第29話 帰りたい家
翌日の市立初等校は、いつも通りの朝をしていた。
門の横では子どもたちの靴音が石畳を叩き、見送りに来た大人たちが帽子や襟を直している。朝の光が教室の窓から差し込み、低い机と小さな椅子を明るく照らしていた。
ミラは鞄を胸の前に抱え、いつもの席へ座った。
昨日、公会堂の小さな部屋で聞いた音は、朝になっても頭の奥に残っていた。工場の警笛のように腹へ響く音ではない。アパートの共同廊下を誰かが歩く音とも違う。白い手が黒と白の鍵盤に触れると、部屋の空気が少しずつ形を変えるような音だった。
でも、今朝も工場の警笛は鳴った。
レオンの靴も、部屋の入口で床を鳴らした。黒い鍋も、少し動かすと低い音を出した。だから、ミラはいつもの席に座っている。
ジュールが隣の席から身を乗り出した。
「ミラ、ピアノって大きかった?」
「大きかったです」
「箱くらい?」
「箱より、足がありました」
「足がある箱なの?」
「たぶん、違います」
ジュールは首をひねったが、すぐに次の質問へ移った。
「歌った?」
「歌いません。音が出ました」
「怒った?」
「怒りませんでした」
「じゃあ、いい箱だ」
「箱ではないと思います」
ミラがそう言うと、マノンが机の向こうから身を乗り出した。
「きれいだった?」
「はい」
「楽しかった?」
その質問には、すぐ答えられなかった。
怖くはなかった。嫌でもなかった。音はきれいだった。アドリアンは急に近づかなかったし、大きな声も出さなかった。白い手は本当に音を出し、ミラが怖がらないか見ていた。
でも、楽しいだけのものでもなかった。
ミラは鞄の取っ手を指で押さえた。
「怖くは、ありませんでした」
マノンはそれ以上、笑わなかった。
「そっか」
それだけ言って、自分の机へ戻った。
ルノー先生は黒板の前で名簿を閉じた。子どもたちの声が落ち着くのを待ち、ミラの方を一度だけ見た。
「ミラさん」
「はい」
「今日は、鞄は軽いですか」
ミラは膝の上に置いた鞄を見た。
昨日、先生は言った。話したい時は話していい。話したくない時は、鞄を置くだけでもいい。
ミラは鞄を机の横へ置いた。いつもより、音が軽かった。
「少し軽いです」
「では、そこに置いておきましょう」
「はい」
先生はそれ以上聞かなかった。
授業はいつも通り進んだ。
ジュールは大きすぎる声で答えて先生に直され、ルシアンは落ちた鉛筆を拾って隣の机へ戻し、マノンは紙を折る時に角を合わせようとして舌を少し出した。ミラは黒板の字を見て、先生の声を聞き、時々、昨日の音が頭の中へ戻ってくるのを待った。
音は、勝手に大きくならなかった。
夕方、レオンはいつもの時間に門へ来た。
工場の水場で手を洗ったらしく、指先は濡れた布で拭かれていた。けれど、爪の端にはまだ黒い線が残っている。袖口にも少し油の跡があった。ミラはそれを見て、安心した。
「今日は、手がいつも通りです」
「それは褒めてるのか」
「昨日より、少し黒いです」
「工場に取り返された」
「工場は、強いですか」
「毎日かなり強い」
教室の入口から、ルノー先生が出てきた。名簿を胸元に抱え、まず時計を見てからレオンを見る。
「今日も時間通りですね」
「勝ちました」
「毎日勝ってください」
「先生、時計の味方ですか」
「ミラさんの帰る時間の味方です」
「その言い方をされると、反論が行き場を失います」
「良いことです」
その時、門の横に立っていた灰色の上着の男が、帽子を手に持って近づいてきた。
ロベールだった。
昨日と同じ門、同じ夕方、同じ灰色の上着。けれど、工場長室で見たような大きな封筒は、今日は持っていなかった。
「レオンさん。ミラさん」
ロベールは静かに頭を下げた。
「アドリアン・ベルフォール氏が、もう一度お話ししたいそうです」
ミラは鞄の取っ手を持ち直した。
「今日は、曲ですか」
「いいえ。今日は曲ではありません。今後のことを、短く」
レオンは帽子を握った。
「音がない面会ですね」
「そうです」
「音がない方が怖いこともあります」
ロベールは一拍置いた。
「否定はしません」
ルノー先生がレオンを見た。
「レオンさん、先に怖がらせないでください」
「今のは、先に怖がっただけです」
「それも隣に置いてください」
「置き場所が多いですね」
「今日は大事な日です」
