第30話 怒鳴られなくても
翌朝、市立初等校の門前は、いつも通りにぎやかだった。
ミラは門の前で立ち止まった。
鞄を胸の前に抱え、教室の入口を見てから、隣のレオンを見上げる。レオンは工場へ行く前なので作業着を着ている。袖口には、朝なのにもう少し黒い筋がついていた。帽子の縁はいつもよりまっすぐに直したつもりらしいが、左だけわずかに下がっている。
「帰りも、学校ですか」
「学校だ」
「施設ではなく?」
「学校だ。先生に怒られる場所の方だな」
ミラは教室を見てから、もう一度尋ねた。
「怒鳴られなくても?」
「怒鳴られなくても」
レオンが答えると、教室の入口からルノー先生が出てきた。名簿を胸元に抱え、まず門の時計を見て、それから二人を見る。
「レオンさん、今日は確認される日ですね」
「毎日かなり確認されています」
「今日は、少し大事な確認です」
「先生、朝から荷物を増やしますね」
「重いものほど、先に持った方が落としません」
レオンは帽子の縁を押さえた。
「先生の言葉、たまに鞄みたいですね」
「持ち方を間違えなければ役に立ちます」
「間違えたら?」
「中身が出ます」
ミラは二人のやり取りを聞いて、口元をゆるめた。笑ったというより、固くなっていたところが一つほどけたような顔だった。
ルノー先生はミラの前にかがんだ。
「ミラさん、今日はいつも通り席があります」
「昨日のあとでも?」
「昨日のあとでもです。教室の席は、昨日の出来事で勝手に歩きません」
「椅子は、強いですか」
「座る人が戻ってくるまで待てます」
ミラは教室の方を見た。低い机、小さな椅子、黒板の前に置かれた先生の机。そこに自分の席がある。
「待つ方も、強いですか」
ルノー先生はすぐには答えなかった。目をやわらげてから、いつもの声で言った。
「待つだけなら、椅子にもできます。でも、戻ってきた人を見るのは、人の仕事です」
ミラは鞄の取っ手を持ち直した。
「はい」
レオンはその返事を聞いて、何か言おうとしたが、ルノー先生に先に見られた。
「レオンさん」
「まだ言ってません」
「言いそうでした」
「最近、言う前に止められることが増えてます」
「良い傾向です」
ミラは小さく頭を下げ、教室へ入った。走らない。けれど、入口で振り返るまでの足取りは、昨日より少し軽かった。
レオンは門の前に残り、ミラの背中が教室へ入るのを見ていた。黒板の前でジュールがすでに何かを聞き、ルノー先生に座ってからにしなさいと返されている。マノンがミラの席へ体を向ける。ルシアンは自分の机の上を静かに空けていた。
「レオンさん」
ルノー先生に呼ばれ、レオンはようやく門の外へ一歩下がった。
「帰りの時間は、いつも通りです」
「覚えています」
「今日だけは、覚えたつもりではなく、帰りの時間を見てください」
「先生、俺の記憶への信頼が低いですね」
「覚えているだけでは迎えに来られません」
「かなり正しい」
レオンは素直に頷き、工場の方へ歩き出した。
市立初等校の教室では、授業の前からジュールが机に肘をつき、ミラの方へ身を乗り出していた。
「ミラ、ピアノの人、また会うの?」
ミラは鞄を机の横に置いてから答えた。
「分かりません」
「もう聞かないの?」
「まだ、決めていません」
「遠いから?」
「遠いです」
「じゃあ、近かったら聞く?」
「それは、距離の話ではありません」
ジュールは分かった顔をしなかった。もともと分からないことを分からないまま次へ進むのが得意な子だったので、すぐに別の方へ首を傾げる。
「ピアノの人、怒った?」
「怒りませんでした」
「じゃあ、いい人?」
「いい人です」
「じゃあ、今日もレオンのところへ帰るの?」
ミラは、机の横に置いた鞄を見た。
「帰るところが、あります」
ミラがそう言っても、ジュールはまだ首を傾げていた。だが、マノンは隣の席から身を寄せた。
「じゃあ、今日も帰ったら遊べる?」
「迎えが来たら」
「来るよ」
マノンは迷わず言った。
「だって、ミラのレオンだもん」
ミラはその言葉を聞いて、鞄の取っ手から手を離した。
「はい」
ジュールは腕を組み、得意そうにした。
「ぼくがつけた名前だ」
「呼び名です」
ルシアンが静かに訂正した。
「名前と呼び名は違う」
「じゃあ、ぼくがつけた呼び名」
