エピローグ 拾われたのは俺の方だった
サン=オルレーヌ行きの列車が出る日の朝、ミラは工場長室にいた。
見送りのためにレオンが工場を休むと聞いて、デュラン工場長は「出る前に寄れ」とだけ言った。命令のような口ぶりだったので、レオンは朝から背筋を伸ばしていた。十三年たっても、工場長に呼ばれると、体のどこかが先に怒られる準備をするらしい。
十八歳になったミラは、もうレオンの腰の少し上に届く子どもではなかった。古い紺のワンピースではなく、襟のきちんとした外套を着ている。髪には、新しい青い髪ひもを二本結んでいた。十三年前、年の終わりにレオンが買ってきた二本と同じ色だった。
古い二本の髪ひもは、小さな布に包んで鞄の内ポケットに入れてある。
工場長室に入ると、紙と煙草と古い木の匂いがした。
ミラは、その匂いを覚えている。
この部屋で何が始まったのかを、ミラはあとから何度も聞いた。レオンの名前が名簿にあった日。遠い国から別の名前が来た日。署名欄の前で、レオンの手が止まった日。
その全部を見ていたわけではない。けれど、この部屋の匂いには、レオンが黙って帽子を握った時間が混じっているような気がした。
レオンは隣で、帽子の縁を何度も直していた。
「工場長室に来ると、背中が書類を思い出す」
レオンが言うと、机の向こうのデュラン工場長は眉を動かした。
「背中より先に、頭で思い出せ」
「頭は今日、駅の方へ行っています」
「まだ行くな。列車より先にお前が出発するな」
デュラン工場長の髪には、白いものがずいぶん増えていた。けれど、机の前に立つ姿は変わらない。煙草は手に持っているだけで、火はついていなかった。昔から、言いにくい話をする時ほど火をつけない人だった。
工場長は机の引き出しを開け、小さな包みを取り出した。
茶色い紙に包まれ、紐で結ばれている。レオンの手が伸びかけたが、工場長はそれを避けて、ミラの前へ置いた。
「お前宛てだ」
「わたしに、ですか」
「工場からの餞別だ。正確には、俺からだが、工場の音も少し入っていると思え」
「音が入るんですか」
「入っている気分だ」
レオンが横からのぞき込んだ。
「工場長、贈り物に気分を混ぜると、役所が困りませんか」
「役所には出さん」
「なら安心ですね」
「安心する前に、お前は触るな。油がつく」
ミラは包みをほどいた。
中には、丈夫な革の筆箱が入っていた。飾りはない。けれど、角はしっかりしていて、蓋の合わせ目もきれいだった。手に持つと、少し重い。長く使うことを前提にした重さだった。
「ありがとうございます」
ミラが言うと、工場長は視線を外した。
「サン=オルレーヌの学校は、紙が多いだろう。鉛筆もペンも、鞄の底で迷子にするな」
「はい」
「それから、知らない紙にはすぐ署名するな」
レオンがすぐに頷いた。
「それは大事です」
「お前が言うと、経験に重みがありすぎる」
「重かったですからね」
工場長はしばらくレオンを見た。
部屋の外では、機械の音がしている。鉄を置く音、台車の車輪、男たちの声。レオンが十八歳だった頃から続いている音だった。ミラにとっても、朝と夕方を知らせる音になっている。
「レオン」
「はい」
「あの時、俺は冗談で言った」
レオンは帽子の縁を握り直した。
「知ってます」
「嫁を取るか、養子でも取ったらどうだ、と」
「覚えてます」
「お前は本気にした」
「そこも、かなり覚えています」
工場長は机の上の包み紙を指で押さえた。紙が鳴った。
「十三年たっても、あれは怖い話だったと思っている」
レオンはすぐには返事をしなかった。昔なら、怖いのは役所ですとか、工場長の顔ですとか、何かずれたことを言ったかもしれない。けれど今は、帽子を持ったまま、肩を落としていた。
「俺もです」
工場長は短く息を吐いた。
「だが、悪い冗談だけではなかったらしい」
ミラは筆箱を両手で持った。
悪い冗談だけではなかった。
その言葉は、工場長らしく、まっすぐ褒めるよりずっと遠回りだった。けれど、だからこそ、部屋の中に静かに残った。
「大事に使います」
ミラが言うと、工場長はようやく頷いた。
「壊れたら持ってこい。工場で直せるものなら直す」
「筆箱も直せるんですか」
「たぶん、車よりは簡単だ」
