第14話 木曜の休み
水曜の夕方、レオンは市立初等校の門を、いつもより少しだけ胸を張ってくぐった。
遅れていない。工場の油は袖口に少し残っているが、手は水場で洗ってきた。迎えの時間に間に合っただけで、ひと仕事終えたような気分になるのは間違っている。けれど、初日の自分よりはかなりましだと、レオンは思っていた。
予備学級の教室から、子どもたちの声が流れてくる。低い机、小さな椅子、黒板の前を行き来するルノー先生。ミラは教室の端で鞄を胸の前に抱え、レオンの姿を見つけると、椅子からきちんと立った。
走ってくるわけではない。けれど、立ち上がる早さだけは、初日より少し速い。
ルノー先生が名簿を閉じた。
「お迎え、時間通りですね」
「今日は間に合いました」
「本来、毎日そうしてください」
「初日より言い方が厳しくなってませんか」
「初日から同じです。では、明日の確認です」
ルノー先生は、レオンの言い分を拾わずに進めた。ベルナールとは違って深く刺してくるわけではないが、横へ逃げた言葉をきれいに戻してくる。
「明日は木曜です。予備学級はお休みです」
レオンは一拍置いた。
「では、工場も?」
「工場は関係ありません」
「子どもだけ休む日があるんですか」
「あります」
「大人にもください」
「それは工場長に言ってください」
教室の端で、迎えに来ていた母親の一人が小さく笑った。レオンは少しだけ肩を落とした。工場長に言ったところで、煙草の煙と一緒に追い返されるだけだ。
ルノー先生は淡々と続けた。
「明後日は通常通りです。朝、いつもの時間に来てください」
「明後日は来ていいんですね」
「来ていい、ではなく、来る日です」
「予定って強いですね」
「弱い予定は守られません」
レオンは帽子を持ち直した。なるほど、と言いかけて、やめた。なるほどと言ったところで、明日の昼間にミラがどこにいるかは決まらない。
ミラはその間、鞄の取っ手を両手で握っていた。顔は静かで、先生の話を聞いている子に見える。けれど、指先が少しだけ白くなっているのを、レオンは見た。
「ミラ、帰るぞ」
「はい」
返事は丁寧だった。学校の中だからなのか、それとも木曜という言葉のせいなのか、レオンにはすぐには分からなかった。
門を出ると、夕方の通りには工場帰りの男たちや、買い物袋を下げた女たちが行き交っていた。パン屋の前から焼けた匂いが流れ、馬車の車輪が石畳をゆっくりこすっていく。
レオンはミラの歩幅に合わせて歩いた。最初の頃ほど意識しなくても、足が勝手に少し遅くなる。そういうところだけは、自分もましになっているのかもしれない。
しばらく黙って歩いてから、ミラが言った。
「明日は、学校がお休みです」
「そうらしいな」
「学校の服も、お休みですか」
「スモックか」
「着ませんか」
「着ないな。学校へ行かないから」
ミラは少し考えた。
「着ないと、学校の服じゃなくなりますか」
レオンは横を見た。
ミラは前を向いている。声はいつも通りに聞こえたが、鞄の取っ手を持つ手はまだ固い。
「一日休んだくらいで、服の立場は変わらないだろ」
「立場」
「今のは違うな。先生に聞かれたら直される」
「学校の服は、学校に行かない日も学校の服ですか」
「そうだ。洗ったら、きれいな学校の服になる」
ミラはすぐには頷かなかった。
学校へ行かない日。学校の服を着ない日。その日に、自分のものがどこへ行くのか。ミラはたぶん、それを確かめている。
「明日は、洗う日になるかもしれない」
「洗うと、戻りますか」
「戻す。俺が忘れたら、テレーズさんとエリーズに両側から刺される」
「痛いですか」
「かなり痛い。先生の訂正より近い」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。笑ったというより、固くなっていたものが少しほどけたような顔だった。
公営労働者アパートの中庭に戻ると、洗濯場ではテレーズが水桶を並べていた。腕まくりをし、濡れた布を絞る手つきに迷いがない。共同廊下からは夕飯の支度の匂いが落ちてくる。ルルが木の匙を持って走りかけ、トトに追い越されて怒っていた。
