第12話 釣れなかった魚
日曜の朝、工場の警笛は鳴らなかった。
レオンは床の上で目を開け、しばらく天井を見ていた。古い外套を敷いた背中は相変わらず文句を言っているが、窓を震わせる乱暴な音がないだけで、部屋の空気は少し違っていた。
寝台の上では、ミラがもう起きている。
毛布を胸のところまで引き上げ、窓の外を見ていた。工場の煙突は遠くに見える。白い煙は、夜の炉に残った息のように細く、朝の空へほどけていた。今日は機械の音も、門へ急ぐ男たちの足音もない。
「今日は、怒ってない」
「日曜だからな」
レオンは体を起こしながら、首を回した。変な音がして、ミラがこちらを見る。
「壊れた?」
「まだ使える」
「日曜でも?」
「日曜だから、できれば使いたくない」
レオンは水差しを取って、桶へ水を移した。顔を洗う水は冷たい。爪の間の油汚れは、日曜だからといって消えてはくれなかった。
朝食は、硬いパンと薄い豆のスープだった。
ミラは自分の皿を手元へ寄せ、パンが置かれるのを待った。皿の扱いは前より少し慣れたが、まだ乱暴には置かない。椅子も皿も、朝になるたびにそこにあることを確かめる癖は残っている。
レオンがパンを二つに割ると、ミラが言った。
「先生が、海の話をしてた」
「海?」
「水がたくさんあって、向こうが光るって」
「向こうが光るのは、天気がいい時だな」
「見てみたい」
レオンはパンを口へ運びかけて、少し考えた。
日曜。工場は休み。幼年教室も休み。ミラは海を見たいと言っている。海へ行けば、水がある。水があるなら、魚がいる。
魚がいれば、夕飯になる。
「よし。行くか」
ミラの顔が少し上がった。
「海へ?」
「ああ。魚がいれば夕飯になる」
ミラは真面目に首を傾げた。
「海は、夕飯なの?」
「夕飯が泳いでる場所だ」
「先生は、そう言ってませんでした」
「先生は魚に厳しくないんだろ」
ミラはパンを両手で持ったまま、少し考えた。納得しきれない時ほど丁寧に頷く癖が出かけたので、レオンは自分の説明があまり役に立っていないことだけ分かった。
食事を終えると、レオンは棚の奥を探した。
古い釣り糸。曲がった針。硬くなったパンの欠片。昔、工員仲間に誘われて一度だけ使った道具だった。魚が釣れた記憶はないが、道具があるなら釣れる可能性もある。可能性だけなら、だいたいどこにでもある。
ミラはそれを見ていた。
「それで、海を見るの?」
「海を見る。ついでに魚も見る。できれば捕まえる」
「捕まった魚は、困る?」
「困るだろうな」
「でも、夕飯?」
「世の中、そういう時もある」
ミラはまた丁寧に頷きかけた。
「今のは分かってない頷きだな」
「魚の気持ちは、まだ分からない」
「俺も分からないから大丈夫だ」
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん」
レオンは釣り糸を丸め直した。
「海に着く前から、魚に負けてる気がする」
「まだ魚はいない」
「いない相手に負けるのは、かなり悪いな」
ミラはほんの少し口元をゆるめた。
公営労働者アパートの中庭は、日曜らしくゆっくり動いていた。
平日のように男たちが工場へ急ぐ足音はない。洗濯場ではテレーズが水桶を置き、共同廊下には少なめの洗濯物が干されている。マノンは縄跳びを持って中庭を横切り、ルルは木の匙を握ったままトトの前にしゃがんでいた。トトは匙に興味がない顔で、尻尾だけを動かしている。
テレーズがレオンの手元を見た。
「今度は何を持ってるんだい」
「釣り糸です」
「魚でも拾いに行くのかい」
「拾わない。釣ります」
「あんたがそう言うと、魚の方が用心しそうだね」
マノンが走ってきた。
