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拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第3章 帰る家を選ぶ
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第28話 帰りの靴音

挿絵(By みてみん)

数日後の夕方、市立初等校の門前には、いつもの声が集まっていた。


子どもたちは鞄を抱え、迎えに来た大人の袖を引き、その日の出来事を口々に話している。レオンは工場の水場で手を洗ってから来ていた。袖口には少し黒い筋が残っているが、時間には遅れていない。最近は、そこだけで胸を張りすぎるとエリーズに刺されるので、本人としては控えめに立っているつもりだった。


予備学級の入口から、ミラが出てきた。


鞄を胸の前に抱え、レオンを見つけると小さく頭を下げてから歩いてくる。走らない。けれど、こちらへ向かう足は、最初の頃より迷わない。


「今日は、遅れていません」


「勝った」


「誰にですか」


「時計に」


「時計は、今日も強かったですか」


「工場の時計はいつも強い。こっちの都合を聞かずに針を進める」


ミラは門の時計を見た。


「先生みたいです」


「先生は針より刺す場所が正確だ」


ちょうどその時、教室の入口からルノー先生が出てきた。名簿を胸元に抱え、レオンを見た。


「聞こえています」


「今のは褒めました」


「褒める言葉としては危険です」


「では、修正します。先生は時計より親切です」


「少し遅いですが、受け取っておきます」


ミラは二人を見比べて、ほんの少し口元をゆるめた。


門の横には、灰色の上着を着たロベールが立っていた。帽子を手に持ち、レオンとミラを見つけると静かに頭を下げる。


レオンの肩が固くなった。


「ロベールさんが門の前にいると、学校が急に役所っぽくなりますね」


「そう見せたいわけではありません」


「役所の人がそう言うと、少し役所っぽさが増します」


ロベールは反論せず、ミラへ目を向けた。


「ミラさん。アドリアン・ベルフォール氏から、今日、短い曲を聞いてもらえないかという申し出がありました」


ミラは鞄の取っ手を持ち直した。


「曲」


「はい。大きな演奏会ではありません。公会堂の小さな部屋に、ピアノがあります。そこで、少しだけ」


レオンはミラの横顔を見た。


前に会った時、ミラはアドリアンの手を見ていた。白く、長い指をしていて、音が出る手だと言った。レオンの手は椅子を持つ手で、アドリアンの手はピアノを弾く手だと、ミラなりに分けていた。


その手が、本当に音を出す。


「音が出る面会ですね」


ロベールは一拍置いた。


「言い方は少し危ないですが、間違いではありません」


「危ない方を先に言ったつもりはないんですが」


「結果として少し危険です」


ルノー先生がミラの前にかがんだ。


「ミラさん。怖かったら、途中で出ていい日です」


ミラは先生を見た。


「最後まで聞かないと、失礼ですか」


「最後までいることより、怖かったら出られると覚えておく方が大事です」


ミラはすぐには頷かなかった。


先生の顔を見て、ロベールを見て、それからレオンの靴を見た。学校の門前の石畳には、レオンの古い靴と、自分の小さな革靴が並んでいる。


「レオンさんも、行きますか」


「行く」


レオンはすぐに答えた。


「俺が弾くわけじゃないけどな」


「レオンさんが弾くと、どうなりますか」


「たぶん、ピアノの方が役所に訴える」


ロベールが静かに言った。


「訴えません」


「では、壊れる方ですか」


「触らなければ大丈夫です」


「俺の信頼が、触る前から低い」


ミラは口元をゆるめた。


その様子を見て、ルノー先生は立ち上がった。


「明日はいつも通りです。今日のことを明日話したい時は、話していいです。話したくない時は、鞄を置くだけでもかまいません」


「鞄だけでも?」


「はい。鞄は毎日よく話しています」


ミラは自分の鞄を見下ろした。


「今日は、少し重いです」


「では、落とさないように持って帰りましょう」


レオンは頷き、ロベールの案内で公会堂へ向かった。


公会堂は、市場の通りを一本外れた場所にあった。


大きな石造りではなく、古い役場の離れを直したような建物だ。入口の扉には薄い傷がいくつもあり、床板は歩くと小さく鳴る。壁には煤けた額が掛かり、窓から入る夕方の光は、長い机の端を斜めに照らしていた。


その奥の小部屋に、ピアノが一台置かれていた。


黒い木の箱のようにも見える。足があり、蓋があり、鍵盤の白と黒が細く並んでいる。工場の機械のように大きな音を立てそうではない。けれど、黙っているのに、部屋の中で一番存在感があった。


