第28話 帰りの靴音
数日後の夕方、市立初等校の門前には、いつもの声が集まっていた。
子どもたちは鞄を抱え、迎えに来た大人の袖を引き、その日の出来事を口々に話している。レオンは工場の水場で手を洗ってから来ていた。袖口には少し黒い筋が残っているが、時間には遅れていない。最近は、そこだけで胸を張りすぎるとエリーズに刺されるので、本人としては控えめに立っているつもりだった。
予備学級の入口から、ミラが出てきた。
鞄を胸の前に抱え、レオンを見つけると小さく頭を下げてから歩いてくる。走らない。けれど、こちらへ向かう足は、最初の頃より迷わない。
「今日は、遅れていません」
「勝った」
「誰にですか」
「時計に」
「時計は、今日も強かったですか」
「工場の時計はいつも強い。こっちの都合を聞かずに針を進める」
ミラは門の時計を見た。
「先生みたいです」
「先生は針より刺す場所が正確だ」
ちょうどその時、教室の入口からルノー先生が出てきた。名簿を胸元に抱え、レオンを見た。
「聞こえています」
「今のは褒めました」
「褒める言葉としては危険です」
「では、修正します。先生は時計より親切です」
「少し遅いですが、受け取っておきます」
ミラは二人を見比べて、ほんの少し口元をゆるめた。
門の横には、灰色の上着を着たロベールが立っていた。帽子を手に持ち、レオンとミラを見つけると静かに頭を下げる。
レオンの肩が固くなった。
「ロベールさんが門の前にいると、学校が急に役所っぽくなりますね」
「そう見せたいわけではありません」
「役所の人がそう言うと、少し役所っぽさが増します」
ロベールは反論せず、ミラへ目を向けた。
「ミラさん。アドリアン・ベルフォール氏から、今日、短い曲を聞いてもらえないかという申し出がありました」
ミラは鞄の取っ手を持ち直した。
「曲」
「はい。大きな演奏会ではありません。公会堂の小さな部屋に、ピアノがあります。そこで、少しだけ」
レオンはミラの横顔を見た。
前に会った時、ミラはアドリアンの手を見ていた。白く、長い指をしていて、音が出る手だと言った。レオンの手は椅子を持つ手で、アドリアンの手はピアノを弾く手だと、ミラなりに分けていた。
その手が、本当に音を出す。
「音が出る面会ですね」
ロベールは一拍置いた。
「言い方は少し危ないですが、間違いではありません」
「危ない方を先に言ったつもりはないんですが」
「結果として少し危険です」
ルノー先生がミラの前にかがんだ。
「ミラさん。怖かったら、途中で出ていい日です」
ミラは先生を見た。
「最後まで聞かないと、失礼ですか」
「最後までいることより、怖かったら出られると覚えておく方が大事です」
ミラはすぐには頷かなかった。
先生の顔を見て、ロベールを見て、それからレオンの靴を見た。学校の門前の石畳には、レオンの古い靴と、自分の小さな革靴が並んでいる。
「レオンさんも、行きますか」
「行く」
レオンはすぐに答えた。
「俺が弾くわけじゃないけどな」
「レオンさんが弾くと、どうなりますか」
「たぶん、ピアノの方が役所に訴える」
ロベールが静かに言った。
「訴えません」
「では、壊れる方ですか」
「触らなければ大丈夫です」
「俺の信頼が、触る前から低い」
ミラは口元をゆるめた。
その様子を見て、ルノー先生は立ち上がった。
「明日はいつも通りです。今日のことを明日話したい時は、話していいです。話したくない時は、鞄を置くだけでもかまいません」
「鞄だけでも?」
「はい。鞄は毎日よく話しています」
ミラは自分の鞄を見下ろした。
「今日は、少し重いです」
「では、落とさないように持って帰りましょう」
レオンは頷き、ロベールの案内で公会堂へ向かった。
公会堂は、市場の通りを一本外れた場所にあった。
大きな石造りではなく、古い役場の離れを直したような建物だ。入口の扉には薄い傷がいくつもあり、床板は歩くと小さく鳴る。壁には煤けた額が掛かり、窓から入る夕方の光は、長い机の端を斜めに照らしていた。
その奥の小部屋に、ピアノが一台置かれていた。
黒い木の箱のようにも見える。足があり、蓋があり、鍵盤の白と黒が細く並んでいる。工場の機械のように大きな音を立てそうではない。けれど、黙っているのに、部屋の中で一番存在感があった。