「ミラ、どこ行くの?」
「海を見に行く」
「海! いいなあ」
「魚も見るって」
マノンはレオンの釣り糸を見て、少し顔をしかめた。
「海なのに?」
「海だからだ」
「それ、レオンの海だね」
テレーズが笑った。
「ミラ、海は楽しいよ。あいつが魚ばっかり見てたら、足だけでも水につけておいで」
ミラは丁寧に頷いた。
「はい」
レオンは中庭を出ながら、帽子の縁を直した。
「俺も海を見るぞ」
「魚越しにね」
テレーズの声に、住民たちが小さく笑った。
町外れの海辺までは、歩いて少しかかった。
石畳の通りを抜け、古い倉庫の並ぶ道を過ぎると、風の匂いが変わった。油と煙の匂いが薄くなり、湿った塩の匂いが混じる。ミラは途中から少し口数が減った。疲れたのかと思ってレオンが歩幅を落とすと、ミラは首を横に振った。
「遠いか」
「遠いけど、見えてきた」
そう言って、先の方を見る。
建物の間が開けると、光が広がった。
海は、町の灰色の壁や工場の煙突とは違う色をしていた。水面に朝の光が散り、波が低く寄せては引いている。浅瀬では何人かの子どもが裸足で水に入り、貝殻を拾ったり、波に向かって小さく声を上げたりしていた。少し離れた岩場には、釣り糸を垂らしている男たちがいる。
ミラは足を止めた。
「水が、動いてる」
「川も動くだろ」
「川より、たくさん」
「たくさん動いてるな」
「向こうまで行くの?」
「俺たちが行ったら、たぶん帰れない」
ミラはまじめに頷いた。
「帰れないのは困る」
「今日は見るだけだ。あと、少し釣る」
「少し?」
「たくさん釣れたら持てない」
「たくさん釣れる予定?」
「予定だけなら自由だ」
ミラは海を見ていた。波が足元の砂を濡らし、また戻っていく。そのたびに小さな貝殻が転がり、光が少しずつ場所を変える。
レオンは水路の出口に近い岩場を選んだ。足場はそれほど悪くないが、浅瀬よりは少し深い。魚がいそうに見える。少なくとも、レオンにはそう見えた。
釣り糸を準備し、硬いパンの欠片を針につける。
ミラはその横で、拾った小さな貝殻を手のひらに乗せていた。
「魚は、来る?」
「来る。たぶん」
「魚も、お休み?」
「魚に休みがあるなら、俺より待遇がいい」
ミラは貝殻を見た。
「魚も、大変」
「釣る前に同情するな。手元が鈍る」
レオンは糸を垂らした。
海は静かに動いている。糸の先は揺れたが、それが魚なのか波なのか、レオンにはよく分からなかった。ミラはしばらく隣に立っていたが、やがて少し離れた浅瀬の方を見た。
子どもたちが笑っている。
裸足で水に入り、服の裾を少し濡らしながら、逃げる波を追いかけていた。ミラはそれを見て、また手元の貝殻を見た。
「水は、入っても怒りませんか」
「水は怒らないだろ」
「服は?」
「服は……濡れたらエリーズが怒るかもしれない」
「靴も?」
「靴は乾くのに時間がかかる」
「じゃあ、見ます」
ミラはそう言って、浅瀬から少し離れた砂の上にしゃがんだ。水に入りたいとは言わなかった。ただ、波が来るたびに目で追っている。
レオンは釣り糸を見た。
何も来ない。
魚より先に、声が来た。
「……あんた、何してるの」
振り返ると、エリーズが立っていた。腕には小さな籠を下げ、後ろにマノンがいる。マノンはもう裸足になる気満々で、靴を脱ぎかけていた。
レオンは釣り糸を少し上げた。
「見れば分かるだろ。釣りだ」
エリーズはミラを見て、海を見て、釣り糸を見た。
「ミラを海に連れてきて、釣り?」
「海に来たら魚がいる」
「子どももいるでしょ」
「いるな」
「そっちを遊ばせなさいよ」
「魚が釣れたら、ミラも食える」
エリーズは一度、目を閉じた。
「子どもを海に連れてきた理由が、夕飯なの?」