エリーズは中庭の端に立ち、籠の中の布を整えていた。ミラの鞄を見ると、すぐにレオンへ目を向ける。
「今日は遅れなかったのね」
「間に合った」
「その調子で毎日続けなさいよ」
「毎日となると、時計の方も本気を出してくる」
「時計は最初から本気よ」
レオンは返事の代わりに、ルノー先生から聞いた話をした。
「明日は学校が休みだそうです。木曜なので」
テレーズの手が止まった。
「じゃあ、明日の昼飯は?」
レオンは少し考えた。
「俺の昼飯を分ければ」
「硬いパンとソーセージ端だけで、子どもを一日動かす気かい」
「俺はそれで動いてます」
「あんたは十八年かけて雑にできあがったからね」
中庭の端で、片腕のヴィクトルが笑った。レオンはそちらを見たが、味方になってくれそうな顔ではなかった。
エリーズも籠を抱え直して近づいてくる。
「預け先は?」
「今から考える」
「今が明日の前よ」
「つまり、間に合ってる」
「胸を張るところじゃない」
テレーズはミラの外套、鞄、白い襟を順番に見た。
「明日はうちで見ておくよ。午前中に洗濯場。昼は豆のスープ。午後は、エリーズが空いているなら市営浴場へ連れていける」
「空いてるわ」
エリーズはすぐに答えた。
「白い襟と靴下も洗った方がいいわね。スモックも、乾くなら洗える」
ミラの手が鞄の取っ手に戻った。
「学校の服は、置いていきますか」
「洗う間だけね」
エリーズはミラの顔を見て、声を少しやわらかくした。
「乾いたら戻すわ。同じ服よ」
「間違えませんか」
「間違えないように見る。テレーズさんの目は、服にはかなり厳しいから」
「服だけじゃないよ」
テレーズが言った。
「子どもの昼飯にも、若い男の雑な考えにも厳しいよ」
「俺だけ範囲が広いですね」
「広げたのはあんただよ」
ミラは三人を順番に見ていた。自分の知らないところで明日の場所が決まっていくのを、聞き逃さないようにしている顔だった。
レオンは帽子を脱ぎ、頭をかいた。
「じゃあ、明日の昼飯は俺が作って置いていきます」
テレーズが眉を上げた。
「作る?」
「豆を煮ます」
「それは料理の入口だね」
「入口なら入れます」
「中で迷子になるんじゃないよ」
エリーズが小さく息を吐いた。
「今夜、鍋を見るわ。焦がしたら、明日は休みじゃなくて火事になるから」
「俺の信用はどこへ行った」
「昨日までの生活へ置いてきたのよ」
レオンは返す言葉を探したが、ミラが少しだけ笑ったので、負けてもいいことにした。
その夜、レオンの部屋では黒い鍋がいつもより長く火にかけられていた。
部屋は狭い。寝台が一つ、小さな机と椅子が一つ、簡易台所の横には水桶。窓の外には工場の煙突が見え、夕方の煙はもう夜の色に混じっている。裸電球の下で、鍋の中の豆とじゃがいもがゆっくり動いていた。
レオンは木べらで鍋を混ぜる。真剣な顔をしているが、木べらを持つ手つきは工場の工具ほど慣れていない。
「今日は、夜のご飯ですか」
ミラは椅子に座って、鍋を見ていた。
「夜の分と、明日の昼の分だ」
「明日なのに、今日作りますか」
「木曜は手が多いからな。先に一つ減らす」
「手」
「やることだ。昼飯、洗濯、湯屋、迎え。考えてるだけで、俺の頭の中の机がいっぱいになる」
「机があるんですか」
「狭い机だ。紙を置くとすぐ落ちる」
ミラは真面目に考えてから、鍋に目を戻した。
「お昼は、戻りますか」
「豆か?」
「わたしです」
レオンは木べらを止めた。
鍋の中で豆だけが、少し遅れて動いた。
ミラは椅子に座ったまま、机の端を見ている。声は小さいが、震えてはいない。核心を言っているようで、まだ言っていない。学校が休みの日に、自分がどこへ置かれるのか。それを、昼飯という言葉で確かめている。
レオンは、木べらを鍋の縁に置いた。
「戻る」
まず、それだけ言った。
ミラはすぐには顔を上げなかった。
「朝、テレーズさんのところへ行く。昼は豆のスープを食う。午後はエリーズと湯屋に行く。夕方、俺が工場から帰って迎えに行く。夜はここで食う」
