第15話 保護者の席
金曜の帰り、市立初等校の門の前は、いつもより少しだけにぎやかだった。
子どもたちは鞄を抱え、迎えに来た大人の袖を引き、週の終わりを知っているような顔で声を弾ませている。レオンは工場の水場で手を洗ってきたが、爪の間の油はまだ少し残っていた。袖口も、見れば黒い。けれど時間には遅れていない。紙も落としていない。今日はかなり勝っている方だと、本人は思っていた。
予備学級の入口から、ミラが出てきた。
鞄を胸の前に抱え、レオンを見つけると、小さく頭を下げてから歩いてくる。走らない。けれど、立ち上がるのも、こちらへ向かうのも、最初の日より少し早くなっていた。
「今日は、遅れていません」
「勝った」
レオンが胸を張ると、ミラは真面目に首を傾げた。
「誰に?」
「時計に」
「時計は、怒りますか」
「怒る前に鳴る。工場の時計は性格が強い」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
その時、教室の入口からルノー先生が出てきた。髪をきちんとまとめ、名簿を胸元に抱えている。レオンを見ると、まず門の時計を確かめ、それから短く言った。
「レオンさん、今日は少し残ってください」
レオンは反射で背筋を伸ばした。
「俺、何かしましたか」
「今日はしていません」
「今日は」
「来週からの持ち物について、保護者の方に短く説明します」
レオンは一拍遅れて、先生の言葉を繰り返した。
「保護者の方」
「あなたです」
ミラがレオンを見上げた。鞄の取っ手を両手で持ち、先生とレオンを交互に見ている。
「俺、説明される側ですか」
「聞く側です」
「刺される側ではなく?」
ルノー先生は少しだけ眉を上げた。
「必要なら刺します」
「必要がないように聞きます」
「そうしてください」
教室には、迎えに来た大人たちが何人か残っていた。低い机と小さな椅子が並ぶ部屋の奥に、大人用の椅子が数脚置かれている。レオンは最初、ミラの席の近くへ行こうとして、ルノー先生に止められた。
「レオンさん、保護者の方はこちらです」
「ミラの席はあっちですよね」
「ミラさんの席です。あなたの席ではありません」
「俺の席もあるんですか」
「保護者の席があります」
レオンはその言葉を聞いて、妙な顔をした。
保護者という言葉は、役所の紙に書かれるものだと思っていた。ロベールが手帳へ記録する時に使うもの。デュラン工場長が面倒な顔をする時に出てくるもの。ベルナールが静かに目を細める時に、少し重くなるもの。
けれど学校では、その言葉に椅子がついていた。
レオンは大人用の椅子に腰を下ろした。隣には、丸い顔をした婦人が座っている。膝の上に布袋を置き、子どもの上着を畳む手つきに迷いがない。あとで名を聞くと、マルグリット夫人といった。子どもが上の学年にもいるらしく、この低い机と小さい椅子の部屋で、大人用の椅子に座ることに慣れている顔だった。
ミラは子どもたちの席の方にいた。鞄を抱えたまま、レオンが保護者の席に座っているところを見ている。走ってくるでもなく、口を挟むでもない。ただ、そこにレオンの席があることを確かめているようだった。
ルノー先生は黒板の前に立ち、余計な前置きなしに説明を始めた。
「来週から、持ち物には名前をつけてください。スモック、袋、靴、鉛筆。小さい物ほどなくなります。欠席や遅刻の連絡、迎えの時間、宿題の確認もお願いします」
レオンは真面目に聞いていた。
真面目に聞いていたが、真面目に受け取り方を間違えた。
「持ち物検査ですね」
ルノー先生の視線がこちらへ向く。
「検査ではありません。管理です」
「俺が検査される側ではなく?」
「見る側です」
「急に責任が重い」
「急ではありません。最初からです」
