第13話 九月の初登校
九月の朝、公営労働者アパートの中庭は、いつもより少しだけ早く動いていた。
共同廊下では子どもの靴音が鳴り、洗濯場ではテレーズが水桶を置いている。どこかの部屋から薄いスープの匂いが流れ、別の窓からは、まだ眠い赤ん坊の泣き声が落ちてきた。遠くでは工場の警笛が鳴り終わり、煙突から白い煙が上がり始めている。
その中庭の真ん中で、レオンはいつもより背筋を伸ばして立っていた。
帽子はかぶった。紙も持った。袖口は朝の水場でこすった。爪の間の油は少し残っているが、今日のところは水の方が負けたのだと思うことにした。
隣には、鞄を両手で持ったミラがいる。
古い紺のワンピースの白い襟は、エリーズが昨夜きれいに整えてくれた。学校用の紺色のスモックは畳まれ、鞄の中に入っている。古い布だが、袖口も襟もまっすぐで、レオンの作業着よりよほどきちんとして見えた。
ミラは鞄の取っ手を握り、時々、中に入っているスモックの重さを確かめるように少しだけ持ち直している。
エリーズは籠を腕にかけ、レオンの顔を見て眉を寄せた。
「何、その顔」
「保護者の顔です」
「それは工場長に言い訳する顔よ」
洗濯場で水桶を置いていたテレーズが笑った。
「言い訳なら、もう少し情けなくなるね。今日はまだ威張る余地が残ってる」
「俺は威張ってません」
「紙を持ってる手が威張ってるよ」
レオンは内ポケットを押さえた。市立初等校の予備学級へ正式に通うための紙が入っている。夏のあいだに何度か通った幼年教室とは違い、今日からは毎朝学校へ行く。ありがたい話だった。ありがたいことほど紙が増えるのは、まだ少し納得していない。
エリーズは一つずつ確認した。
「紙、持った?」
「持った」
「油、ついてない?」
「ついてない。少しだけ残ってるのは、油の根性だ」
「帰りの時間、覚えた?」
「覚えた」
「覚えてる顔にしては、不安ね」
「顔まで面倒見きれない」
「そこも面倒見なさいよ。今日は保護者の顔で行く日なんだから」
レオンは自分の頬を片手で触った。
「保護者の顔って、どうやるんだ」
「まず、その変な確認をやめるところからね」
ミラは二人のやり取りを聞きながら、鞄の取っ手を少しだけ握り直した。笑ったわけではない。けれど、施設で大人の前に立っていた時のような、きれいすぎる静けさは少し薄れている。
マノンが縄跳びを手にして走ってきた。後ろからルルが木の匙を握ったまま追いかけ、トトは中庭の端で寝そべったまま片目だけ開けている。
「ミラ、帰ったら遊べる?」
ミラはすぐには答えなかった。
レオンを見上げる。中庭の声が少し遠くなったように、レオンには感じられた。
「迎えが来たら、帰ります」
マノンは首を傾げた。
「迎え、来るでしょ?私も母さんが来るよ」
「来る」
レオンは答えた。
「今日は俺が迎え担当だ」
テレーズが水桶の取っ手から手を離し、じろりとレオンを見た。
「担当にならないと来ないのかい」
「担当だと責任が分かりやすいんです」
「五歳の子の帰りを、便所掃除の当番みたいに言うんじゃないよ」
共同廊下から笑いが落ちてきた。レオンは帽子の縁を直す。
「当番よりは重く受け止めています」
「比べる相手を間違えてるのよ」
エリーズが呆れた声を出した。
ミラはそのやり取りを聞いていた。まだ頷かない。ただ、鞄の取っ手を握る手から、少しだけ力が抜けた。
レオンは中庭を出る前に、ミラの歩幅を見てから歩き出した。最初の頃は、自分の足が先に行きすぎて、何度も振り返ることになった。今は、横に金髪が見える速度が、少しずつ分かってきている。
通りへ出ると、パン屋の前から焼けた匂いが流れてきた。馬車の車輪が石畳をゆっくりこすり、工場へ向かう男たちが帽子を押さえて歩いていく。九月の朝の空気は、夏より少し乾いていて、工場の煙も高く見えた。
ミラはしばらく黙って歩いていた。
レオンは横目で見る。眠いわけではなさそうだ。疲れてもいない。ただ、何かを考えている時の顔だった。ミラが黙る時は、話すことがない時だけではない。レオンは最近、それくらいは分かるようになっていた。けれど、何を選んでいるのかまでは、まだうまく当てられない。
「学校、遠いか」
「遠くはないです」
「じゃあ、近いか」