レオンは指を折りそうになって、やめた。数え始めると、工場の作業みたいになる気がした。
「学校が休みでも、木曜が終わったら、ここへ戻る」
「学校の服も?」
「服も戻る」
「白い襟も?」
「戻る」
「靴下も?」
「戻る。片方だけ旅に出たら、俺が探す」
「靴下は旅をしますか」
「小さいものは勝手にどこかへ行くって、エリーズが言ってた」
ミラは少しだけ考えた。
「わたしは、旅をしません」
「それは助かる。探す範囲が広すぎる」
ミラはやっとレオンを見た。大きく笑ったわけではない。けれど、鞄の取っ手を握っていた時の固さは、少し減っていた。
鍋の蓋が小さく鳴った。
レオンは慌てて木べらを取る。
「危ない。豆が話に混ざろうとしてた」
「豆も、戻りますか」
「戻らない。食う」
「豆はかわいそうです」
「世の中には、そういう役目の豆もある」
「先生は、そう言いません」
「先生に豆の役目を聞くのはやめろ。俺が呼び出される」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
翌朝、工場の警笛はいつも通り鳴った。
窓ガラスが細く震え、遠くの煙突から白い煙が上がり始める。学校が休みでも、工場は休まない。床の上で古い外套にくるまっていたレオンは、警笛に起こされ、目を開けた瞬間に少し恨めしそうな顔をした。
「木曜なのに鳴るのか」
寝台の上で、ミラはもう起きていた。
「工場は、関係ないから」
「先生の言葉が朝から強いな」
レオンは体を起こし、水差しを取った。桶へ水を移す音が、まだ眠い部屋の中で小さく響く。朝食は硬いパンと、昨日の豆スープだった。鍋の中身はいつもより少し多い。レオンはそれを小さな器に分け、布で包もうとして、豆を片側へ寄せた。
扉が叩かれた。
開けると、テレーズが立っていた。腕まくりはまだしていないが、もう洗濯場へ行く顔をしている。
「それ、見せてごらん」
「昼飯です」
「昼飯を鉄板みたいに包むんじゃないよ」
「鉄板は包みません」
「そういう返事をしている間に漏れるんだよ」
テレーズは器を受け取り、布を広げ直し、豆スープの器と硬いパンをきちんと包んだ。手つきが早い。レオンが感心していると、テレーズは包みを持ち上げて言った。
「子どもの昼飯は、運ぶ途中で勝負を始めないように包むんだよ」
「飯も勝負しますか」
「あんたが相手だと、何でも危ない」
エリーズも共同廊下から顔を出した。手には小さな布袋を持っている。
「ミラ、スモックと襟はこの袋ね。午後に湯屋へ行くから、靴下も入れて」
ミラは寝台の端に畳んであったスモックを両手で持ち上げた。
「学校へ行かないのに、学校の服を持っていきます」
「洗って戻すためよ」
「服は、湯屋へも行きますか」
「服は洗濯場。ミラは湯屋。レオンは工場」
エリーズはレオンを見た。
「混ざらないように」
「俺が湯屋へ行かないことは分かってる」
「あんたのことはいいの。気にしてるのは、そのあと」
ミラは布袋を抱えた。鞄とは違う軽さだ。学校へ行く時のような紙は入っていない。けれど、自分の服が入っている。
レオンは帽子をかぶり、ミラの前にしゃがんだ。
「夕方、迎えに行く」
「湯屋のあとですか」
「湯屋のあとだ」
「怒鳴られなくても?」
「怒鳴られなくても行く。テレーズさんに怒鳴られたら少し早く行く」
テレーズが後ろから言った。
「時間通りに来れば怒鳴らないよ」
「時間通りが一番難しい」
「そこを難しい顔で言うんじゃない」
ミラはレオンを見て、短く頷いた。学校で先生に返すような、きれいすぎる頷きではなかった。
そのことに、レオンは少し安心した。
工場は木曜でも、いつものように油の匂いで満ちていた。
鉄板を置く音、台車の車輪、奥の機械の低い唸り。レオンは流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置いた。手は動いている。だが、頭の隅には、布で包まれた豆スープと、洗濯場へ向かったスモックと、湯屋へ行く予定のミラがいた。
壁の時計を見る。
まだ昼前だった。
「おい、レオン」
隣でロイが部品を置きながら言った。