ミラは入口で足を止めた。
「この箱が、音を出しますか」
窓際に立っていたアドリアンが、ゆっくりとこちらへ向いた。
黒い上着を着ているが、演奏会の写真ほど飾った姿ではない。髪は整えられ、手袋はしていなかった。白い手が見える。ミラを見ると、すぐに近づいては来ず、椅子の横で立ち止まった。
「はい。でも、急に大きな音は出しません」
ミラはピアノとアドリアンを交互に見た。
部屋の隅には、ベルナールもいた。施設の時と同じ黒い上着で、壁際に静かに立っている。レオンはそれを見て、息をついた。ベルナールがいると、こちらの言葉の逃げ場は減るが、ミラの逃げ道は増える気がした。
「ベルナールさんも来るんですね」
「ミラが途中で外へ出たくなった時のためです」
「俺も外へ出たくなったら?」
「あなたは自分で扉を開けられます」
「扱いが大人ですね」
「大人ですから」
「たまに忘れられます」
「あなたが忘れさせることもあります」
レオンは帽子を両手で持ち直した。
アドリアンは、そのやり取りを急かさずに聞いていた。笑いもせず、口も挟まなかった。
ロベールが椅子を示した。
「ミラさんは、こちらに。レオンさんも隣へ」
ミラは小さな椅子に腰かけた。鞄は膝の上に抱えたままにしている。レオンはその横に座り、帽子を膝に置いた。椅子の脚が床をこすって小さく鳴ると、ミラの目が一度そちらへ動いた。
レオンは小声で言った。
「俺の椅子は、先に音を出したな」
「怒られますか」
「まだ出ていけとは言われてない」
アドリアンが少しだけ目元を和らげた。
「ピアノも、最初は一つだけ音を出します」
そう言って、彼は椅子に座った。
背筋を伸ばし、白い手を鍵盤の上に置く。レオンはその手を見た。爪の間に油はない。指先に小さな傷もない。部品をつかむ手ではなく、何かを壊さないように触れる手だった。
アドリアンは、すぐには弾かなかった。
ミラへ目を向ける。椅子から立ち上がりそうではないことを確かめてから、白い鍵盤を一つだけ押した。
音は、部屋の中にまっすぐ落ちた。
大きくはない。けれど、床板の鳴る音とも、工場の鉄の音とも、アパートの共同廊下の足音とも違う。ミラは肩を小さく動かしたが、逃げなかった。
「今の音は、怒っていますか」
ミラが聞いた。
アドリアンは手を鍵盤から離した。
「怒っていません。最初に、ここにいますと言っただけです」
「音も、挨拶しますか」
「人がそうさせることはあります」
レオンは思わず小さく言った。
「工場の警笛より礼儀正しいな」
ロベールが横から答える。
「比べる相手が大きすぎます」
「でも、あれも朝の挨拶みたいなものです」
「起こす音です」
「かなり強引な挨拶ですね」
アドリアンは怒らなかった。
「工場の音も、暮らしの音です」
その言い方は、取り繕ったものではなかった。
レオンは返事に困った。工場の音を、汚れたものや低いもののように言われる覚悟はあった。けれど、アドリアンはそうしなかった。工場の音も、ミラが朝に聞いている音の一つだと知っているように扱った。
ミラはその言葉を聞いてから、もう一度ピアノを見た。
「もう一つ、出ますか」
「はい」
アドリアンは、今度は短い並びで鍵盤を押した。
音は少しずつ続いた。大きくならず、急に跳ねず、部屋の中をゆっくり通っていく。窓の外で馬車の車輪が石畳をこすったが、その音もピアノの邪魔にはならなかった。
ミラは鞄を抱えたまま、じっと聞いていた。
アドリアンは、長く弾かなかった。ほんの短いところで手を止める。
「今の曲は、ミラのお母さんも知っていた曲です」
ミラの指が、鞄の布を押さえた。
「お母さんは、この音を知っていますか」
「知っていました」
「今も?」
アドリアンの手が、鍵盤の上で止まった。
レオンは横で息を止めかけた。ベルナールもロベールも、口を挟まない。ミラはアドリアンを見ている。答えを急かしてはいない。けれど、聞いたことをなかったことにはしない目だった。
アドリアンは、ゆっくり言った。
「私は、そう思って弾くことがあります」
ミラは、それ以上聞かなかった。