ミラは入口で足を止めた。


「この箱が、音を出しますか」


窓際に立っていたアドリアンが、ゆっくりとこちらへ向いた。


黒い上着を着ているが、演奏会の写真ほど飾った姿ではない。髪は整えられ、手袋はしていなかった。白い手が見える。ミラを見ると、すぐに近づいては来ず、椅子の横で立ち止まった。


「はい。でも、急に大きな音は出しません」


ミラはピアノとアドリアンを交互に見た。


部屋の隅には、ベルナールもいた。施設の時と同じ黒い上着で、壁際に静かに立っている。レオンはそれを見て、息をついた。ベルナールがいると、こちらの言葉の逃げ場は減るが、ミラの逃げ道は増える気がした。


「ベルナールさんも来るんですね」


「ミラが途中で外へ出たくなった時のためです」


「俺も外へ出たくなったら?」


「あなたは自分で扉を開けられます」


「扱いが大人ですね」


「大人ですから」


「たまに忘れられます」


「あなたが忘れさせることもあります」


レオンは帽子を両手で持ち直した。


アドリアンは、そのやり取りを急かさずに聞いていた。笑いもせず、口も挟まなかった。


ロベールが椅子を示した。


「ミラさんは、こちらに。レオンさんも隣へ」


ミラは小さな椅子に腰かけた。鞄は膝の上に抱えたままにしている。レオンはその横に座り、帽子を膝に置いた。椅子の脚が床をこすって小さく鳴ると、ミラの目が一度そちらへ動いた。


レオンは小声で言った。


「俺の椅子は、先に音を出したな」


「怒られますか」


「まだ出ていけとは言われてない」


アドリアンが少しだけ目元を和らげた。


「ピアノも、最初は一つだけ音を出します」


そう言って、彼は椅子に座った。


背筋を伸ばし、白い手を鍵盤の上に置く。レオンはその手を見た。爪の間に油はない。指先に小さな傷もない。部品をつかむ手ではなく、何かを壊さないように触れる手だった。


アドリアンは、すぐには弾かなかった。


ミラへ目を向ける。椅子から立ち上がりそうではないことを確かめてから、白い鍵盤を一つだけ押した。


音は、部屋の中にまっすぐ落ちた。


大きくはない。けれど、床板の鳴る音とも、工場の鉄の音とも、アパートの共同廊下の足音とも違う。ミラは肩を小さく動かしたが、逃げなかった。


「今の音は、怒っていますか」


ミラが聞いた。


アドリアンは手を鍵盤から離した。


「怒っていません。最初に、ここにいますと言っただけです」


「音も、挨拶しますか」


「人がそうさせることはあります」


レオンは思わず小さく言った。


「工場の警笛より礼儀正しいな」


ロベールが横から答える。


「比べる相手が大きすぎます」


「でも、あれも朝の挨拶みたいなものです」


「起こす音です」


「かなり強引な挨拶ですね」


アドリアンは怒らなかった。


「工場の音も、暮らしの音です」


その言い方は、取り繕ったものではなかった。


レオンは返事に困った。工場の音を、汚れたものや低いもののように言われる覚悟はあった。けれど、アドリアンはそうしなかった。工場の音も、ミラが朝に聞いている音の一つだと知っているように扱った。


ミラはその言葉を聞いてから、もう一度ピアノを見た。


「もう一つ、出ますか」


「はい」


アドリアンは、今度は短い並びで鍵盤を押した。


音は少しずつ続いた。大きくならず、急に跳ねず、部屋の中をゆっくり通っていく。窓の外で馬車の車輪が石畳をこすったが、その音もピアノの邪魔にはならなかった。


ミラは鞄を抱えたまま、じっと聞いていた。


アドリアンは、長く弾かなかった。ほんの短いところで手を止める。


「今の曲は、ミラのお母さんも知っていた曲です」


ミラの指が、鞄の布を押さえた。


「お母さんは、この音を知っていますか」


「知っていました」


「今も?」


アドリアンの手が、鍵盤の上で止まった。


レオンは横で息を止めかけた。ベルナールもロベールも、口を挟まない。ミラはアドリアンを見ている。答えを急かしてはいない。けれど、聞いたことをなかったことにはしない目だった。