「まだ分かりません」
「道は知ってるだろ」
「知っている道でも、今日は少し違います」
レオンは返事を探し、すぐには見つけられなかった。学校へ行く道は同じだ。けれど、今日から毎日通う道になる。そう思えば、ミラの言い方も間違ってはいない。
ミラはパン屋の角を曲がったところで、小さく聞いた。
「先生は、朝もいますか」
「いる」
「帰りも?」
「いるだろうな」
「レオンさんは?」
「俺は工場へ行く。でも夕方、迎えに学校へ行く」
「教室の中まで来ますか」
「たぶん入口だな。俺が机に座ったら、椅子が泣く」
「椅子は泣きますか」
「俺が座ったら、学校の小さい椅子はかなり嫌がる」
ミラは少しだけ考えた。
「入口は、遠いですか」
「教室の外よりは近い」
「でも、見えません」
レオンは軽く返しそうになり、口を閉じた。
見えない。
ミラは、教室の中からレオンが見えないことを言っている。レオンは工場へ行く。ミラは学校へ入る。夏の幼年教室より長く、朝から夕方まで別々になる。
当たり前だろ、と言えば終わる話かもしれない。けれど、その当たり前は、ミラにとってまだ当たり前ではない。
「見えなくても、行く」
レオンは言った。
「工場が終わったら、学校へ行く」
「工場長さんに怒られたら?」
「怒られてから行く」
「怒られなくても?」
「怒られなくても行く」
「紙がなくても?」
「紙がなくても行く。今日は紙もあるけどな」
ミラは鞄を持ち直した。丁寧に頷きかけて、途中で止める。分かった顔を急いで作らない癖は、ほんの少しだけ強くなっていた。
市立初等校の門前には、子どもたちと見送りの大人が集まっていた。
低い門のそばで、母親らしい女が子どもの襟を直している。別の父親は、小さな弁当包みを持った男の子に何かを言い聞かせていた。少し先では、マノンが母親に髪ひもを直されながら、こちらに気づいて小さく手を振っている。
教室の窓は開いていて、中から低い机と小さな椅子が見える。黒板の前には、髪をきちんとまとめたルノー先生が立っていた。
夏の幼年教室で何度か顔を合わせ、レオンの慌てた受け答えをそのたび短く直した先生だ。
レオンは門の前で少し胸を張った。
「よし。預けてくるか」
「通うんです」
ルノー先生の声が、横からすぐに飛んできた。
レオンは振り向いた。先生は名簿を胸元に持ち、いつもの淡々とした顔でこちらを見ている。
「先生、今の早かったですね」
「早く直した方がいい言葉です」
「預ける、は駄目ですか」
「今日から毎日、学校へ通います。置いていく場所ではありません」
レオンは帽子を両手で持った。
「言い方を間違えました」
「直せばいいです。ミラさんの前では、特に」
その言葉は怒鳴るものではなかった。けれど、余計な飾りがない分、逃げ道もなかった。
ミラは隣で鞄を胸の前に抱えている。顔は静かだったが、取っ手を握る指が少しだけ白くなっていた。
レオンはミラへ向き直った。
「通う。今日はその最初の日だ」
ミラは小さく頷いた。今度は、途中で止めなかった。
ルノー先生は名簿を開き、子どもたちを一人ずつ確認していく。ジュールが母親の手をすり抜けるように前へ出て、ミラを見つけた。夏の幼年教室で何度か顔を合わせた、口の早い男の子だった。
「ミラ、今日から毎日いるの?」
「はい」
「じゃあ、席があるな」
ミラの目が少し動いた。
「席がありますか」
「あるよ。俺の隣じゃないけど」
「ジュール、席は先生が決めます」
ルノー先生が短く言うと、ジュールは口を尖らせたが、すぐに別の子どもへ話しかけ始めた。ルシアンはその横で静かに鞄を抱え、ミラを見て小さく頭を下げた。ミラも同じように頭を下げる。
ルノー先生がミラの名前を呼んだ。
「ミラさん。鞄は教室の中へ持って入ります。スモックは中で出しましょう」
「はい」
「レオンさん、保護者の方はここまでです」
レオンは教室の中をのぞいた。
「椅子が足りなければ立ってます」
「授業を受ける必要はありません」
「俺は受けなくていいんですか」
「はい。必要なのは、夕方の時間に来ることです」
「教室に入るより難しそうですね」
「そう思うなら、時計を見てください」
そばにいた母親が小さく笑った。レオンは苦笑いし、帽子を持ち直す。