「理由は海を見ることだ。夕飯は、ついでだ」
「そのついでが釣り糸を持ってるじゃない」
レオンは手元の糸を見た。否定しにくい形で、釣り糸は風に揺れている。
「ミラを海に連れてきたのよね」
「連れてきた」
「魚を主役にしない」
「まだ一匹も出てきてない」
「出る前から負けてるのよ」
ミラはレオンの釣り糸を見た。
「魚は、主役ですか」
「今日は違うわ」
エリーズが即答した。
レオンは海の方を見た。
「出てきたら勝てるかもしれない」
「勝負にするな。脇役は静かにして」
「俺か、魚か」
「両方」
マノンがその場で片方の靴を脱ぎ、砂の上に置いた。
「ミラ、あっち行こう。足だけなら大丈夫だよ」
ミラはすぐには立たなかった。海へ行きたい顔はしている。けれど、レオンを見上げ、釣り糸を見て、もう一度レオンを見る。
勝手に離れていいのか、確かめる目だった。
レオンは少し遅れて、その意味に気づいた。
「行ってこい。魚が来たら呼ぶ」
エリーズがすぐに切った。
「どうせ釣れないわよ」
レオンは帽子の縁を押さえた。
「今日は海の予定だ。魚も脇役だから、登場する予定だ」
「魚を予定に入れない」
「夕飯には入れたい」
「欲を針につけるな」
ミラは二人のやり取りを聞いて、ほんの少し口元をゆるめた。それから靴を脱ぎ、マノンの隣へそっと並んだ。
マノンは水に足を入れてすぐ笑った。ミラは最初、砂の上で足をそろえたまま、水の手前で止まっていた。
エリーズはまだレオンのそばにいた。
「本当に釣れるの」
「予定では」
「予定を海に沈めないでよ」
「一匹だけでも」
「数を先に作るな」
「釣れなかったら、今日の夕飯はいつもの豆スープだ」
「それをミラの前で言わない」
「ミラはもう知ってる」
「知ってても言わないの」
エリーズはそう言って、浅瀬の方へ歩いていった。ミラの外套の裾が濡れない位置で止まり、マノンが跳ねすぎると一言だけ刺す。
「波と競争しない」
「してない!」
「してる足よ」
レオンは釣り糸を見た。
糸は動いていない。
魚は来ない。
それなのに、レオンは何度も浅瀬の方を見た。ミラが転ばないか。マノンが走りすぎないか。エリーズが近くにいるか。そんなものを確かめるたびに、釣り糸の先は少し揺れた。
隣の釣り人が言った。
「兄ちゃん、魚は糸の先だぞ」
「知ってます」
「じゃあ、そっちを見な」
「見ています」
「目が二つとも迷子だ」
レオンは言い返せず、釣り糸を少し引いた。
餌のパンだけが、波に削られて小さくなっていた。
浅瀬では、ミラが少し笑っていた。
大きな声ではない。けれど、マノンが水を跳ねさせた時、ミラの口元がはっきり動いた。エリーズはその近くで、二人の服の裾が濡れすぎないように見ている。
レオンはそれを見て、また糸の先を見た。
何も釣れていない。
それでも、さっきより少しだけ、釣れなくてもいい気がした。
その時、少し離れた水路の出口の方で、男の笑い声がした。
酒の匂いを含んだ声だった。
見ると、中年の男が水辺の石の上をふらついている。片手に空に近い瓶を持ち、もう片方の手で誰かに何かを言っている。周囲の大人たちは、また酔っぱらいが騒いでいる、という顔で少し距離を取っていた。
男は足元を見ていなかった。
濡れた石の上で靴底が滑る。
「あ」
誰かが声を上げた時には、男の体が横へ傾いていた。瓶が石に当たり、鈍い音を立てる。男は水路の段差のある方へ落ちた。
深い海ではない。
だが、そこは浅瀬よりも水が深く、石の段差がぬめっている。酔った男はすぐに立てず、手をばたつかせた。水を飲んだのか、むせるような音がした。
レオンは釣り糸を置いた。
置いたというより、手から離した。
「レオン!」
