第16話 ミラのレオン
週明けの市立初等校の門前は、朝から小さな声でいっぱいだった。
子どもたちは鞄を抱え、見送りに来た大人たちは帽子や襟を直している。低い門のまわりには、靴音と布のこすれる音が集まっていた。レオンはその中で、ミラの胸元を見ていた。
紺色のスモックには、白い名前布がついている。
エリーズが整えた字を、レオンが前の晩に針で縫いつけたものだ。針目は途中で小さな坂になっていたが、朝になっても取れてはいなかった。
「曲がってます」
ミラは指先で名前布の端を押さえた。
「読めるだろ」
「読めます」
「なら今日は、取れてない方を褒めてくれ」
「取れていません」
「よし」
レオンが少し胸を張ると、門の横にいたエリーズが籠を抱え直した。
「糸に負けかけた男が、朝から堂々としてるわね」
「負けかけただけだ。最後は俺が勝った」
「勝ったなら、そこまで曲がらないのよ」
エリーズはそう言いながら、名前布の端を指でそっと整えた。
「でも、落ちてないからいいわ。子どもの物は、少し目を離すとどこかへ行くんだから」
ミラは名前布を見下ろした。
「服も、どこかへ行きますか」
「歩かないけど、なくなるの。子どもの服は忙しいのよ」
「忙しい服」
「そこに引っかかるのか」
レオンが言うと、エリーズがすぐに返した。
「名前と服と子どもをまとめて扱うから、引っかかられるのよ」
「今日はまだ失敗してない」
「門の前だけで勝った顔をしない」
ミラは二人を見比べ、小さく頭を下げた。それから、レオンと一緒に予備学級の入口へ向かった。
教室の前には、子どもたちが何人も集まっていた。低い声、高い声、鞄の留め具が鳴る音。壁際の小さな靴箱には、すでにいくつかの靴が並んでいる。
ジュールがこちらを見つけた。
「ミラのレオン来た」
六歳くらいの男の子は、口が早く、いつも少し前のめりに話す。悪気はないが遠慮もない。レオンはすでに何度か、子どもの遠慮のなさは大人の小言より避けにくいと知っていた。
「俺に名前をつけるな」
「名前じゃないよ。ミラの」
「なお悪いだろ」
「なんで?」
「俺は物じゃない」
「でも、ミラを迎えに来る」
「今日は見送りだ」
「帰りも来る?」
「来る」
「じゃあ、ミラのレオンだ」
話がきれいに戻ってきた。レオンが帽子の縁を押さえていると、そばにいたルシアンが静かに言った。
「ミラは、レオンさんが来ると分かる」
ルシアンはジュールより口数が少ない。けれど、見たものをそのまま言うので、時々よけいに逃げ場がない。
レオンは少し身をかがめる。
「俺の足音か?」
「顔」
「俺の顔が分かりやすいのか」
「ミラの顔」
レオンは言葉を探して、見つけられなかった。
ミラは鞄の取っ手を両手で持っている。走って教室へ入るわけでも、レオンの後ろに隠れるわけでもない。ただ、ジュールたちの言葉を聞きながら、少しだけレオンを見上げた。
その顔を、ルシアンは見ていたのだろう。
ルノー先生が教室の入口から出てきた。髪をきちんとまとめ、手には名簿を持っている。レオンを見ると、まず時間を確認し、それからミラの胸元の名前布を見た。
「名前布、つきましたね」
「つきました。少し曲がってますけど」
「読めます」
「曲がっていることと読めないことは別、ですよね」
「覚えているなら、次は最初から落ち着いて縫ってください」
「次があるんですか」
「子どもの持ち物は増えます」
「急に未来が怖い」
レオンは大人しく帽子を持った。
ジュールがルノー先生に言う。
「先生、ミラのレオンって呼んでいい?」
「人に呼び名をつける時は、本人にも聞きましょう」
ジュールはすぐにレオンを見た。
「いい?」
「俺が聞かれるのか」
レオンが困っていると、ミラが小さく言った。
「だめじゃないです」
レオンはミラを見る。
「だめじゃない、なのか」
「だめではないです」
「いい、ではなく?」
ミラは鞄の取っ手を持ち直した。
「まだ、そこまでは分かりません」
ルノー先生は名簿を胸元に寄せ、淡々と言った。
「分からないことを、急いで決めなくていいです」
レオンは少しだけ肩を落とした。
