第31話 泣いてない
夕飯のあと、黒い鍋は簡易台所の端に寄せられていた。
豆のスープはいつも通り薄く、硬いパンはいつも通り硬かった。アドリアンからの封筒が机の上にあっても、パンは急にやわらかくならない。レオンはそれをありがたいと思った。部屋の中まで何もかも違ってしまったら、どこに立てばいいのか分からなくなる。
ミラは小さな机の前に座っていた。
机の端には、さっき名前を書いた紙が置かれている。ミラの名前と、レオンの名前。どちらも少し曲がっていたが、読めない字ではない。レオンは自分の名前の二度目の方を見て、最初よりましだと思った。ミラは最初の方も読めると言ったので、そこは信用することにした。
封筒は、その隣にある。
アドリアン・ベルフォールの名前が、表に整った字で書かれていた。紙の上の字まで、指が長そうに見えるのは不公平だとレオンは思った。
ミラはしばらく封筒を見ていたが、やがて両手を膝の上にそろえた。
「読んでもらえますか」
レオンは水差しのそばで手を拭いていた布を見た。
「俺が読むのか」
「はい」
「長い言葉が出てきたら、途中で工場の言葉になるぞ」
「工場の言葉?」
「難しいものを、だいたい部品か向きで考える」
ミラは封筒を見たまま、真面目に言った。
「落とさないでください」
「そこからか」
「油も、つけないでください」
「信用が、机の上でかなり薄くなってるな」
レオンはもう一度手を拭いた。爪の間の黒い線は相変わらず残っている。だが今日は、手紙に触る前に諦めるわけにもいかない。指先を布でこすりすぎて少し赤くなったところで、封筒を持った。
封はまだ開いていない。学校の門で受け取った時、ロベールが「読める時に」と言って渡したものだ。ミラは部屋へ戻るまで開けなかった。夕飯を食べるまで読まなかった。名前を書くまで、読ませなかった。
レオンは封筒の端を見てから、ミラを見た。
「開けるぞ」
ミラは小さく頷いた。
レオンは紙を破りすぎないよう、慎重に封を切った。指先にまだ少し黒い線が残っているので、便箋の端だけを持つ。ミラはその手元をじっと見ていたが、何も言わなかった。
レオンは中から便箋を取り出した。
紙は白く、薄い。ミラの学校の紙とも、役所の紙とも違う。役所の紙は、こちらを間違えさせないように睨んでくるが、この紙は静かだった。静かなぶん、扱いに困る。
レオンは咳払いをした。
「読むぞ」
「はい」
ミラは背筋を伸ばした。
レオンは紙へ目を落とした。
「ミラへ」
最初の一行で、ミラの指が膝の上で少し動いた。
レオンは続けた。
「昨日は、会ってくれてありがとう。私の話と、私の弾く曲を聞いてくれたことを、私は忘れません」
部屋の中に、アドリアンの字で書かれた言葉だけが残った。
工場の音はない。共同廊下の足音も、今は遠い。黒い鍋が冷める小さな音だけが、たまに簡易台所から聞こえる。
「自分で帰る場所を決めたことを、私は大切に受け取ります。私はミラの父親です。けれど、ミラの毎日の家を、代わりに決める人ではありません」
レオンはそこで一度、息を止めた。
父親。
家を決める人ではない。
その二つが同じ紙に並んでいる。
アドリアンは、遅れて来たことを紙の上で急がせなかった。レオンはその一文にはかなわないと思った。それでも、嫌な気はしなかった。
ミラは何も言わなかった。
レオンは先を読んだ。
「怖くないと思える距離から、手紙を書かせてください。返事は急がなくてかまいません。名前だけでも、返事がなくても、私は待ちます。今日も帰る場所に戻り、食事をし、眠れているなら、それを知るだけで、私は少し安心できます」
レオンは便箋の端を持つ手に力を入れすぎないよう気をつけた。
帰る場所。
その言い方なら、この部屋にも当てはまる気がした。壁は薄く、窓の隙間から風は入る。寝台は一つで、レオンは床で寝ている。スープは薄いし、椅子も最近まで一つしかなかった。
けれど、ミラはここへ帰った。
レオンは声を整えて、最後を読んだ。
「また、手紙を書きます。読みたい時に読んでください。アドリアン・ベルフォール」