エリーズの声がした。
レオンは返事をする前に走っていた。靴のまま水へ入り、冷たさが膝まで来る。ぬめった石に足を取られかけたが、腕を伸ばして男の上着をつかんだ。
「おい、暴れるな。余計沈む」
男は何か言ったが、水と酒の匂いが混ざって、言葉になっていなかった。
「酒臭いし、重いな……!」
レオンは歯を食いしばり、男の腕を引いた。工場で台車を押す時と同じように、足を踏ん張る。けれど、水の中では力が逃げる。後ろから別の男が手を貸し、エリーズがミラとマノンを水辺から離した。
「もっとこっちへ!」
「引け、上着破れるぞ!」
「破れても本人よりましだろ!」
何人かの手が伸び、男はようやく石の上へ引きずり上げられた。
男は咳き込み、腹の水を吐き、しばらくして大きく息を吸った。命に別状はなさそうだった。周囲の大人たちが口々に文句を言い、男の知り合いらしい者が頭を下げている。
レオンは腰まで濡れたまま、石の上に座り込んだ。
息が切れていた。靴の中は水だらけで、上着からは海水と酒の匂いがする。
エリーズが駆け寄ってきた。
「怪我は?」
「たぶんない。でも靴は死んだ」
「靴はどうでもいい。縁起でもないこと言わないで」
「竿では釣れなかった。おっさんが釣れた」
「人を釣果に入れない」
レオンは濡れた袖から落ちる水を見た。
「魚より大物だ。礼は薄そうだけど」
「そこは黙って、助けた顔してなさいよ」
短く切られるたびに、周りの大人たちが少しずつ笑いをこぼした。助かった男の知り合いも、申し訳なさそうな顔のまま頭を下げる。
エリーズはまだ怒りたい顔をしていたが、怒る場所を失ったように、最後はレオンの濡れた髪を見た。
「寒くなるわよ」
「そこはもうなってる」
「先に言いなさい」
「言って温まるなら、いくらでも言う」
「無駄口で暖を取らない」
ミラは少し離れたところに立っていた。
マノンの横で、両手を胸の前で握っている。泣いてはいない。駆け寄っても来ない。ただ、レオンが濡れていることと、引き上げられた男が息をしていることを、順番に見ていた。
レオンはミラへ手を振ろうとして、袖から水が落ちるのに気づき、やめた。
「大丈夫だ」
ミラは小さく頷いた。
その頷きは丁寧だったが、施設で見せるようなきれいすぎる頷きではなかった。
結局、魚は一匹も釣れなかった。
釣り糸は岩の上で絡まり、パンの餌はほとんどなくなっていた。隣の釣り人が気の毒そうに糸をほどいてくれたが、魚の方は気の毒がってくれなかった。
帰り道、レオンは濡れた靴で歩いた。歩くたびに、水が音を立てる。
エリーズは呆れた顔で隣を歩いている。マノンはミラに、さっき水が足に来た時の話を何度もしていた。ミラは時々頷きながら、レオンの靴の音も気にしているようだった。
町へ戻る途中、小さな屋台が出ていた。紙包みのじゃがいもと、安い菓子を売っている。レオンは財布の中を見た。硬貨は少ない。魚が釣れれば夕飯になるはずだったが、釣れなかったので、夕飯は泳いで来なかった。
レオンは小さな菓子を一つだけ買った。
「魚はない」
ミラが言った。
「今日は魚の方が運がよかった」
「おじさんは、いました」
「いたな」
「レオンさんは、魚より先に見ました」
「魚は見つからなかったからな」
エリーズが横から言った。
「今の、少しだけ褒められてるのよ。逃がさないで」
「魚は逃がしたけどな」
「そこに戻るな」
ミラはそのやり取りを聞いて、菓子の紙包みを両手で持ち直した。
アパートの中庭へ戻ると、テレーズが洗濯場のそばで振り返った。
「魚は?」
「釣れなかった」
「じゃあ、なんでそんなに濡れてるんだい」
「魚じゃないのが一人」
エリーズがすぐに言った。
「数えるな」