レオンは何か言い返そうとして、やめた。
そのやめ方を見て、ルノー先生は表情をゆるめた。
ロベールは続けた。
「場所は、養子支援施設です。ベルナールさんも同席します」
「今日決める紙ですか」
「違います。今日は、アドリアン氏が自分の希望をあなたに直接伝える日です」
ミラは門の外の通りを見た。
養子支援施設。
石の門。古い扉。小さな靴が並ぶ玄関。初めてレオンが来た時、自分はそこで「何か御用ですか」と聞いた。
レオンは、ミラを受付係だと思った。
そのことを、ミラは覚えている。
「施設で、話しますか」
「はい」
ロベールの声は静かだった。
レオンがすぐに言った。
「ミラが行きたくないなら、行かない」
ロベールは頷いた。
「その場合は、私から伝えます」
ミラはレオンの靴を見た。
古い靴。つま先が少し擦れていて、紐は何度も結び直されている。昨日、公会堂の石段を下りた時にも鳴った靴だ。
「レオンさんも、行きますか」
「行く」
レオンはすぐに答えた。
「今日は、黙る練習もしていく」
ルノー先生が言った。
「練習ではなく、本番です」
「厳しいですね」
「大事な日です」
ミラは小さく頷いた。
養子支援施設へ向かう道は、学校から遠くはない。
けれど、昨日より長く感じた。石畳の通りを抜け、馬車の音を聞き、パン屋の匂いが薄くなってから、古い壁の建物が見えてくる。レオンはいつものように歩幅を落とし、ミラが横に並ぶ速度で歩いた。
ロベールは少し前を行く。役所の人間らしく、通りの中でも背筋がまっすぐだった。
レオンは小声で言った。
「遠いか」
「遠くはないです」
「じゃあ、近いか」
「知っている場所です」
「それは近いってことか」
「今日は、少し遠いです」
レオンは返事に詰まった。
前にも、ミラは似たことを言った。知っている場所は近い。でも、戻る話かもしれない時は遠い。レオンにも、今なら分かる。分かるが、うまい返事は出てこない。
「今日は、戻す話じゃない」
「はい」
「でも、戻る場所の話ではある」
ミラはレオンを見上げた。
レオンは帽子の縁を押さえた。
「今のは、かなりまともに言えた気がする」
「はい」
「自分で言うと、少し負けた気もする」
「何に?」
「分からない。たぶん俺のいつもの口に」
ミラの頬に、えくぼが出た。
施設の扉は、前と同じように古かった。
ロベールが軽く叩くと、内側からベルナールが扉を開けた。黒い上着、穏やかな顔、けれど相手をよく見る目。その目はまずミラへ向き、それからレオンを見た。
「よく来ました」
ミラは丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
レオンも帽子を取る。
「こんばんは。今日はなるべく黙ります」
ベルナールは目を細めた。
「必要な時は話してください」
「どちらが難しいですかね」
「あなたの場合、両方です」
「最初から逃げ場がない」
「逃げ場が必要なのは、あなたではありません」
レオンは帽子を持つ手を止めた。
言い返せなかった。
面談室は、レオンが初めてこの施設に来た時と同じ匂いがした。
紙と木と、干した布の匂い。古い机、来客用の椅子、窓際の小さな椅子。棚の端には、片耳を繕われた犬のぬいぐるみが座っている。ミラはそのぬいぐるみを一度だけ見た。前は、ここへ来た子が座る部屋だった。今日は、ここで自分が話を聞く。
アドリアンは、窓際に立っていた。
昨日と同じように、急に近づいては来ない。黒い上着はきちんとしているが、演奏会の写真ほど飾った服ではない。白い手は手袋をしていない。指先は長く、爪の間に油はない。
アドリアンは、ミラを見ると静かに頭を下げた。
「来てくれて、ありがとう」
ミラは鞄を抱えたまま、頭を下げた。
「こんばんは」
レオンはミラの隣の椅子に座ろうとして、ベルナールに視線で止められた。
「隣でいいですか」
「ミラが望むなら」
ベルナールはミラを見る。
ミラは一拍置いてから、小さく言った。
「隣にいます」
レオンは椅子を引いた。脚が床をこすって、小さく鳴る。
「また椅子が先に喋った」
ベルナールが言った。
「今日は、椅子に任せすぎないように」
「はい」
アドリアンは、そのやり取りを急かさずに待っていた。ロベールは机の端に立ち、書類を持ってはいるが、まだ開かない。紙が先に話す日ではないのだと、ミラには分かった。