読み終えると、紙の音がやけに大きく聞こえた。
ミラは膝の上の手を見ていた。
「返事がなくても、待つって書いてありますか」
「書いてある」
「名前だけでも?」
「書いてある」
「急がなくても?」
「そこも書いてある」
ミラは便箋を見た。
「遠いところでも、待ちますか」
レオンは便箋をたたまないまま、机に置いた。
「遠いところだから、待つのかもしれないな」
「近いと、待ちませんか」
「近いと、待つ前に来る人もいる」
「レオンさんは?」
「俺は、学校の門なら来る」
ミラはレオンを見上げた。
「時間通りに?」
「最近は、かなり勝ってる」
「時計に」
「そうだ。あいつは強いからな」
ミラの口元が動いた。笑ったというより、紙の上にあった遠い言葉が、部屋の中のいつもの言葉へ戻ってきたようだった。
レオンは棚の上を探した。名前の練習に使っていた紙が数枚、古い本の下に挟んである。市立初等校からもらった余りの紙で、ルノー先生が「折る前に書く練習をしてください」と言って渡したものだ。レオンは最初、折る練習なのか書く練習なのか分からず、「両方です」と訂正された。
そのうちの一枚を机に置く。
「これでいいか」
ミラは紙を見た。
「返事の紙ですか」
「今からそうなる」
「まだ白いです」
「手紙も、最初は白いんだろ」
「レオンさんの手で黒くなりますか」
「だからさっき洗った」
ミラは真面目に紙の端を押さえた。
「油は、今日は来ませんか」
「来ないでほしい」
「言うと来ますか」
「油は返事をしない。そこは役所よりましだ」
ミラは鉛筆を持った。
手紙を書く、と決めた途端、紙が大きく見える。名前だけなら、端に書けばいい。けれど、アドリアンは言葉をくれた。返事がなくてもいいと書いてある。名前だけでもいいと書いてある。だからこそ、名前だけで終わらせていいのか、ミラにはすぐには決められなかった。
レオンは椅子の横にしゃがんだ。
「名前だけでもいいって書いてあったぞ」
「はい」
「それ以上書くなら、ゆっくりでいい」
「ゆっくりだと、紙は待ちますか」
「紙は逃げない」
「レオンさんは?」
「俺も逃げない」
「床で寝るから?」
「逃げるには背中が重い」
ミラは笑って、紙の上にゆっくり字を書き始めた。
アドリアンさんへ。
最初の「ア」が少し大きくなった。レオンは何か言いそうになり、口を閉じた。大きくても読める。読める字に、横から口を出しすぎると、ルノー先生に刺される気がした。
ミラは次の行へ進んだ。
おてがみ、よみました。
「よ」の丸が少し開いた。ミラはそれを見て、鉛筆を止める。
「開きました」
「窓みたいだな」
「閉めますか」
「いや、読める。風は入らない」
ミラは迷ったが、そのままにした。
次の行に入る。
おとは、こわくありませんでした。
「こわく」の字が、ほかの字より少し濃くなった。
レオンはその濃さを見た。怖くなかった、と書いているのに、そこだけ力が入っている。ミラはそれを消そうとはしない。怖くなかったことと、怖くならないようにしていたことは、たぶん同じではない。
レオンは何も言わなかった。
ミラは次の行を書く。
わたしは、ここにかえります。
書き終えたあと、ミラはその行をじっと見た。
「変ですか」
「変じゃない」
「アドリアンさんのところには、帰りません」
「そう読めるな」
「でも、手紙は読みます」
「それも書くか」
ミラは頷き、また鉛筆を動かした。
また、おてがみをよみます。
最後に、少し間を空けて、自分の名前を書く。
ミラ。
名前の線は、初めて自分の名前を書いた頃よりずっと迷いが少なかった。けれど、最後の線だけ少し下がった。
「曲がりました」
「読める」
「アドリアンさんにも?」
「読める。ピアノの難しい紙より簡単だろ」
「ピアノの紙は、読めますか」
「俺には黒い虫が並んでるように見える」
「虫ですか」
「アドリアンさんは、虫で音を出す人だ」
ミラは首を傾げた。
「たぶん、違います」
「俺もそう思う」
レオンがそう言うと、ミラは笑った。