「先生に聞いてから」
「また先生か」
ちょうどその時、ルノー先生が黒板の前に立った。名簿を閉じ、子どもたちを見渡す。
「先生は、聞かれる前から聞いています」
ジュールは首をすくめた。教室に小さな笑いが起きる。
ルノー先生は続けた。
「昨日と今日で、机の使い方は変わりません。鞄は横に置きます。鉛筆は持ちます」
ルノー先生は黒板の前で、いつものように言葉を置いた。
「聞かれたことには、分かるところまで答えます。分からない時は、分からないと言ってかまいません」
ミラは机の上に手を置いた。
昨日と今日で、全部が同じではない。けれど、机は同じ場所にあり、先生の声は同じ高さで、ジュールは今日も質問が多い。マノンは笑う時に肩を上げ、ルシアンは落ちた鉛筆を拾う前に持ち主を見る。
その普通が、強く感じられた。
工場では、朝から鉄板を置く音が途切れなかった。
奥の機械が低く唸り、台車の車輪が床の溝をこすっている。レオンは流れてくる部品を受け取り、向きを確かめ、決まった棚へ置いた。手はいつも通り動いている。だが、気を抜くと、目だけが作業場の入口へ行く。
ロイが隣で部品を置きながら言った。
「お前、今日だけで作業場の入口を何回見てるんだ」
「見てるだけだ」
「負ける前から時計に追われてるぞ」
「今日は針が意地悪に見える」
「逃げるのはお前の仕事だろ」
レオンは部品を棚へ置き、向きを直した。
「今日は逃げない」
ロイは一拍黙ってから、笑った。
「それを毎日やれ」
「毎日は重い」
「五歳の迎えは、たいてい毎日だ」
「そこを正確に突くな」
「先生に鍛えられてるんでな」
「お前まで見張る側につくのか」
「今日は見張る側だ」
レオンは言い返そうとしたが、作業場の壁へ目が行った。針はまだ昼前だった。見たところで進み方は変わらない。変わらないのに、見てしまう。
昼飯の時間、レオンは硬いパンをかじりながらも、休憩所の壁をちらちら見ていた。ロイが包みからチーズの端を出し、呆れたように言う。
「壁を見ても腹はふくれないぞ」
「分かってる」
「その返事、壁を見ながら出てるぞ」
「今日は目が忙しい」
「朝は学校に置いてきたのか」
「できれば保護者の落ち着きだけ学校に置いてきたかった」
「置いてくるな。持って迎えに行け」
レオンはパンを飲み込んだ。硬いパンは、いつもより喉で止まる気がした。
「ロイ、お前たまにまともなことを言うな」
「たまにで悪かったな」
「毎日言うと先生になるぞ」
「それは重い」
二人がそんなことを言っていると、休憩所の入口にデュラン工場長が現れた。煙草はくわえているが、火はついていない。レオンを見るなり、パンを持つ手元を見て、それから壁へ目をやった。
「終業前に門へ走るなよ」
「まだ走ってません」
「背中だけ先に門へ向いてる」
「今日は背中まで叱られるんですか」
「昨日から続いてる」
ロイが横で笑いをこらえた。レオンはパンを強くかじる。
デュラン工場長は続けた。
「走って転んだら全部負けだ。仕事は終わらせろ。手は洗え。時間は見ろ。ただし、見すぎて部品を落とすな」
「全部ですね」
「全部だ」
「工場長、今日だけルノー先生に似ています」
「不名誉なような、名誉なような言い方をするな」
「かなり頼りになる方の意味です」
「なら、そう言え」
工場長はそれだけ言って、休憩所を出ていった。
午後の作業は、いつもより長く感じられた。
部品は同じ間隔で流れてくる。機械の音も変わらない。油の匂いも、鉄板の熱も、昨日までと同じだ。けれどレオンの中では、学校の門と、ミラの小さな靴と、朝の「怒鳴られなくても」という声が、終業までの時間にくっついて離れなかった。
終業の警笛が鳴った時、レオンは最後の部品を棚へ置き、向きを確かめてから手袋を外した。
「走るなよ」
ロイが先に言った。
「分かってる」
「走りそうな背中だ」
「背中まで見張るな」
「今日は全員で見張り役だ」
レオンは水場へ向かった。冷たい水で手を洗う。指先、手の甲、爪の間。黒い油は少し残る。だが、今は白い手になることより、時間通りに門へ着くことの方が大事だった。
布で手を拭き、帽子をかぶる。
走らない。けれど、歩幅は大きい。
