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拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第二章 家の人になる日々
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12/17

第12話 釣れなかった魚

挿絵(By みてみん)

日曜の朝、工場の警笛は鳴らなかった。


レオンは床の上で目を開け、しばらく天井を見ていた。古い外套を敷いた背中は相変わらず文句を言っているが、窓を震わせる乱暴な音がないだけで、部屋の空気は少し違っていた。


寝台の上では、ミラがもう起きている。


毛布を胸のところまで引き上げ、窓の外を見ていた。工場の煙突は遠くに見える。白い煙は、夜の炉に残った息のように細く、朝の空へほどけていた。今日は機械の音も、門へ急ぐ男たちの足音もない。


「今日は、怒ってない」


「日曜だからな」


レオンは体を起こしながら、首を回した。変な音がして、ミラがこちらを見る。


「壊れた?」


「まだ使える」


「日曜でも?」


「日曜だから、できれば使いたくない」


レオンは水差しを取って、桶へ水を移した。顔を洗う水は冷たい。爪の間の油汚れは、日曜だからといって消えてはくれなかった。


朝食は、硬いパンと薄い豆のスープだった。


ミラは自分の皿を手元へ寄せ、パンが置かれるのを待った。皿の扱いは前より少し慣れたが、まだ乱暴には置かない。椅子も皿も、朝になるたびにそこにあることを確かめる癖は残っている。


レオンがパンを二つに割ると、ミラが言った。


「先生が、海の話をしてた」


「海?」


「水がたくさんあって、向こうが光るって」


「向こうが光るのは、天気がいい時だな」


「見てみたい」


レオンはパンを口へ運びかけて、少し考えた。


日曜。工場は休み。幼年教室も休み。ミラは海を見たいと言っている。海へ行けば、水がある。水があるなら、魚がいる。


魚がいれば、夕飯になる。


「よし。行くか」


ミラの顔が少し上がった。


「海へ?」


「ああ。魚がいれば夕飯になる」


ミラは真面目に首を傾げた。


「海は、夕飯なの?」


「夕飯が泳いでる場所だ」


「先生は、そう言ってませんでした」


「先生は魚に厳しくないんだろ」


ミラはパンを両手で持ったまま、少し考えた。納得しきれない時ほど丁寧に頷く癖が出かけたので、レオンは自分の説明があまり役に立っていないことだけ分かった。


食事を終えると、レオンは棚の奥を探した。


古い釣り糸。曲がった針。硬くなったパンの欠片。昔、工員仲間に誘われて一度だけ使った道具だった。魚が釣れた記憶はないが、道具があるなら釣れる可能性もある。可能性だけなら、だいたいどこにでもある。


ミラはそれを見ていた。


「それで、海を見るの?」


「海を見る。ついでに魚も見る。できれば捕まえる」


「捕まった魚は、困る?」


「困るだろうな」


「でも、夕飯?」


「世の中、そういう時もある」


ミラはまた丁寧に頷きかけた。


「今のは分かってない頷きだな」


「魚の気持ちは、まだ分からない」


「俺も分からないから大丈夫だ」


「大丈夫?」


「たぶん」


「たぶん」


レオンは釣り糸を丸め直した。


「海に着く前から、魚に負けてる気がする」


「まだ魚はいない」


「いない相手に負けるのは、かなり悪いな」


ミラはほんの少し口元をゆるめた。


公営労働者アパートの中庭は、日曜らしくゆっくり動いていた。


平日のように男たちが工場へ急ぐ足音はない。洗濯場ではテレーズが水桶を置き、共同廊下には少なめの洗濯物が干されている。マノンは縄跳びを持って中庭を横切り、ルルは木の匙を握ったままトトの前にしゃがんでいた。トトは匙に興味がない顔で、尻尾だけを動かしている。


