒い鍋を見た。


「紙は、黒くしないで」


「俺を何だと思ってる」


「鍋を黒くする人」


「鍋の件は長い付き合いの結果だ」


「紙とは、今日から」


「じゃあ、最初から大事にする」


「あとからは?」


「あとからも大事にする。今のは言い方を間違えた」


ミラは丁寧に頷いた。今度は少し納得している頷きだった。


夕飯を食べ終える頃には、インクは乾いていた。


ミラは皿を片づける前に、紙の端をそっと触った。指にインクはつかない。そこでようやく紙を持ち上げた。


「乾いた」


「強くなったな」


「少し?」


「少し」


ミラは部屋を見回した。寝台、机、椅子、皿、黒い鍋、窓。どこに置くか考えている顔だった。


レオンは木箱に腰かけたまま見ていた。


壁に貼るには、少し大げさかもしれない。棚にしまうと見えない。鞄に入れると、明日の宿題としては正しいが、今はまだ見ていたいのだろう。


ミラは結局、自分の椅子の横、机の端に紙を置いた。皿の近くではないが、手を伸ばせば見える場所だった。


「そこに置くのか」


「うん」


「宿題だぞ」


「明日、持っていく」


「なくすなよ」


「なくしたら、また書く」


レオンは少しだけ目を丸くした。


「お、強いな」


ミラは紙を見たまま言った。


「レオンさんが、また教える?」


「俺の字でよければな」


「少し倒れてる」


「そこは先生に似ろ」


ミラは小さく頷いた。


外では、共同廊下を誰かが歩く音がした。中庭からマノンの声が聞こえ、ルルが何かを落としたらしい音が続いた。トトが短く吠え、それに誰かが笑った。


部屋の中には、二つの椅子と、二枚の皿と、名前の書かれた紙があった。


まだ毛布は足りない。レオンは今夜も床で寝る。役所の再確認も残っているし、幼年教室も明日またある。レオンが保護者として立派になったわけではない。たぶん、明日の朝も何かを忘れそうになる。


それでも、机の端に置かれた紙には、ミラの字でミラと書いてあった。


ミラはその紙を見て、小さく言った。


「ミラって、ある」


レオンも紙を見た。


曲がった字。小さな字。けれど、ちゃんと読める。


「あるな」


自分で書いた名前は、誰かに呼ばれる名前とは少し違って見えた。逃げないように押さえつけた字ではなく、ここにいると小さく置いた字だった。


ミラはそれ以上、何も言わなかった。


ただ、自分の椅子に座ったまま、もう一度だけ紙を見た。そこに書かれた名前が逃げないことを確かめるように、しばらく目を離さなかった。


読んでくださり、ありがとうございます。

全十話程度を予定していましたが、続きを描くことにしました。

全三十話程度の構成を考えております。現在書いている部分は第1章として一区切りにしたいと思います。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。

挿絵(By みてみん)


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