第25話 俺が決める紙じゃない
夕方の工場は、いつもより音の引き際が遅く感じられた。
終業の警笛が鳴っても、レオンはすぐには手袋を外せなかった。流れてきた最後の部品を棚へ置き、向きを確かめ、隣の部品とぶつかっていないことをもう一度見る。昨日、工場長室で署名しなかった手が、今日はいつも通り鉄板を押さえ、工具を取り、爪の間に黒い油をためていた。
それが妙だった。
昨日は、その手が紙の上で止まった。今日は、その手で部品を置いている。工場は何も知らずに動き、油の匂いも、台車の音も、機械の唸りも、いつもと同じようにレオンの周りにあった。
水場で指をこすっていると、ロイが横へ来た。
「爪ごと落とす気か」
「落ちるなら、油だけにしてほしい」
「昨日から妙な顔してるな」
「顔に昨日が出るのか」
「出てる。工場長室の椅子を踏んだみたいな顔だ」
「踏んでない」
「じゃあ、何を踏んだ」
レオンは水を止めた。
答えようとして、やめた。ロイは軽口を言うが、聞けばたぶん黙ってくれる。けれど、先に言わなければならない相手は別にいる。
「今日は、ミラを迎えたあと、寄るところがある」
「学校以外に?」
「施設」
ロイはすぐには笑わなかった。
「戻すのか」
「戻さない」
返事が思ったより強くなった。ロイは手を拭きながら、レオンを長く見た。
「なら、その顔で行くな。戻す顔に見える」
「どういう顔だ」
「何かを正直に言う前から、もう失敗してる顔」
「ひどいな」
「当たってるだろ」
レオンは言い返せなかった。
工場を出ると、夕方の通りには湿った風が流れていた。春が近いと言っても、日が落ちる前の石畳はまだ冷たい。パン屋の前から焼けた匂いが残り、馬車の車輪が通りの端でゆっくり音を立てている。
市立初等校の門には、迎えの大人たちが何人か残っていた。
予備学級の入口から、ミラが鞄を抱えて出てくる。レオンを見つけると、立ち止まらずに歩いてきた。走らない。けれど、レオンへ目を向ける早さだけは、最初の頃よりずいぶん速くなっている。
「今日は、手がきれいです」
ミラはレオンの手を見て言った。
「工場の水場と勝負してきた」
「勝ちましたか」
「爪の間は少し負けた」
ミラは爪の間の黒い線を見てから、鞄を持ち直した。
「今日は、おうちへ帰りますか」
レオンは帽子の縁を押さえた。
「少し寄る」
「どこへ?」
「施設だ」
ミラの指が、鞄の取っ手を強く握った。
顔は静かだった。けれど、その静かさは学校で褒められる時の静かさではない。施設で大人の前に立っていた時の、聞き分けのいい子の顔に近かった。今のレオンには、それが分かる。
「戻る話ですか」
「違う」
レオンはすぐに答えた。
早すぎたせいで、声が固くなった。ミラの目が、その固さを拾う。
レオンは息を吸い直した。
「お前が聞いて、それから考える話だ。ベルナールさんもいる」
「考える話」
「俺が一人で決めない話」
教室の入口から、ルノー先生がこちらを見ていた。名簿を胸元に抱えたまま、いつものように、踏み込みすぎず、必要なら声をかけられる距離を保っている。
「レオンさん」
「はい」
「目的は、最初に短く言ってください。ミラさんが確かめる前に」
「今、遅れました」
「次は早くしてください」
「先生、工場長みたいなことを言いますね」
「工場長ではありません。明日はいつも通りです。来られるなら、同じ時間に来てください」
ミラは小さく頭を下げた。
「はい」
その返事も、きれいすぎた。
養子支援施設へ向かう道は、学校から遠くはない。けれど、ミラの歩幅に合わせていると、道が少し長くなる。レオンはいつものように歩く速度を落とした。
施設が近づくほど、ミラの口数は減った。
石の門。古い木の扉。入口の横にかかった小さな札。初めて来た時、ミラはここで大人びた顔をして「何か御用ですか」と聞いた。レオンはそれを受付係だと思った。
今思えば、間違い方からしてひどい。
