第24話 永住権の紙
翌日の午後、レオンは部品の向きを半分間違えた。
アドリアン・ベルフォール。前の日に聞いた名前に、気を取られていた。
「知ってて間違えるなら、知らない時より悪いな」
隣のロイに言われ、レオンは部品を直した。
「今日は手の方が先に働きすぎた」
「頭は?」
「少し遠出してる」
その時、作業場の入口にデュラン工場長が立った。
「レオン。工場長室だ」
「俺、今日まだ何も壊してません」
「書類だ。手を洗って来い」
「俺の手は、役所と相性が悪いですね」
「今さらだ」
冷たい水で洗っても、爪の間には少し油が残った。
工場長室にはロベールがいた。机の上には、前の日のものとよく似た封筒と、別の書類が一束置かれている。
「レオンさん」
「今日は、俺の部屋じゃないんですね」
「工場長に同席をお願いしました」
「俺が逃げないように?」
「話を残すためです」
「残る話は、だいたい痛いんですよね」
ロベールは少しだけ目を伏せた。
デュラン工場長は机の前に立ったまま、顎で椅子を示す。
「座れ」
「立ったままの方が、逃げる時に早いです」
「逃げるな」
「じゃあ座ります」
レオンは椅子に腰を下ろした。自分の名前が送還対象名簿にあると聞いた時も、ここに座った。
今回は、封筒が自分だけを見ていない。
それが、前より悪い。
ロベールは封筒から、余白の少ない役所の紙を出した。
「昨日お話ししたアドリアン・ベルフォール氏について、追加の照会が届きました」
ロベールは一枚を机の上に置いた。
「ベルフォール氏は、ミラさんとの面会を正式に希望しています」
「面会。連れて帰る、じゃなくて?」
「すぐに引き取る、という話ではありません。現在の保護関係を無視して進めることもできません」
「じゃあ、今日は安心していい話ですか」
「安心という言葉は、少し違います」
「役所の人は、安心にも細かいですね」
「必要ですので」
ロベールの声は穏やかだった。だが、その穏やかさは、やわらかさとは違う。紙の端をまっすぐ揃えるように、話をまっすぐ置いていく。
「現在、ミラさんの保護者として記録されているのは、あなたです」
「俺が、紙の上でミラの椅子になってるわけですね」
「少し違いますが、近いです。面会を行う場合にも、その後の調整を行う場合にも、あなたの同意が大きな意味を持ちます」
レオンは机の上を見た。
「俺の同意」
「はい」
「同意って、役所の言葉だと、名前を書くやつですか」
「多くの場合は、そうです」
「やっぱり名前なんですね」
ロベールは二枚の書類を出した。
一枚には、下の方に広い署名欄がある。もう一枚には、レオン自身の名前と滞在資格の番号が印字されていた。別の紙だった。机の上では、角が触れそうなほど近かった。
「こちらは、ミラさんの面会調整に関する同意書です。あなたの同意があれば、面会とその後の調整は大きく進みます」
「こっちは?」
「あなたの滞在資格を再審査するための資料です。永住を約束するものではありません。ただ、今回の照会に誠実に協力した記録は、審査でも無視されません」
「別の紙なんですね」
「別の手続きです」
レオンは、触れそうな二つの角を見た。
「机の上では、かなり近い」
デュラン工場長が低く言った。
「レオン」
「分かってます。今のは、分かりたくない時の返事です」
ロベールは同意書を指した。
永住権。
その言葉は、レオンが最初にミラを連れてきた理由だった。工場長室で自分の名が送還対象だと聞き、養子でも取ればと冗談を言われた。
その手があったか。
あの日の自分は、ミラの顔も、声も、朝ごと椅子を確かめる癖も知らなかった。知らなかったから、簡単に思えた。
今は、同意書と再審査の紙が、別々の役目を持って隣り合っている。名前を書けば工場に残れるかもしれない。ミラの迎え時間を気にしながら働く日々を、奪われずに済むかもしれない。
レオンの手が、署名欄へ近づいた。
デュラン工場長は何も言わなかった。
ロベールも急かさなかった。
封筒の端が擦れる音まで大きく聞こえた。
「俺が書いたら」
レオンは口を開いた。声が、自分で思ったより低かった。
「ミラは行くことになるんですか」