テレーズがレオンの手元を見た。


「今度は何を持ってるんだい」


「釣り糸です」


「魚でも拾いに行くのかい」


「拾わない。釣ります」


「あんたがそう言うと、魚の方が用心しそうだね」


マノンが走ってきた。


「ミラ、どこ行くの?」


「海を見に行く」


「海! いいなあ」


「魚も見るって」


マノンはレオンの釣り糸を見て、少し顔をしかめた。


「海なのに?」


「海だからだ」


「それ、レオンの海だね」


テレーズが笑った。


「ミラ、海は楽しいよ。あいつが魚ばっかり見てたら、足だけでも水につけておいで」


ミラは丁寧に頷いた。


「はい」


レオンは中庭を出ながら、帽子の縁を直した。


「俺も海を見るぞ」


「魚越しにね」


テレーズの声に、住民たちが小さく笑った。


町外れの海辺までは、歩いて少しかかった。


石畳の通りを抜け、古い倉庫の並ぶ道を過ぎると、風の匂いが変わった。油と煙の匂いが薄くなり、湿った塩の匂いが混じる。ミラは途中から少し口数が減った。疲れたのかと思ってレオンが歩幅を落とすと、ミラは首を横に振った。


「遠いか」


「遠いけど、見えてきた」


そう言って、先の方を見る。


建物の間が開けると、光が広がった。


海は、町の灰色の壁や工場の煙突とは違う色をしていた。水面に朝の光が散り、波が低く寄せては引いている。浅瀬では何人かの子どもが裸足で水に入り、貝殻を拾ったり、波に向かって小さく声を上げたりしていた。少し離れた岩場には、釣り糸を垂らしている男たちがいる。


