第22話 もう一枚の紙
賞の紙が棚で一晩を越した朝、ミラは毛布の中から言った。
「まだ、家にあります」
床の外套にくるまっていたレオンは、片目だけ開けた。紙は薄板に当てられ、昨日と同じ場所に立っている。
「逃げなかったな」
「レオンさんは曲がっています」
「俺は板なしで床に置かれてるからな」
「背中に板を当てますか」
「寝台を先に頼む」
工場の警笛が鳴り、窓ガラスが震えた。レオンは二つの皿に薄いスープをよそい、湯気が届かないよう賞の紙から遠ざける。
「紙は、スープを食べません」
「俺より丁寧に扱われてる。見張りくらいしてもらう」
「紙は、目がありません」
「朝から役に立たないな」
ミラは紙を見てからレオンを見た。
「家の人には、見せました」
レオンはパンをかじり、返事の代わりに皿をもう少し遠ざけた。
工場へ向かう通りには、まだ朝の湿り気が残っていた。石畳の隙間に薄い水が光り、パン屋の前からは焼けた匂いが流れてくる。工場に近づくにつれて、油の匂いが強くなり、鉄を打つ音が体の中へ戻ってきた。
作業場では、いつものように部品が流れていた。
レオンは受け取り、決まった棚へ置く。手は勝手に動く。けれど、頭の隅には棚の上の賞の紙が残っていた。あれは曲がっていない。家にある。ミラがそう言った紙だ。
隣でロイが声をかけてきた。
「昨日から、少しいい顔してるな」
「勝ったのはミラだ」
「お前も少し勝った顔してる」
「俺は横で紙を折りかけただけだ」
「胸を張るところじゃないな」
「そこは先生にも止められた」
ロイは部品を押さえながら笑った。
「そのうち工場長に、紙の扱い係に回されるぞ」
「油のついた手で紙を扱う係は危ないだろ」
「自覚があるだけ成長したな」
「最近、俺は成長する場所が多い」
「床で寝てる背中もか」
「そこは成長じゃなくて損傷だ」
ロイは部品を棚へ置き、レオンの手元を見た。
「じゃあ、今日は何を成長させるんだ」
「紙を曲げない技術」
「工場で使うか?」
「役所がまた来たら使う」
「役所相手に紙を曲げないのは、かなり難しいぞ」
「向こうの紙の方が、たいてい先に曲がってる」
「お前の顔も曲がる」
「そこは工場長に見つかる前に直す」
ロイが肩を揺らした。レオンも笑い、次の部品へ手を伸ばした。
その時、作業場の端から年上の工員がやって来た。
「レオン。工場長が呼んでる」
レオンの手が止まった。
「俺、また何か壊しました?」
「壊したら現場で怒鳴られる」
「じゃあ、給金が上がる話ですか」
「その顔で行くな。下げられるぞ」
ロイが横から言った。
「紙の扱い係じゃないのか」
「呼ばれ方が重い。係ならもっと軽いはずだ」
「役所の紙か」
「まだ分からない」
「顔がもう封筒になってるぞ」
「閉じておく」
周りの男たちが笑ったが、呼びに来た工員の顔はあまり笑っていなかった。レオンは手袋を外し、作業台の端へ置いた。
事務棟へ向かう廊下は、作業場より少し静かだった。油の匂いが薄くなり、紙と煙草と古い木の匂いが近づいてくる。デュラン工場長の部屋の前に立った時、レオンは最初にここへ呼ばれた朝のことを思い出した。
自分の名前が名簿にあった日。
あの日も、この部屋は現場と違う匂いがした。
「入れ」
中から声がした。
レオンが扉を開けると、デュラン工場長は机の前に立っていた。椅子には座っていない。机の上には書類があり、その横に灰色の封筒が置かれている。
そして、もう一人いた。
灰色の上着を着た中年の男。小さな革鞄を足元に置き、帽子を膝の上に乗せている。レオンの部屋を確認しに来た養子確認担当のロベールだった。
レオンは扉のところで足を止めた。
「また俺の名前ですか」
デュラン工場長は、いつものようには笑わなかった。
「今日は、お前の送還の話じゃない」
「じゃあ勝ちですか」
「そう単純な話なら、現場で呼ぶ」
レオンは帽子の縁を持ち直した。
「じゃあ、負けより面倒な話ですか」
工場長は机の上の封筒へ目を落とした。
「ミラの件だ」
レオンの返事が一拍遅れた。
ロベールが立ち上がる。
「お仕事中に失礼します。正式な聞き取りは後日、移民局で行います。今日は、本人への通知と、養子支援施設へ連絡する前の照合です」
「通知だけなら、紙を置いて帰れませんか」
「置いて帰れる種類の紙ではありません」
「紙に種類が多すぎる」
デュラン工場長が低く言った。
「お前の勤務先はここだ。以前の調査も、うちを通っている。だから先にここへ来た」
「工場って、部品以外も流れてくるんですね」
「今その言い方をするな」
レオンは口を閉じた。
ロベールは机の上の封筒を手に取った。灰色の紙に、移民局の印が押されている。前に見た封筒と似ている。似ているのに、今回は封筒の角に自分の名前だけではなく、ミラの名前があった。
レオンは封筒から目を離せなかった。
「それ、開けたら戻せますか」
