表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第3章 帰る家を選ぶ
PR
22/26

第22話 もう一枚の紙

挿絵(By みてみん)

賞の紙が棚で一晩を越した朝、ミラは毛布の中から言った。


「まだ、家にあります」


床の外套にくるまっていたレオンは、片目だけ開けた。紙は薄板に当てられ、昨日と同じ場所に立っている。


「逃げなかったな」


「レオンさんは曲がっています」


「俺は板なしで床に置かれてるからな」


「背中に板を当てますか」


「寝台を先に頼む」


工場の警笛が鳴り、窓ガラスが震えた。レオンは二つの皿に薄いスープをよそい、湯気が届かないよう賞の紙から遠ざける。


「紙は、スープを食べません」


「俺より丁寧に扱われてる。見張りくらいしてもらう」


「紙は、目がありません」


「朝から役に立たないな」


ミラは紙を見てからレオンを見た。


「家の人には、見せました」


レオンはパンをかじり、返事の代わりに皿をもう少し遠ざけた。


工場へ向かう通りには、まだ朝の湿り気が残っていた。石畳の隙間に薄い水が光り、パン屋の前からは焼けた匂いが流れてくる。工場に近づくにつれて、油の匂いが強くなり、鉄を打つ音が体の中へ戻ってきた。


作業場では、いつものように部品が流れていた。


レオンは受け取り、決まった棚へ置く。手は勝手に動く。けれど、頭の隅には棚の上の賞の紙が残っていた。あれは曲がっていない。家にある。ミラがそう言った紙だ。


隣でロイが声をかけてきた。


「昨日から、少しいい顔してるな」


「勝ったのはミラだ」


「お前も少し勝った顔してる」


「俺は横で紙を折りかけただけだ」


「胸を張るところじゃないな」


「そこは先生にも止められた」


ロイは部品を押さえながら笑った。


「そのうち工場長に、紙の扱い係に回されるぞ」


「油のついた手で紙を扱う係は危ないだろ」


「自覚があるだけ成長したな」


「最近、俺は成長する場所が多い」


「床で寝てる背中もか」


「そこは成長じゃなくて損傷だ」


ロイは部品を棚へ置き、レオンの手元を見た。


「じゃあ、今日は何を成長させるんだ」


「紙を曲げない技術」


「工場で使うか?」


「役所がまた来たら使う」


「役所相手に紙を曲げないのは、かなり難しいぞ」


「向こうの紙の方が、たいてい先に曲がってる」


「お前の顔も曲がる」


「そこは工場長に見つかる前に直す」


ロイが肩を揺らした。レオンも笑い、次の部品へ手を伸ばした。


その時、作業場の端から年上の工員がやって来た。


「レオン。工場長が呼んでる」


レオンの手が止まった。


「俺、また何か壊しました?」


「壊したら現場で怒鳴られる」


「じゃあ、給金が上がる話ですか」


「その顔で行くな。下げられるぞ」


ロイが横から言った。


「紙の扱い係じゃないのか」


「呼ばれ方が重い。係ならもっと軽いはずだ」


「役所の紙か」


「まだ分からない」


「顔がもう封筒になってるぞ」


「閉じておく」


周りの男たちが笑ったが、呼びに来た工員の顔はあまり笑っていなかった。レオンは手袋を外し、作業台の端へ置いた。


事務棟へ向かう廊下は、作業場より少し静かだった。油の匂いが薄くなり、紙と煙草と古い木の匂いが近づいてくる。デュラン工場長の部屋の前に立った時、レオンは最初にここへ呼ばれた朝のことを思い出した。