「先生、今日は俺じゃなくて言葉を助けましたね」
「言葉が先です。人は、そのあとで困ります」
「順番がかなり正しい」
「では、ミラさん。教室へ」
ミラは小さく頷き、教室へ入った。入口で一度だけ振り返る。レオンがまだ門の方へ戻らずにいるのを見ると、ほんの少し口元をゆるめ、それから席へ向かった。
レオンはその顔を見て、何か言おうとした。
だが、ジュールがまた横から言う。
「ミラのレオン、帰りも来るんだよな」
「来る。だから今は工場へ行かせろ」
「工場もミラの?」
「工場は工場長のだ」
「じゃあ、工場長のレオン?」
「それは絶対に嫌だ」
ルノー先生が咳払いをした。レオンは帽子をかぶり直し、今度こそ門を出た。
工場へ向かう通りには、朝の湿り気が残っていた。パン屋の前から焼けた匂いが流れ、馬車の車輪が石畳をゆっくりこすっている。工場に近づくにつれて、油の匂いと鉄を打つ音が強くなっていった。
作業場では、いつものように部品が流れていた。
レオンは手袋をはめ、流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置く。手は動く。けれど、頭の隅では、朝の門前の声が何度か戻ってきた。
ミラのレオン。
変な呼び方だ。
自分の名前を誰かの持ち物みたいにつけられるのは、少し気に入らない。けれど、完全に腹が立つかと言われると、それも違う。違うから、なお面倒だった。
昼前、隣のロイが部品を置きながら言った。
「今日は名前布か」
「何で知ってる」
「朝、テレーズさんが言ってた。レオンが糸と戦って、糸の方が途中まで優勢だったって」
「アパートの洗濯場は新聞より早いな」
「しかも誤字がない」
「俺の記事ばっかり載せてないか」
「人気欄だ」
レオンは言い返そうとして、部品の向きを直した。少しずれていた。余計なことを考えると、鉄板はすぐにそれを見せてくる。
昼休みになると、工員たちは作業場の隅に集まった。
硬いパン、チーズの端、薄切りソーセージ、紙に包んだじゃがいも。誰かが古いカードを出し、別の誰かが小さな紙包みを机の端へ置いた。
砂糖のついた硬い菓子だった。
レオンはそれを見た。
「勝ったらください」
紙包みの持ち主が眉を上げる。
「お前、前は酒場の一杯だったろ」
「ミラは酒を飲まない」
「飲ませたら殴るぞ」
「そこまで浅くない」
ロイが横から言う。
「そこまでは、だな」
別の工員が道具箱の上に小さな木の鳥を置いた。子どもの玩具らしい。羽の端が少し欠けているが、形はまだちゃんと鳥だった。
「これもいるか。うちの下の子がもう遊ばない」
「羽の端、削ればいけますね」
「勝つ前から持ち主の顔をするな」
「負けたら、休憩所の片づけ一回やります」
「子どもの菓子と木の鳥のために、雑用を賭ける十八歳か」
「勝てば部屋の物が増える」
ロイが笑った。
「前より勝ち方が小さくなったな」
「机の上に乗る大きさは、部屋に合ってる」
「急に暮らしに合わせるな」
勝負そのものは、大したものではなかった。昼休みの短い時間に、硬いパンを片手で食べながらやる遊びだ。だが、レオンはいつもより真剣だった。
工員たちはそれがおかしくて、わざと菓子の包みを遠くへ置いたり、木の鳥を道具箱の奥へ隠すふりをしたりした。
最後にレオンが札を出すと、ロイが肩を揺らした。
「勝ったな」
「勝った」
レオンは紙包みと木の鳥を受け取った。
木の鳥は新品ではない。塗りも少し剥げている。けれど、机の上に置くには悪くなさそうだった。レオンは工場の隅にあった紙やすりを借り、欠けた羽の角だけを丸くする。
「お前、木まで面倒見るようになったのか」
年上の工員が言った。
「刺さると困るので」
「誰に」
「ミラに」
「じゃあ、ミラの鳥か」
「まだ鳥の鳥です」
「ややこしいな」
レオンは木の粉を軽く払った。削りすぎると鳥ではなくなるので、そこだけは慎重にした。
終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。