ロベールが少し目を上げる。
「封筒の話ですか」
「中身の話です」
壁の時計の音が、一つだけ聞こえた。
デュラン工場長は煙草を取り出しかけて、やめた。机の上に戻し、腕を組む。ロベールは封筒から紙を数枚出した。古い記録の写しらしい紙がある。朱線が引かれた名簿の写しもあった。インクの色も紙の古さも少しずつ違う。
「ミラさんの記録に、照合が入りました」
「照合って、悪いことですか」
「悪いとは限りません」
「限らない時点で、だいたい怖いんですが」
「慎重に扱う話です」
ロベールは紙の一枚を机の上に置いた。レオンの方へ差し出すのではなく、見える位置に置くだけだった。そこにはミラの名前と、別の名前があった。レオンには、すぐにその意味が分からなかった。
「戦時中の避難児童名簿、孤児記録、養子支援施設の記録を照合しました」
「紙が多すぎませんか」
「多いです。さらに現在の養子記録も見ました。その中に、ミラさんと一致する可能性のある古い家族記録が出ています」
レオンは紙を見た。
ミラは親の話をほとんどしない。
聞けば答える顔をする。けれど、本当に大事なところへ来る前に、別の質問へ曲がる。服は戻るか。名前があると帰れるのか。賞の紙は家にあるか。そういうものを通してしか、傷の端は見えない。
レオンも、無理に聞かないままここまで来た。
その親の名前が、いきなり机の上に出てきた。
ロベールは続けた。
「ミラさんの実父に該当する可能性のある人物が、生存しています」
レオンは、言葉を受け取るまでに少し時間がかかった。
「父親って、書類上のですか」
「血縁上の父親です」
「……生きてるんですか」
「その可能性が高いです」
レオンは封筒ではなく、自分の手を見た。
水場で洗ったはずの指には、爪の間にまだ油が残っている。その手でミラの鞄を持ち、外套の襟を直し、賞の紙を曲げないように板へ挟んだ。昨日の夜、洗濯ばさみが一つ傾いていると言われ、直したのもこの手だった。
そこへ、別の父親の名前が来ている。
「今すぐ何かが変わる話ではありません」
ロベールの声は、いつもより慎重だった。
「養子関係がすぐになくなるわけではありません。ミラさんを急にどこかへ連れていく話でもありません」
「じゃあ、今日ここで鞄を持てって話じゃないんですね」
「違います」
ロベールは短く答えてから、書類の端をそろえた。
「まず手順が必要です。本人確認、記録の照合、施設側への聞き取り。その全部を順番に行います」
「その人は、どこにいるんですか」
「国外です」
「国外って、どのくらい国外ですか」
ロベールは一拍置いた。
「アメリカです」
「それは、徒歩で迎えに行ける国外ですか」
「違います」
「じゃあ、かなり国外ですね」
「かなり、という言い方で済む距離ではありません」
「レオン」
デュラン工場長の声が低く落ちた。
レオンは口を閉じた。ふざけたつもりはなかった。けれど、言葉を軽くしないと、封筒の中身がそのまま胸に落ちてきそうだった。
工場長は机の向こうからレオンを見た。
「今の顔でミラに言うな」
「でも、ミラの話ですよね」
「だからだ」
レオンは反射的に立ち上がりかけた。
「じゃあ、迎えに行って、そのまま話します」
「待て」
デュラン工場長が短く止めた。
「待ったら、もっと悪くなりませんか」
「お前が今の顔で言ったら、ミラは自分が悪いことをしたと思う」
レオンの喉がつまった。
「俺、そんな顔ですか」
「紙に負けた時より悪い」
「それはかなり悪いですね」
ロベールが紙をそろえながら言った。
「養子支援施設にも連絡を入れます。ベルナールさんにも同席してもらうべきです」
「ベルナールさん、刺しますか」
「刺すためではありません」
デュラン工場長が机に手を置いた。
「刺されてもいいから、先に大人が揃え。子どもに渡す前に、言葉を整えろ」
その言い方に、レオンは何も返せなかった。
最初にデュラン工場長が養子案を出した時は、冗談のつもりだった。嫁を取るか、養子でも取ったらどうだ、と。それをレオンは本気にした。そこからミラが来て、椅子が増え、皿が増え、学校の紙が増え、賞の紙が棚に置かれた。
その工場長が、今は軽口を言わずに止めている。
レオンは椅子に座り直した。
「……いつ、話すんですか」
「決める前に、ベルナールさんと会え」
ロベールが答えた。
「明日、養子支援施設で時間を取れるよう連絡します。正式な移民局での聞き取りは、その後になります」
「ミラには」
「今日すぐに全てを話す必要はありません。ただし、隠し続ける話でもありません」
ロベールはそう言って、封筒を閉じた。
レオンは封筒を見た。閉じられても、中身は消えない。
午後の工場で、レオンは何度か部品を置く場所を間違えかけた。
ロイが横から手を伸ばし、違う棚へ戻す。
「おい。そこは別の棚だ」
「悪い」