自分の名前が名簿にあった日。


あの日も、この部屋は現場と違う匂いがした。


「入れ」


中から声がした。


レオンが扉を開けると、デュラン工場長は机の前に立っていた。椅子には座っていない。机の上には書類があり、その横に灰色の封筒が置かれている。


そして、もう一人いた。


灰色の上着を着た中年の男。小さな革鞄を足元に置き、帽子を膝の上に乗せている。レオンの部屋を確認しに来た養子確認担当のロベールだった。


レオンは扉のところで足を止めた。


「また俺の名前ですか」


デュラン工場長は、いつものようには笑わなかった。


「今日は、お前の送還の話じゃない」


「じゃあ勝ちですか」


「そう単純な話なら、現場で呼ぶ」


レオンは帽子の縁を持ち直した。


「じゃあ、負けより面倒な話ですか」


工場長は机の上の封筒へ目を落とした。


「ミラの件だ」


レオンの返事が一拍遅れた。


ロベールが立ち上がる。


「お仕事中に失礼します。正式な聞き取りは後日、移民局で行います。今日は、本人への通知と、養子支援施設へ連絡する前の照合です」


「通知だけなら、紙を置いて帰れませんか」


「置いて帰れる種類の紙ではありません」


「紙に種類が多すぎる」


デュラン工場長が低く言った。


「お前の勤務先はここだ。以前の調査も、うちを通っている。だから先にここへ来た」


「工場って、部品以外も流れてくるんですね」


「今その言い方をするな」


レオンは口を閉じた。


ロベールは机の上の封筒を手に取った。灰色の紙に、移民局の印が押されている。前に見た封筒と似ている。似ているのに、今回は封筒の角に自分の名前だけではなく、ミラの名前があった。


レオンは封筒から目を離せなかった。


「それ、開けたら戻せますか」


ロベールが少し目を上げる。


「封筒の話ですか」


「中身の話です」


壁の時計の音が、一つだけ聞こえた。


デュラン工場長は煙草を取り出しかけて、やめた。机の上に戻し、腕を組む。ロベールは封筒から紙を数枚出した。古い記録の写しらしい紙がある。朱線が引かれた名簿の写しもあった。インクの色も紙の古さも少しずつ違う。


「ミラさんの記録に、照合が入りました」


「照合って、悪いことですか」


「悪いとは限りません」


「限らない時点で、だいたい怖いんですが」


「慎重に扱う話です」


ロベールは紙の一枚を机の上に置いた。レオンの方へ差し出すのではなく、見える位置に置くだけだった。そこにはミラの名前と、別の名前があった。レオンには、すぐにその意味が分からなかった。


「戦時中の避難児童名簿、孤児記録、養子支援施設の記録を照合しました」


「紙が多すぎませんか」


「多いです。さらに現在の養子記録も見ました。その中に、ミラさんと一致する可能性のある古い家族記録が出ています」


レオンは紙を見た。


ミラは親の話をほとんどしない。


聞けば答える顔をする。けれど、本当に大事なところへ来る前に、別の質問へ曲がる。服は戻るか。名前があると帰れるのか。賞の紙は家にあるか。そういうものを通してしか、傷の端は見えない。


レオンも、無理に聞かないままここまで来た。


その親の名前が、いきなり机の上に出てきた。


ロベールは続けた。


「ミラさんの実父に該当する可能性のある人物が、生存しています」


レオンは、言葉を受け取るまでに少し時間がかかった。


「父親って、書類上のですか」


「血縁上の父親です」


「……生きてるんですか」


「その可能性が高いです」


レオンは封筒ではなく、自分の手を見た。


水場で洗ったはずの指には、爪の間にまだ油が残っている。その手でミラの鞄を持ち、外套の襟を直し、賞の紙を曲げないように板へ挟んだ。昨日の夜、洗濯ばさみが一つ傾いていると言われ、直したのもこの手だった。


