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第2話 養子支援施設

終業の警笛が鳴ると、レオンはいつもより早く手袋を外した。


工場の音は、まだ体の中に残っている。台車の車輪、鉄板を置く音、奥の機械の低い唸り。いつもの音なのに、その日はどれも少し遠く聞こえた。


デュラン工場長から渡された案内書は、作業着の内ポケットに入れてある。何度も出し入れしたせいで、端が曲がっていた。


養子支援施設。


紙には住所と、面談の受付時間と、必要な書類の名前が並んでいる。レオンは歩きながらそれをもう一度見た。読んでいるのはほとんど、どこへ行けばいいかと、何を出せばいいかだけだった。


水場で手は洗った。だが、爪の間の油汚れまでは取れない。袖口にも黒い筋が残っている。レオンはそれを親指でこすったが、布に広がるだけだった。


「まあ、洗ってないよりはましだろ」


自分に言い聞かせて、レオンは町外れへ向かった。


施設は、古い学校か修道院を直したような建物だった。灰色の壁には蔦の跡が残り、門の塗装はところどころ剥げている。窓辺には小さなシャツや靴下が干されていた。中庭の土には、細い靴跡がいくつもついている。


レオンは門の前で立ち止まり、作業着の胸元を払った。油の匂いは消えない。


門を押すと、金具が少し軋んだ。


玄関へ向かう途中、建物の扉が内側から開いた。


出てきたのは、小さな女の子だった。


金髪に、青い目。古いが清潔なワンピースを着ている。背はレオンの腰より少し上くらいしかないのに、扉の前でまっすぐ立ち、落ち着いた顔をしていた。


五歳くらいだろうか。


女の子はレオンの作業着を見て、それから顔を見上げた。


「何か御用ですか?」


声まで落ち着いている。


レオンは一瞬、建物の中をのぞいた。近くに大人の姿はない。


この施設は人手が足りないのだろう。五歳くらいの子まで受付に立たせているのか。大変な場所だな、とレオンは素直に思った。


「養子の話を聞きに来たんだけど」


女の子は少しだけ目を動かした。レオンの袖口についた油汚れを見て、靴を見て、最後にもう一度顔を見る。


「分かりました。管理人を呼んできます。中で待っていてください」


「助かる」


レオンは案内された通り、玄関の中へ入った。


入口の床はよく掃かれていたが、古い木の傷までは隠せない。壁際には小さな靴が並び、濡れた外套が数枚掛けられている。奥から子どもの声がしたが、すぐに誰かが静かにと言ったらしく、声は小さくなった。


レオンが帽子を脱いでいると、廊下の奥から中年の男が歩いてきた。


痩せた体に、黒い上着。髪には少し白いものが混じっている。柔らかい顔をしているが、目だけは相手をよく見ていた。


「お待たせしました。管理人のベルナールです」


「あ、レオンです。レオン・メレル。工場で働いてます」


「伺っています。デュラン工場長からも、簡単な連絡がありました」


「工場長、何か余計なこと言ってました?」


「あなたが早まるかもしれない、と」


レオンは帽子を持ったまま、少し口を閉じた。


言い返そうとしたが、言い返せる材料がない。


代わりに、さっきの女の子が消えていった廊下の方を見た。


「さっきの受付の子、ずいぶん若いですね」


ベルナールは、すぐには答えなかった。


怒った顔ではない。だが、その一拍で、レオンは自分が何か変なことを言ったらしいと分かった。


「受付ではありません。入所している子です」


「あ、そうなんですか」


レオンはもう一度、廊下の奥を見た。


受付ではない。


入所している子。


言われてみれば、ここはそういう施設だった。子どもがいるのは当たり前だ。けれど、あまりに落ち着いていたので、レオンはその当たり前を少し横へ置いてしまっていた。


「しっかりしてますね」


取り繕うつもりはなかった。本当にそう思った。


ベルナールは静かに頷いた。


「ええ。しっかりしなくてはいけない子でしたから」


レオンは返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。


その言い方には、ただ褒めているだけではない重さがあった。レオンにも、それくらいは分かる。分かるが、何をどう分かればいいのかまでは届かない。


「こちらへどうぞ」


ベルナールはそれ以上続けず、面談室へ案内した。


部屋は広くない。古い机と書類棚、インク瓶、来客用の椅子が二脚。窓のそばには、子ども用の小さな椅子が置かれていた。棚の端には、片耳を繕われた犬のぬいぐるみが座っている。


レオンは椅子に腰を下ろした。


工場長室とは違う匂いがする。紙と木と、干した布の匂いだ。


ベルナールは向かいに座り、書類を開いた。


「まず、養子を迎えたい理由を聞かせてください」


レオンは背筋を伸ばした。


ここは大事だ。工場長にも、話だけ聞け、すぐ決めるな、と言われている。相手は役所ではないが、たぶん役所に近い種類の人間だ。いい加減なことを言えば、書類が進まないかもしれない。