工場の門を出ると、夕方の通りには湿った風が流れていた。パン屋の前には焼けた匂いが残り、馬車の車輪が石畳をゆっくりこすっている。レオンは何度も時計を出そうとして、途中でやめた。出している間に遅れる気がしたからだ。
市立初等校の門前には、迎えの大人たちが何人か残っていた。
予備学級の入口の近くで、ミラは鞄を抱えて待っていた。隣にはルノー先生が立っている。先生は名簿を胸元に抱え、門の方へ目を向けた。
ミラは門の外の通りを見ていた。
馬車の音。子どもの声。大人たちの話し声。その中に、急いだ靴音が混じった。
ミラはその靴音の方を見た。
レオンが門へ入ってくる。息が上がっていて、歩いてきたと言い張るには苦しい。袖口には油が残り、帽子の縁はまた曲がっている。
「来ました」
「来た」
レオンはミラの前で立ち止まり、息を整えた。
「怒鳴られなくても?」
「怒鳴られなくても来た」
ミラはレオンの靴を見た。黒い革は古く、つま先に少し傷がある。施設へ行った日も、公会堂へ行った日も、昨日帰ってきた日も、その靴は床や石畳を鳴らしていた。
今日は、学校の門へ来た。
「時計に勝ちましたか」
「勝った。少しだけ同着かもしれない」
ルノー先生が横から言った。
「遅れていなければ勝ちです」
「先生が今日は優しい」
「遅れていない人には、だいたい優しくできます」
「やっぱりそっちですか」
ミラは小さく笑った。
大きな笑いではなかった。けれど、鞄の取っ手を握っていた指から力が抜けた。レオンはそれを見て、ようやく自分の胸の中で固まっていたものもほどけるのを感じた。
その時、門の少し外で待っていた灰色の上着の男が、帽子を手に近づいてきた。
ロベールだった。
レオンは反射で肩を固くした。
「ロベールさんが学校の門にいると、せっかく普通に戻った場所が役所の窓口になりますね」
「邪魔をするつもりはありません」
「役所の人がそれを言うと、少し邪魔そうに聞こえます」
「今日は、伝言です」
ロベールは薄い封筒を一つ持っていた。大きな役所の封筒ではない。紙は白すぎず、端に折り目がある。封はされているが、重そうには見えなかった。
「アドリアン・ベルフォール氏からです」
ミラは鞄を抱え直した。
「手紙ですか」
「はい。短い手紙です。読んでもらうだけで、返事は急がなくていいそうです」
レオンはロベールの手元を見た。
「急がなくていい手紙って、役所にもありますか」
「あります。ただし、役所の遅い手紙とは別です」
「そこは別なんですね」
「別です」
ミラは封筒をすぐには受け取らなかった。ロベールを見て、次に封筒を見て、それからレオンの手を見た。レオンの指先には、洗っても残った黒い線がある。
「返事は、字が曲がってもいいですか」
ロベールは表情をやわらげた。
「曲がっていても読みたい、とおっしゃっていました」
「まだ、全部は書けません」
「一文字でも、いつかでも、いいそうです」
ミラは、そこで封筒へ手を伸ばした。両手で受け取る。学校の予定の紙や賞の紙を受け取る時のように、端を折らないように持った。
「これは、持って帰るものですか」
「はい。ミラさんに渡されたものです」
ルノー先生が静かに言った。
「鞄に入れるなら、奥の方へ。折れやすいものは、急いでしまうと折れます」
「はい」
ミラは封筒を鞄の奥へそっと入れた。
ロベールはレオンへ向き直った。
「アドリアン氏は、今すぐ答えを求めてはいません」
「急がない手紙の人ですね」
ミラは鞄の口を、もう一度だけ押さえた。封筒は奥に入っている。
「はい。面会についても、今後はミラさんの様子を見ながら、ベルナールさんと相談して進めることになります」
「今日は、連れて行く話じゃないんですね」
「違います」
「じゃあ、俺の肩は少し下げていいですか」
「下げすぎると封筒を落とします」
レオンは目を丸くした。
「役所の人に姿勢まで見られるとは思いませんでした」
「今日は封筒がありますので」
ルノー先生が短く言った。
「では、今日はそのくらいにしましょう。ミラさんは帰る時間です」
レオンは素直に頷いた。
「帰るぞ」
「はい」
ミラは鞄を抱え、レオンの隣へ並んだ。
帰り道、夕方の通りにはいつもの匂いがあった。パン屋の焼けた匂い、馬車の車輪がこすれる石の匂い、遠くから流れてくる工場の油の匂い。レオンの靴音とミラの小さな靴音が、並んだりずれたりしながら続いていく。