ミラは足を止めた。


「水が、動いてる」


「川も動くだろ」


「川より、たくさん」


「たくさん動いてるな」


「向こうまで行くの?」


「俺たちが行ったら、たぶん帰れない」


ミラはまじめに頷いた。


「帰れないのは困る」


「今日は見るだけだ。あと、少し釣る」


「少し?」


「たくさん釣れたら持てない」


「たくさん釣れる予定?」


「予定だけなら自由だ」


ミラは海を見ていた。波が足元の砂を濡らし、また戻っていく。そのたびに小さな貝殻が転がり、光が少しずつ場所を変える。


レオンは水路の出口に近い岩場を選んだ。足場はそれほど悪くないが、浅瀬よりは少し深い。魚がいそうに見える。少なくとも、レオンにはそう見えた。


釣り糸を準備し、硬いパンの欠片を針につける。


ミラはその横で、拾った小さな貝殻を手のひらに乗せていた。


「魚は、来る?」


「来る。たぶん」


「魚も、お休み?」


「魚に休みがあるなら、俺より待遇がいい」


ミラは貝殻を見た。


「魚も、大変」


「釣る前に同情するな。手元が鈍る」


レオンは糸を垂らした。


海は静かに動いている。糸の先は揺れたが、それが魚なのか波なのか、レオンにはよく分からなかった。ミラはしばらく隣に立っていたが、やがて少し離れた浅瀬の方を見た。


子どもたちが笑っている。


裸足で水に入り、服の裾を少し濡らしながら、逃げる波を追いかけていた。ミラはそれを見て、また手元の貝殻を見た。


「水は、入っても怒りませんか」


「水は怒らないだろ」


「服は?」


「服は……濡れたらエリーズが怒るかもしれない」


「靴も?」


「靴は乾くのに時間がかかる」


「じゃあ、見ます」


ミラはそう言って、浅瀬から少し離れた砂の上にしゃがんだ。水に入りたいとは言わなかった。ただ、波が来るたびに目で追っている。


レオンは釣り糸を見た。


何も来ない。


魚より先に、声が来た。


「……あんた、何してるの」


振り返ると、エリーズが立っていた。腕には小さな籠を下げ、後ろにマノンがいる。マノンはもう裸足になる気満々で、靴を脱ぎかけていた。


レオンは釣り糸を少し上げた。


「見れば分かるだろ。釣りだ」


エリーズはミラを見て、海を見て、釣り糸を見た。


「ミラを海に連れてきて、釣り?」


「海に来たら魚がいる」


「子どももいるでしょ」


「いるな」


「そっちを遊ばせなさいよ」


「魚が釣れたら、ミラも食える」


エリーズは一度、目を閉じた。


「子どもを海に連れてきた理由が、夕飯なの?」


「理由は海を見ることだ。夕飯は、ついでだ」


「そのついでが釣り糸を持ってるじゃない」


レオンは手元の糸を見た。否定しにくい形で、釣り糸は風に揺れている。


「ミラを海に連れてきたのよね」


「連れてきた」


「魚を主役にしない」


「まだ一匹も出てきてない」


「出る前から負けてるのよ」


ミラはレオンの釣り糸を見た。


「魚は、主役ですか」


「今日は違うわ」


エリーズが即答した。


レオンは海の方を見た。


「出てきたら勝てるかもしれない」


「勝負にするな。脇役は静かにして」


「俺か、魚か」


「両方」


マノンがその場で片方の靴を脱ぎ、砂の上に置いた。


「ミラ、あっち行こう。足だけなら大丈夫だよ」


ミラはすぐには立たなかった。海へ行きたい顔はしている。けれど、レオンを見上げ、釣り糸を見て、もう一度レオンを見る。


勝手に離れていいのか、確かめる目だった。


レオンは少し遅れて、その意味に気づいた。


「行ってこい。魚が来たら呼ぶ」


エリーズがすぐに切った。


「どうせ釣れないわよ」


レオンは帽子の縁を押さえた。


「今日は海の予定だ。魚も脇役だから、登場する予定だ」


「魚を予定に入れない」


「夕飯には入れたい」


「欲を針につけるな」


ミラは二人のやり取りを聞いて、ほんの少し口元をゆるめた。それから靴を脱ぎ、マノンの隣へそっと並んだ。


マノンは水に足を入れてすぐ笑った。ミラは最初、砂の上で足をそろえたまま、水の手前で止まっていた。


エリーズはまだレオンのそばにいた。


「本当に釣れるの」


「予定では」


「予定を海に沈めないでよ」


「一匹だけでも」


「数を先に作るな」


「釣れなかったら、今日の夕飯はいつもの豆スープだ」


「それをミラの前で言わない」


「ミラはもう知ってる」


「知ってても言わないの」


エリーズはそう言って、浅瀬の方へ歩いていった。ミラの外套の裾が濡れない位置で止まり、マノンが跳ねすぎると一言だけ刺す。


「波と競争しない」


「してない!」


「してる足よ」


レオンは釣り糸を見た。


糸は動いていない。


魚は来ない。


それなのに、レオンは何度も浅瀬の方を見た。ミラが転ばないか。マノンが走りすぎないか。エリーズが近くにいるか。そんなものを確かめるたびに、釣り糸の先は少し揺れた。


隣の釣り人が言った。


「兄ちゃん、魚は糸の先だぞ」


「知ってます」


「じゃあ、そっちを見な」


「見ています」


「目が二つとも迷子だ」


レオンは言い返せず、釣り糸を少し引いた。


餌のパンだけが、波に削られて小さくなっていた。


浅瀬では、ミラが少し笑っていた。


大きな声ではない。けれど、マノンが水を跳ねさせた時、ミラの口元がはっきり動いた。エリーズはその近くで、二人の服の裾が濡れすぎないように見ている。


レオンはそれを見て、また糸の先を見た。


何も釣れていない。


それでも、さっきより少しだけ、釣れなくてもいい気がした。


その時、少し離れた水路の出口の方で、男の笑い声がした。


酒の匂いを含んだ声だった。


見ると、中年の男が水辺の石の上をふらついている。片手に空に近い瓶を持ち、もう片方の手で誰かに何かを言っている。周囲の大人たちは、また酔っぱらいが騒いでいる、という顔で少し距離を取っていた。