ミラは教室の入口で一度止まった。
「入口は、閉まりますか」
「授業中は閉めます」
ルノー先生は、急がせずに答えた。
「帰りには開けます」
「帰りには」
「はい。迎えの時間には開けます」
レオンは先生の横から、短く言った。
「来る」
ミラはレオンを見上げた。
「怒られなくても?」
「怒られなくても」
「工場の手が黒くても?」
「手を洗ってから来る。少し負けてたら、そこは見逃せ」
ミラは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「少しなら」
「厳しいな」
「先生が見ます」
「先生、そこも見るんですか」
ルノー先生は名簿を閉じながら言った。
「手の汚れより、時間を見ます」
「時間の方が厳しい」
「はい」
ミラは教室へ入った。
走らない。振り返りすぎもしない。ただ、低い机の間を先生に案内され、自分の席の前で立ち止まった。鞄を置き、椅子を少し引く。その動きは丁寧で、施設で見せていた大人びた静けさにも見えたが、今日は少し違った。
レオンは入口に立ったまま、それを見ていた。
ルノー先生が横に来る。
「レオンさん」
「はい」
「振り返るなら、工場の時間も見てください」
「先生は、背中も見てるんですか」
「遅刻しそうな人は見ます」
レオンは帽子をかぶり直した。
「行きます。夕方、来ます」
「その二つを混ぜないでください」
「分けます」
レオンは門を出た。
道を戻る途中、何度か学校の方を振り返りかけたが、振り返っても窓と壁しか見えない。ミラは教室の中だ。レオンは工場へ行く。そこで部品を置き、手を動かし、時間になったら学校へ戻る。
言葉にすれば簡単だった。
だが、簡単なことほど、今までのレオンには抜け落ちていた気がした。
工場に着くと、作業場はすでに油の匂いと機械の音で満ちていた。鉄板を置く音、台車の車輪、奥の機械の低い唸り。レオンは持ち場に入り、流れてくる部品を受け取った。
手は動く。
置く。次を取る。向きを確かめる。棚へ並べる。
いつもの動きだった。けれど、壁の時計がいつもより近くに見えた。レオンは部品を置くたび、つい目を上げる。針は進んでいるが、進み方が遅い。工場の時計は、こちらが急いでいる時だけ妙にのんびりする。
隣のロイがそれに気づいた。
「おい、今日のお前、顔に時計がついてるぞ」
「顔に針があったら危ないだろ」
「さっきから時間ばかり見てる。部品より時計を作りたいのか」
「帰りに学校へ行く」
ロイは部品を置く手を少し止めた。
「ミラのか」
「そうだ」
「初日から遅れるなよ」
「遅れない」
「その顔は、遅れないように全力で不安になってる顔だな」
「顔の情報量が多すぎる」
ロイは少し笑った。からかいはしたが、それ以上軽くは扱わなかった。
「終業の警笛が鳴ったら、手を洗って行け。油の手で行ったら、先生に直されるぞ」
「時間にも手にも厳しいな、学校は」
「子ども相手だからな」
レオンは部品を棚へ置いた。
子ども相手。
それは、ベルナールにも、デュラン工場長にも、エリーズにも、テレーズにも、何度も違う形で言われてきたことだった。ミラは五歳だ。工場の相棒でも、役所を止めるための重しでもない。
分かっている、と言うのは簡単だった。
ただ、今日の分かるは、夕方に門へ行くことだった。
昼を過ぎても、作業は続いた。レオンは紙に包んだ硬いパンを作業場の隅で食べ、チーズの端をかじった。いつもならロイの話に適当に返すところを、今日は半分ほど聞き損ねた。
「お前、今の話聞いてたか」
「魚が時計を持ってた話だろ」
「全然違う」
「じゃあ聞いてなかった」
「上の空だな」
ロイは呆れたが、最後には笑った。
夕方の終業の警笛が鳴ると、レオンは手袋を外した。作業台の端に置き、水場へ向かう。冷たい水で手をこすり、爪の間を布で拭く。油は少し残った。ロイが後ろから言う。
「爪ごと落とすなよ」
「油だけ落ちればいい」
「全部は無理だな。走るなよ」
「走らない」
「今の返事で少し走ってる」
レオンは水を止め、手を振ってから布で拭いた。完全にはきれいにならない。だが、時間には間に合う。
作業場の出口で、デュラン工場長が立っていた。
「終業前には走らなかったな」
「我慢しました」
