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拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第3章 帰る家を選ぶ
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第27話 父さんの手

挿絵(By みてみん)

朝、レオンは三度目の水を桶へ入れた。


指先、爪の間、手の甲。布に石鹸をつけてこする。水はすぐ灰色になったが、爪の端の黒い線は残った。


寝台の上で、ミラは青い髪ひもを持って待っている。鞄は椅子の横にあり、替えのワンピースは昨夜出した場所に畳まれていた。扉の前には、小さな靴と大きな靴が並んでいる。


「落ちましたか」


「工場一日分くらいは」


「まだ黒いです」


「工場も会いたいらしい」


レオンは指を広げた。白くはならない。


ミラはその手を見た。


「痛いですか」


「痛くない。落ちにくいだけだ」


ミラは青い髪ひもを差し出した。


「これは、できますか」


「手を洗った直後に、もっと難しい仕事が来たな」


レオンはミラの後ろへ回った。髪をまとめる。指から髪が逃げる。ひもが滑る。結び目は一度目にほどけ、二度目には耳の横へ移った。


「動いたか」


「動いていません」


「じゃあ、ひもの方だ」


三度目で、どうにか結び目ができた。青いひもは斜めになり、片方の端だけ長い。


「勝ちましたか」


ミラは鏡の代わりにレオンの顔を見た。


「判定待ちだ」


扉が二度鳴り、エリーズが顔を出した。


「朝から何と争ってるの」


髪ひもを見るなり、判定は出た。


「負けてるじゃない」


「三度目までは互角だった」


「ひもは一度も困ってないわよ」


エリーズは結び目をほどかず、指を差し入れて向きを直した。長さをそろえると、青いひもはミラの髪にきちんと収まった。


「はい。これでミラ」


ミラは髪に触れた。


「ミラに見えますか」


「どこから見ても」


エリーズはレオンの襟も直そうとしたが、昨夜直した形がまだ残っているのを見て、手を止めた。


「今日は合格」


「髪ひもに負けても?」


「それはいつものことにしなさい」


レオンは住所の紙を内ポケットへ入れた。入れたあとで確かめ、靴を履いてからもう一度確かめた。


ミラが鞄を持つ。


「紙は、逃げましたか」


「まだいる」


「二回、見ました」


「道に負けないためだ」


「紙が道と戦いますか」


「今日は俺より頼りになる」


二人は扉を出た。


朝の通りには湿った風が残っていた。パン屋から焼けた匂いが流れ、工場へ向かう男たちの靴が石畳を急いでいる。レオンはいつもの工場への角を通り過ぎた。


ミラはそこで足を止めた。


「工場ではありません」


「知ってる。体が勝手に曲がりかけた」


レオンは紙を出し、書かれた通りを指で追った。紙を上下に返したところで、ミラが言う。


「字が反対です」


「道まで反対にならなくてよかった」


「なりますか」


「ならない。たぶん」


ミラはレオンの手を取った。


レオンは黒い線の残る指を見た。


「汚れるぞ」


「知っています」


「昨日よりは洗った」


「それも知っています」


ミラの手は冷たかった。けれど、握る力は弱くなかった。


役所の建物は、工場長室より広く、養子支援施設より冷たい匂いがした。高い天井、磨かれた床、壁に並ぶ表示板。廊下を歩く人はみな、声を小さくしている。


「紙が多い場所は、静かです」


「紙を起こさないようにしてるんだろ」


「紙は寝ますか」


「俺の休暇届は、内ポケットで寝たふりをしてた」


案内された部屋の前には、ロベールが立っていた。灰色の上着の襟は整い、帽子を片手に持っている。


「レオンさん。ミラさん」


「今日は、書類を先に出さない日ですよね」


「はい。今日は面会です」


ロベールはミラへ向き直った。


「途中で休むことも、帰ることもできます。ベルナールさんも中にいます」


「レオンさんの席も、ありますか」


「あります」


それを聞いて、ミラは扉を見た。


ロベールが開ける。


部屋には椅子が四つあった。窓際に小さな机があり、その上に水差しとコップが置かれている。椅子同士は、手を伸ばしても急には届かないだけ離されていた。


ベルナールが立ち上がった。


「よく来ました。今日は施設へ戻るための話ではありません。会って、聞くための日です」


ミラの手が、レオンの指から離れた。


「レオンさんは?」


「あなたの隣です」


ミラは椅子に座り、鞄を足元へ置いた。レオンも隣に座る。帽子を膝に置こうとして落とし、拾ってから、今度は両手で押さえた。


「帽子も緊張しています」


「持ち主より先にばれたな」


扉の向こうで、足音が止まった。


入ってきた男は、新聞の写真より疲れて見えた。


黒に近い上着。長旅のあとで整えたらしい髪。背は高く、目の下には薄い影がある。部屋へ入った瞬間、視線がミラで止まった。


彼は近づかなかった。帽子を胸の前で持ち、その場で頭を下げた。


「アドリアン・ベルフォールです」


声は低く、遠い土地の発音がわずかに混じっていた。


ミラは座ったまま、両手を膝に置いた。


「ミラです」


アドリアンの指が、帽子の縁を押さえた。


「会ってくれて、ありがとう」


ミラが見ていたのは、顔ではなかった。


アドリアンの手だった。指は長く、爪は短い。白い皮膚の指先には、細い傷と、鍵盤に触れ続けた硬さがあった。


「その手で、ピアノを弾きますか」


アドリアンは自分の手を見てから、頷いた。


「はい」


「音が出ますか」


「出ます」


「車は作れますか」


アドリアンの目が、初めてレオンへ向いた。