アドリアンは椅子に座らず、少し距離を置いたまま話し始めた。
「ミラ。私は、一緒に暮らしたいと思っています」
部屋の中の空気が硬くなった。
レオンの手が膝の上で動きかける。だが、ベルナールの目が一度だけ向いたので、レオンはその手を帽子の上に置いた。
アドリアンは続けた。
「ミラの部屋を用意できます。学校も、服も、暖かい寝る場所も、用意したい。昨日聞いてくれた音も、また聞かせたいと思っています」
ミラはアドリアンを見ていた。
責めてもいない。喜んでもいない。大人の話を最後まで聞くために、静かに座っていた。
「でも、今日ここで決めてほしいわけではありません」
アドリアンの声は低くなった。
「ミラが嫌なら、私は待ちます。会うだけでもいい。手紙だけでもいい」
アドリアンは椅子の背に置いた手を見た。
「無理に連れていくことはしません」
ミラは鞄の取っ手に触れた。
「部屋には、椅子がありますか」
「あります」
「皿は?」
「あります」
「寝るところも?」
「あります」
「学校へ行く道は、遠いですか」
「今の学校とは違う学校になると思います。遠さは……私が一緒に確かめます」
ミラは鞄の取っ手を握り直した。
「黒い鍋は、ありますか」
アドリアンは、前と同じように答えに詰まった。
「同じ鍋は、ありません」
「同じ音は、出ませんか」
「たぶん、出ません」
レオンが口を開きかけた。
ベルナールが静かに言う。
「レオンさん」
「はい」
「今日は、鍋の代理人ではありません」
「鍋にも代理人がいるんですか」
「いません。だから黙ってください」
「なるほど」
ロベールが眼鏡の位置を直した。
「納得するところが少し違います」
「黙る方向へは進んでいます」
「では、そのまま進んでください」
ミラは笑った。
それを見てから、アドリアンは机の上に小さな紙包みを置いた。菓子ではない。薄い紙に包まれた、古い写真だった。
「これは、ミラのお母さんの写真です。無理に持って帰らなくていい。見たい時に見ればいい」
ミラの手は膝の上に残った。
「返すものですか」
「いいえ。ミラが持っていていいものです」
「汚したら、困りますか」
「困りはします。でも、ミラが持っていて汚れるなら、それは紙が生きている場所に行ったということです」
レオンは小さく眉を寄せた。
「今の、かなりいいことを言いましたね」
ベルナールがすぐに言った。
「レオンさん」
「はい。黙ります」
アドリアンは目元をゆるめたが、笑いすぎなかった。
ミラは写真の包みを見ていた。
母の写真。
その言葉は重い。けれど、ミラは母のことをここで長く聞かなかった。写真の紙がどれくらい薄いのか、折れるのか、持って帰っていいのか。それだけを確かめるように、包みの端を指先でそっと触れた。
「見てもいいですか」
「もちろん」
アドリアンが紙を開いた。
古い写真の中に、若い女の人がいた。淡い色の服を着て、椅子に座っている。写真だから色は分からない。けれど、髪の光り方と、目元の形が、どこかミラに似ていた。
ミラは息を止めるようにして見た。
レオンは写真を見ないようにしようとして、見てしまった。似ている、と思った。思った瞬間、胸の中が痛くなる。血のつながりという言葉が、紙ではなく写真の中にあった。
アドリアンは、ミラが見終わるまで待った。
「持って帰りますか」
ミラは包みを見つめた。
「今日は、ベルナールさんのところに置いてもいいですか」
アドリアンの表情が揺れた。
「はい。もちろん」
ベルナールが静かに頷いた。
「預かります。見たくなった時に、いつでも見られるようにしておきます」
ミラは小さく頭を下げた。
「お願いします」
アドリアンは写真をベルナールへ渡した。手放す時、指がほんの少し遅れた。けれど、渡した。
それから、改めてミラを見た。
「ミラ」
「はい」
「私は、一緒に暮らしたいと思っています。来てくれるなら、私はうれしい」
アドリアンはそこで一度、椅子の背に置いた手を見た。
「けれど、ミラが帰りたい場所を、私が勝手に決めることはできません」
ミラは鞄を抱え直した。
アドリアンは、ゆっくり聞いた。
「私の家へ、来てくれますか」
部屋の中が静かになった。
廊下の向こうで、誰かが歩く床板の音がした。遠くの子どもの声が、一瞬だけ聞こえてすぐに小さくなる。窓の外では、夕方の光が薄くなり始めていた。