そう考えた結果、レオンは正直に言うことにした。


「保護責任があると、役所の手続きが止まるかもしれないと聞きました」


ベルナールはペンを置いた。


「つまり、ご自分のために子どもを迎えると」


「子どものためにもなります。たぶん」


言ってから、レオンはまずいと思った。


たぶん、は余計だった。


ベルナールの声は変わらない。


「たぶん、で家に入れられる子どもは多くありません」


「今のは、言い方を間違えました」


「では、言い直してください」


レオンは少し考えた。


自分がこの国に残りたいのは本当だ。だが、子どもを迎えれば、その子にも家ができる。それも本当のはずだった。嘘ではない。


「俺は、この国に残りたいです」


ベルナールは黙って聞いている。


「でも、施設にいる子が家に来るなら、その子も施設を出られます。俺は金持ちじゃないですけど、働いてます。飯は用意できます。部屋は……狭いですけど、何とかします」


「何とかします、は便利な言葉です」


「便利だから使いました」


ベルナールの眉が少しだけ動いた。


怒らせたのかと思って、レオンは慌てて続けた。


「いや、逃げるつもりじゃなくて。今すぐ全部立派にそろってるわけじゃないです。でも、そろえないといけないものなら、そろえます」


「その必要があると分かっているなら、話は続けられます」


レオンは少しだけ息をついた。


ベルナールは書類に視線を落とした。


「養子縁組は、子どもが十八になるまでの生活を引き受けるものです。もちろん事情によって後見や支援の形は変わりますが、あなたの都合で簡単に終わらせるものではありません」


「十八まで面倒を見るんですよね」


「原則は、そうです」


「五歳なら……十三年か」


ベルナールの視線が上がった。


「長いと思う方には、おすすめしません」


「あ、いや、違います。長いとかじゃなくて」


レオンは背筋を伸ばした。


今のままだと、完全に悪い方向へ聞こえた。ここは何か、まともなことを言わなければならない。


「一緒に過ごせる時間が十三年もあると思うと、考え深くて」


「感慨深い、ですか」


「それです」


レオンは真面目に頷いた。


ベルナールはしばらく何も言わなかった。


沈黙が長くなるほど、レオンは自分の言葉がどこまで間違っていたのか不安になった。感慨深い、なら合っているはずだ。少なくとも、考え深いよりは合っている。だが、そういう問題ではない気もしてきた。


ベルナールはペンを取り直した。


「どんな子を希望していますか」


「どんな子」


「年齢、性格、生活上の希望などです。すべて希望通りになるものではありませんが、確認はします」


レオンは考えた。


自分の部屋は狭い。寝台は一つで、椅子も一つしかない。朝は早い。工場の警笛が鳴る前に起きなければならない。洗濯も食事も、今までは自分一人の分だけで済んでいた。


子どもが来るなら、いろいろ増える。


それを考えた時、最初に浮かんだ言葉がそのまま口から出た。


「手のかからない子、ですかね」


ベルナールの目が少し細くなった。


レオンはすぐに、自分がまた何かを踏んだと分かった。


「いや、元気で明るい真面目な子がいいです」


「最初の言葉は消えません」


レオンは帽子を握り直した。


「書類には書きませんが、私は覚えておきます」


消えない言葉が多い日だ。名簿の名前も消えないし、面談での失敗も消えない。


ベルナールは書類へ目を戻した。


「手がかからない子どもはいません。大人の前でそう見せる子はいますが」


その言葉で、レオンはさっきの女の子を思い出した。


何か御用ですか、と落ち着いて聞いた子。


受付だと思うくらい、しっかりしていた子。


「さっきの子も、そうですか」


ベルナールは答えず、立ち上がった。


「少し、子どもたちの様子を見ますか」


レオンも立ち上がった。


廊下を進むと、中庭に面した部屋へ出た。扉は開いていて、中には数人の子どもがいた。積み木を並べている子、布の人形を抱いている子、椅子に座って足をぶらぶらさせている子。大きい子が小さい子に何かを渡し、隅では職員らしい女がほつれた袖を繕っている。


さっきの女の子もいた。


ミラ、と誰かが呼んだ。


女の子は小さい男の子に木の犬を渡していた。渡し方は丁寧だったが、手を離した後も、木の犬がどこへ行くか少しだけ目で追っている。男の子が床へ落としそうになると、すぐ手を出しかけた。けれど、職員の足音が近づくと、その手を膝の上へ戻し、背筋を伸ばした。


レオンには、それが大人しくて聞き分けのいい子に見えた。


ベルナールには、違うものが見えているようだった。


「さっきの子、やっぱりしっかりしてますね」


「五歳です」


短い返事だった。


レオンは中庭の方を見たまま、少し言葉を探した。


「五歳にしては、しっかりしてます」


ベルナールはミラから目を離さなかった。


「五歳の子が、そう見せなくてはいけない場所だったということです」


レオンは口を閉じた。


部屋の中では、ミラが木の犬を拾って、小さい男の子の膝へ戻していた。男の子が笑うと、ミラも少しだけ口元をゆるめる。だが、廊下にいるレオンたちに気づくと、すぐに静かな顔へ戻った。


