第26話 持っていく鞄、置いていく椅子
ミラが会うと答えてから、三週間が過ぎた。大使館と役所の調整を経て、アドリアン・ベルフォールはニューヨークからこの国へ渡ってきた。
昼前の工場は、油の匂いと鉄の音で満ちていた。
奥の機械が低く唸り、台車の車輪が床の溝をこすり、流れてくる部品が一定の間隔で作業台へ届く。レオンは部品を受け取り、向きを確かめ、決まった棚へ置いた。手は動いている。けれど、いつもより少しだけ遅かった。
作業着の内ポケットには、折り目のついた休暇届が入っている。
明日、ミラは父親かもしれない人に会う。
そのためにレオンは工場を休むことになった。休む、と言えば気楽に聞こえる。けれど、胸の内側に入っている紙だけは、休日らしい軽さを持っていなかった。
隣でロイが部品を受け取りながら言った。
「おい、今日のお前、休みの顔じゃないな」
「休みの顔ってどんなだ」
「もう少し、財布の心配だけしてる顔だ」
「明日は財布より大きいものが来る」
「何だ」
レオンは部品を棚へ置き、向きがずれていないことをもう一度見た。
「五歳の子が、海の向こうから来た父親かもしれない人に会う日だ」
ロイは一拍黙った。
「最初から重いな」
「軽く言う方法を探したら、全部ひどくなった」
「その判断だけは合ってる」
「そこだけか」
「そこだけでも合っててよかったな」
ロイはそれだけ言って、次の部品を受け取った。
作業場の入口に、デュラン工場長が立った。
いつもなら煙草をくわえて現れ、誰かの作業姿勢を直し、ついでにレオンの余計な口を叩く。だが今日は煙草を持っていない。工場長は作業場を見渡し、まっすぐレオンのところへ来た。
「レオン」
「俺、まだ何も壊してません」
「明日は来るな」
レオンは手元の部品を落としかけた。
「解雇ですか」
「休みだ」
「休みをそんな怖い声で言うんですか」
「お前が来たら、部品より先に顔を落とす」
「俺の顔、そんなに現場に悪いですか」
「明日はな」
近くにいた工員たちが小さく笑った。レオンは帽子をかぶっていない頭をかき、作業台の端へ視線を落とした。
「一日休むと、その分は」
「減る」
「ですよね」
「だが、行け」
デュラン工場長は短く言った。励ましでも、慰めでもない。工場の予定を決める時と同じ声だった。ただ、その声で休めと言われたから、レオンはようやく自分が明日ここに来ないのだと理解した。
「工場長、今のは優しいんですか、厳しいんですか」
「両方だ」
「難しいですね」
「お前が明日やることよりは簡単だ」
レオンは返事に困り、部品を棚へ置いた。
工場長が去ると、作業場の音が少しずつ元の速さへ戻っていった。鉄板を置く音。台車の車輪。機械の唸り。工場は明日も動く。レオンがいてもいなくても、部品は流れる。
ロイが横から声を落とした。
「いいことを言おうとするなよ」
「なぜだ」
「お前のいいことは、だいたい途中で横転する」
「俺の言葉は車か」
「車なら直せる」
「ひどいな」
「時間通りに行け。帰りも迎えろ」
レオンは、いつものように軽口を返そうとして言葉を止めた。
迎え。
それは、学校の門で何度もやってきたことだった。工場の終業に合わせ、手を洗い、通りを急ぎ、予備学級の入口でミラを待つ。最初は役所に言われた責任のようだったものが、いつの間にか、その日の終わり方になっていた。
「行ったばかりなのに、もう帰りの話か」
「先に決めとけ。お前は途中の段取りが弱い」
「工場では言われたことないぞ」
「工場には工場長がいるからな」
レオンは反論しかけたが、次の部品が来たので受け取った。向きを確かめ、棚へ置く。明日の帰りも、それくらい迷わず決まっていればいいと思った。
夕方、公営労働者アパートの中庭には、いつもの匂いが混じっていた。
共同廊下には洗濯物が干され、どこかの部屋から薄い豆のスープの匂いが落ちてくる。中庭の端ではマノンが縄跳びの紐をほどいていて、ルルは木の匙を持ったままトトの耳に何かを話しかけていた。トトは嫌がりもせず、尻尾だけを動かしている。
三階の部屋へ入ると、ミラは床に座って鞄を開けていた。
小さな鞄の中身は、寝台のそばにきちんと並べられている。ハンカチ。短い鉛筆。青い髪ひも。薄い外套。小さな布切れ。古いが清潔なワンピースの替え。どれも多くはない。だが、ミラは一つずつ確かめるように触っていた。
机の前には椅子がある。
棚の上には賞の紙がある。簡易台所には黒い鍋があり、夕飯を待つ匂いが薄く残っていた。だが、ミラが見ているのは鞄と椅子だった。
レオンは帽子を脱いだ。