男は足元を見ていなかった。


濡れた石の上で靴底が滑る。


「あ」


誰かが声を上げた時には、男の体が横へ傾いていた。瓶が石に当たり、鈍い音を立てる。男は水路の段差のある方へ落ちた。


深い海ではない。


だが、そこは浅瀬よりも水が深く、石の段差がぬめっている。酔った男はすぐに立てず、手をばたつかせた。水を飲んだのか、むせるような音がした。


レオンは釣り糸を置いた。


置いたというより、手から離した。


「レオン!」


エリーズの声がした。


レオンは返事をする前に走っていた。靴のまま水へ入り、冷たさが膝まで来る。ぬめった石に足を取られかけたが、腕を伸ばして男の上着をつかんだ。


「おい、暴れるな。余計沈む」


男は何か言ったが、水と酒の匂いが混ざって、言葉になっていなかった。


「酒臭いし、重いな……!」


レオンは歯を食いしばり、男の腕を引いた。工場で台車を押す時と同じように、足を踏ん張る。けれど、水の中では力が逃げる。後ろから別の男が手を貸し、エリーズがミラとマノンを水辺から離した。


「もっとこっちへ!」


「引け、上着破れるぞ!」


「破れても本人よりましだろ!」


何人かの手が伸び、男はようやく石の上へ引きずり上げられた。


男は咳き込み、腹の水を吐き、しばらくして大きく息を吸った。命に別状はなさそうだった。周囲の大人たちが口々に文句を言い、男の知り合いらしい者が頭を下げている。


レオンは腰まで濡れたまま、石の上に座り込んだ。


息が切れていた。靴の中は水だらけで、上着からは海水と酒の匂いがする。


エリーズが駆け寄ってきた。


「怪我は?」


「たぶんない。でも靴は死んだ」


「靴はどうでもいい。縁起でもないこと言わないで」


「竿では釣れなかった。おっさんが釣れた」


「人を釣果に入れない」


レオンは濡れた袖から落ちる水を見た。


「魚より大物だ。礼は薄そうだけど」


「そこは黙って、助けた顔してなさいよ」


短く切られるたびに、周りの大人たちが少しずつ笑いをこぼした。助かった男の知り合いも、申し訳なさそうな顔のまま頭を下げる。


エリーズはまだ怒りたい顔をしていたが、怒る場所を失ったように、最後はレオンの濡れた髪を見た。


「寒くなるわよ」


「そこはもうなってる」


「先に言いなさい」


「言って温まるなら、いくらでも言う」


「無駄口で暖を取らない」


ミラは少し離れたところに立っていた。


マノンの横で、両手を胸の前で握っている。泣いてはいない。駆け寄っても来ない。ただ、レオンが濡れていることと、引き上げられた男が息をしていることを、順番に見ていた。


レオンはミラへ手を振ろうとして、袖から水が落ちるのに気づき、やめた。


「大丈夫だ」


ミラは小さく頷いた。


その頷きは丁寧だったが、施設で見せるようなきれいすぎる頷きではなかった。


結局、魚は一匹も釣れなかった。


釣り糸は岩の上で絡まり、パンの餌はほとんどなくなっていた。隣の釣り人が気の毒そうに糸をほどいてくれたが、魚の方は気の毒がってくれなかった。


帰り道、レオンは濡れた靴で歩いた。歩くたびに、水が音を立てる。


エリーズは呆れた顔で隣を歩いている。マノンはミラに、さっき水が足に来た時の話を何度もしていた。ミラは時々頷きながら、レオンの靴の音も気にしているようだった。


町へ戻る途中、小さな屋台が出ていた。紙包みのじゃがいもと、安い菓子を売っている。レオンは財布の中を見た。硬貨は少ない。魚が釣れれば夕飯になるはずだったが、釣れなかったので、夕飯は泳いで来なかった。


