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拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第3章 帰る家を選ぶ
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エピローグ 拾われたのは俺の方だった

挿絵(By みてみん)

サン=オルレーヌ行きの列車が出る日の朝、ミラは工場長室にいた。


見送りのためにレオンが工場を休むと聞いて、デュラン工場長は「出る前に寄れ」とだけ言った。命令のような口ぶりだったので、レオンは朝から背筋を伸ばしていた。十三年たっても、工場長に呼ばれると、体のどこかが先に怒られる準備をするらしい。


十八歳になったミラは、もうレオンの腰の少し上に届く子どもではなかった。古い紺のワンピースではなく、襟のきちんとした外套を着ている。髪には、新しい青い髪ひもを二本結んでいた。十三年前、年の終わりにレオンが買ってきた二本と同じ色だった。


古い二本の髪ひもは、小さな布に包んで鞄の内ポケットに入れてある。


工場長室に入ると、紙と煙草と古い木の匂いがした。


ミラは、その匂いを覚えている。


この部屋で何が始まったのかを、ミラはあとから何度も聞いた。レオンの名前が名簿にあった日。遠い国から別の名前が来た日。署名欄の前で、レオンの手が止まった日。


その全部を見ていたわけではない。けれど、この部屋の匂いには、レオンが黙って帽子を握った時間が混じっているような気がした。


レオンは隣で、帽子の縁を何度も直していた。


「工場長室に来ると、背中が書類を思い出す」


レオンが言うと、机の向こうのデュラン工場長は眉を動かした。


「背中より先に、頭で思い出せ」


「頭は今日、駅の方へ行っています」


「まだ行くな。列車より先にお前が出発するな」


デュラン工場長の髪には、白いものがずいぶん増えていた。けれど、机の前に立つ姿は変わらない。煙草は手に持っているだけで、火はついていなかった。昔から、言いにくい話をする時ほど火をつけない人だった。


工場長は机の引き出しを開け、小さな包みを取り出した。


茶色い紙に包まれ、紐で結ばれている。レオンの手が伸びかけたが、工場長はそれを避けて、ミラの前へ置いた。


「お前宛てだ」


「わたしに、ですか」


「工場からの餞別だ。正確には、俺からだが、工場の音も少し入っていると思え」


「音が入るんですか」


「入っている気分だ」


レオンが横からのぞき込んだ。


「工場長、贈り物に気分を混ぜると、役所が困りませんか」


「役所には出さん」


「なら安心ですね」


「安心する前に、お前は触るな。油がつく」


ミラは包みをほどいた。


中には、丈夫な革の筆箱が入っていた。飾りはない。けれど、角はしっかりしていて、蓋の合わせ目もきれいだった。手に持つと、少し重い。長く使うことを前提にした重さだった。


「ありがとうございます」


ミラが言うと、工場長は視線を外した。


「サン=オルレーヌの学校は、紙が多いだろう。鉛筆もペンも、鞄の底で迷子にするな」


「はい」


「それから、知らない紙にはすぐ署名するな」


レオンがすぐに頷いた。


「それは大事です」


「お前が言うと、経験に重みがありすぎる」


「重かったですからね」


工場長はしばらくレオンを見た。


部屋の外では、機械の音がしている。鉄を置く音、台車の車輪、男たちの声。レオンが十八歳だった頃から続いている音だった。ミラにとっても、朝と夕方を知らせる音になっている。


「レオン」


「はい」


「あの時、俺は冗談で言った」


レオンは帽子の縁を握り直した。


「知ってます」


「嫁を取るか、養子でも取ったらどうだ、と」


「覚えてます」


「お前は本気にした」


「そこも、かなり覚えています」


工場長は机の上の包み紙を指で押さえた。紙が鳴った。


「十三年たっても、あれは怖い話だったと思っている」


レオンはすぐには返事をしなかった。昔なら、怖いのは役所ですとか、工場長の顔ですとか、何かずれたことを言ったかもしれない。けれど今は、帽子を持ったまま、肩を落としていた。