そこへ、別の父親の名前が来ている。


「今すぐ何かが変わる話ではありません」


ロベールの声は、いつもより慎重だった。


「養子関係がすぐになくなるわけではありません。ミラさんを急にどこかへ連れていく話でもありません」


「じゃあ、今日ここで鞄を持てって話じゃないんですね」


「違います」


ロベールは短く答えてから、書類の端をそろえた。


「まず手順が必要です。本人確認、記録の照合、施設側への聞き取り。その全部を順番に行います」


「その人は、どこにいるんですか」


「国外です」


「国外って、どのくらい国外ですか」


ロベールは一拍置いた。


「アメリカです」


「それは、徒歩で迎えに行ける国外ですか」


「違います」


「じゃあ、かなり国外ですね」


「かなり、という言い方で済む距離ではありません」


「レオン」


デュラン工場長の声が低く落ちた。


レオンは口を閉じた。ふざけたつもりはなかった。けれど、言葉を軽くしないと、封筒の中身がそのまま胸に落ちてきそうだった。


工場長は机の向こうからレオンを見た。


「今の顔でミラに言うな」


「でも、ミラの話ですよね」


「だからだ」


レオンは反射的に立ち上がりかけた。


「じゃあ、迎えに行って、そのまま話します」


「待て」


デュラン工場長が短く止めた。


「待ったら、もっと悪くなりませんか」


「お前が今の顔で言ったら、ミラは自分が悪いことをしたと思う」


レオンの喉がつまった。


「俺、そんな顔ですか」


「紙に負けた時より悪い」


「それはかなり悪いですね」


ロベールが紙をそろえながら言った。


「養子支援施設にも連絡を入れます。ベルナールさんにも同席してもらうべきです」


「ベルナールさん、刺しますか」


「刺すためではありません」


デュラン工場長が机に手を置いた。


「刺されてもいいから、先に大人が揃え。子どもに渡す前に、言葉を整えろ」


その言い方に、レオンは何も返せなかった。


最初にデュラン工場長が養子案を出した時は、冗談のつもりだった。嫁を取るか、養子でも取ったらどうだ、と。それをレオンは本気にした。そこからミラが来て、椅子が増え、皿が増え、学校の紙が増え、賞の紙が棚に置かれた。


その工場長が、今は軽口を言わずに止めている。


レオンは椅子に座り直した。


「……いつ、話すんですか」


「決める前に、ベルナールさんと会え」


ロベールが答えた。


「明日、養子支援施設で時間を取れるよう連絡します。正式な移民局での聞き取りは、その後になります」


「ミラには」


「今日すぐに全てを話す必要はありません。ただし、隠し続ける話でもありません」


ロベールはそう言って、封筒を閉じた。


レオンは封筒を見た。閉じられても、中身は消えない。


午後の工場で、レオンは何度か部品を置く場所を間違えかけた。


ロイが横から手を伸ばし、違う棚へ戻す。


「おい。そこは別の棚だ」


「悪い」


「さっきまでのいい顔、どこへ行った」


「今日は別の紙が来た」


ロイは軽口を返しかけて、レオンの顔を見てやめた。代わりに、流れてくる部品を一つ受け取り、いつもより少し低い声で言った。


「迎え、遅れるなよ」


「遅れない」


「それだけは勝っとけ」


レオンは頷いた。


終業の警笛が鳴ると、レオンは手袋を外し、水場で手を洗った。いつもより丁寧に洗ったが、爪の間の油は完全には落ちない。水が冷たい。指先が少し赤くなった。


市立初等校へ向かう道は、いつもより長く感じた。


石畳を歩く音が、自分でも少し変に聞こえる。早すぎるわけではない。遅すぎるわけでもない。ただ、足が何かを避けて歩いているようだった。


予備学級の入口では、子どもたちが帰り支度をしていた。マノンが鞄を抱え、ジュールが誰かに紙の船の作り方を説明している。ルノー先生は名簿を閉じ、レオンの顔をいつもより長く見た。