「車より簡単なら、レオンさんにも直せますか」
工場長とミラの視線が同時にレオンへ向いた。
レオンは真面目に首を横に振った。
「俺に任せると、筆箱が車の少しになる」
「なら、壊さないようにします」
「それがいい」
工場長は火のついていない煙草を机に置いた。
「今日はもう行け。見送りの日に、工場長室で時間を食うな」
「工場長が呼んだんですよ」
「だから、帰れと言っている」
「工場長、昔から休みを命じる声が怖いですね」
「お前の聞き方が直っていないだけだ」
レオンは帽子をかぶり、ミラは筆箱を鞄にしまった。
工場長室を出る時、ミラはもう一度振り返った。デュラン工場長は机の前に立ったまま、こちらを見ていた。駅へ来る人の顔ではない。けれど、その場から送り出す人の顔ではあった。
工場を出ると、朝の空気に油の匂いが混じっていた。
ミラはそれを吸い込み、胸の奥が重くなるのを感じた。嫌な重さではない。持っていくには大きく、置いていくには惜しいものが、町のあちこちに増えすぎたのだ。
アパートへ戻ると、鞄は寝台の上に置かれていた。
荷造りは昨夜のうちに、ほとんど終わっている。服、本、筆記具、薄いノート、サン=オルレーヌ師範学院の入学案内。アドリアンから届いた手紙も、折れないように布に挟んである。
それでもレオンは、朝になってから三度目の確認をしていた。
「鞄にも順番がある」
「工場の部品ではありません」
「だから困る。部品なら向きがある」
「本にも向きはあります」
「それは分かる。開く方がこっちだ」
「そこから確認されると不安です」
台所の方から、エリーズが布巾を持って現れた。
エリーズは昔より大人びていたが、レオンを見る目の厳しさは変わらない。結婚して同じ家で暮らすようになってからも、その目はよく働いた。特にレオンが何かを手伝っているつもりの時は、容赦がなかった。
「あんた、手伝ってるの?」
「見守ってる」
「邪魔の別名をつけないで」
「今日は父親らしくしてるんだ」
「父親らしさを鞄の上に座らせないで」
レオンは自分の膝が鞄の端に乗りかけていることに気づき、慌てて下がった。
「危なかった」
「今、鞄が一番危なかったわ」
ミラは小さく笑った。
昔の自分なら、この家で大人たちが言い合う声を聞くたび、どこまでなら怒られないのか、どこからなら戻されるのかを確かめていた。今は、その声の中に、戻される場所ではなく、帰ってくる場所の音を聞いている。
部屋の隅には、古い椅子があった。
今はじゃがいもの籠が置かれている。脚は一度折れかけ、レオンが直そうとして余計に傾け、結局ヴィクトルに直してもらった。座面には小さな傷があり、背もたれの片側は少し色が違う。
ミラが初めてレオンの部屋に来た時、椅子は一つしかなかった。
寝台も一つ。皿も一枚。毛布も足りず、机も狭く、台所の鍋は黒くて、窓の外には工場の煙突が見えた。
けれど、その椅子は増えた。
それだけで、部屋の形は変わった。人の立つ場所も、座る場所も、待つ場所も変わった。
「椅子は、持っていきません」
ミラが言うと、レオンが振り返った。
「持っていく気だったのか」
「少しだけ考えました」
「列車が困る」
「はい。だから置いていきます」
エリーズは椅子の上のじゃがいも籠を直した。
「置いていってくれた方が助かるわ。これ、まだ働いてるから」
「椅子は、働き者です」
「レオンより?」
エリーズが言うと、レオンはすぐに抗議した。
「俺は工場で働いてる」
「この椅子は家で働いてるわ」
「分野が違う」
「負けた時の言い訳みたいね」
ミラは古い椅子に手を置いた。木は冷たかった。十三年もここにいるのに、朝はまだ冷たい。けれど、人が座れば温まることを、ミラは知っている。
机の上には、アドリアンの手紙があった。
白い封筒の字は、相変わらず整っている。ミラがサン=オルレーヌ師範学院へ入ると知らせた後、海の向こうから届いたものだった。中には短い手紙と、小さな栞が入っていた。栞には楽譜の線のような模様が細く入っている。
ミラは手紙をもう一度開いた。
アドリアンは、返事を急がせなかった。師範学院へ行くことを祝ってくれた。君が選んだ道を誇りに思う、と書いてあった。それから、帰る家がある人は、遠くへ行ける、とも書いていた。