アドリアンは、ゆっくり言った。


「私は、そう思って弾くことがあります」


ミラは、それ以上聞かなかった。


母のことも、戦争のことも、離れた日のことも、どこへ行ったのかも聞かない。代わりに、鍵盤へ目を落とした。


「白いところと、黒いところがあります」


「はい」


「黒いところも、音が出ますか」


「出ます」


「怖くないですか」


「怖くならないように、弾けます」


アドリアンは黒い鍵盤を少しだけ使って、もう一度短く弾いた。


さっきより少し色の違う音がした。ミラは目を細めたが、椅子から降りなかった。レオンは、膝の上の帽子を握る手に力が入っていることに気づき、そっとゆるめた。


音が止まったあと、部屋はしばらく静かだった。


外の馬車の音が遠ざかる。廊下のどこかで人が歩いたのか、床板が小さく鳴った。ミラはピアノを見て、それからアドリアンの手を見た。


「父さんの手は、本当に音が出ます」


アドリアンの表情が、ほんの少しだけ崩れた。


「聞いてくれて、ありがとう」


ミラは首を横に振らなかった。頷きもしなかった。ただ、鞄を抱え直した。


アドリアンは椅子から立ち上がった。ピアノの蓋は、開いたままだった。


「もし、いつか私の家に来るなら、ミラの部屋を用意したいと思っています」


レオンの背中が固くなった。


その動きは小さかったが、アドリアンは見逃さなかった。すぐにレオンを見て、それからミラへ戻る。


「今日決める話ではありません」


ロベールも静かに言い足した。


「面会を続けるための話です。引き取りを今日決めるものではありません」


ミラはアドリアンを見た。


「部屋」


「はい」


「椅子はありますか」


「あります」


「皿は?」


「あります」


「寝るところも?」


「あります」


「黒い鍋は?」


アドリアンは、そこで初めて答えに詰まった。


「黒い鍋は……たぶん、ありません」


レオンは思わず口を開いた。


「うちの鍋、急に古参になったな」


ロベールがすぐに言った。


「鍋に役職はありません」


「じゃあ、ただ古いだけか」


ベルナールが穏やかに言う。


「それでも、毎日使われているなら大事な鍋です」


「ベルナールさん、鍋には優しいですね」


「子どもの夕飯に関係しますから」


「急に重くなった」


「元からです」


ミラは少しだけ口元をゆるめた。


アドリアンの家には、椅子がある。皿もある。寝るところもある。たぶん、レオンの部屋より暖かく、広く、きれいで、音の出る黒いピアノもある。


けれど、黒い鍋はない。


そのことを良いとも悪いとも、ミラはまだ決めていなかった。


アドリアンは、もう一度ミラに向き直った。


「また、聞きに来てくれますか」


ピアノを見る。アドリアンの手を見る。レオンの手を見る。


レオンの手は、朝よりは洗われている。けれど、爪の端には黒い油の線が残っている。白くはない。音も出ない。鍵盤に置く手ではない。


ミラの視線は、最後にレオンの靴へ落ちた。


古い靴だった。つま先は少し擦れていて、片方の紐はもう何度も結び直されている。けれど、学校の迎えにも、施設へ行った日にも、今日この部屋へ来る時にも、その靴はレオンの足についていた。


「聞きます」


ミラは言った。


アドリアンは、小さく息を吐いた。


けれど、ミラは続けた。


「でも、帰る時の音も聞きます」


「帰る時の音?」


アドリアンが聞く。


ミラはレオンを見た。


「レオンさんの靴です」


レオンは、帽子を握ったまま動けなかった。


何か言えば、たぶん間違える。いいことを言おうとすれば、もっと間違える。ロイにも、エリーズにも、テレーズにも、今日は余計なことを言うなという顔をされてきた。だから、レオンは黙っていた。