レオンは小さな菓子を一つだけ買った。


「魚はない」


ミラが言った。


「今日は魚の方が運がよかった」


「おじさんは、いました」


「いたな」


「レオンさんは、魚より先に見ました」


「魚は見つからなかったからな」


エリーズが横から言った。


「今の、少しだけ褒められてるのよ。逃がさないで」


「魚は逃がしたけどな」


「そこに戻るな」


ミラはそのやり取りを聞いて、菓子の紙包みを両手で持ち直した。


アパートの中庭へ戻ると、テレーズが洗濯場のそばで振り返った。


「魚は?」


「釣れなかった」


「じゃあ、なんでそんなに濡れてるんだい」


「魚じゃないのが一人」


エリーズがすぐに言った。


「数えるな」


テレーズは眉を上げた。


「また変なこと言ってるよ」


「本当に人を助けたの。酔っぱらいのおじさんが水路に落ちたのよ」


中庭が一瞬だけ静かになった。


二階の共同廊下からヴィクトルが顔を出す。片腕を手すりにかけ、レオンの濡れた姿を見て、小さく息を吐いた。


「魚より面倒なのを釣ったな」


「食えない脇役が出てきました」


テレーズが水桶を持ち上げた。


「おっさんは夕飯にはならないよ」


レオンは少し考えた。


「脇役でもなかったか」


「あんたの方が、よっぽど食えない脇役だよ」


テレーズがそう言うと、エリーズがこらえきれずに笑った。中庭にも、遅れて笑いが戻った。


ミラはその中で、レオンを見上げた。住民たちのからかいにも、レオンはいつものように全部は返さなかった。濡れて疲れているからかもしれない。けれど、助けた話を自分から大きく言わないのは、疲れているせいだけではないように見えた。


部屋に戻ると、レオンはまず靴を脱いだ。


中から水が出て、床に小さな海ができる。ミラはそれを見て、少し眉を寄せた。


「部屋にも海が来た」


「来なくていい海だな」


レオンは濡れた上着を脱ぎ、簡易台所のそばでしぼった。水が桶に落ちる音がする。ズボンの裾も濡れていて、歩くたびに床へ跡がついた。


ミラは机の上に菓子の紙包みを置いた。


「レオンさんは、魚は釣れない」


「今日はよく分かった」


「おじさんは、釣ったとは言わない」


「エリーズに怒られる」


「いないところでも?」


レオンは袖をしぼる手を止めた。


ミラは菓子の紙を見ていた。核心を言い切る前に、別のものへ視線を移す。いつものミラだった。


「……自分で言うと、変だからな」


「魚のことは言うのに?」


「魚は釣れてないから言える」


「釣れてないものは、言えるんですか」


「失敗はだいたい言いやすい」


ミラは少し考えた。


「助けたものは?」


レオンは返事に困った。


窓の外では、工場の煙突が夕方の空に黒く立っていた。日曜の工場は静かで、朝に見えた細い煙も、もうほどけている。


「……言う相手を選ぶ」


「選ぶ?」


「言ったら変になる相手と、言わないと伝わらない相手がいる」


ミラはすぐには頷かなかった。丁寧に分かった顔を作らないまま、紙包みを指で押さえている。


「わたしは、見ました」


「そうだな」


「魚は、見ませんでした」


「そこは何度も確認するな」


見たものは、紙には残らない。水路から引き上げた酔っぱらいの名前も、濡れた袖の重さも、海辺の風も、役所の記録にはたぶん載らない。それでも、ミラの中には残るのだと、レオンは少し照れくさく思った。


言ったところで、レオンはくしゃみをした。


部屋の中で、少し情けない音が響いた。ミラは菓子を見て、少し考える。


「半分にする?」


「お前のだろ」


「濡れたので」


「濡れたら菓子が出るなら、明日も海に行く男が出る」


「レオンさん?」


「俺を疑うのが早いな」


ミラは紙包みを開け、小さな菓子を両手で割った。少し悩んでから、大きい方を自分の手元へ置き、小さい方をレオンへ差し出す。


レオンはそれを見た。


「配分が正直だな」


「レオンさんは魚を釣ってない」


「人は引いたぞ」


「食べられない」


レオンは言い返せず、小さい菓子を受け取った。


ミラは自分の分を少しずつかじる。レオンも濡れた髪のまま、もらった菓子を口に入れた。甘さはほんの少しだったが、海水と酒の匂いが残った口には、十分すぎるくらいだった。


窓の外では、夕方の空がゆっくり暗くなっている。


魚は釣れなかった。


それでもミラは、机の向こうで菓子を大事そうに持ち、時々レオンの濡れた袖を見ていた。レオンはその視線に気づいたが、何も言わず、もう一度だけ小さくくしゃみをした。


読んでくださり、ありがとうございます。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。

挿絵(By みてみん)


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