テレーズは眉を上げた。
「また変なこと言ってるよ」
「本当に人を助けたの。酔っぱらいのおじさんが水路に落ちたのよ」
中庭が一瞬だけ静かになった。
二階の共同廊下からヴィクトルが顔を出す。片腕を手すりにかけ、レオンの濡れた姿を見て、小さく息を吐いた。
「魚より面倒なのを釣ったな」
「食えない脇役が出てきました」
テレーズが水桶を持ち上げた。
「おっさんは夕飯にはならないよ」
レオンは少し考えた。
「脇役でもなかったか」
「あんたの方が、よっぽど食えない脇役だよ」
テレーズがそう言うと、エリーズがこらえきれずに笑った。中庭にも、遅れて笑いが戻った。
ミラはその中で、レオンを見上げた。住民たちのからかいにも、レオンはいつものように全部は返さなかった。濡れて疲れているからかもしれない。けれど、助けた話を自分から大きく言わないのは、疲れているせいだけではないように見えた。
部屋に戻ると、レオンはまず靴を脱いだ。
中から水が出て、床に小さな海ができる。ミラはそれを見て、少し眉を寄せた。
「部屋にも海が来た」
「来なくていい海だな」
レオンは濡れた上着を脱ぎ、簡易台所のそばでしぼった。水が桶に落ちる音がする。ズボンの裾も濡れていて、歩くたびに床へ跡がついた。
ミラは机の上に菓子の紙包みを置いた。
「レオンさんは、魚は釣れない」
「今日はよく分かった」
「おじさんは、釣ったとは言わない」
「エリーズに怒られる」
「いないところでも?」
レオンは袖をしぼる手を止めた。
ミラは菓子の紙を見ていた。核心を言い切る前に、別のものへ視線を移す。いつものミラだった。
「……自分で言うと、変だからな」
「魚のことは言うのに?」
「魚は釣れてないから言える」
「釣れてないものは、言えるんですか」
「失敗はだいたい言いやすい」
ミラは少し考えた。
「助けたものは?」
レオンは返事に困った。
窓の外では、工場の煙突が夕方の空に黒く立っていた。日曜の工場は静かで、朝に見えた細い煙も、もうほどけている。
「……言う相手を選ぶ」
「選ぶ?」
「言ったら変になる相手と、言わないと伝わらない相手がいる」
ミラはすぐには頷かなかった。丁寧に分かった顔を作らないまま、紙包みを指で押さえている。
「わたしは、見ました」
「そうだな」
「魚は、見ませんでした」
「そこは何度も確認するな」
見たものは、紙には残らない。水路から引き上げた酔っぱらいの名前も、濡れた袖の重さも、海辺の風も、役所の記録にはたぶん載らない。それでも、ミラの中には残るのだと、レオンは少し照れくさく思った。
言ったところで、レオンはくしゃみをした。
部屋の中で、少し情けない音が響いた。ミラは菓子を見て、少し考える。
「半分にする?」
「お前のだろ」
「濡れたので」
「濡れたら菓子が出るなら、明日も海に行く男が出る」
「レオンさん?」
「俺を疑うのが早いな」
ミラは紙包みを開け、小さな菓子を両手で割った。少し悩んでから、大きい方を自分の手元へ置き、小さい方をレオンへ差し出す。
レオンはそれを見た。
「配分が正直だな」
「レオンさんは魚を釣ってない」
「人は引いたぞ」
「食べられない」
レオンは言い返せず、小さい菓子を受け取った。
ミラは自分の分を少しずつかじる。レオンも濡れた髪のまま、もらった菓子を口に入れた。甘さはほんの少しだったが、海水と酒の匂いが残った口には、十分すぎるくらいだった。
窓の外では、夕方の空がゆっくり暗くなっている。
魚は釣れなかった。
それでもミラは、机の向こうで菓子を大事そうに持ち、時々レオンの濡れた袖を見ていた。レオンはその視線に気づいたが、何も言わず、もう一度だけ小さくくしゃみをした。