周りの大人が少し笑った。レオンは帽子を膝の上で持ち直す。ミラはまだこちらを見ていた。笑ってはいない。けれど、不安だけの顔でもなかった。レオンが先生に直されているところを、いつものこととして見ている顔に少し近い。
説明が終わると、マルグリット夫人が膝の布袋を開いた。中には白い布切れが何枚も入っている。端がきれいに折られ、小さな札のようになっていた。
「名前布は用意しました?」
レオンは聞き返した。
「名前布」
「ええ。服や袋に縫いつけるんです。洗っても落ちませんよ」
「服に名前を?」
「子どもの物は、歩いてなくなりますからね」
レオンは真面目に頷いた。
「椅子より動くんですね」
「椅子はたいてい、学校から帰りません」
「それは助かります」
マルグリット夫人はくすりと笑い、布を一枚つまんで見せた。
「小さいうちは、だいたい家の人の仕事です」
家の人。
その言葉が、レオンの膝の上に置かれた帽子のあたりで止まった。
迎えに来る人。持ち物を見る人。時間を覚える人。名前をつける人。
紙を出したから終わりではない。学校へ通うというのは、朝に連れていき、夕方に連れて帰るだけでもないらしい。
レオンが黙っていると、マルグリット夫人は布袋から白い布を二枚取り出した。
「余りでよければ、少し持っていきます?」
「いいんですか」
「最初は何がいるか分からないでしょう」
「分からない顔、出てましたか」
「かなり」
「顔が働きすぎる」
「手も働かせてくださいね。縫うのは今夜の仕事ですよ」
レオンは白い布を受け取った。工場で触る布とは違う。油を拭くぼろ布でも、荷を包む布でもない。小さくて、白くて、名前を書くための場所がある。
ミラが近づいてきた。
「それは、学校の紙ですか」
「布だ」
「学校のものですか」
「まだ違う。マルグリット夫人からもらった」
マルグリット夫人はミラへやわらかく笑った。
「あなたの名前を書くのよ。なくなった時に戻ってくるように」
ミラは布を見て、すぐには頷かなかった。
「戻るため」
「そう」
ルノー先生が横から短く補った。
「持ち物は、名前があると戻しやすくなります。名前がないと、誰のものか分からなくなることがあります」
ミラは白い布から目を離さなかった。
「誰のものか」
小さな声だった。
レオンは布をしまいながら、先生へ頭を下げた。
「来週までに縫いつけます」
「月曜の朝で構いません」
「今夜やります。忘れる前に」
「忘れそうな自覚があるなら、今夜がいいです」
「先生、説明のあとでも戻すのが速いですね」
「必要でしたので」
教室を出ると、夕方の通りには少し冷たい風が流れていた。馬車の車輪が石畳をゆっくりこすり、パン屋の前から焼けた匂いが残っている。ミラは鞄を胸の前に抱えたまま、レオンの隣を歩いた。
しばらくして、ミラが言った。
「レオンさんの席、ありました」
「あったな」
「小さくありませんでした」
「大人用だった」
「保護者の席です」
レオンは帽子の縁を押さえた。
「そうらしい」
「レオンさんは、座りました」
「座らされた、が近い」
「でも、立ちませんでした」
「座っただけで、保護者になりますか」
「ならない」
「でも、席はありました」
レオンは横を見た。
ミラは前を向いている。声はいつものように静かだったが、その言葉は、ただ椅子の話だけではない気がした。
「途中で逃げたら、先生に席ごと戻される」
「先生は、戻すのが上手です」
「ベルナールさんは、戻す前にこっちが間違ってることに気づかせてくる」
「エリーズさんは?」
「聞こえる場所で怒る」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