アドリアンは、ミラの言葉を横取りしなかった。


ピアノのそばで、静かに頷いた。


「では、今日はその音で帰ってください」


ベルナールが目を伏せた。


ロベールは書類を胸元にそろえたが、今はまだ何も書かなかった。


小部屋を出る時、ミラは一度だけピアノを振り返った。アドリアンは手を振らない。大きな別れの仕草をしない。ただ、ミラが振り返った時、そこにいる顔をしていた。


外へ出ると、夕方の空は少し暗くなっていた。


公会堂の石段を下りる時、レオンの靴が小さく鳴った。ミラの靴も、それより軽い音で続く。レオンは歩幅を落とし、ミラが横に並ぶのを待った。


しばらく二人とも黙って歩いた。


通りでは、馬車がゆっくり走り、パン屋の前から焼けた匂いが流れている。工場の煙突は遠くに見え、夕方の煙は灰色の空に薄く伸びていた。


レオンは何度か口を開きかけ、やめた。


ミラが先に言った。


「ピアノは、怖くない音でした」


「ああ」


「大きくなりませんでした」


「父さんが、見てたからな」


「何を?」


「ミラが怖くないか」


ミラは鞄を抱え直した。


「見てから、弾いていました」


「うん」


「レオンさんも、見ていました」


「俺は、変なことを言わないように見てた」


「言いました」


「少しだけだ」


「工場の警笛」


「あれは、かなり礼儀のない音だからな」


ミラは小さく笑った。


その笑いを聞いて、レオンの肩から少し力が抜けた。


「俺も何か、音が出るものを持ってた方がいいのか」


「鍋は鳴ります」


「あれは料理中の事故だ」


「椅子も、引くと鳴ります」


「うちの部屋、楽団だったのか」


「楽団ですか」


「たぶん違う。聞いたらロベールさんに訂正される」


ミラはレオンの靴を見た。


「帰る音も、怖くないです」


レオンは返事に困った。


その言葉は、胸の奥へまっすぐ入ってきた。けれど、胸の奥へ入ったものを、そのまま口から出す方法をレオンは知らない。口から出すと、だいたい横へ転がる。


「俺の靴、今日はかなり褒められるな」


ミラは真面目に言った。


「明日も、ありますか」


「ある。穴が開かなければ」


「穴が開いたら?」


「直す。靴も、予定より先に逃がさない」


ミラは頷いた。


公営労働者アパートの中庭へ戻ると、いつもの匂いがした。


共同廊下には洗濯物が干され、どこかの部屋から薄い豆のスープの匂いが落ちてくる。テレーズは洗濯場で桶を片づけていて、エリーズは籠を抱え、マノンの髪ひもを直していた。ルルは木の匙を持ってトトの前に立ち、トトは匙ではなくレオンの靴を一度だけ嗅いだ。


マノンがミラに駆け寄る。


「ミラ、ピアノどうだった?」


ミラは耳の奥に残る音を探した。


「怖くない音でした」


「大きい音?」


「最初は、一つでした」


「一つだけ?」


「うん。それから、少し増えました」


マノンにはよく分からないらしかったが、楽しそうに目を丸くした。


「じゃあ、楽しかった?」


ミラは一度、足元を見た。


「帰りの音もありました」


「帰り?」


マノンはさらに分からない顔になった。


エリーズは、レオンの靴を見た。


「つまり、あんたの靴も少しは役に立ったってことね」


「今日は靴が主役ですか」


レオンが言うと、テレーズが桶を伏せながら笑った。


「あんたより落ち着いてるからね」


「靴に負ける日が来るとは」


エリーズは籠を抱え直した。


「前から勝ってないわよ」


「俺の靴、そんなに立派だったか」


「靴じゃなくて、迎えに来る足の話でしょ」


レオンは言い返しかけて、やめた。


そのやめ方を見て、テレーズが目を細める。


「今日は少し賢いね」


「黙ると褒められるの、複雑です」


「毎日複雑になりな」


中庭に小さな笑いが広がった。ミラはその中で、鞄を抱えたままレオンの横に立っていた。公会堂の小部屋ではきれいに座っていた肩が、少しだけ下りている。


三階の部屋へ上がる階段で、レオンの靴がまた小さく鳴った。


ミラはその音を聞きながら、足元を見た。公会堂のピアノとは違う。大きくも、きれいでもない。けれど、帰る時に鳴る音だった。


レオンは扉の前で鍵を探しながら言った。


「夕飯にするか」


「はい」


「ピアノはないが、鍋ならある」


「古参ですか」


「役職はないらしい。ただ古い」


ミラは扉の横に立ち、レオンの靴をもう一度見た。


「明日も、鳴りますか」


「鳴る。たぶん、階段に文句を言われるくらいには」


「怖くないです」


レオンは鍵を回し、扉を開けた。


「じゃあ、明日も鳴らす」


部屋の中から、昨日の豆の匂いが少しだけ残っていた。狭い部屋の奥には椅子があり、机があり、黒い鍋がある。


ミラは鞄を抱え直し、レオンの靴音のあとに続いて部屋へ入った。


読んでくださり、ありがとうございます。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。


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