ミラはアドリアンの手を見た。
昨日、音を出した手。
母の知っていた曲を弾いた手。
それから、机の上の包みを見る。母の写真が入っていた紙。今はベルナールの手元にある。
次に、自分の鞄を見た。
学校の紙、鉛筆、少し古い布。毎朝持って行き、毎夕持って帰るもの。
最後に、レオンの靴を見た。
古い靴だった。昨日の公会堂の帰りにも鳴った靴。学校の門に来る靴。施設へ来る靴。アパートの階段を上がる時、少し重い音を出す靴。
ミラはアドリアンを見た。
「会えて、よかったです」
アドリアンは瞬きをした。
「私もです」
「音も、聞けてよかったです」
「ありがとう」
ミラは鞄の取っ手を両手で持った。
「でも、帰ります」
アドリアンの喉が、小さく動いた。
「どこへ?」
ミラは一度、足元を見た。
「靴の音がする階段の方へ」
レオンは息を吸うのを忘れた。
だから、膝の上の帽子を握ったまま、黙っていた。
アドリアンは、すぐには返事をしなかった。
白い手が、椅子の背に触れている。その指が少しだけ力を失い、また戻る。昨日、鍵盤の上では迷わなかった手が、今は何も弾けない場所で止まっていた。
「私の家には、ミラの椅子を用意できます」
「はい」
「皿も、部屋も、暖かい寝る場所も」
「はい」
「それでも、帰りたいですか」
ミラは頷いた。
「はい」
そして、言葉を探した。
「あの椅子は、朝になってもありました」
レオンは目を伏せた。
「皿も、戻りました。黒い鍋は、夕飯の音がします」
ミラはレオンの靴をもう一度見た。
「レオンさんの靴は、帰る時に鳴ります」
アドリアンは目を閉じた。
長くはない。けれど、その短い時間で、何年分かの息を整えているようだった。
やがて目を開け、ミラを見る。
「分かりました」
声は掠れていた。だが、崩れなかった。
「ミラが帰りたい家へ帰ってください」
アドリアン、ベルナール、ロベールの順に目を向け、最後にレオンを見る。レオンはまだ何も言えていない。たぶん、言わない方がましな顔をしていた。
ミラは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
アドリアンは笑おうとした。うまく笑えなかったが、怖い顔にはならなかった。
「手紙を書いてもいいですか」
ミラは自分の指を見た。
「字は、まだ曲がります」
「曲がっていても、ミラの字なら読みたい」
レオンが小さく言った。
「俺の字も曲がります」
ロベールが即座に言う。
「今はあなたの字の話ではありません」
ベルナールも静かに続けた。
「ただ、読める字を書く練習はしてください」
レオンは帽子を膝の上で持ち直した。
「刺す相手が急に増えた」
アドリアンが、今度は笑った。
部屋の空気が、ほんのわずかに戻った。全部ではない。けれど、息をしていい場所にはなった。
ロベールはようやく書類を開いた。
「では、今後は面会と手紙の形を、ミラさんの希望を聞きながら調整します」
レオンはその言葉を聞き、肩の力を抜いた。
だが、完全には抜けない。アドリアンの手は、まだ椅子の背に置かれていた。
ミラは椅子から降りた。
鞄を抱え、ベルナールへ向き直る。
「写真、お願いします」
「預かります」
「見に来てもいいですか」
「いつでも」
アドリアンはそのやり取りを静かに見ていた。
ミラが扉の方へ歩きかけた時、アドリアンが一度だけ声をかけた。
「ミラ」
ミラは振り返る。
「また、会ってくれますか」
ミラはアドリアンの手を見た。
「はい」
アドリアンの顔に、痛みと安堵が同時に浮かんだ。
「ありがとう」
施設の玄関を出ると、夕方の空はもう暗くなり始めていた。
石の門を抜ける時、ミラは一度だけ振り返った。扉の前にはベルナールが立っている。奥の廊下に、アドリアンの姿はなかった。
通りへ出ると、レオンの靴が石畳を鳴らした。
その横で、ミラの小さな靴も軽い音を出す。
しばらく二人は黙って歩いた。ロベールは役所へ戻ると言って別れた。ベルナールは施設の扉のところで見送った。だから今は、レオンとミラだけだった。
パン屋の前から焼けた匂いが流れてくる。馬車の車輪が遠くを通り、工場の煙突は灰色の空に細い煙を上げていた。
レオンは何か言おうとして、三回やめた。
四回目で、ミラが先に言った。