「ハンカチ、鉛筆、外套、着替え」
レオンは工場の検品のように、一つずつ指さした。
「最後のだけ、一日の荷物じゃないな」
ミラは替えのワンピースに手を置いた。
「帰れない時に、いります」
レオンの指が止まった。
「帰れないって、誰かに言われたか」
「言われていません。でも、前は鞄を持って、別のところへ行きました」
施設からこの部屋へ来た日も、ミラの荷物は小さな鞄一つだった。
「明日は、会って、話を聞いて、ここへ帰る日だ。明日いきなり、別の家で寝ろとは言われない」
「ほんとうですか」
「ベルナールさんにも確認する。そこは俺の口だけより信用できる」
ミラはレオンを見たあと、替えのワンピースを鞄から出した。きれいに畳み直し、寝台の端へ置く。
レオンは空いた場所を見た。
「代わりにパンを入れるか」
「くずが出ます」
「鉛筆より役に立つんだが」
「紙が汚れます」
「役所へ行く鞄は厳しいな」
「椅子は、持っていけません」
「持っていかないな」
「わたしがいない間も、椅子はここにいますか」
レオンは、すぐに「いる」と言いかけて止まった。
「いる。椅子は足が短いし、遠くへ行く気もない」
「遠くへ行く気」
「帰ってきたやつを座らせる仕事があるからな」
「仕事ですか」
「大事な仕事だ。待つ仕事は、けっこう強い」
ミラは椅子を見た。
ミラは賞の紙を鞄へ入れかけた手を戻した。紙は棚に残した。
レオンは部屋の入口に鞄を置こうとして、ミラに止められた。
「そこは靴の場所です」
「もう決まってるのか」
「明日の靴です」
「今日は履かないのに」
「明日、働くので」
レオンはロイの言葉を思い出し、笑いそうになった。明日は自分も靴も働く日らしい。
「じゃあ、鞄は椅子の横だな」
「椅子の横」
「椅子が見張る」
「椅子は、見張れますか」
「座る仕事のついでに、少しは」
ミラは椅子を見て、鞄をその横へ置いた。
夕飯の前、中庭へ下りると、テレーズが洗濯場で水桶を片づけていた。腕まくりをしたまま、レオンを見るなり目を細める。
「明日だって?」
「はい」
「今からそんなに力んで、明日までもつのかい」
「工場でも似たようなことを言われました」
「工場の人たちも、たまには正しいことを言うね」
エリーズは籠を抱え、共同廊下から下りてきた。中には布と針道具が入っている。レオンを見る前にミラの髪を見て、すぐに言った。
「髪ひも、明日は青い方にしましょう」
「青い方は、もらったものです」
「だからよ」
ミラは自分の髪に触れた。新年にレオンが買ってきた、青い細い髪ひもだ。高価ではない。けれど、くすんでいない青で、ミラの金髪に結ぶと冬の空より少し明るく見えた。
エリーズは中庭の端にある低い台へミラを座らせ、髪をほどいた。櫛を入れる手つきは慣れていて、引っかかるところは無理に引かず、指でほどいてから進める。
「きれいにするけど、別の子にするわけじゃないからね」
ミラは膝の上で手を重ねた。
「別の子に見えますか」
「見えない。ミラに見える」
「会う人は、分かりますか」
エリーズの櫛が止まった。
レオンは水場の横で口を閉じた。
エリーズは髪をそっとまとめ直した。
「分かるかどうかは、その人の仕事ね。こっちは、ミラをミラにしておく係」
ミラは青い髪ひもの端を指で押さえた。
レオンは黙っていられる時間が短かった。
「俺も少しきれいにした方がいいか」
エリーズは櫛を持ったままレオンを見た。
「あんたはまず、変な顔を洗いなさい」
「顔は洗っても変わらない」
テレーズが水桶を伏せながら言う。
「そこは分かってるんだね」
「俺にも名前布いりますか」
「いらない」
「迷子対策に」
「迷子になるのは、あんたの言葉よ」
「明日は黙ってた方がいいですか」
「黙りすぎると、それはそれで怖いわ」
「難しい注文だな」
「普通にしなさい」
レオンは腕を組んだ。
「普通が一番難しい」
エリーズは呆れながらも、ミラの髪を青いひもで結んだ。それからレオンの襟元へ手を伸ばし、曲がっていたところを直す。
レオンは反射的に背筋を伸ばした。
「検査ですか」
「点検よ」
「やっぱり検査に近いじゃないか」
「人前に出るんだから、襟くらい直しておきなさい」
「役所の人は襟を見ますか」
「ミラを見るのよ。あんたは横にいるの」
エリーズの声は低かった。怒っているわけではない。けれど、いつもの軽口の奥に、明日のことを本気で考えている響きがあった。
「明日、ちゃんと隣にいなさいよ。ミラが聞く時は、あんたが黙るの」
「難しい方の仕事だな」
「だから言ってるの」