けれど、あの時の自分は本当に分かっていなかった。子どもが子どもの顔をしない理由を、考えようともしていなかった。
ミラは扉の前で一度止まった。
「ここは、知っている場所です」
「そうだな」
「知っている場所は、近いです」
「前にそう言ってたな」
「でも、今日は少し遠いです」
レオンは返事に詰まった。
ちょうどその時、内側から扉が開いた。ベルナールが立っていた。穏やかな佇まいは相変わらずだが、その目はレオンより先にミラを見た。
「よく来ました」
ミラは丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
ベルナールは身をかがめ、最初に言った。
「今日は、ミラをここへ戻すために呼んだのではありません」
レオンはすぐにうなずいた。
「そうです」
言い足そうとして、口を閉じる。
ベルナールが目を細めた。
「今、よく止まりました」
「言い足すと悪くなる気がしました」
「その判断は合っています」
ミラは二人を見ていた。鞄を握る手から、ほんの少し力が抜ける。
「中へどうぞ。順番に話します」
「順番があると助かります」
「順番があっても、途中で曲がる方はいます」
「誰の話ですか」
「目の前にいます」
レオンは帽子を両手で持った。ミラの口元がほんの少しだけ動いた。
面談室は、以前と大きく変わっていなかった。
窓辺には古い鉢植えがあり、机の上にはインク瓶と数枚の書類が置かれている。壁際の棚には、子ども用の小さな本と布の箱が並んでいた。部屋の中央には椅子が三つある。
ベルナールはミラに一番低い椅子をすすめ、レオンにはその隣の椅子を示した。レオンは座ってから、膝の上で帽子を潰しそうになり、慌てて形を直した。
ミラは机の上を見た。
「今日は、読む紙ですか」
「読むところもあります。けれど、ここで全部を決める紙ではありません」
「決める紙もありますか」
「あります」
ベルナールの声は穏やかだったが、軽くはなかった。
ミラは机の上の紙を見て、それからレオンを見た。
「昨日の紙のことですか」
「はい。レオンさんから、どこまで聞きましたか」
「名前を書かなかったことと、アドリアンさんが会いたいと言っていることです」
ミラは一度、レオンを見た。怒ってもいない。安心してもいない。ただ、聞き逃すまいと目を据えていた。
「では、記録にあることを私から説明します」
「ミラ。あなたの父親である可能性が高い人が見つかりました。アドリアン・ベルフォールという人です」
「父親」
ミラは小さく繰り返した。
「はい。戦争の間に離れ離れになり、あなたを探していた記録があります。今、その人はあなたに会いたいと言っています」
ミラの指が、鞄の取っ手ではなく、自分の膝の上で重なった。
「アメリカは、遠いですか」
「遠いです」
ベルナールが答える。
「ピアノも、遠いですか」
レオンは答えようとして、迷った。
「ピアノそのものは、ここまでは聞こえないな」
「でも、名前は来ました」
「来た」
「名前は、海を渡りますか」
「紙に乗ると渡るらしい」
「紙は、船ですか」
「そこまで強くないと思う。濡れたら負ける」
ミラはレオンを見た。
「レオンさん」
「はい」
「紙の強さから離れましょう」
ベルナールが、ごく小さく息を吐いた。笑いではないが、部屋の空気が少しだけ動いた。
ミラはもう一度、机の上の紙を見た。
「その人に会う紙ですか」
「会うかどうかを進める紙だった」
レオンは言った。
「昨日、移民局の人が持ってきた。俺が名前を書く場所があった」
「書くと、会うんですか」
「会う話が進む。あと、俺の永住権の話も進む」
ミラはその言葉で、一度、瞬きをした。
「レオンさんの?」
「ああ」
ベルナールは何も足さず、レオンが話すのを待った。
レオンは帽子の縁を握り直した。
「俺は、この国に残りたかった」
ミラは黙っている。