「今日は時計に惚れたのか」
「木曜を見張ってる」
「木曜は逃げないぞ」
「休みのくせに、やることが多い」
「お前が休みじゃないからだろ」
レオンは部品を棚へ置いた。
「学校が休みなら、少し楽になると思った」
「なったか」
「木曜の方が強かった」
ロイは笑った。
「父親は木曜に振り回されるんだな」
「父親じゃない」
「じゃあ、木曜に振り回される保護者見習い」
「見習いを付けるな。少し刺さる」
「刺さるなら効いてる」
昼休みになると、レオンは工場の門の方を見た。今戻れば、テレーズの部屋でミラが昼を食べている頃かもしれない。豆スープは足りただろうか。パンは硬すぎなかっただろうか。服は洗濯場で迷子になっていないだろうか。
水場で手を洗っていたデュラン工場長が、横から低く言った。
「どこへ行く気だ」
「少し、昼飯を見に」
「見たら豆が増えるのか」
「安心が増えるかと」
「お前の安心だけ増やしてどうする」
レオンは口を閉じた。
デュラン工場長は手を拭き、工場の奥へ目を向けた。
「今抜けて半端な顔で戻るより、終業後にきちんと迎えに行け。仕事を途中で落とした保護者は、子どもの迎えにも遅れる」
「保護者」
「書類にそう書いたんだろ」
レオンは帽子の縁を押さえた。
役所の紙に書いた言葉が、工場長の口から出ると、急に油の匂いの中へ落ちてくる。遠い言葉ではなくなる。
「……終業後に行きます」
「そうしろ」
「でも、豆が足りなかったら」
「テレーズがいる」
「服が迷子になったら」
「エリーズがいる」
「俺が心配しなくても?」
「心配はしていい。持ち場を捨てる理由にするな」
レオンは作業場へ戻った。
その後も時計は何度か見た。ロイには見られるたびに笑われたが、部品の向きは間違えなかった。木曜に負けるとしても、仕事でまで負けるわけにはいかない。
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。
水場で手を洗う。爪の間の油は少し残ったが、今日はそれを何度もこすっている時間が惜しかった。作業着の袖を払って、工場を出る。
夕方の通りは、朝より少し冷えていた。パン屋の前には焼けた匂いが残り、石畳の上を馬車の車輪がゆっくりこすっている。公営労働者アパートの中庭へ入ると、洗濯場から湯気と石鹸の匂いが流れてきた。
白い襟が干されている。
靴下もある。紺色のスモックも、竿にかけられていた。水を含んだ布は少し重そうだが、形は崩れていない。
レオンはそれを見て、思わず息を吐いた。
「戻ってる」
「乾いてからだよ」
テレーズが水桶を片づけながら言った。
「まだ着せるんじゃないよ。濡れたまま学校へ行かせたら、先生に刺される前に私が刺す」
「今日は刺される相手が多いですね」
「それだけあんたが危ないってことだよ」
洗濯場の端では、ミラがエリーズに髪を拭かれていた。市営浴場から戻ったばかりらしく、金髪は少し湿っていて、いつもより明るく見えた。外套は肩にかけられ、足元には磨かれた靴がそろえて置かれている。
ミラはレオンを見つけると、立ち上がろうとした。
「座ってていい」
エリーズが肩を押さえる。
「髪を拭いてから」
ミラは座り直した。それから、レオンを見上げる。
「来ました」
「来た。木曜に少し勝った」
「少し?」
「全部勝ったと言うと、テレーズさんが訂正しそうだから」
「分かってるじゃないか」
テレーズが器を掲げた。昼に包んだ豆スープの器だ。中は空になっている。
「昼飯は食べたよ」
「空なら上等です」
「豆がね」
「俺も少しは」
「包み直したのは私だよ」
「そこは分かってます」
エリーズがミラの髪を布で挟みながら言った。
「湯屋でもおとなしかったわ。服を置く棚を何度も見ていたけど」
ミラは膝の上で手を重ねた。
「服は、置いていきました」
「置いたけど、戻ったでしょ」
「はい」
「靴も戻った」
「はい」
「レオンも来た」
エリーズがそう言うと、ミラはレオンを見た。
「はい」
その返事は、小さかったが、きちんと聞こえた。
レオンは竿にかかっているスモックを見た。胸元はまだ乾いていない。白い襟も、乾けば前より少し明るくなるだろう。