ミラはその一文を、何度も読んだ。
父親という言葉は、今も簡単ではない。けれど、アドリアンはミラの毎日の家を奪わなかった。遠くから手紙を書き、返事を待ち、会う時も距離を間違えないようにしてくれた。
だからミラは、その手紙を置いていかない。
ミラが手紙を鞄に入れると、レオンが身を乗り出した。
「本当に先生になるのか」
「まだ、なるとは決まっていません」
「師範学院へ行くのに?」
「勉強しに行きます。決めるために」
「決めるために、そんな遠くまで行くのか」
ミラは鞄の蓋に手を置いた。
「レオンさんは、決め方を知らないまま施設へ来たことがあります」
レオンは口を開き、閉じた。
エリーズが横で静かにこちらを見る。昔なら、すぐに刺したかもしれない。けれど今は、ミラの言葉の続きを待っていた。
レオンは帽子を持っていない手で、自分の髪をかいた。
「あれは、決め方を知らなかっただけだ」
「はい。だから、勉強します」
レオンは一拍置いた。
「俺を教材にするな」
「もう、かなり使いました」
「使用料を取るぞ」
「十三年分の食事代と相殺します」
「急に計算が強くなったな」
「レオンさんに育てられました」
「そこだけ俺のせいにされるのか」
エリーズが笑った。
笑いながら、ミラの外套の襟を直す。昔、学校のスモックの襟を直してくれた手と同じ手つきだった。ミラはその手が離れるまで、動かずにいた。
駅へ向かう道は、いつもより短く感じた。
石畳、パン屋の匂い、共同廊下から落ちてくる声、洗濯場の水音。ミラはその一つずつを、昔ほど数えなくなっていた。数えなくても、道は分かる。分かっている道ほど、出ていく時に少しだけ足を遅くする。
駅の前には、すでに何人かが集まっていた。
テレーズは腕を組み、最初から泣かない顔をしていた。ロイは工場長に仕事を抜ける許可をもらったらしく、小さな紙包みを持っている。マノンは帽子を押さえ、ルルはミラの鞄を見るなり、片手を差し出した。
「持つ」
声は低くなっていた。昔、木の匙を握ってトトを追いかけていた子とは思えないくらい、背も伸びている。けれど、言葉を短く切る癖には、昔のルルが残っていた。
「重いよ」
「十五だから」
「年齢は持ち手じゃないよ」
「でも、昔よりは持てる」
ミラは笑って、鞄の片側を渡した。
「じゃあ、駅の中までお願いします」
ルルは真面目に頷き、鞄を持った。思っていたより重かったらしく、腕が下がったが、すぐに持ち直す。
レオンが横から手を出した。
「俺も持つぞ」
ルルはレオンを見た。
「レオンさんは、泣かない方を持ってください」
「泣いてない」
「まだです」
テレーズが大きく笑った。
「いい子に育ったねえ、ルル」
「それは刺し方の話ですか」
レオンが言うと、マノンがすぐに返した。
「レオンを見て育ったからね」
「俺のせいで刺すのがうまくなったみたいに言うな」
「だいたい合ってるよ」
マノンは十八歳になっても、笑い方に子どもの頃の面影が残っていた。今は地元の店で働き始め、手には小さな擦り傷がある。ミラと同じ年なのに、進む場所は違う。けれど、その違いは二人の間を遠くするものではなかった。
「ミラ、首都へ行っても手紙書いてね」
「書きます」
「難しい字ばっかりだったら読めないからね」
「レオンさんにも読める字で書きます」
「それなら、だいぶやさしい字ね」
「俺は読める」
レオンが言うと、マノンは肩をすくめた。
「たまに自分の字にも負けてるじゃない」
「昔よりは勝ってる」
「昔が弱すぎたんだよ」
ロイが紙包みをミラへ差し出した。
「これは、列車の中で食べろ。硬いパンより少しましなやつだ」
「ありがとうございます」
「レオンには渡すな。全部食う」
「俺を何だと思ってる」
「昔から知ってる工員」
「かなり不利な答えだ」
テレーズはミラの肩を両手で押さえた。
「寒くなったら、首を冷やすんじゃないよ。食べられる時に食べる。手紙は無理して長く書かなくていい。帰ってくる日は、先に知らせる」
「はい」
「返事が遅くても、こっちは勝手に心配するからね」
「それは止められますか」
「止められないよ。家の人間の悪い癖だ」
ミラは頷いた。
家の人間。