中庭の端で、マノンが青い髪ひもを見つけて駆け寄ってきた。
「ミラ、明日どこ行くの?」
ミラは少しだけレオンを見た。それから、マノンに向き直る。
「会う人がいます」
「先生?」
「違います」
「ベルナールさん?」
「ベルナールさんも、いるかもしれません」
「じゃあ、大人がたくさん?」
「たぶん」
マノンは考えたあと、急に真面目な声になった。
「大人がたくさんいるところは、座る場所を先に見るといいよ。うちのお母さんが言ってた」
レオンは感心した。
「マノン、それはかなり実用的だな」
「レオンは知らなかったの?」
「俺はだいたい立って怒られる側だった」
テレーズが横から刺した。
「座っても怒られる時はあるよ」
「希望が少ないな」
ミラはマノンを見て、小さく頷いた。
「座る場所を見ます」
「あと、帰ったら遊べる?」
その言葉に、ミラは青い髪ひもの端を指で押さえた。
「帰ったら、見せます」
「何を?」
「鞄に入れたもの」
「菓子ある?」
「ありません」
「じゃあ、髪ひも見せて」
「今も見えます」
「明日のも見たいの」
マノンはそれだけ言って、ルルに呼ばれて走っていった。ルルは木の匙をトトに渡そうとして失敗している。トトは受け取らず、鼻だけ動かしていた。
ミラはその後ろ姿を見ていた。レオンは何も言わなかった。
夜、部屋はいつもより少し片づいて見えた。
実際には、物が少し横へ寄せられただけだった。寝台は一つ。床に敷く古い外套。小さな机。椅子二つ。簡易台所の黒い鍋。棚の皿。賞の紙。鞄は椅子の横に置かれ、青い髪ひもは明日の朝に結び直せるよう、机の上へ置かれていた。
ミラは入口のそばに座り、自分の靴を見ていた。
つま先の固くなった古い革靴だ。施設から来た時にも履いていた。学校へ通う日にも履き、海へ行った日にも履き、冬の通りを歩く時も履いてきた。新しくはないが、エリーズとテレーズのおかげで、汚れは落とされている。
ミラは布でつま先をこすった。
レオンは鍋の蓋を棚へ戻しながら言った。
「そんなに磨いたら、靴が緊張するぞ」
「会う日です」
「靴が?」
「わたしが」
レオンは軽く返しかけて、やめた。
ミラは布を膝に置いたまま、磨き終えた靴から目を上げなかった。
「履いて行くか」
「履きます」
「じゃあ、帰りもそれで歩ける」
ミラは靴を入口のそばにそろえた。
「道を知っていますか」
「知らない」
ミラがレオンを見上げる。
「知らないのに?」
「地図を持つ。ベルナールさんにも聞く。迷ったら、人に聞く」
「レオンさんが?」
「俺だって、道には負ける」
「負けますか」
「工場とアパート以外の道は、まあまあ強い」
「負けたら、どうしますか」
「お前のせいにはしない」
ミラは靴のつま先をそろえたまま、静かに聞いた。
「レオンさんが、連れて行きますか」
レオンは「連れて行く」と言いかけた口を閉じた。
「一緒に行く」
ミラは瞬きをした。
「連れて行く、ではないですか」
「お前が会うって決めた。俺は隣の係だ」
「一緒」
「道が分からなかったら、一緒に迷う」
「迷うんですか」
「できれば迷わない。でも、迷ったら一人で迷わない」
ミラは靴を見た。それから、鞄と、その横の椅子を見た。
「じゃあ、一緒に行きます」
レオンは頷いた。
「そうしよう」
寝る前、入口には小さな靴がそろっていた。
レオンは自分の古い靴をその横に置いた。大きさが違いすぎて、並べるとおかしい。片方は五歳の足で歩く靴で、もう片方は工場の床と油の染みた通りを歩く靴だった。
ミラがそれを見る。
「レオンさんの靴、曲がっています」
「明日の道に合わせてる」
「道は、まだここにありません」
「じゃあ、俺が曲がってる」
「直しますか」
「直す」
レオンは自分の靴をそろえ直した。
ミラはそれを順番に見てから、寝台へ上がった。
「椅子は、ここです」
「そうだな」
「鞄は、行きます」
「そうだな」
「レオンさんは?」
「行く」
「帰る時も?」
レオンは入口の靴を指した。
「二足とも履いていくからな」
「二足とも?」
「二足とも持って帰る」
ミラの頬に、えくぼが一つ出た。
「靴は、忙しいです」
「明日はかなり働く」
ミラは毛布を胸元まで引き上げた。レオンは裸電球の紐へ手を伸ばした。
扉の前に、小さな靴と大きな靴が並んでいる。
レオンの靴だけ、外を向いていた。
ミラがそれを見る。
レオンは何も言わず、靴の向きを直した。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