水場で手を洗い、爪の間の油をこすり、外套の内ポケットを確かめる。菓子の紙包みと木の鳥は、ちゃんとある。木の鳥には布の端を巻いて、油が移らないようにしていた。
ロイが後ろから声をかける。
「ミラのレオン、迎えに行くのか」
「工場まで広げるな」
「広がる名前は強いぞ」
「強くなくていい」
「落とすなよ、鳥」
「飛ばないようにしてある」
「鳥としてはどうなんだ」
「俺の部屋向きだ」
レオンはそう返して、工場を出た。
市立初等校の門前は、夕方もにぎやかだった。迎えに来た大人たちの声、子どもたちの足音、鞄の揺れる音が混ざっている。予備学級の入口から、ミラが鞄を抱えて出てきた。
胸元の名前布は、朝と同じように少し曲がっている。けれど、取れてはいなかった。
ジュールがその後ろから顔を出す。
「ミラのレオン、帰りも来た」
「帰りだからな」
「明日も?」
「来る」
「明後日も?」
「来る」
教室の入口から、ルノー先生の声が飛んだ。
「今の返事は正しいです」
レオンは帽子を持ち直した。
「やっと正解が出た」
「続けてください」
「正解は一回で終わらないんですね」
「迎えは毎日あります」
ミラは胸元の名前布を一度だけ見下ろし、それからレオンの隣に来た。
「今日は、手がきれいです」
「工場の水場と勝負してきた」
「勝ちましたか」
「爪の間は少し負けた」
ミラは真面目にその指先を見てから、鞄を持ち直した。
帰り道、ミラはいつもより少しだけレオンの外套を見ていた。正確には、外套の内ポケットのあたりだ。
「そこに、何かありますか」
「ある」
「紙?」
「今日は紙じゃない」
「パン?」
「パンでもない」
「犬のパン?」
「内ポケットに犬を入れたら、俺がかなり怒られる」
「パンは入らない」
「入らないし、入れない」
ミラは少し考えた。
「じゃあ、何ですか」
「帰ってから見るものだ」
「見たら、返しますか」
「返さない」
ミラの眉が少し動いた。
レオンは、先に言い切れたことに自分で少し驚いた。
「返さない。お前の机に置く」
「机は、レオンさんの机です」
「俺の机でもある。最近、少しずつ押されてる」
「誰に?」
「小さい鉛筆とか、学校の紙とか、これから出すものとか」
ミラは外套の内ポケットを見た。
「鳥も、押しますか」
「今のは聞かなかったことにしろ」
「聞こえました」
「耳がいいな」
「近いです」
ミラはそう言って、ほんの少し口元をゆるめた。
公営労働者アパートの中庭へ戻ると、洗濯場ではテレーズが水桶を並べていた。エリーズは籠を抱え、マノンのほどけた髪ひもを直している。ルルは木の匙を持ったまま、トトの尻尾を追いかけていた。
テレーズがレオンを見るなり、目を細めた。
「今度は何を隠してるんだい」
「まだ何も見せてません」
「あんたは、隠す前から顔に出るんだよ」
エリーズもこちらを見た。
「また紙?」
「今日は鳥です」
「生きてるの?」
「木です」
「木の鳥まで拾ってきたの?」
「拾ってない。勝った」
ミラがレオンを見上げた。
「買ったの?」
「勝った」
「お菓子屋さんに?」
「工員に」
「工員さんに勝つと、お菓子が出ますか」
「毎回ではない」
「負けると?」
「掃除が出る」
ミラは真面目に考えた。
「お菓子は、勝つものなんですか」
レオンは一瞬、言葉を失った。
「今の教育は少し危ない」
「かなり危ないわ」
エリーズがすぐに言った。
テレーズも水桶を置きながら続ける。
「菓子は買うか、もらうか、たまに分けるものだよ。掃除で勝ち取るものじゃない」
「掃除で勝ち取ると、そんなに悪く聞こえますか」
「実際に悪いわよ」
エリーズがあっさり言う。
マノンがミラの隣に来て、目を輝かせた。
「鳥、見る?」
「まだです。おうちで見ます」
「ミラの?」
ミラはすぐには答えなかった。レオンを見る。レオンは外套の胸元を押さえている。どう見ても隠し物がある人間の顔だった。
エリーズが笑いをこらえきれずに言った。
「それで、ミラのために勝ってきたわけ?」
「俺の勝ちです」
「使い道がミラなら、もうミラのレオンじゃない」
「呼び方を広げるな」
テレーズが水桶を持ち上げた。