ミラが言った。
「服は、戻りますか」
「乾いたら、部屋へ戻るよ」
テレーズが答えた。
「同じ服だ。だけど、名前をつけておくと、もっと戻りやすいね」
ミラは竿の上のスモックを見上げた。
「名前があると、戻りますか」
「物はね」
テレーズはそこでレオンを見た。
「人は、名前があっても、迎えに行く人がいる方がいい」
レオンはすぐには返せなかった。
エリーズがミラの髪を最後に軽く整え、布を畳んだ。
「名前布、明日先生に聞いてみましょう。必要なら私が用意するわ」
「名前を、服につけますか」
「そう。ミラの服だって、分かるように」
ミラはスモックを見たまま、丁寧には頷かなかった。ただ、考えるように少しだけ唇を結んだ。
その夜、部屋に戻ると、ミラはいつもの椅子に座った。
湯屋のあとで少し疲れているのか、声はいつもより静かだった。髪は乾ききっていない。白い襟とスモックは洗濯場に干したままで、部屋にはまだ戻っていない。それでも、ミラは裸電球の下で、自分の椅子にきちんと腰を下ろしている。
レオンは黒い鍋を火にかけ直した。昼に残った豆はほとんどない。夕飯には、硬いパンと、薄くなったスープを分けることになる。
「木曜は、席も休みますか」
ミラが言った。
レオンは鍋の蓋を取る手を止めた。
軽く、椅子が休んだら俺が座る、などと言いそうになった。けれど、今日は朝からずっと、服も昼飯も湯屋も洗濯場も、全部ミラの中でつながっていた。学校が休みなら、服はどうなるのか。昼飯は戻るのか。自分はどこへ行くのか。なら、席もそうなのだろう。
「席まで休んだら、部屋が困る」
レオンは答えた。
「困りますか」
「困る。俺がどこにお前を座らせたらいいか分からなくなる」
「学校が休みでも?」
「学校が休みでも、うちは休まない」
言ってから、レオンはその言葉が思ったより大きいことに気づいた。学校が休む日にも、昼飯が必要で、服は乾き、椅子はあり、夕方には誰かが帰りを待つ。その全部を、休ませてはいけないのだ。
ミラは椅子の座面を、両手でそっと押さえた。
欠けていない皿は棚にある。洗った服は洗濯場で乾いている。昼飯の器は戻ってきた。木曜は学校へ行かなかったが、夕方にはレオンが迎えに来た。
ミラは少しだけ息を吐いた。
「木曜、強かったです」
「強かった。でも、今日は逃げ切った」
「誰が?」
「俺と、豆と、スモックだ」
「席は?」
「学校の席は、最初から勝ってた」
ミラは椅子に座ったまま、ほんの少し笑った。
鍋の中で、薄い豆のスープが小さく鳴った。レオンは木べらで底をかき、焦げていないことを確かめる。
「明日は学校か」
「はい」
「スモックが乾いてたら着ていく」
「名前は?」
「先生に聞く。エリーズにも聞く。俺が勝手に縫うと、かなり曲がる」
「曲がると、戻りませんか」
「曲がっても戻る。でも、読めた方が戻りやすい」
ミラは真面目に頷いた。
その頷きは、分からないまましまいこむ時のものではなかった。まだ少し分からないけれど、明日聞くことを覚えておくための頷きだった。
レオンは皿を二枚出した。
一枚は欠けている。もう一枚は、欠けていない。机の上に並べると、いつものように狭かった。狭いが、二人分は置ける。
「木曜は休みじゃなかったな」
レオンが言うと、ミラは首を傾げた。
「学校は休みでした」
「俺の頭が休めなかった」
「頭は、使えましたか」
「今日は少し使えた」
「少しですか」
「木曜相手なら大健闘だ」
ミラは机の上の皿を見て、それからレオンを見た。
「でも、うちは休みません」
レオンは、鍋からスープをよそいながら頷いた。
「休まない」
湯気が細く上がった。
外では、共同廊下を誰かが歩く音がした。洗濯場の方から、テレーズの声と、エリーズの笑い声がかすかに聞こえる。遠くの工場の煙突は夜の中に沈んでいたが、明日の朝になればまた警笛が鳴る。
学校も、工場も、木曜も、また来る。
けれどこの部屋には、今日も椅子があり、皿があり、戻るための夜があった。
学校が休んでも、ここだけは閉まらなかった。