「威張るな。手は洗ったか」
「少し負けました」
「なら、負けた手で子どもの鞄を持つな」
「先生より工場長の方が細かくなってませんか」
「お前が雑だからだ」
レオンは帽子をかぶり直した。
「行ってきます」
「行け。明日も同じように行け」
「明日もですか」
「毎日だ」
レオンは一拍置いて、頷いた。
「毎日ですね」
工場を出ると、夕方の通りには仕事帰りの男たちと買い物帰りの女たちが流れていた。石畳には薄い影が伸び、パン屋の前には焼きたてではないが、まだ温かい匂いが残っている。
レオンは歩幅を少し大きくした。走ってはいない。少なくとも、本人はそう思っている。ただ、学校の門が見えた時には、息が少しだけ上がっていた。
市立初等校の門前には、迎えに来た大人たちが何人かいた。
教室の窓から子どもたちの声が流れてくる。朝よりも少しほどけた声だった。低い机の間を動く音、椅子の脚が床をこする音、先生が短く名前を呼ぶ声。
レオンが門をくぐると、予備学級の入口からジュールが顔を出した。
「お前、ミラの迎えの人?」
「お前って言うな。俺は大人だぞ」
「大人は床で寝ないって母さんが言ってた」
「情報が早すぎる」
ジュールは悪びれずに笑った。
「迎えの人、今日も床で寝るの?」
「俺の寝床を学校で広めるな」
「ミラの迎えの人、来た」
「来たぞ。しかも時間には間に合った」
その後ろから、ルシアンが静かに出てきた。
「少し息が早い」
「観察が細かいな」
「走った?」
「歩幅が大きかっただけだ」
ルシアンは少し考えた。
「それ、遅れそうな時、父ちゃんも言う」
「お前の父ちゃんとは仲良くなれそうだ」
ルノー先生が教室の入口から出てきた。名簿を閉じ、まず壁の時計を見てから、レオンを見た。
「時間通りです」
「間に合いました」
「今日だけで終わらせないでください」
「先生、褒める時間が短いですね」
「明日も同じ時間です」
「余韻が時計に切られた」
「時間は切った方が守れます」
教室の中から、ミラが出てきた。
鞄を胸の前に抱え、スモックはきちんと畳まれている。朝より少しだけ髪が乱れていた。頬も少し赤い。泣いた顔ではない。走った後の顔でもない。教室の中で一日を過ごしてきた顔だった。
ミラはレオンを見つけると、足を止めなかった。
走らない。けれど、朝よりも少し早く歩いてくる。
レオンはその場で待った。
「来ました」
ミラが言った。
「来た」
「手も、洗いましたか」
レオンは両手を見せた。
「洗った。少し負けた」
ミラは真面目に指先を見た。
「少しです」
「少しなら見逃すって言ったよな」
「言いました」
「証人がいると助かる」
ミラは鞄を持ち直し、ほんの少しだけ息を吸った。
「迎えがありました」
レオンは、その言葉を軽く返しそうになって、やめた。
門前の声、子どもたちの足音、夕方の通りの馬車の音。その中で、ミラの声だけが小さく残った。
迎えがあった。
ただ迎えに来ただけだ。時間を守っただけだ。大人なら当たり前のことだと、ルノー先生なら言うだろう。デュラン工場長もたぶん言う。エリーズなら、毎日続けなさいよ、と眉を上げる。
けれど、ミラにとっては、今日それが一つ増えた。
「あった」
レオンは言った。
「明日もある」
ミラはすぐには頷かなかった。けれど、鞄を抱える手が、朝より少し柔らかかった。
ジュールが横から言った。
「明日も迎えの人、来る?」
「その呼び方は決まってない」
「でも来る?」
「来る」
「じゃあ、だいたい決まってる」
レオンは言い返そうとして、やめた。相手は六歳くらいの子どもだ。話を正面から押してくる分、役所の紙より逃げにくいところがある。
ミラはジュールの言葉に、だめとも、いいとも言わなかった。ただ、鞄の取っ手を持ち直し、レオンの横へ並んだ。
帰り道、ミラは朝より少ししゃべった。
「机が小さかったです」
「俺は座れなさそうだな」
「レオンさんは入れません」
「先生に言われた」
「椅子も小さかったです」
「椅子が逃げなくてよかったな」
「たくさんありました。逃げたら、捕まえるのが大変です」
「学校の椅子は忙しいんだな」
「忙しいのは、ジュールです」
「何をした」
「椅子を少し鳴らしました。先生に見られて、静かになりました」