「俺もです」


工場長は短く息を吐いた。


「だが、悪い冗談だけではなかったらしい」


ミラは筆箱を両手で持った。


悪い冗談だけではなかった。


その言葉は、工場長らしく、まっすぐ褒めるよりずっと遠回りだった。けれど、だからこそ、部屋の中に静かに残った。


「大事に使います」


ミラが言うと、工場長はようやく頷いた。


「壊れたら持ってこい。工場で直せるものなら直す」


「筆箱も直せるんですか」


「たぶん、車よりは簡単だ」


「車より簡単なら、レオンさんにも直せますか」


工場長とミラの視線が同時にレオンへ向いた。


レオンは真面目に首を横に振った。


「俺に任せると、筆箱が車の少しになる」


「なら、壊さないようにします」


「それがいい」


工場長は火のついていない煙草を机に置いた。


「今日はもう行け。見送りの日に、工場長室で時間を食うな」


「工場長が呼んだんですよ」


「だから、帰れと言っている」


「工場長、昔から休みを命じる声が怖いですね」


「お前の聞き方が直っていないだけだ」


レオンは帽子をかぶり、ミラは筆箱を鞄にしまった。


工場長室を出る時、ミラはもう一度振り返った。デュラン工場長は机の前に立ったまま、こちらを見ていた。駅へ来る人の顔ではない。けれど、その場から送り出す人の顔ではあった。


工場を出ると、朝の空気に油の匂いが混じっていた。


ミラはそれを吸い込み、胸の奥が重くなるのを感じた。嫌な重さではない。持っていくには大きく、置いていくには惜しいものが、町のあちこちに増えすぎたのだ。


アパートへ戻ると、鞄は寝台の上に置かれていた。


荷造りは昨夜のうちに、ほとんど終わっている。服、本、筆記具、薄いノート、サン=オルレーヌ師範学院の入学案内。アドリアンから届いた手紙も、折れないように布に挟んである。


それでもレオンは、朝になってから三度目の確認をしていた。


「鞄にも順番がある」


「工場の部品ではありません」


「だから困る。部品なら向きがある」


「本にも向きはあります」


「それは分かる。開く方がこっちだ」


「そこから確認されると不安です」


台所の方から、エリーズが布巾を持って現れた。


エリーズは昔より大人びていたが、レオンを見る目の厳しさは変わらない。結婚して同じ家で暮らすようになってからも、その目はよく働いた。特にレオンが何かを手伝っているつもりの時は、容赦がなかった。


「あんた、手伝ってるの?」


「見守ってる」


「邪魔の別名をつけないで」


「今日は父親らしくしてるんだ」


「父親らしさを鞄の上に座らせないで」


レオンは自分の膝が鞄の端に乗りかけていることに気づき、慌てて下がった。


「危なかった」


「今、鞄が一番危なかったわ」


ミラは小さく笑った。


昔の自分なら、この家で大人たちが言い合う声を聞くたび、どこまでなら怒られないのか、どこからなら戻されるのかを確かめていた。今は、その声の中に、戻される場所ではなく、帰ってくる場所の音を聞いている。


部屋の隅には、古い椅子があった。


今はじゃがいもの籠が置かれている。脚は一度折れかけ、レオンが直そうとして余計に傾け、結局ヴィクトルに直してもらった。座面には小さな傷があり、背もたれの片側は少し色が違う。


ミラが初めてレオンの部屋に来た時、椅子は一つしかなかった。


寝台も一つ。皿も一枚。毛布も足りず、机も狭く、台所の鍋は黒くて、窓の外には工場の煙突が見えた。


けれど、その椅子は増えた。


それだけで、部屋の形は変わった。人の立つ場所も、座る場所も、待つ場所も変わった。


「椅子は、持っていきません」


ミラが言うと、レオンが振り返った。


「持っていく気だったのか」


「少しだけ考えました」


「列車が困る」


「はい。だから置いていきます」


エリーズは椅子の上のじゃがいも籠を直した。


「置いていってくれた方が助かるわ。これ、まだ働いてるから」


「椅子は、働き者です」


「レオンより?」


エリーズが言うと、レオンはすぐに抗議した。


「俺は工場で働いてる」


「この椅子は家で働いてるわ」


「分野が違う」


「負けた時の言い訳みたいね」


ミラは古い椅子に手を置いた。木は冷たかった。十三年もここにいるのに、朝はまだ冷たい。けれど、人が座れば温まることを、ミラは知っている。


机の上には、アドリアンの手紙があった。


白い封筒の字は、相変わらず整っている。ミラがサン=オルレーヌ師範学院へ入ると知らせた後、海の向こうから届いたものだった。中には短い手紙と、小さな栞が入っていた。栞には楽譜の線のような模様が細く入っている。


ミラは手紙をもう一度開いた。


アドリアンは、返事を急がせなかった。師範学院へ行くことを祝ってくれた。君が選んだ道を誇りに思う、と書いてあった。それから、帰る家がある人は、遠くへ行ける、とも書いていた。