その笑いのあと、ミラは紙の下を見た。まだ少し余白がある。鉛筆を持ったまま、レオンの方を見る。
「レオンさんも、書きますか」
「俺の返事じゃないだろ」
「でも、ここにいます」
レオンは返事に詰まった。
ここにいる。
その言葉は簡単だった。今も実際、部屋にいる。机の横にしゃがんでいる。黒い鍋も、硬いパンの残りも、床の外套もある。けれど、その紙に名前を書くとなると、急に別の意味になる気がした。
「俺の名前まであったら、アドリアンさんに変に思われないか」
「どうしてですか」
「ほら、横から出てきたみたいで」
「横にいます」
「手紙の上では、いない」
「でも、ここにはいます」
ミラは紙の下を指で押さえた。
「アドリアンさんは、ミラの家を決める人ではないって書きました」
「ああ」
「レオンさんは、決めませんでした」
レオンは息を吸った。
自分は決めなかった。
胸を張って言えるほど立派なことをしたわけではない。ただ、決めなかった。ミラが答える場所に、横で立っていた。途中で余計なことを言いそうになって、何度か飲み込んだ。それだけだ。
それでもミラは、紙の下を空けている。
「名前、書いてください」
レオンは鉛筆を受け取った。
指先に、さっき落としきれなかった黒い線がある。白い紙の上では、余計に目立つ。レオンは一度手を引っ込めかけたが、ミラが何も言わずに見ていたので、そのまま鉛筆を持ち直した。
紙の下に、名前を書く。
レオン・メレル。
途中で少し右へ下がった。最後の「ル」のあたりで、鉛筆の芯がざらりと紙をこすった。
ミラはそれを見て、静かに言った。
「読めます」
「昨日も聞いた」
「今日は、アドリアンさんにも読めます」
レオンは紙から目を離せなかった。
ミラの返事の下に、自分の名前がある。
アドリアンの名前は、封筒の表にある。ミラの名前は、返事の最後にある。レオンの名前は、その下にある。父親の名前と、ミラの名前と、自分の名前が、手紙という遠い道の両端に置かれている。
自分が残るために養子を取ろうとした日、こんな紙を書くことになるとは思っていなかった。
五歳の子が部屋に来れば、役所の手続きが止まるかもしれない。あの時のレオンは、それくらいのことしか見ていなかった。飯を食べることも、靴を並べることも、学校の門へ迎えに行くことも、手紙の下に自分の名前を書くことも、何も分かっていなかった。
紙の上の名前が、にじんで見えた。
鉛筆なのに、にじむはずがない。
ミラがレオンの顔を見た。
「泣いていますか」
「泣いてない」
レオンはすぐに答えた。
早すぎたので、自分でも怪しいと思った。
ミラは真面目に観察を始めた。
「目がぬれています」
「鍋の湯気だ」
「鍋は、あっちです」
「湯気は移動する」
「そんなに?」
「今日は、かなり働き者だ」
ミラは簡易台所の方を見た。黒い鍋はもう火から下ろされていて、ほとんど湯気を出していない。
「鍋、休んでいます」
「見えないところで働いてる」
「レオンさんの目で?」
「そうだ」
そこへ、扉が軽く叩かれた。
「変な言い訳をしてる声が廊下まで聞こえるんだけど」
エリーズだった。
レオンは慌てて目元を袖で拭きかけ、すぐにそれが油の残った袖だと気づいて止めた。止めたところをミラに見られた。
「今、危なかったです」
「分かってる」
「袖は、手紙に近づけない方がいいです」
「分かってる」
扉を開けると、エリーズが小さな封筒を持って立っていた。縫い物の途中だったらしく、指に糸の跡が残っている。
「テレーズさんが、あんたたちが封筒を持って上がったって言うから。返事を書くなら、これがいるでしょ」
レオンは机を見た。
「ないな」
「書く前に気づきなさいよ」
「紙のことで精いっぱいだった」
「手紙は裸で遠くへ行けないの」
ミラが机の前から言った。
「封筒は、手紙の服ですか」
「そう。今日は外套つき」
エリーズは部屋に入り、机の上の返事を見た。勝手に読まない。まずミラを見る。
「見てもいい?」
ミラは考えてから、頷いた。
「はい」