公営労働者アパートの中庭へ戻ると、洗濯場ではテレーズが水桶を片づけていた。エリーズは籠を抱え、マノンのほどけた髪ひもを直している。ルルは木の匙を持ったまま、トトの前にしゃがんでいた。トトは匙に興味がない顔で尻尾だけ動かしている。
テレーズがレオンを見るなり、目を細めた。
「今日は何を持って帰ってきたんだい」
「名前布です」
「あんた、また新しい紙に負けたのかい」
「今日は布です」
「紙でも布でも、あんたが持つと心配になるね」
エリーズがすぐに近づいてきた。
「名前布?」
「学校で言われた。持ち物に名前をつけるんだと」
「やっとその話が来たのね。布は?」
レオンが白い布を見せると、エリーズはすぐに受け取って、端を確かめた。
「悪くないわ。字は?」
「俺が書く」
エリーズの顔がはっきり止まった。
「誰の名前を?」
「ミラの」
「やめなさい」
「即答か」
「ミラの名前が、工場の部品番号みたいになるわ」
「俺の字、そこまで悪いか」
「紙に書くならまだ直せるけど、布に書いたら逃げないのよ」
テレーズが笑いながら言った。
「エリーズ、あんたが字を書いてやりな。縫うくらいはレオンにやらせればいい」
「縫うのは俺なのか」
「保護者の仕事だろう?」
レオンは返事に詰まった。
自分で、今夜やると言った。先生にも言った。マルグリット夫人にも手を働かせろと言われた。
「やります」
エリーズは少しだけ意外そうにレオンを見た。
「本当に?」
「本当に。名前布くらい縫う」
「くらいって言う人ほど、糸に負けるのよ」
「糸はそんなに強いのか」
「強いんじゃなくて、あんたが雑なの」
ミラは白い布を見ていた。
「名前は、エリーズさんが書くんですか」
「ええ。読みやすく書くわ」
「レオンさんは?」
「縫う係」
レオンが胸を張ると、エリーズが針で刺す前から釘を刺した。
「胸を張るのは、縫いつけてからにして」
その夜、レオンの部屋の小さな机は、工場の作業台のようになった。
紺色のスモック。小さな袋。白い名前布。針。糸。鉛筆の短い残り。エリーズが書いたミラの名前は、白い布の上にきれいに並んでいる。レオンが書いた場合より、ずっと人の名前らしかった。
ミラは椅子に座り、両手を膝の上に置いて見ていた。レオンは床に座り、スモックを膝の上に広げている。
「検査?」
ミラが聞いた。
「保護者の仕事だ」
「検査係ではないの?」
「先生に直された。管理だ」
「管理」
「かなり強い言葉だ」
扉は半分開いていた。廊下側にはエリーズとテレーズがいて、手元を見張っている。二人とも、手を出す気はあるが、最初から奪う気はないらしい。
レオンは針に糸を通した。
そこまではできた。
結び目を作る段階で少し苦戦した。
「糸と喧嘩したのかい」
テレーズが言った。
「勝ったつもりでした」
「それ、向こうが面倒になって丸まっただけだよ」
エリーズが肩をすくめる。
「結び目が大きいわね」
「小さいと逃げるだろ」
「逃げないわよ」
「今日の話では、物は歩いてなくなるらしい」
「糸まで歩かせないで」
ミラが少し笑った。
レオンはその顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。けれど、針先はまだ信用できない。指に刺したら痛い。ミラのスモックに変な穴を開けたら、もっと痛い顔をされる気がする。
最初の一針は、思ったより遠くへ出た。
エリーズがすぐ言った。
「そこじゃない」
「まだ一針目だぞ」
「一針目から遠足に行かないで」
レオンは言い返す代わりに、針を引き、次の場所を慎重に決めた。工場の部品なら、向きが違えば誰かが怒鳴る。布は怒鳴らない。だから余計に怖い。間違えても、黙って曲がったまま残る。
何針か進んだところで、ミラが口を開いた。
「名前を書くと、学校のものになりますか」