「さっきまでのいい顔、どこへ行った」
「今日は別の紙が来た」
ロイは軽口を返しかけて、レオンの顔を見てやめた。代わりに、流れてくる部品を一つ受け取り、いつもより少し低い声で言った。
「迎え、遅れるなよ」
「遅れない」
「それだけは勝っとけ」
レオンは頷いた。
終業の警笛が鳴ると、レオンは手袋を外し、水場で手を洗った。いつもより丁寧に洗ったが、爪の間の油は完全には落ちない。水が冷たい。指先が少し赤くなった。
市立初等校へ向かう道は、いつもより長く感じた。
石畳を歩く音が、自分でも少し変に聞こえる。早すぎるわけではない。遅すぎるわけでもない。ただ、足が何かを避けて歩いているようだった。
予備学級の入口では、子どもたちが帰り支度をしていた。マノンが鞄を抱え、ジュールが誰かに紙の船の作り方を説明している。ルノー先生は名簿を閉じ、レオンの顔をいつもより長く見た。
「今日は早いですね」
「遅れてません」
「早いと言いました」
「あ、そうでした」
先生はそれ以上、そこで聞かなかった。ただ、ミラの鞄を確認し、いつものように送り出した。
ミラはレオンのところへ歩いてきた。走らない。けれど、レオンを見つけてから動き出すまでの間は、最初の頃よりずっと短くなっている。
門を出て少し歩いたところで、ミラが言った。
「今日は、足音が変です」
レオンは横を見た。
「足音にも種類があるのか」
「あります」
「工場で直せるかな」
「レオンさんの足です」
「そうだった」
ミラは鞄を胸の前に抱え直した。
「工場で、怒られましたか」
「怒られてはいない」
「また、紙ですか」
レオンは答えられなかった。
ミラは前を向いている。核心をまっすぐ聞いているようで、まだそこへ踏み込んではいない。レオンが何かを持っていることだけは、分かっているのだろう。
「紙は、いろいろあるからな」
「賞の紙、まだありますか」
「ある」
「曲がってませんか」
「曲げてない」
「棚にありますか」
「ある」
ミラは息をついた。
「じゃあ、今日は帰れます」
レオンは、すぐに返事ができなかった。
帰れる。
昨日までなら、当たり前のように頷けたかもしれない。少なくとも、帰り道でそこまで重く受け止める言葉ではなかった。けれど、工場長室の封筒を見た後では、その一言が胸の奥に引っかかった。
「帰るぞ」
ようやく、それだけ言った。
公営労働者アパートの中庭は、いつも通りだった。
テレーズが洗濯場で水桶を動かし、エリーズが籠を腕にかけ、マノンがミラへ手を振っている。ルルは木の匙を持ったままトトの後ろを追い、トトは追われるほどの義理はないという顔で中庭を横切った。
テレーズがレオンを見る。
「今日は妙な顔してるね」
「俺の顔、毎日忙しいですね」
「今日は特にだよ」
エリーズもこちらを見た。いつものようにすぐ突っ込んでくるかと思ったが、レオンの顔を見て言葉を飲んだ。
「ミラ、手を洗ってから上がりなさい」
エリーズはミラへ声をかけた。
「はい」
ミラは水場へ向かう。レオンはその背中を見た。鞄を胸の前に抱え、外套の襟を自分で直しながら歩いている。最初に施設から連れて帰った時より、歩く速さも、部屋へ戻る道も、ずっとこの場所に馴染んでいる。
その場所へ、別の紙が来ている。
部屋へ戻ると、ミラはまず棚を見た。
賞の紙は、そこにあった。薄板に当てられ、洗濯ばさみで留められたまま、少し傾いた夕方の光を受けている。
「あります」
「あるな」
「家にある紙です」
「そうだな」
レオンは帽子を壁の釘にかけた。外套を脱ぎかけ、途中で手を止める。封筒のことを思い出した。あれも紙だった。けれど、棚に置ける紙ではない。家にあると胸を張れる紙でもない。
ミラは机の近くへ行き、賞の紙を見上げた。
「レオンさん」
「何だ」
「今日は、たぶんが少なかったです」
レオンは賞の紙から目を離せなかった。
「そうか」
「明日も、少ないですか」
すぐには答えられなかった。
明日、ベルナールと会う。ロベールが来るかもしれない。デュラン工場長にも何かを言われる。ミラへ話さなければならないことがある。どの言葉を使えばいいのか、まだ一つも整っていない。
けれど、ミラがこちらを見ている。
分かった顔を急いで作らず、丁寧すぎる頷きにも逃げず、ただレオンの返事を待っている。
レオンは息を吸った。
「少なくする」
ミラは小さく頷いた。
「はい」
その頷きは、丁寧すぎるものではなかった。
外では、夕方の工場の煙が薄く伸びていた。中庭からはテレーズの声と、ルルの木の匙が床を叩く音が聞こえる。
レオンは棚の賞の紙を見た。明日までに、言葉を整えなければならない。
紙に勝つ言葉では足りない。
ミラが、自分のせいだと思わずに済む言葉がいる。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