「この同意書だけで決まるわけではありません」
「でも、進むんですよね」
「手続きは大きく進みます」
「ミラが、行くって言う前に?」
「本人にも必ず聞きます」
「でも、その前に俺の名前が入る」
ロベールは一拍黙った。
「順番としては、そうなります」
レオンは手を引いた。机の端を押さえていた指先が白くなっている。
「父親に会うなとは言いません」
ロベールが顔を上げる。
「では」
「でも、俺が先に決める書類には書きません」
部屋の空気が止まった。
作業場の音は遠くで続いている。誰かが鉄板を置いた音が、壁越しに鈍く響いた。
「レオンさん」
ロベールの声は責めるものではなかった。ただ、もう一度、言葉の位置をそろえようとしていた。
「面会そのものを拒否されるわけではない、という理解でよろしいですか」
「会うかどうかは、ミラに聞いてください」
「もちろん、聞きます」
「俺の後じゃなくて」
ロベールは口を閉じた。
レオンは署名欄を見た。白い場所はまだ空いている。
「俺、自分の紙が欲しくて、ミラを連れてきた男です」
デュラン工場長の眉が少し動いた。
「それを自分で言うのか」
「言わないと、また同じことをしそうなので」
「ミラが会いたいって言うなら、会えばいいです。行きたいって言うなら、俺は……かなり変な顔をすると思いますけど」
「そこは間違いないな」
デュラン工場長が低く言った。
「そこは刺さないでください」
「事実だ」
「事実は今日、多いですね」
レオンはもう一度、ロベールを見た。
「でも、俺の永住権と一緒に机に置く話じゃないです」
ロベールは書類の端へ目を落とした。
「あなたにも悪い話ではない、という意味でした」
「分かります」
レオンは言った。分かるから、怖かった。
「俺の紙で、ミラの話を買わないでください」
ロベールは反論しなかった。
ペンの蓋を閉じ、手元の手帳を開いた。
「あなたの意思は、そう記録します」
「では、面会調整そのものについては、ミラさんへの説明と返事を待つ」
「ミラが聞く前に、俺の名前で走らせない」
「はい。保護者の同意書は署名なし。そう記録します」
「書かないことまで書くんですか」
「役所ですから」
デュラン工場長が椅子の背に手を置いた。
「お前、それを最初から言える男だったか」
レオンは肩を落とした。
「最初から言えてたら、ここまで迷惑かけてません」
「そこは分かってるんだな」
「最近、刺される前に少し分かるようになりました」
「分かるだけで終わるな」
「今日は一つ止まりました」
ロベールは書類をまとめ、署名欄のある同意書を封筒へ戻した。机の上からそれが消えると、部屋の重さが少しだけ変わった。軽くなったわけではない。ただ、見えていた刃物が鞘に戻ったような感じだった。
デュラン工場長は、レオンへ目を向ける。
「今日はもう戻れ」
「作業は?」
「ロイに言ってある」
「俺、首ですか」
「首にするなら、もっと別の書類を出す」
「それはもう十分です」
「だったら帰れ。ミラに話す前に、少し落ち着け」
レオンは自分の帽子を取った。
「落ち着く部品はありますか」
「工場では扱っていない」
ロベールが帽子を手に立ち上がった。
「レオンさん」
「はい」
「私は、あなたにとって悪い話ではないと思っていました」
レオンは少しだけ黙った。
ロベールは続ける。
「今でも、手続きとしては、そう考えています。ただ、あなたが言ったことも記録します」
「いいんですか」
「記録は、賛成だけを書くものではありません」
「役所にも、少し幅があるんですね」
「人が書きますので」
レオンは、そこで初めて少しだけロベールを見直した。
「じゃあ、人の字でお願いします。書類だけが先に歩くと困るので」
「できるだけ、そうします」
ロベールは静かに言った。
工場長室を出ると、廊下の空気は作業場より冷たかった。
レオンは何歩か歩いて、壁に手をついた。足がふらついたわけではない。いや、少しふらついた。
格好よく断った気はしない。
むしろ、断ったあとに怖くなった。
永住権の紙は、まだ手に入っていない。送還対象名簿から名前が消えたわけでもない。何も解決していないのに、いちばん欲しかったものへ伸ばした手だけを、自分で引っ込めた。