ミラはしばらく黙っていた。
レオンは横を見た。封筒のことを考えているのだろう。聞いた方がいいのか、黙った方がいいのか迷う。こういう時、いいことを言おうとすると、だいたい横へ転がる。
ミラの方が先に口を開いた。
「手紙は、今日読みますか」
「読みたいなら読む。読まないなら、棚に置く」
「棚は、読めません」
「俺も全部はうまく読めないかもしれない」
「レオンさんは、大人です」
「大人でも字に負けることはある」
ミラは鉛筆を持つ指をゆるめた。
「返事は、書きます」
「今すぐか?」
「今日は、名前だけ書きます」
「誰の?」
「わたしのです」
レオンは、しばらく前を見て歩いた。
「それなら強いな」
「強いですか」
「少なくとも、俺の字より迷わない」
「レオンさんの字も練習します」
「俺もか」
「はい」
「アドリアンさんへの返事なのに、俺も宿題を出されるのか」
「家の人も、字を書きます」
レオンは帽子の縁を押さえた。
「家の人、仕事が増えるな」
「はい」
ミラは前を向いたまま、小さく頷いた。
公営労働者アパートの中庭へ戻ると、テレーズが洗濯場の前で水桶を片づけていた。エリーズは共同廊下の手すりにもたれ、マノンは縄跳びを持って中庭を横切っている。ルルは木の匙を持ち、トトの尻尾を追いかけようとして、テレーズに名前を呼ばれて止まった。
「帰ったね」
テレーズが言った。
「帰りました」
レオンが答えると、エリーズがすぐに目を細めた。
「あんたが返事するところじゃないでしょ」
「俺も帰りました」
「そこは合ってるけど、そうじゃないのよ」
ミラは鞄を抱えたまま、笑った。
マノンが走ってきた。
「ミラ、帰ったら話って言ったよね」
「はい。でも、今日は手紙があります」
「手紙?」
「ピアノの人からです」
マノンは目を丸くした。
「すごい。手紙って、返すの?」
「名前を書きます」
「名前だけ?」
「今日は」
「じゃあ、明日はもっと?」
ミラは自分の名前を思い浮かべた。
「字が曲がらなかったら」
マノンは真面目に頷いた。
「曲がっても、ミラの字だよ」
ミラは、自分の指を見た。
「はい」
部屋へ上がると、レオンは黒い鍋を簡易台所にかけた。夕飯は薄い豆のスープと硬いパンだった。特別なものはない。アドリアンからの封筒があっても、部屋の飯は急に立派にはならない。
ミラは鞄から封筒を出し、机の端に置いた。
レオンは火の加減を見ながら、横目でそれを見た。
「読むか」
「あとで」
「名前を書くのは?」
「先にします」
ミラは鉛筆を取った。名前の字を覚え始めた頃より、持ち方はしっかりしている。けれど、まだ力の入る場所が不安定で、線は時々ふくらむ。
机の上に小さな紙を一枚置き、ミラはゆっくりと自分の名前を書いた。
ミラ。
最後の線が少しだけ曲がった。
「曲がりました」
レオンは鍋の火を弱め、机のそばへ来た。
「読める」
「アドリアンさんにも、読めますか」
「読める」
レオンは言い切ってから、念のため紙をのぞき込んだ。
「読める。俺より字が上手い人だろうし」
「レオンさんの字も、読めます」
「それは褒めてるのか」
「読む練習になります」
「急に評価が下がったな」
ミラは鉛筆を持ったまま、レオンを見上げた。
「レオンさんも書きますか」
「俺も?」
「はい」
「何を」
「名前」
「俺の名前は俺が知ってる」
「紙は知りません」
レオンは黙った。
「曲がったらどうする」
「練習します」
「俺も宿題か」
ミラは真面目に頷いた。
「はい。家の人ですから」
レオンはしばらくミラを見て、それから椅子に腰を下ろした。小さな机の前で、鉛筆を受け取る。指先には、洗っても落ちきらなかった油の黒い線が残っている。
紙の上に、レオンは自分の名前を書き始めた。
途中で少し曲がった。
ミラはそれを見て、先生のように言った。
「読めます」
「先生より優しいな」
「でも、練習します」
「そこは先生だな」
鍋から薄い湯気が上がり、窓の外では工場の煙突が夕方の空に細い煙を残していた。
レオンは文句を言いながら、もう一度、自分の名前を書いた。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