レオンはその変化を見た。


見たが、意味まではつかみきれなかった。


「彼女と、話をしてみたいです」


ベルナールがレオンを見た。


「彼女は受付ではありません」


「分かってます。入所している子ですよね」


「それが分かっているなら、次は五歳だということも忘れないでください」


レオンは返事に困った。


忘れていたつもりはなかった。だが、受付だと思った時点で、忘れていたのと同じなのかもしれない。


「……気をつけます」


「気をつけるだけでは足りないこともあります」


「じゃあ、覚えます」


ベルナールは少しだけ目を細めた。


「それなら、話をしてみましょう」


ベルナールは部屋の入口に立ち、静かに声をかけた。


「ミラ」


女の子が顔を上げた。


「こちらへ」


ミラは木の犬を男の子の横へ置き、ワンピースの裾を軽く整えてから歩いてきた。走らない。急がない。けれど、待たせすぎもしない。レオンはその歩き方を見て、また感心しそうになり、さっきのベルナールの言葉を思い出して黙った。


ミラはベルナールの隣に立った。


「こちらはレオンさんです」


「こんにちは」


ミラは丁寧に頭を下げた。


「こんにちは」


レオンは帽子を持ったまま、少しぎこちなく笑った。


「さっきはどうも。受付じゃなかったんだな」


ミラは少し首を傾げた。


「受付だったら、名前を書く紙を出します」


「ああ、そうか。受付ってそういうこともするよな」


「あと、待っている人に椅子をすすめます」


「椅子か。俺、立って待ってたな」


「はい」


ミラはそこで口を閉じた。


必要なことだけを言い、余計なことは言わない。レオンはまた、しっかりしている、と言いかけたが、ベルナールが隣にいるので飲み込んだ。


ベルナールはミラへ目を向けた。


「レオンさんは、養子の話を聞きに来ました」


「はい」


「あなたと、少し話をしてみたいそうです」


ミラはレオンを見た。


レオンの袖口には油の黒い筋が残っている。靴のつま先は古く、帽子の縁は少し曲がっている。レオンはその視線に気づいて、慌てて帽子の形を直した。


「工場帰りだから、ちょっと汚れてるけど」


「ちょっとですか?」


レオンは自分の袖を見た。


油の跡は、ちょっとではなかった。


「かなり、かもしれない」


ミラは袖口を見て、少しだけ頷いた。


「はい」


ベルナールが咳払いをした。叱るためではなく、話が横へずれすぎないように戻すためだった。


レオンは背筋を伸ばした。


「ええと、ミラ、でいいのか」


「はい」


「俺はレオン。工場で働いてる。車を作る工場だ」


「車を作れるんですか?」


「全部は無理だな。俺がやってるのは、流れてくる部品を置いたり、渡したり、間違えないようにしたり」


「車は、置くとできるんですか?」


「置くだけじゃできない。俺以外の人がもっと難しいことをしてる」


ミラは少し考える顔をした。


「じゃあ、レオンさんは、車の少しですか」


「車の少し」


レオンはその言い方に少し笑った。


「まあ、そうだな。俺は車の少しを作ってる」


ミラは真面目に頷いた。


「分かりました」


何が分かったのか、レオンには分からなかった。けれど、ミラの返事はきちんとしていて、からかっている感じはない。


ベルナールが静かに言った。


「ミラ、レオンさんの話を聞いてみますか」


ミラはすぐには答えなかった。


レオンを見る。次に、ベルナールを見る。もう一度、レオンの手を見る。油は洗っても残っている。指先には細かい傷があった。


レオンは、なぜ手を見られているのか分からず、指を少し丸めた。


「手、怖いか?」


ミラは首を横に振った。


「黒いです」


「ああ。油だ。洗ったんだけど、落ちなかった」


「落ちないものなんですか?」


「落ちる時もある。今日は急いだから、あんまり落ちなかった」


「急いで来たんですか?」


「まあ、早い方がいいと思って」


ミラはそこでは頷かなかった。


その代わり、ベルナールの顔を見た。


ベルナールは、急かさなかった。


部屋の中から、小さい男の子が木の犬を床に落とす音がした。ミラの目が一瞬そちらへ動く。けれど、足は動かさない。自分が今、ここで返事をする番だと分かっているようだった。


少しして、ミラは丁寧に言った。


「はい。聞きます」


レオンは胸の奥で、固まっていたものが少しゆるむのを感じた。


話を聞いてくれる。


それはつまり、手続きが一歩進むということだ。レオンはそう受け取った。


「ありがとう」


レオンが言うと、ミラはまた小さく頭を下げた。


「まだ、聞くだけです」


ベルナールが静かに言った。


レオンは頷いた。


「分かってます。聞くだけ」


ベルナールは面談室へ戻るため、扉を開けた。


レオンは先に入ろうとして、ふと振り返った。ミラはまだ、廊下の端に立っている。小さな手はワンピースの前で重ねられていて、顔は大人しく見える。


子ども用の椅子をすすめられても、ミラはすぐには深く座らなかった。


椅子の縁に浅く腰かけ、いつでも立てるような姿勢のまま、レオンを見ていた。


読んでくださり、ありがとうございます。全十話程度を予定しています。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。

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