エリーズは紙を手に取らず、机の上に置かれたまま読んだ。目だけが行を追う。最後の名前まで見たところで、表情が変わった。
「いい返事ね」
「曲がっています」
「曲がってても、まっすぐよ」
ミラはその言い方をすぐには理解しなかったらしく、首を傾げた。
エリーズはレオンを見た。
「湯気にしては、目が赤いわね」
「鍋が頑張った」
「鍋に濡れ衣を着せるんじゃないわよ」
「服の話が増えてきたな」
「逃げ方が雑」
レオンは反論しようとして、やめた。こういう時、反論するとさらに負ける。最近それくらいは覚えた。
エリーズは封筒を机に置き、ミラの返事の紙をそっと指で押さえた。
「鉛筆だから、強くこすらないでね。明日の朝、ベルナールさんのところへ持っていけばいいわ」
「今日、入れませんか」
「入れてもいいけど、折る前にもう一度だけ読む?」
ミラは紙を見た。
「読みます」
レオンが読み上げようとすると、ミラは首を横に振った。
「自分で読みます」
部屋が静かになった。
ミラは紙の上の自分の字を、ゆっくり読んだ。
「アドリアンさんへ。おてがみ、よみました。おとは、こわくありませんでした。わたしは、ここにかえります。また、おてがみをよみます。ミラ」
最後の名前のあと、間が空いた。
ミラはその下を見て、続けた。
「レオン・メレル」
レオンは天井の方を見た。
「今のは読む必要あったか」
「書いてあります」
「書いてあるものを全部読むと、役所みたいになるぞ」
「役所は、泣きますか」
「泣かないだろ」
「じゃあ、違います」
エリーズが小さく笑った。
レオンは顔をそむけた。
ミラは封筒を手に取った。エリーズが折り方を教える。半分にしすぎない。端を合わせる。強く押しすぎない。紙は薄いので、力を入れると線が濃くなる。
ミラは慎重に折った。
折り目は少し斜めになったが、封筒には入る。エリーズは直さなかった。レオンも何も言わなかった。ミラの返事は、ミラの手で封筒に入った。
「閉じますか」
「明日の朝でいいわ。レオンが油をつけないところに置いておきましょう」
「俺を油の災害みたいに言うな」
「違うの?」
「人間です」
「今日のところは、そういうことにしておくわ」
エリーズは封筒を机の奥、黒い鍋からも水差しからも離れた場所に置いた。ミラはそれを見て、椅子から降りた。
「明日、ベルナールさんに渡します」
「ああ」
レオンは頷いた。
「それで、アドリアンさんのところへ行くんだな」
「手紙が?」
「手紙が」
「帰る紙ですか」
レオンは封筒を見た。
「たぶん、行く紙だな」
「どこへ?」
「アドリアンさんのところへ。でも、帰る場所を書いてある」
ミラは机の上の封筒を見ていた。
エリーズは何も言わなかった。
共同廊下の向こうで、ルルの笑う声がした。どこかの部屋で椅子を引く音がする。トトが中庭で一度だけ吠え、テレーズの叱る声が続いた。いつものアパートの音が、薄い壁を通って部屋へ入ってくる。
ミラは封筒の端をそっと押さえた。
「なくしません」
「明日の朝まで俺が見張る」
レオンが言うと、エリーズが眉を上げた。
「あんたが見張ると、寝てる間に落としそうね」
「見張りながら寝ない」
「床で?」
「床で」
「それはただのいつも通りよ」
ミラはレオンを見上げた。
「床は、手紙を守れますか」
「床は逃げないからな」
「レオンさんも?」
「逃げない」
ミラは考え、それから小さく頷いた。
「では、大丈夫です」
レオンはまた目の奥が熱くなるのを感じた。
今度は先に言った。
「泣いてないからな」
エリーズが肩をすくめる。
「まだ何も言ってないわよ」
ミラはレオンの顔をじっと見た。
「読めます」
「何が」
「顔が」
レオンは言い返せなかった。
机の上には、封筒が一つ置かれている。
その中には、「ここへ帰る」と書いたミラの字と、その下に続くレオン・メレルの名がある。どちらも少し曲がっていた。
その「ここ」を、レオンはもう紙で証明しようとは思わなかった。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