「今日は早いですね」


「遅れてません」


「早いと言いました」


「あ、そうでした」


先生はそれ以上、そこで聞かなかった。ただ、ミラの鞄を確認し、いつものように送り出した。


ミラはレオンのところへ歩いてきた。走らない。けれど、レオンを見つけてから動き出すまでの間は、最初の頃よりずっと短くなっている。


門を出て少し歩いたところで、ミラが言った。


「今日は、足音が変です」


レオンは横を見た。


「足音にも種類があるのか」


「あります」


「工場で直せるかな」


「レオンさんの足です」


「そうだった」


ミラは鞄を胸の前に抱え直した。


「工場で、怒られましたか」


「怒られてはいない」


「また、紙ですか」


レオンは答えられなかった。


ミラは前を向いている。核心をまっすぐ聞いているようで、まだそこへ踏み込んではいない。レオンが何かを持っていることだけは、分かっているのだろう。


「紙は、いろいろあるからな」


「賞の紙、まだありますか」


「ある」


「曲がってませんか」


「曲げてない」


「棚にありますか」


「ある」


ミラは息をついた。


「じゃあ、今日は帰れます」


レオンは、すぐに返事ができなかった。


帰れる。


昨日までなら、当たり前のように頷けたかもしれない。少なくとも、帰り道でそこまで重く受け止める言葉ではなかった。けれど、工場長室の封筒を見た後では、その一言が胸の奥に引っかかった。


「帰るぞ」


ようやく、それだけ言った。


公営労働者アパートの中庭は、いつも通りだった。


テレーズが洗濯場で水桶を動かし、エリーズが籠を腕にかけ、マノンがミラへ手を振っている。ルルは木の匙を持ったままトトの後ろを追い、トトは追われるほどの義理はないという顔で中庭を横切った。


テレーズがレオンを見る。


「今日は妙な顔してるね」


「俺の顔、毎日忙しいですね」


「今日は特にだよ」


エリーズもこちらを見た。いつものようにすぐ突っ込んでくるかと思ったが、レオンの顔を見て言葉を飲んだ。


「ミラ、手を洗ってから上がりなさい」


エリーズはミラへ声をかけた。


「はい」


ミラは水場へ向かう。レオンはその背中を見た。鞄を胸の前に抱え、外套の襟を自分で直しながら歩いている。最初に施設から連れて帰った時より、歩く速さも、部屋へ戻る道も、ずっとこの場所に馴染んでいる。


その場所へ、別の紙が来ている。


部屋へ戻ると、ミラはまず棚を見た。


賞の紙は、そこにあった。薄板に当てられ、洗濯ばさみで留められたまま、少し傾いた夕方の光を受けている。


「あります」


「あるな」


「家にある紙です」


「そうだな」


レオンは帽子を壁の釘にかけた。外套を脱ぎかけ、途中で手を止める。封筒のことを思い出した。あれも紙だった。けれど、棚に置ける紙ではない。家にあると胸を張れる紙でもない。


ミラは机の近くへ行き、賞の紙を見上げた。


「レオンさん」


「何だ」


「今日は、たぶんが少なかったです」


レオンは賞の紙から目を離せなかった。


「そうか」


「明日も、少ないですか」


すぐには答えられなかった。


明日、ベルナールと会う。ロベールが来るかもしれない。デュラン工場長にも何かを言われる。ミラへ話さなければならないことがある。どの言葉を使えばいいのか、まだ一つも整っていない。


けれど、ミラがこちらを見ている。


分かった顔を急いで作らず、丁寧すぎる頷きにも逃げず、ただレオンの返事を待っている。


レオンは息を吸った。


「少なくする」


ミラは小さく頷いた。


「はい」


その頷きは、丁寧すぎるものではなかった。


外では、夕方の工場の煙が薄く伸びていた。中庭からはテレーズの声と、ルルの木の匙が床を叩く音が聞こえる。


レオンは棚の賞の紙を見た。明日までに、言葉を整えなければならない。


紙に勝つ言葉では足りない。


ミラが、自分のせいだと思わずに済む言葉がいる。


読んでくださり、ありがとうございます。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