これでよかったのか。
そう思った瞬間、ミラの姿が浮かんだ。
学校の門でレオンを見つけるミラ。父親かもしれない人の話を聞いて、「迎えの足音は聞こえませんか」と言ったミラ。
レオンは壁から手を離した。
よかったかどうかは、まだ分からない。
けれど、先に書かなかったことだけは、間違いではないと思いたかった。
レオンは帽子をかぶり直し、工場を出た。
市立初等校へ着いた時、迎えの時間には少し早かった。
ミラは教室の端で鞄を持っていた。
レオンを見つけると、いつものように走らず、すぐに立った。
ルノー先生が名簿を閉じた。
ミラがレオンの横に来た。鞄を胸の前に抱え、青い髪ひもが外套の襟の横で少し揺れている。
「レオンさん、今日は紙ですか」
レオンは息を止めかけ、ルノー先生へ軽く頭を下げた。
「帰ったら話す」
「学校の紙ですか」
「違う」
「役所の紙ですか」
「近い」
ミラはそれ以上、学校の門では聞かなかった。
帰り道、ミラは何度かレオンを見上げた。
「負けましたか」
レオンはすぐには答えなかった。
「負けなかったことにしたい」
「したい?」
「まだ途中だからな」
ミラは前を向いた。鞄の取っ手を両手で持つ癖が出ている。けれど、指は真っ白になるほどではない。
アパートへ戻ると、テレーズが洗濯物を取り込んでいた。
テレーズはレオンを見るなり、目を細めた。
「また役所に噛まれたね」
「噛まれてません」
「噛まれてないのにその様子なら、もっと悪いよ」
そばにいたエリーズには、「必要なら呼ぶ」とだけ伝えた。彼女は茶化さず頷いた。
部屋へ入ると、いつもの狭さが戻ってきた。
寝台が一つ。椅子が二つ。小さな机。黒い鍋。何も増えず、何も減っていない。
ミラは棚から賞の紙を外し、机の端へ置いた。
端は少し丸まりかけているが、ミラの名前はきれいに残っている。
ミラは椅子に座らず、机の前に立った。
「今日のものは、ここに置きますか」
「置かない。役所が持って帰った」
「逃げましたか」
「逃げたんじゃない。俺が書かなかった」
「レオンさんが?」
「ああ」
ミラは少し考えた。
「ロベールさんもいましたか」
「いた」
「怒っていましたか」
「怒ってはいなかった」
「じゃあ、正確でしたか」
「そうだな。正確だった」
ミラはそれで小さく頷いた。
レオンは外套を脱ぎ、椅子に座らず、床に腰を下ろした。いつもの寝床の場所だ。椅子は空いているのに、そこへ座る気になれなかった。ミラはそれを見て、ようやく自分の椅子へ座った。
「負けるものですか」
ミラが聞いた。
レオンは賞の紙を見た。
「俺が書いたら、負けるものだった」
「書きましたか」
「書かなかった」
「じゃあ、勝ちましたか」
レオンは少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。
「まだ分からない」
「途中ですか」
「途中だな」
ミラは机の上の賞の紙へ目を落とした。
「わたしの紙は、あります」
「ある」
「これは、負けるものではありません」
「それは勝つ紙だ」
「今日のは?」
レオンは膝の上で手を組んだ。
「今日のは」
レオンはゆっくり言った。
「俺が勝手に勝っちゃいけないものだ」
ミラは頷かず、賞の紙の端へ指を近づけた。触る前に止め、曲がっていないことだけを確かめる。
「勝ってはいけないんですか」
「勝つのは嫌いじゃない」
「ドミノも?」
「ドミノは勝つと菓子が来る」
「今の教育は危ないです」
「それは俺も知ってる」
ミラはほんの少しだけ口元を動かした。けれど、すぐにまた机へ目を戻す。
「今日のは、菓子が来ませんか」
「来ない」
「何が来ますか」
レオンは、そこで言葉に詰まった。
「お前のお父さんかもしれない人が、会いたいって言ってる」
レオンは言った。
ミラは俯いたままだった。
ただ、青い髪ひもの先が、少しだけ揺れた。
「昨日の、ピアノの人ですか」
「ああ」
「アメリカの」
「遠いところの」
「足音が聞こえないところですか」
「聞こえないところだと思う」
ミラは机の木目を見ていた。