「先生の目は便利だな」
「レオンさんにも効きます」
「俺は今日、かなり効いた」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
通りには夕方の匂いが流れている。パン屋の匂いは朝より薄く、代わりにどこかの家から豆を煮る匂いがした。馬車の車輪が石畳をゆっくりこすり、工場帰りの男たちの声が遠くで重なる。
レオンはミラの歩幅に合わせて歩いた。朝と同じ道なのに、帰りは少し短く感じる。
「ルシアンは、あまりしゃべりません」
「お前と足したらちょうどいいかもしれない」
「わたしは、しゃべりすぎですか」
「いや。しゃべらない時の方が、俺は余計に間違える」
ミラは前を向いたまま、少し考えていた。
「大事なことは、先生が聞きます」
「俺も聞く」
「レオンさんは、先に間違えます」
「そこから直る時もある」
「先生がいます」
「俺だけだと信用が薄いな」
ミラはほんの少し笑った。
公営労働者アパートの中庭へ戻ると、テレーズが洗濯場で布を絞っていた。エリーズは籠を持ち、マノンのほどけた髪ひもを直している。ルルは木の匙を持ったまま、トトの背中に乗せようとして逃げられていた。
マノンが真っ先に駆け寄ってきた。
「ミラ、学校どうだった?」
レオンが口を開きかけると、エリーズがすかさず言った。
「あんたじゃなくて、ミラに聞いてるの」
「俺も関係者です」
「関係者は黙って待つの」
「保護者の扱いが厳しい」
テレーズが笑いながら手を拭いた。
「初登校はどうだったんだい、ミラ」
ミラは少し考えた。
「机がありました」
「そりゃ学校だからね」
「椅子もありました」
「それも学校だからね」
「スモックは、着て、脱いで、鞄に入れました」
エリーズが少し安心したように頷く。
「よし。ちゃんと帰ってきたわね」
ミラは鞄を胸の前で抱えたまま、もう一つ言った。
「迎えもありました」
中庭の空気が、少しだけ静かになった。
テレーズはミラを見て、それからレオンを見た。
「そこだけは、学校だけじゃないね」
レオンが時間に間に合ったことは、時計に勝ったというだけの話ではなかった。ミラにとっては、教室の外に帰る道があったということだった。
レオンは帽子の縁を指で押さえ、少し得意げにした。
「今日は時間に間に合いました」
エリーズがすぐに刺す。
「毎日間に合いなさい」
「時計は毎日いるんですか」
「時計は毎日いるわよ」
「強いな」
マノンがミラの鞄を見ながら聞いた。
「明日も行く?」
ミラはレオンを見上げた。
「明日も、迎えがあります」
「ある」
レオンは答えた。
「だから明日も行ける」
ミラは、今度はきちんと頷いた。
大きな返事ではない。飛びついてくるわけでもない。けれど、朝より少しだけ近い場所で、ミラは鞄を抱え直した。
レオンはその鞄に手を伸ばそうとして、ミラに小さく首を振られた。
「これは、持てます」
「じゃあ、階段は一緒に上る」
「はい。転ばないでください」
「初登校の帰りに俺が転んだら、先生に何て報告するんだ」
ミラは少し考えた。
「時間には間に合いました。階段には負けました」
「負けを増やすな」
エリーズが籠を抱え直しながら笑った。
「まだ中庭よ。階段と戦う前から負けそうな顔しないの」
「今日の俺の顔、忙しすぎないか」
「顔より足元を見なさい」
テレーズが水桶を持ち上げた。
「ミラ、三階まで見張っておやり」
「はい」
「俺が見張られる側なのか」
「初登校の日だからね。帰り道まで無事で一組だよ」
レオンは言い返そうとして、結局やめた。ミラが鞄を持ったまま、隣に並んだからだ。
夕方の中庭には、薄いスープの匂いがまた流れ始めていた。工場の煙突は灰色の空へ細い煙を上げ、共同廊下では誰かが夕飯の鍋を鳴らしている。
レオンはいつもの歩幅より少しだけ遅く、ミラと一緒に三階へ向かう階段を上り始めた。
板がきしむたびに、ミラはレオンの足元をちらりと見た。
「そこは大丈夫だ」
「まだ分かりません」
「学校より階段の方が疑われてるな」
「学校には先生がいます」
「階段には俺がいる」
「だから見ています」
レオンは反論しようとして、足元を見た。
ミラは鞄を抱え直し、ほんの少しだけ口元を上げた。