「最初にお前を施設から連れてきた時も、そのことばかり考えてた。俺が送還されないために、養子の話に飛びついた」
自分で言うと、胸の内側が少し冷えた。
それはずっとあったことだ。椅子を二つにし、皿をそろえ、学校へ送り、迎えに行き、名前布を縫い、賞の紙を棚に挟んでも、最初の動機が消えたわけではない。
ミラは膝の上の手を見た。
「わたしは、レオンさんの都合でしたか」
ベルナールがレオンを見た。
逃げ道はなかった。もともと逃げてはいけない場所だった。
「最初は、そうだった」
ミラの顔は変わらない。けれど、部屋の中の音が少し遠くなった気がした。
レオンは続けた。
「でも、昨日の紙もそうだった。俺が名前を書いたら、俺の話が進む。お前の父親の話も進む」
レオンは机の上の紙を見た。
「けど、お前が聞く前に、俺の名前で先に動くことになる」
「だから、書かなかったんですか」
「ああ」
「レオンさんの都合を、また先にしないため?」
「そうだ」
ミラはレオンの指先を見た。
「混じると、取れませんか」
「何が」
「最初の都合です」
レオンは自分の指先を見た。洗ったはずなのに、爪の間にはまだ油が残っている。
「油より取れにくい」
「油は、水で洗います」
「これは水では落ちない」
「じゃあ、どうしますか」
レオンはすぐには答えられなかった。
ベルナールも助けなかった。
しばらくして、レオンは言った。
「同じことを、もう一回しないようにする」
償いというには、まだ足りない。けれど、同じ紙の前で同じ手を伸ばさないことなら、今からでもできる。
ミラは顔を上げた。
「同じこと」
「お前のことを、俺の紙で先に決めない」
ベルナールが静かに言った。
「レオンさんが最初に考えたことは、消えません」
「はい」
「ですが、昨日書かなかったことも消えません」
レオンはベルナールを見た。
「それは、いい方ですか」
「いい方にするには、これからが必要です」
「厳しいですね」
「子どもの行き先の話ですから」
レオンは帽子を膝の上で持ち直した。
「はい」
ミラはそのやり取りを聞いていた。ベルナールがレオンを簡単に許さないことも、レオンがそれを軽口で逃げきれないことも、たぶん見ている。
それから、ミラはベルナールへ向き直った。
「会わないと、どうなりますか」
「会わないと決めることもできます。その場合は、面会は進めません」
「会うと、どうなりますか」
「会います。話します。けれど、その場でどこに暮らすかを決める必要はありません」
「そのあと?」
「そのあとも、あなたの気持ちを聞きます。急いで一つの場所へ動かす話にはしません」
ミラは机の上の紙を見た。
「会いに行くと、帰って来られますか」
レオンの背中が少し固くなった。
それが、ミラの一番聞きたかったことなのだと分かった。父親に会いたいか。会いたくないか。そういう言葉ではない。そこへ行った後、ここへ戻る道があるのか。誰かが迎えに来るのか。靴を履いて出ても、また同じ靴で帰れるのか。
「帰って来られる話にする」
レオンは言った。
「俺も、ベルナールさんも、移民局の人にもそう言う。勝手に向こうへ置いてくる話にはしない」
「レオンさんは、迎えに来ますか」
「行く」
「遠くても?」
「遠くても」
「工場長さんに止められても?」
「休みを取りに行く」
「くれますか」
「くれなかったら、困った顔をしてから、もう一回頼む」
ベルナールが穏やかに刺した。
「困った顔の前に、最初からきちんと頼んでください」
「順番を間違えました」
「よく間違えます」
「今日は認めます」
「今日だけでは足りません」
ミラの口元が動いた。
それから、また静かになる。けれど、その静けさは扉の前で見せたものとは違っていた。聞き分けのいい子の顔ではない。自分で選ぶ前の顔だった。
ミラは膝の上の手を一度ほどき、もう一度重ねた。
「会います」
レオンは息を止めた。
ベルナールも、急がなかった。