「その人は、わたしの名前を知っていますか」
「知ってる」
「ミラと?」
「今の名前も、聞いてるはずだ」
「探すと、見つかりますか」
「見つかったから、知らせが来た」
「紙が見つけましたか」
「人も探したんだと思う。紙だけじゃ、歩けない」
ミラは考えた。
「紙は歩かないのに、来ます」
「そこが怖いんだよな」
レオンは自分の膝を見た。
「今日、俺が名前を書けば、話が進むって言われた」
「レオンさんの名前?」
「ああ」
「わたしの名前ではなく?」
「俺の名前だ」
「どうして?」
レオンは息を吸った。
「俺が、今のお前の保護者だから」
保護者という言葉は、まだ少し落ち着かず、今日は重すぎた。
「俺が書くと、お前が会う話も、その先の話も、先に進む」
「わたしが言う前に?」
「そうだ」
ミラは机の下で足をそろえた。
靴の先が、床の上で小さく動いた。
「書きませんでしたか」
「書かなかった」
「どうして?」
「お前に聞く前だったから」
ミラは顔を上げた。
青い目が、レオンをまっすぐ見る。
「会うかどうかは、お前に聞く。会わないって言うなら、その話も聞く。会うって言うなら、俺は……変な顔をするけど、止めない」
「変な顔」
「今日より悪いかもしれない」
「今日より?」
「かなり悪いな」
ミラは少しだけ口元をゆるめた。
けれど、すぐにまた真面目な顔になる。
「会ったら、帰りますか」
レオンは、すぐに「帰る」と言いそうになった。
言えなかった。
その人はミラを探していた。会えば、その先で変わるものがあるかもしれない。帰ってこいと先に言うことも、同意書へ名前を書くことと少し似ている。
「会ってから、一緒に考える」
レオンは言った。
「今ここで、俺が先に決める話じゃない。でも、会うなら迎えには行く。場所が分かるところなら行く」
「怒鳴られなくても?」
「怒鳴られなくても行く」
「工場長さんに止められても?」
「そこは、工場長と相談する」
「相談」
「怒鳴られる前に言う」
「それは勝ちますか」
「負けを小さくできる」
ミラは息を吐いた。
外から、共同廊下の音が聞こえた。
テレーズが誰かに水桶をどかすよう言っている。ルルの声がして、すぐにエリーズの低い注意が続く。アパートはいつもの夕方だった。世界のどこかから大統領府の知らせが来ても、ここの廊下では水桶が邪魔になり、子どもは走り、夕飯の匂いが階段を上ってくる。
ミラは賞の紙を見た。
「わたしが、決めるんですか」
「ひとりで決めるんじゃない」
レオンは言った。
「ベルナールさんにも、ロベールさんにも、先生にも聞く。エリーズにも刺される。工場長にも変な顔をされる」
「多いです」
「俺もそう思う。でも、お前に聞かない書類には、俺は書かない」
ミラはレオンを見て、それから、自分の名前がある賞の紙を見た。今日来た同意書には、まだレオンの名前はない。
ミラは自分の椅子に座り直した。
椅子の脚が、床の上で小さく鳴る。
「この紙は、ここに置きます」
ミラは賞の紙を指さした。
「曲がらないところに」
「そこは濡れないし、鍋からも遠い」
「レオンさんからは?」
「俺は紙を折る前科があるから、少し遠い方がいいな」
ミラはほんの少しだけ笑った。
「今日の紙は、ありません」
「ない」
「でも、また来ますか」
「来るかもしれない」
「その時は、先に聞きますか」
レオンは頷いた。
「先に聞く」
ミラは丁寧に頷きかけて、途中でやめた。
その代わり、賞の紙の端が曲がっていないことをもう一度確かめ、椅子の上で足をそろえた。
「じゃあ、今日は、ここにあります」
「何が」
「わたしの紙です」
「ああ」
レオンは床に座ったまま、背中を壁につけた。
「今日は、それでいい」
窓の外では、工場の煙突から細い煙が上がり、部屋は暗くなっていく。机の上にはミラの名前がある紙が一枚。その前に、ミラが座っている。
レオンは膝の上で、自分の手をゆっくり握った。
さっき、名前を書きかけた手だった。
今日は空のまま戻した手でもあった。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