ミラはその一文を、何度も読んだ。


父親という言葉は、今も簡単ではない。けれど、アドリアンはミラの毎日の家を奪わなかった。遠くから手紙を書き、返事を待ち、会う時も距離を間違えないようにしてくれた。


だからミラは、その手紙を置いていかない。


ミラが手紙を鞄に入れると、レオンが身を乗り出した。


「本当に先生になるのか」


「まだ、なるとは決まっていません」


「師範学院へ行くのに?」


「勉強しに行きます。決めるために」


「決めるために、そんな遠くまで行くのか」


ミラは鞄の蓋に手を置いた。


「レオンさんは、決め方を知らないまま施設へ来たことがあります」


レオンは口を開き、閉じた。


エリーズが横で静かにこちらを見る。昔なら、すぐに刺したかもしれない。けれど今は、ミラの言葉の続きを待っていた。


レオンは帽子を持っていない手で、自分の髪をかいた。


「あれは、決め方を知らなかっただけだ」


「はい。だから、勉強します」


レオンは一拍置いた。


「俺を教材にするな」


「もう、かなり使いました」


「使用料を取るぞ」


「十三年分の食事代と相殺します」


「急に計算が強くなったな」


「レオンさんに育てられました」


「そこだけ俺のせいにされるのか」


エリーズが笑った。


笑いながら、ミラの外套の襟を直す。昔、学校のスモックの襟を直してくれた手と同じ手つきだった。ミラはその手が離れるまで、動かずにいた。


駅へ向かう道は、いつもより短く感じた。


石畳、パン屋の匂い、共同廊下から落ちてくる声、洗濯場の水音。ミラはその一つずつを、昔ほど数えなくなっていた。数えなくても、道は分かる。分かっている道ほど、出ていく時に少しだけ足を遅くする。


駅の前には、すでに何人かが集まっていた。


テレーズは腕を組み、最初から泣かない顔をしていた。ロイは工場長に仕事を抜ける許可をもらったらしく、小さな紙包みを持っている。マノンは帽子を押さえ、ルルはミラの鞄を見るなり、片手を差し出した。


「持つ」


声は低くなっていた。昔、木の匙を握ってトトを追いかけていた子とは思えないくらい、背も伸びている。けれど、言葉を短く切る癖には、昔のルルが残っていた。


「重いよ」


「十五だから」


「年齢は持ち手じゃないよ」


「でも、昔よりは持てる」


ミラは笑って、鞄の片側を渡した。


「じゃあ、駅の中までお願いします」


ルルは真面目に頷き、鞄を持った。思っていたより重かったらしく、腕が下がったが、すぐに持ち直す。


レオンが横から手を出した。


「俺も持つぞ」


ルルはレオンを見た。


「レオンさんは、泣かない方を持ってください」


「泣いてない」


「まだです」


テレーズが大きく笑った。


「いい子に育ったねえ、ルル」


「それは刺し方の話ですか」


レオンが言うと、マノンがすぐに返した。


「レオンを見て育ったからね」


「俺のせいで刺すのがうまくなったみたいに言うな」


「だいたい合ってるよ」


マノンは十八歳になっても、笑い方に子どもの頃の面影が残っていた。今は地元の店で働き始め、手には小さな擦り傷がある。ミラと同じ年なのに、進む場所は違う。けれど、その違いは二人の間を遠くするものではなかった。


「ミラ、首都へ行っても手紙書いてね」


「書きます」


「難しい字ばっかりだったら読めないからね」


「レオンさんにも読める字で書きます」


「それなら、だいぶやさしい字ね」


「俺は読める」


レオンが言うと、マノンは肩をすくめた。


「たまに自分の字にも負けてるじゃない」


「昔よりは勝ってる」


「昔が弱すぎたんだよ」


ロイが紙包みをミラへ差し出した。


「これは、列車の中で食べろ。硬いパンより少しましなやつだ」


「ありがとうございます」


「レオンには渡すな。全部食う」


「俺を何だと思ってる」


「昔から知ってる工員」


「かなり不利な答えだ」


テレーズはミラの肩を両手で押さえた。


「寒くなったら、首を冷やすんじゃないよ。食べられる時に食べる。手紙は無理して長く書かなくていい。帰ってくる日は、先に知らせる」


「はい」


「返事が遅くても、こっちは勝手に心配するからね」


「それは止められますか」


「止められないよ。家の人間の悪い癖だ」


ミラは頷いた。


家の人間。


その言葉は、昔は怖かった。誰をそう呼べばいいのか、自分がその中に入っていいのか、いつ消えるのかを考えていた。今は、重い。けれど、その重さは鞄と同じで、持つ場所が分かれば運べる。