レオンは帽子を膝に押さえたまま、背筋を伸ばした。


「すみません。俺の仕事が先に残ってます。レオン・メレルです。車の少しを作っています」


「車の少し」


「部品を受け取って、向きを見て、間違えない棚へ置きます。全部ではありません」


「大事な仕事です」


レオンは返す言葉をなくした。


アドリアンはレオンの手を見た。


「働く手ですね」


「今日は、かなり洗いました」


ミラが言い足した。


「工場も、ついて来ました」


アドリアンは、黒い線を笑わなかった。


「そうですか」


嫌な人なら、もっと簡単だった。レオンは帽子の縁を強く押さえた。


ベルナールに促され、アドリアンは正面ではなく、斜めの椅子へ座った。


しばらく、誰も話さなかった。


ミラが聞いた。


「どうして、今ですか」


アドリアンの手が、膝の上で重なった。


「戦争で、ミラとお母さんを見失いました。探していました。でも、見つけるのが遅くなりました」


「遅いですか」


「はい。とても」


アドリアンは言い訳を足さなかった。


「探しても、遅くなりますか」


「なります。探し続けていたことと、待たせてしまったことは、別です」


ミラはアドリアンの手を見た。


アドリアンは内ポケットから小さな封筒を出し、ベルナールとミラの順に視線を向けた。


「写真を見せてもいいですか」


ベルナールが答える前に、ミラが頷いた。


アドリアンは古い写真を机の上へ置いた。端は折れ、表面には細い傷が走っている。若い女の人が、布に包まれた赤ん坊を抱いていた。その隣には、今より顔の丸いアドリアンが立っている。


ミラは写真を手に取らず、机の上で見た。


「この人は?」


「クレール・ベルフォール。ミラのお母さんです」


ミラは写真の女の人を見た。クレールは赤ん坊の方へ視線を落とし、こちらを見ていない。


「この赤ちゃんが、わたしですか」


「はい」


「わたしは、お母さんを覚えていません」


「まだ、とても小さかったから」


「覚えていないのは、悪いですか」


「いいえ」


アドリアンの声がかすれた。


「何も、悪くありません」


ミラは写真の折れた角を見た。


「これを、探す時に持ちましたか」


「はい」


「雨の日も?」


「雨の日も。海の向こうへ行く時も」


アドリアンは写真を急いでしまわなかった。ミラが目を離すまで、机の上に置いた。


やがてベルナールが水を勧めた。ミラはコップを両手で持ち、一口だけ飲んだ。


レオンは椅子から腰を浮かせた。


「俺、少し壁の方へ――」


「レオンさんの席は、そこです」


ミラの声が先に来た。


レオンは半分立ったまま止まった。


「壁なら邪魔にならないかと」


ベルナールが言った。


「壁より静かに、椅子へ」


「壁よりは難しいですね」


「座ってください」


レオンは座り直した。椅子の脚が床をこすり、短く鳴った。


ミラはその音を聞いてから、コップを机へ戻した。


アドリアンはレオンへ頭を下げた。


「いてくださって、ありがとうございます」


「今のは、ミラに座らされました」


「それでもです」


レオンは帽子の縁を直した。今度は曲げなかった。


アドリアンはミラへ向き直った。


「私は、また会いたいと思っています」


「また」


「はい。今日だけで何も決めなくていい。ミラが嫌でなければ、また話したい。ピアノも聞いてほしい」


「怖い音ですか」


「ミラが怖がらないか、様子を見てから弾きます」


ミラはアドリアンの手と、机の上の写真を見た。


「また、会います」


アドリアンの両手が、膝の上でほどけた。


「ありがとう」


「ピアノも、聞きます」


「はい」


ベルナールが写真を封筒へ戻し、アドリアンへ渡した。アドリアンは両手で受け取り、内ポケットへしまった。


別れ際、アドリアンは椅子から立ち上がったが、近づかなかった。


「握手をしても、いいですか」


ミラは差し出された手を見た。


それから、自分の手を伸ばした。


アドリアンの手はレオンの手より白く、強くは握らなかった。ミラの指が離れるまで、待った。


「また」


「また」


面会室を出ると、廊下の向こうから役所の足音が戻ってきた。


ロベールは次の面会について、ミラが望む時に決めると言った。ミラは「はい」と答えた。


外へ出ると、通りはまだ明るかった。馬車の車輪、遠くの工場の音、パン屋から流れる匂い。レオンは帽子をかぶり直し、ミラの歩幅に合わせた。


二人は一つ目の角まで黙って歩いた。


ミラが言った。


「父さんの手は、ピアノを弾きます」


レオンは前を向いたまま頷いた。


「ああ」


「レオンさんの手は、椅子を持ちます」


「皿も洗う」


「黒い鍋も」


「あれは持つより、こする方が大仕事だ」


「髪ひもには、負けます」


「その話、今日じゅう残るのか」


ミラの頬に、えくぼが出た。


それから、自分からレオンの手を取った。


爪の端には、まだ黒い線が残っていた。


部屋へ帰ると、椅子は机の前にあった。


ミラは鞄をその横へ置いた。レオンは黒い鍋を火にかけ、皿を二枚出した。薄い豆のスープの湯気が、裸電球の下へ上がる。


「また、会います」


「ああ」


「ピアノも、聞きます」


「ああ」


ミラは椅子に座った。


「今日は、帰りました」


レオンは固いパンに刃を入れた。


「帰ってきた」


ミラはその言い直しを聞いた。


レオンはパンを二つに割り、明日の朝の分を並べて置いた。


読んでくださり、ありがとうございます。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。


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