ミラは続けた。
「でも、帰って来られる話にしてください」
レオンは膝の上の帽子を握り直した。
レオンは頷いた。
「する」
「書く前に?」
「書く前に」
「行く前に?」
「行く前に」
「わたしが聞く前に、決めませんか」
「決めない」
ミラは少しだけ目を伏せた。泣いてはいない。笑ってもいない。ただ、ひとつ重い荷物を、置く場所を決めたような顔だった。
ベルナールは机の上の書類をそろえた。
「では、移民局にはこう伝えます。ミラは面会を希望している。ただし、面会後の居場所はその場で決めない。帰る道を確保する。その条件です」
ミラはベルナールを見た。
「帰る道は、紙に書きますか」
「必要なところには書きます」
「紙がなくても、道はありますか」
「道は、歩く人がいると道になります」
レオンは思わず言った。
「今の、先生みたいですね」
「ルノー先生ほど短くは言えません」
「先生なら、『歩いてください』で終わりそうです」
「たぶん、そのあとあなたが直されます」
「かなり見えます」
ベルナールは書類を封筒へ戻した。
「今日はここまでにしましょう。ミラ、よく聞きました」
ミラは小さく頭を下げた。
「はい」
「レオンさん」
「はい」
「よく止まり、よく言いました。ですが、ここからです」
「はい」
「ミラが父親に会うことと、あなたが保護者であることは、どちらも軽くありません」
「分かります」
ベルナールの目が細くなる。
「分かる、ではなく、続けてください」
レオンは頷いた。
「続けます」
施設の玄関を出る時、ベルナールは扉の前で立ち止まった。
「今日は、施設から帰る日です」
ミラが顔を上げる。
「今日も?」
「はい。今日もです」
レオンは横で言った。
「俺も帰ります」
ベルナールはレオンを見た。
「それは当たり前です」
「当たり前を言った方がいい日もあるかと思って」
ベルナールは考えたあと、静かに頷いた。
「そうですね。今日は、言ってよい日です」
夕方の道は、来た時より少し暗くなっていた。石畳の端に水たまりが残り、馬車の車輪がそこを避けて通っていく。レオンはミラの鞄へ手を伸ばした。
「持つ」
「自分の鞄です」
「俺の手が空いてる」
ミラはその言葉に目を上げた。
「前も、そう言いました」
「覚えてるのか」
「鞄は覚えています」
「鞄が?」
「わたしも」
レオンは鞄を受け取った。
軽い。
最初の日も、そう思った。子ども一人が今日から暮らす荷物にしては軽すぎると。その時の自分は、軽いと言ってベルナールに刺された。今でも鞄は軽い。けれど、中に入っているものは少し増えた。スモック、名前布、学校の予定、短くなった鉛筆、折らないようにしまった紙。それから、今日聞いた名前。
ミラは隣を歩いた。
「書かないことも、決めることですか」
「昨日は、そうだった」
「書かないと、残りますか」
「残るものもある」
「何が残りましたか」
レオンは鞄の取っ手を握り直した。
「お前が決める分」
公営労働者アパートの中庭へ戻る頃には、窓に灯りが入り始めていた。共同廊下からは煮込みの匂いが流れ、洗濯場ではテレーズが最後の水桶を片づけている。エリーズは籠を抱え、マノンのほどけた髪ひもを直していた。ルルは木の匙を振り、トトは迷惑そうに尻尾を動かしている。
テレーズがこちらを見た。
「遅かったね」
「施設へ行ってました」
その言葉で、テレーズの手が一瞬止まった。
「悪い話かい」
レオンが答える前に、ミラが言った。
「違います」
テレーズはミラを見た。
ミラは鞄を持っていない。レオンが持っている。けれど、自分の足で中庭に立っている。施設で見せるきれいすぎる顔ではなく、少し疲れた子どもの顔だった。
「そうかい」
テレーズは水桶を置いた。
「なら、よかった。寒かっただろ。あとでスープを少し持っていきな」
エリーズが近づいてきて、まずミラを見た。
「疲れた?」
「疲れました。でも、帰りました」