母のことも、戦争のことも、離れた日のことも、どこへ行ったのかも聞かない。代わりに、鍵盤へ目を落とした。
「白いところと、黒いところがあります」
「はい」
「黒いところも、音が出ますか」
「出ます」
「怖くないですか」
「怖くならないように、弾けます」
アドリアンは黒い鍵盤を少しだけ使って、もう一度短く弾いた。
さっきより少し色の違う音がした。ミラは目を細めたが、椅子から降りなかった。レオンは、膝の上の帽子を握る手に力が入っていることに気づき、そっとゆるめた。
音が止まったあと、部屋はしばらく静かだった。
外の馬車の音が遠ざかる。廊下のどこかで人が歩いたのか、床板が小さく鳴った。ミラはピアノを見て、それからアドリアンの手を見た。
「父さんの手は、本当に音が出ます」
アドリアンの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
「聞いてくれて、ありがとう」
ミラは首を横に振らなかった。頷きもしなかった。ただ、鞄を抱え直した。
アドリアンは椅子から立ち上がった。ピアノの蓋は、開いたままだった。
「もし、いつか私の家に来るなら、ミラの部屋を用意したいと思っています」
レオンの背中が固くなった。
その動きは小さかったが、アドリアンは見逃さなかった。すぐにレオンを見て、それからミラへ戻る。
「今日決める話ではありません」
ロベールも静かに言い足した。
「面会を続けるための話です。引き取りを今日決めるものではありません」
ミラはアドリアンを見た。
「部屋」
「はい」
「椅子はありますか」
「あります」
「皿は?」
「あります」
「寝るところも?」
「あります」
「黒い鍋は?」
アドリアンは、そこで初めて答えに詰まった。
「黒い鍋は……たぶん、ありません」
レオンは思わず口を開いた。
「うちの鍋、急に古参になったな」
ロベールがすぐに言った。
「鍋に役職はありません」
「じゃあ、ただ古いだけか」
ベルナールが穏やかに言う。
「それでも、毎日使われているなら大事な鍋です」
「ベルナールさん、鍋には優しいですね」
「子どもの夕飯に関係しますから」
「急に重くなった」
「元からです」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
アドリアンの家には、椅子がある。皿もある。寝るところもある。たぶん、レオンの部屋より暖かく、広く、きれいで、音の出る黒いピアノもある。
けれど、黒い鍋はない。
そのことを良いとも悪いとも、ミラはまだ決めていなかった。
アドリアンは、もう一度ミラに向き直った。
「また、聞きに来てくれますか」
ピアノを見る。アドリアンの手を見る。レオンの手を見る。
レオンの手は、朝よりは洗われている。けれど、爪の端には黒い油の線が残っている。白くはない。音も出ない。鍵盤に置く手ではない。
ミラの視線は、最後にレオンの靴へ落ちた。
古い靴だった。つま先は少し擦れていて、片方の紐はもう何度も結び直されている。けれど、学校の迎えにも、施設へ行った日にも、今日この部屋へ来る時にも、その靴はレオンの足についていた。
「聞きます」
ミラは言った。
アドリアンは、小さく息を吐いた。
けれど、ミラは続けた。
「でも、帰る時の音も聞きます」
「帰る時の音?」
アドリアンが聞く。
ミラはレオンを見た。
「レオンさんの靴です」
レオンは、帽子を握ったまま動けなかった。
何か言えば、たぶん間違える。いいことを言おうとすれば、もっと間違える。ロイにも、エリーズにも、テレーズにも、今日は余計なことを言うなという顔をされてきた。だから、レオンは黙っていた。
アドリアンは、ミラの言葉を横取りしなかった。
ピアノのそばで、静かに頷いた。
「では、今日はその音で帰ってください」
ベルナールが目を伏せた。
ロベールは書類を胸元にそろえたが、今はまだ何も書かなかった。
小部屋を出る時、ミラは一度だけピアノを振り返った。アドリアンは手を振らない。大きな別れの仕草をしない。ただ、ミラが振り返った時、そこにいる顔をしていた。
外へ出ると、夕方の空は少し暗くなっていた。