その言葉は、昔は怖かった。誰をそう呼べばいいのか、自分がその中に入っていいのか、いつ消えるのかを考えていた。今は、重い。けれど、その重さは鞄と同じで、持つ場所が分かれば運べる。
駅の鐘が鳴った。
昼前のサン=オルレーヌ行きの列車が、二番線に入っている。黒い車体は朝の光を受け、窓には人影が揺れていた。首都へ向かう列車は、この町の列車より偉そうな音を立てているように、ミラには聞こえた。
レオンはミラの鞄を見て、それから列車を見た。
「ちゃんと食えよ」
「はい」
「知らない紙にすぐ署名するな」
「レオンさんではありません」
「そうだった。でも、気をつけろ」
「気をつけます」
「列車の中で知らない男に話しかけられたら、まず靴を見るんだ」
ミラは首を傾げた。
「なぜ靴ですか」
「逃げ足が速そうか分かる」
「十三年前より助言が悪くなっています」
「十三年かけて育てた助言だぞ」
「育て直してください」
エリーズが横でため息をついた。
「あんた、最後までそれなの」
「最後じゃない」
レオンはすぐに言った。
その声だけが、いつもの軽口より早かった。
ミラはレオンを見た。
十三年前、施設の玄関にいたレオンは、袖口に油を残した十八歳の工員だった。五歳の子を受付係だと思い、十三年という時間を計算し、手のかからない子がいいと言ってベルナールに刺されていた。
その人が今、駅のホームで、ミラの鞄を何度も見ている。
置いていく椅子。持っていく筆箱。鞄の中の手紙。布に包んだ古い二本の髪ひも。見送りに来た人たち。どれも、レオンが最初に想像していた「手続き」の中にはなかったはずだ。
「困ったら帰ってこい」
レオンが言った。
「はい」
「困らなくても帰ってこい」
「はい」
「困る前に帰ってこい」
「それは、学校へ行けません」
「じゃあ、困りそうな気配がしたら」
「レオンさん」
「何だ」
「寂しいなら、寂しいと言ってください」
レオンは口を閉じた。
マノンが笑い、ルルが鞄を持ったままレオンを見た。エリーズは何も言わない。ただ、レオンの袖を引いた。逃げるな、という意味だとミラには分かった。
「寂しいわけじゃない」
レオンは言った。
「部屋の人口密度が下がるだけだ」
「寂しいんですね」
「椅子が一つ余る」
「寂しいんですね」
「黒い鍋が少し大きくなる」
「寂しいんですね」
レオンは帽子の縁を指で押さえた。
「……少しだ」
ミラは笑った。
泣きそうにはならなかった。少なくとも、その場では。泣くなら列車の中で、窓の外にこの町が小さくなってからでもいい。そう思えるくらいには、ミラは大きくなっていた。
列車の係員が、乗車を促す声を上げた。
ルルが鞄を渡し、マノンがもう一度「手紙ね」と言った。テレーズはミラの頬に軽く触れ、ロイはレオンの肩を叩いた。エリーズは最後に、ミラの髪ひもの端を整えた。
「はい。これでミラ」
「別の子ではありませんか」
「どこから見てもミラよ」
ミラは頷いた。
列車の段に足をかける前に、レオンを見た。
「困らなくても、帰ります」
レオンは一瞬、何も言わなかった。
それから、ようやく笑った。
「それならいい」
ミラは列車に乗った。
窓際の席に座ると、ホームの人たちが見えた。テレーズが手を振り、マノンも大きく振る。ルルは照れながら片手を上げ、ロイはレオンの背中を押して前に出した。エリーズは呆れながらも、その隣に立っている。
レオンは、片手を上げた。
昔より少し大人の顔になった。けれど、困った時に斜め上へ逃げるところは変わっていない。油の匂いも、工場の手も、言い間違える口も、そのまま持っている。
十三年前、レオンはミラを連れて帰った。
椅子が増え、皿が増え、机の端に名前の字が残った。床の外套は長いあいだレオンの場所で、学校の門には毎日の靴音がついた。
たぶん、本人は長いあいだ、自分がミラを拾ったつもりでいた。
けれど、ミラは知っている。
あの日、拾われたのはレオンの方だった。
列車がゆっくり動き出す。
ホームが少しずつ後ろへ流れ、レオンたちの姿が小さくなる。ミラは窓のそばで、鞄の上に手を置いた。中には、アドリアンの手紙と、工場長の革の筆箱と、布に包んだ古い二本の青い髪ひもがある。
古い椅子は、家に残っている。
だからミラは、帰る家を持ったまま、初めて遠くへ行く。