エリーズの目元がやわらかくなった。
「うん。おかえり」
「ただいまです」
そのあと、エリーズはレオンを見た。
「何か変なこと言った?」
「今日は途中で止まった」
「止まったなら、少しはましね」
「止まっただけで評価される男になってきた」
「最初がひどかったのよ」
テレーズが横から言う。
「今も油断するとひどいよ」
「中庭に味方がいない」
「ミラの味方ならいるよ」
レオンは肩を落とした。ミラはそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
三階の部屋へ上がると、扉はいつも通り重かった。
鍵を回し、レオンが先に扉を開ける。部屋の中には、裸電球の薄い光があった。小さな机。椅子。寝台。床に敷いた古い外套。簡易台所の黒い鍋。棚の上には、古い薄板に当てられた賞の紙が、洗濯ばさみで留められている。窓の外には工場の煙突が見え、夕方の煙が暗くなりかけた空へ細く上がっていた。
ミラは入口で足を止めた。
「あります」
「逃げてなかっただろ」
「椅子も、皿も」
「鍋もいる」
「黒いです」
「そこは変わらない」
レオンは鞄を机の横に置いた。ミラは部屋へ入り、椅子の背に手をかける。座る前に、棚の賞の紙を見た。それから、黒い鍋、皿、寝台、床の外套を順番に見る。
「遠くへ行っても、ありますか」
レオンは軽く答えかけて、やめた。
レオンは黒い鍋を見た。皿も、寝台も、床の外套も、黙ってそこにある。
「ある」
レオンは言った。
「俺が見る」
「皿は?」
「割らないようにする」
「鍋は?」
「黒いままいる」
「レオンさんは?」
レオンは一度、いつもの調子で返しそうになった。
俺が逃げたら、床で寝るやつがいなくなる。
そこまで浮かんで、止めた。
ミラは見ている。たぶん、それでは足りない。
「俺も、ここにいる」
ミラはレオンを見た。
「怒鳴られなくても?」
「怒鳴られなくても」
「紙がなくても?」
「紙がなくても」
「遠くても?」
「遠くても、迎えに行く」
ミラはようやく椅子に座った。鞄を膝に抱える代わりに、机の横に置いたままにしている。レオンはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
黒い鍋には、朝の残りの豆のスープが少しだけある。レオンは火をつけ、固くなったパンを切った。部屋に薄い湯気が広がる。
ミラは棚の賞の紙を見上げ、それからぽつりと言った。
「父さんのピアノは、どんな音ですか」
レオンは鍋をかき混ぜる手を止めた。
「聞いたことがない」
「じゃあ、分かりませんか」
「分からない。でも、会ったら聞けるかもしれない」
「レオンさんも、聞きますか」
「行けるところまで行く」
「部屋に入れますか」
「椅子が足りなかったら立つ」
ミラは部屋の二つの椅子を見た。
「立って聞くんですか」
「工場で鍛えてる」
「ピアノは、工場ではありません」
「それはそうだな。じゃあ、静かに立つ」
ミラはほんの少しだけ笑った。
レオンはスープを皿によそった。皿は二枚ある。どちらもこの部屋に残っていた。鍋も、椅子も、棚の紙も、窓の外の煙突も。
そして、ミラもここに座っている。
レオンはミラの前に皿を置いた。
「熱いぞ」
「はい」
ミラは匙を手に取り、湯気の向こうで皿を見た。
「帰って来られる話にします」
それは今日、ミラが自分で決めた言葉だった。
レオンは自分の皿を持って、床に腰を下ろした。
「ああ。そうする」
窓の外で、工場の煙がゆっくり流れていた。遠い国から来た名前も、役所の封筒も、まだ何も終わってはいない。
けれど、その夜の部屋には、椅子と皿と黒い鍋があった。
そして、決める前に帰ってくる道を、二人で確かめた。
紙に書くのは、そのあとでいい。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