部屋の中の空気が、少しだけ変わった。
テレーズもエリーズも、すぐには口を出さなかった。
レオンは針を持ったまま、スモックを見た。白い布に書かれたミラの名前。まだ半分しか縫いついていない。端が少し浮いている。
軽く、ならないだろ、と言いそうになった。けれど、それではたぶん足りない。
「学校のものになったら困るだろ。俺が迎えに行くものが……いや、違う。今のは違う」
レオンは自分で言葉を止めた。
エリーズが何か言う前だった。テレーズが眉を上げる。ミラは、レオンをじっと見ている。
レオンは針をいったん布に刺して止め、少し考えた。
「名前は、学校のものにするためじゃない」
「じゃあ、何のため?」
「戻りやすくするためだ。服も、袋も、靴も。なくなった時に、誰のものか分かるようにする」
ミラは白い布を見た。
「わたしも?」
レオンはすぐには答えなかった。
スモックの布は薄い。洗えば乾くし、破れれば繕える。名前布をつければ、誰のものか分かる。けれど、ミラは服ではない。鞄でも靴でもない。その当たり前を、今のレオンは前より少しだけ分かる。
「お前は、名前布で戻すものじゃない」
ミラは顔を上げた。
「じゃあ?」
「俺が迎えに行く」
針で留めるのではなく、歩いて迎えに行く。紙や布より頼りない約束かもしれないが、レオンが今できる中では、それが一番まっすぐだった。
ミラは瞬きをした。
大きく笑ったわけではない。安心した、と言ったわけでもない。ただ、膝の上で重ねていた指の力が少し抜けた。
「レオンさんは、月曜も?」
「行く。時間に負けないようにする」
「時計は強いです」
「そこは知ってる」
エリーズが横から言った。
「時計に負けたら、私が勝ちに行くわよ」
「俺が負ける前提で話が進んでないか」
「前歴があるからね」
レオンは反論しようとして、針先が自分の指に近づいたのでやめた。今夜は口より手元が危ない。
それからしばらく、部屋には糸を引く音と、外の共同廊下を歩く足音だけがあった。時々、テレーズが「そこはもう少し近く」と言い、エリーズが「引っ張りすぎ」と直す。レオンはそのたびに真面目な顔で頷いた。普段なら何か言い返すところだが、ミラの名前布を縫っている間は、あまり余計なことを言えなかった。
最後の糸を結ぶ時、結び目はやはり少し大きくなった。
レオンは糸を切り、スモックを持ち上げた。
白い名前布は、胸元に縫いついていた。まっすぐとは言いがたい。ほんの少し右へ上がっている。針目も均一ではない。けれど、指で軽く引いても取れなかった。
「曲がった」
レオンが言うと、エリーズが覗き込んだ。
「読めるわよ」
テレーズも頷く。
「洗って落ちなきゃ上出来だよ」
ミラは椅子から下り、スモックの前に立った。白い布の上に、自分の名前がある。エリーズの字で書かれ、レオンの針目で留まっている。
「曲がっていても、戻りますか」
レオンは少し考えた。
「戻る。俺も曲がってるけど、だいたい戻ってきてる」
エリーズが即座に言った。
「だいたいじゃ困るのよ」
「じゃあ、ちゃんと戻る」
ミラは丁寧に頷きかけて、途中で少し止めた。分かったふりを急がない顔だった。
それから、小さく言った。
「月曜、学校へ持っていきます」
「持っていく。夕方、服も袋も、お前も迎えに行く」
「順番は?」
レオンはスモックを椅子の背に掛けながら答えた。
「お前が先だ。服と袋は、お前が持ってたら一緒に来る」
ミラは名前布をもう一度見た。
「一緒に来ます」
「そうだな」
エリーズが少しだけ笑い、テレーズは満足そうに水桶を持ち直した。
裸電球の下で、紺色のスモックが椅子の背に掛かっている。胸元の白い布は少し曲がっていたが、落ちてはいなかった。
レオンの部屋に、また一つ、ミラのものだと分かる印が増えた。