駅の鐘が鳴った。


昼前のサン=オルレーヌ行きの列車が、二番線に入っている。黒い車体は朝の光を受け、窓には人影が揺れていた。首都へ向かう列車は、この町の列車より偉そうな音を立てているように、ミラには聞こえた。


レオンはミラの鞄を見て、それから列車を見た。


「ちゃんと食えよ」


「はい」


「知らない紙にすぐ署名するな」


「レオンさんではありません」


「そうだった。でも、気をつけろ」


「気をつけます」


「列車の中で知らない男に話しかけられたら、まず靴を見るんだ」


ミラは首を傾げた。


「なぜ靴ですか」


「逃げ足が速そうか分かる」


「十三年前より助言が悪くなっています」


「十三年かけて育てた助言だぞ」


「育て直してください」


エリーズが横でため息をついた。


「あんた、最後までそれなの」


「最後じゃない」


レオンはすぐに言った。


その声だけが、いつもの軽口より早かった。


ミラはレオンを見た。


十三年前、施設の玄関にいたレオンは、袖口に油を残した十八歳の工員だった。五歳の子を受付係だと思い、十三年という時間を計算し、手のかからない子がいいと言ってベルナールに刺されていた。


その人が今、駅のホームで、ミラの鞄を何度も見ている。


置いていく椅子。持っていく筆箱。鞄の中の手紙。布に包んだ古い二本の髪ひも。見送りに来た人たち。どれも、レオンが最初に想像していた「手続き」の中にはなかったはずだ。


「困ったら帰ってこい」


レオンが言った。


「はい」


「困らなくても帰ってこい」


「はい」


「困る前に帰ってこい」


「それは、学校へ行けません」


「じゃあ、困りそうな気配がしたら」


「レオンさん」


「何だ」


「寂しいなら、寂しいと言ってください」


レオンは口を閉じた。


マノンが笑い、ルルが鞄を持ったままレオンを見た。エリーズは何も言わない。ただ、レオンの袖を引いた。逃げるな、という意味だとミラには分かった。


「寂しいわけじゃない」


レオンは言った。


「部屋の人口密度が下がるだけだ」


「寂しいんですね」


「椅子が一つ余る」


「寂しいんですね」


「黒い鍋が少し大きくなる」


「寂しいんですね」


レオンは帽子の縁を指で押さえた。


「……少しだ」


ミラは笑った。


泣きそうにはならなかった。少なくとも、その場では。泣くなら列車の中で、窓の外にこの町が小さくなってからでもいい。そう思えるくらいには、ミラは大きくなっていた。


列車の係員が、乗車を促す声を上げた。


ルルが鞄を渡し、マノンがもう一度「手紙ね」と言った。テレーズはミラの頬に軽く触れ、ロイはレオンの肩を叩いた。エリーズは最後に、ミラの髪ひもの端を整えた。


「はい。これでミラ」


「別の子ではありませんか」


「どこから見てもミラよ」


ミラは頷いた。


列車の段に足をかける前に、レオンを見た。


「困らなくても、帰ります」


レオンは一瞬、何も言わなかった。


それから、ようやく笑った。


「それならいい」


ミラは列車に乗った。


窓際の席に座ると、ホームの人たちが見えた。テレーズが手を振り、マノンも大きく振る。ルルは照れながら片手を上げ、ロイはレオンの背中を押して前に出した。エリーズは呆れながらも、その隣に立っている。


レオンは、片手を上げた。


昔より少し大人の顔になった。けれど、困った時に斜め上へ逃げるところは変わっていない。油の匂いも、工場の手も、言い間違える口も、そのまま持っている。


十三年前、レオンはミラを連れて帰った。


椅子が増え、皿が増え、机の端に名前の字が残った。床の外套は長いあいだレオンの場所で、学校の門には毎日の靴音がついた。


たぶん、本人は長いあいだ、自分がミラを拾ったつもりでいた。


けれど、ミラは知っている。


あの日、拾われたのはレオンの方だった。


列車がゆっくり動き出す。


ホームが少しずつ後ろへ流れ、レオンたちの姿が小さくなる。ミラは窓のそばで、鞄の上に手を置いた。中には、アドリアンの手紙と、工場長の革の筆箱と、布に包んだ古い二本の青い髪ひもがある。


古い椅子は、家に残っている。


だからミラは、帰る家を持ったまま、初めて遠くへ行く。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

挿絵(By みてみん)

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