公会堂の石段を下りる時、レオンの靴が小さく鳴った。ミラの靴も、それより軽い音で続く。レオンは歩幅を落とし、ミラが横に並ぶのを待った。
しばらく二人とも黙って歩いた。
通りでは、馬車がゆっくり走り、パン屋の前から焼けた匂いが流れている。工場の煙突は遠くに見え、夕方の煙は灰色の空に薄く伸びていた。
レオンは何度か口を開きかけ、やめた。
ミラが先に言った。
「ピアノは、怖くない音でした」
「ああ」
「大きくなりませんでした」
「父さんが、見てたからな」
「何を?」
「ミラが怖くないか」
ミラは鞄を抱え直した。
「見てから、弾いていました」
「うん」
「レオンさんも、見ていました」
「俺は、変なことを言わないように見てた」
「言いました」
「少しだけだ」
「工場の警笛」
「あれは、かなり礼儀のない音だからな」
ミラは小さく笑った。
その笑いを聞いて、レオンの肩から少し力が抜けた。
「俺も何か、音が出るものを持ってた方がいいのか」
「鍋は鳴ります」
「あれは料理中の事故だ」
「椅子も、引くと鳴ります」
「うちの部屋、楽団だったのか」
「楽団ですか」
「たぶん違う。聞いたらロベールさんに訂正される」
ミラはレオンの靴を見た。
「帰る音も、怖くないです」
レオンは返事に困った。
その言葉は、胸の奥へまっすぐ入ってきた。けれど、胸の奥へ入ったものを、そのまま口から出す方法をレオンは知らない。口から出すと、だいたい横へ転がる。
「俺の靴、今日はかなり褒められるな」
ミラは真面目に言った。
「明日も、ありますか」
「ある。穴が開かなければ」
「穴が開いたら?」
「直す。靴も、予定より先に逃がさない」
ミラは頷いた。
公営労働者アパートの中庭へ戻ると、いつもの匂いがした。
共同廊下には洗濯物が干され、どこかの部屋から薄い豆のスープの匂いが落ちてくる。テレーズは洗濯場で桶を片づけていて、エリーズは籠を抱え、マノンの髪ひもを直していた。ルルは木の匙を持ってトトの前に立ち、トトは匙ではなくレオンの靴を一度だけ嗅いだ。
マノンがミラに駆け寄る。
「ミラ、ピアノどうだった?」
ミラは耳の奥に残る音を探した。
「怖くない音でした」
「大きい音?」
「最初は、一つでした」
「一つだけ?」
「うん。それから、少し増えました」
マノンにはよく分からないらしかったが、楽しそうに目を丸くした。
「じゃあ、楽しかった?」
ミラは一度、足元を見た。
「帰りの音もありました」
「帰り?」
マノンはさらに分からない顔になった。
エリーズは、レオンの靴を見た。
「つまり、あんたの靴も少しは役に立ったってことね」
「今日は靴が主役ですか」
レオンが言うと、テレーズが桶を伏せながら笑った。
「あんたより落ち着いてるからね」
「靴に負ける日が来るとは」
エリーズは籠を抱え直した。
「前から勝ってないわよ」
「俺の靴、そんなに立派だったか」
「靴じゃなくて、迎えに来る足の話でしょ」
レオンは言い返しかけて、やめた。
そのやめ方を見て、テレーズが目を細める。
「今日は少し賢いね」
「黙ると褒められるの、複雑です」
「毎日複雑になりな」
中庭に小さな笑いが広がった。ミラはその中で、鞄を抱えたままレオンの横に立っていた。公会堂の小部屋ではきれいに座っていた肩が、少しだけ下りている。
三階の部屋へ上がる階段で、レオンの靴がまた小さく鳴った。
ミラはその音を聞きながら、足元を見た。公会堂のピアノとは違う。大きくも、きれいでもない。けれど、帰る時に鳴る音だった。
レオンは扉の前で鍵を探しながら言った。
「夕飯にするか」
「はい」
「ピアノはないが、鍋ならある」
「古参ですか」
「役職はないらしい。ただ古い」
ミラは扉の横に立ち、レオンの靴をもう一度見た。
「明日も、鳴りますか」
「鳴る。たぶん、階段に文句を言われるくらいには」
「怖くないです」
レオンは鍵を回し、扉を開けた。
「じゃあ、明日も鳴らす」
部屋の中から、昨日の豆の匂いが少しだけ残っていた。狭い部屋の奥には椅子があり、机があり、黒い鍋がある。
ミラは鞄を抱え直し、レオンの靴音のあとに続いて部屋へ入った。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