「レオンさん」
「ん」
「帰ります」
「うん」
「今日も」
レオンは一拍遅れて答えた。
「今日も帰る」
ミラは靴音を聞くように、足元を見た。
「明日も、学校へ行きますか」
「行く」
「迎えに来ますか」
「行く」
「工場の時計に勝ちますか」
「勝つ。負けそうなら、走る」
ミラは口元をゆるめた。
「服は、エリーズさんに怒られます」
「転んだらな」
「転んでも、来ますか」
「来る。汚れが増えるだけだ」
ミラは頷いた。
公営労働者アパートの中庭には、いつもの夕方があった。
共同廊下には洗濯物が干され、どこかの部屋から薄いスープの匂いが落ちてくる。テレーズは洗濯場で桶を伏せ、エリーズは籠を抱えてマノンのほどけた髪ひもを直していた。ルルは木の匙を持ったままトトの前に立ち、トトは匙ではなくレオンの靴を一度だけ嗅いだ。
マノンがミラに駆け寄った。
「ミラ、おかえり」
ミラは目を丸くした。
それから、小さく言った。
「ただいまです」
マノンは当然のように頷いた。
「ピアノの人、またいた?」
「はい」
「音、出した?」
「今日は、出しませんでした」
「じゃあ、何したの?」
「話しました」
「難しい話?」
ミラは少し考えた。
「少し」
「菓子は?」
「ありません」
「じゃあ、髪ひも見せて」
「今日は、髪ひもは同じです」
「同じでも見る」
マノンはそう言って、ミラの横に並んだ。難しい話より、髪ひもを見る方が今は大事なのだろう。ミラは髪ひもを見せるように頭を傾けた。
エリーズはレオンを見た。
「あんた、何か言った?」
「かなり黙った」
「偉いじゃない」
「黙ると評価が上がる仕組み、まだ慣れない」
テレーズが桶を伏せながら笑った。
「毎日練習しな」
「俺の長所が消えませんか」
「長所だと思ってたのかい」
レオンは帽子を押さえた。
「今日はいろいろ傷つく日ですね」
エリーズはレオンの靴を見た。
「帰ってきたなら、今日はそれでいいわよ」
レオンはその言葉に、いつものようには返せなかった。
中庭の笑い声、薄いスープの匂い、共同廊下の足音。全部が昨日と同じようで、昨日とは違っていた。
三階の部屋へ上がる階段で、レオンの靴が重い音を出した。
ミラはその音を聞きながら上った。
部屋の扉を開けると、いつもの狭さが待っていた。
椅子がある。机がある。寝台が一つある。棚には賞の紙が留められていて、洗濯ばさみは相変わらず少し傾いている。簡易台所には黒い鍋があり、昨日の豆の匂いがまだ少し残っていた。
レオンは外套を脱ぎ、袖をまくった。
「夕飯にするか」
「はい」
「ピアノはないが、鍋ならある」
「古参ですか」
「役職はない。ただ古い」
ミラは鞄を椅子の横に置いた。
レオンが黒い鍋に水を入れ、簡易台所の上で動かすと、底が小さく鳴った。ピアノの音とはまるで違う。短くて、低くて、鈍い。
でも、ミラはその音を聞いた。
「これは、おうちの音ですか」
レオンは鍋を火にかけながら考えた。
「たぶん、夕飯の音だ」
「怖くないです」
「豆のスープだからな。怖いのは味の薄さくらいだ」
ミラは小さく笑った。
レオンが椅子を引くと、脚が床をこすってまた小さく鳴った。ミラはその音を聞いてから、自分の皿を机の近くへ寄せた。
「ここは、きれいではありません」
「急に正確だな」
「広くもありません」
「続けるのか」
「でも、帰りました」
レオンの手が止まった。
鍋の中で、まだ温まりきらない水が小さく揺れている。窓の外では、工場の煙突が夕闇に沈みかけていた。共同廊下から誰かの足音が聞こえ、すぐ遠ざかる。
レオンはゆっくり息を吐いた。
「うん。帰った」
ミラは椅子に座り、皿の前に両手を置いた。
「明日も、学校へ行きます」
「迎えに行く」
「怒鳴られなくても?」
「怒鳴られなくても」
「時計に勝って?」
「時計に勝って」
ミラは鍋の音を聞いた。
「では、待っています」
レオンは鍋の柄を持ち直した。
「それは、かなり強いな」
「待つ方も、強いですか」
「強い。たぶん、来る方より強い」
「じゃあ、レオンさんも勝ってください」
「勝つ」
鍋が、火の上でまた小さく鳴った。
それは音楽ではなかった。
けれど、ミラは皿の前で、その音を聞いていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