「学校で呼ばれて、工場で鳥を勝って、アパートで隠して帰ってきたんだろう。広がる方が自然だよ」
「俺の名前に、今日は羽が生えすぎている」
「木の鳥より飛んでるわね」
エリーズが言うと、中庭の何人かが笑った。
レオンはミラの鞄を持ち直し、階段へ向かった。
「行くぞ。中庭でこれ以上広げると、明日には町の掲示板に貼られる」
「貼る紙ですか」
「貼らない紙だ」
「鳥なのに?」
「鳥は紙じゃない。今日はそこだけ覚えてくれ」
ミラは考えながら階段を上った。
部屋に戻ると、いつもの狭さが二人を迎えた。
寝台が一つ。床に敷いた古い外套。小さな机と椅子。簡易台所の黒い鍋。窓の外には工場の煙突が見え、夕方の煙がゆっくり上がっている。
ミラは鞄を机の横に置き、胸元の名前布を一度だけ見下ろした。
「取れていません」
「じゃあ、今日はそこもよし」
「朝より、少し曲がっています」
「曲がっても残ってるなら、まだよしだ」
ミラは小さく首を傾げたが、それ以上は言わなかった。
レオンは外套の内ポケットから、まず小さな紙包みを出した。砂糖のついた硬い菓子が一つ。次に、布の端に包んだ木の鳥を出す。
木の鳥は、ミラの手のひらに乗るくらいの大きさだった。羽の端は少し欠けているが、角は丸く削られている。塗りはところどころ剥げ、誰かが長く持っていた跡がある。それでも、鳥の形はちゃんと残っていた。
ミラはすぐに触らなかった。
「触っていいぞ」
「これは、勝ったものですか」
「教育に悪くない順で言うと、もらった」
「ほんとうは?」
「勝った」
ミラは木の鳥を見る。
「負けたら、鳥は来ませんでしたか」
「来なかったかもしれない」
「レオンさんは、鳥のために勝ったんですか」
「鳥だけじゃない。菓子もある」
「菓子のため?」
「それも違うな」
レオンは少し考えた。
ここで、いいことを言おうとするとだいたい失敗する。ベルナールなら静かに刺すだろうし、ルノー先生なら正確に直すだろうし、エリーズなら途中で止めるだろう。けれど、この部屋には今、ミラしかいない。
だから、なるべく短く言った。
「お前の机の上に、何か置けるものがあった方がいいと思った」
ミラは机を見た。
「わたしの机ですか」
「俺の机でもある」
「どっちですか」
「今日は、鳥のいる方がミラの場所だ」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
「鳥は飛びますか」
「飛ばない。飛ばしたら欠ける」
「鳥なのに」
「木の鳥は、そこが慎重なんだ」
ミラはようやく木の鳥へ手を伸ばした。指先で羽に触れ、削られたところを確かめる。痛くないと分かったのか、そっと持ち上げた。
「ここ、丸いです」
「工場で削った」
「鳥も、工場へ行ったんですか」
「少しだけな。車にはならなかった」
「車の少しにも?」
「ならなかった。鳥のままだ」
ミラは木の鳥を机の端に置いた。
小さな机の上には、水差し、古い鉛筆、折らないように棚へ移した学校の紙、そして木の鳥が並んだ。物が一つ増えただけなのに、部屋の中で机だけが少し違って見える。
「これは、戻りますか」
「鳥か」
「はい」
「机に置いたら、戻るというより、いるんじゃないか」
「いる」
「そうだ。飛ばない鳥は、いるのが得意だ」
ミラは木の鳥を見て、少しだけ頷いた。丁寧すぎる頷きではなかった。
レオンは外套を脱ぎ、床の上に放りかけて、途中でやめた。ミラの鞄の横に落ちそうだったので、椅子の背に掛ける。そういうことに気づくようになった自分に、少しだけ驚いた。
それから、ぼそっと言った。
「ミラのレオンって、変な呼び方だよな」
ミラは木の鳥から目を離さずに答えた。
「だめではないです」
レオンは少し困った顔をする。
「いい、でもないんだよな」
「まだ、そこまでは分かりません」
木の鳥は、机の上で飛ばずにいた。
レオンはそれを見て、まあ今日はそれでいいかと思った。
だめではない、という場所にも、しばらく置いておけるものがある。木の鳥も、変な呼び名も、まだ急いで決めなくてよかった。
ただ、迎えに行く人であることまでは、もう否定できなかった。




