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第1話 名簿にあった名前

戦後三年の架空国を舞台にした、若い工員と小さな女の子の同居生活の話です。

重い事情もありますが、中心は二人の日常と関係の変化です。

全十話ほどの短めの連載予定です。よろしくお願いします。

朝の工場は、油の匂いと鉄を打つ音でいっぱいだった。


レオンは流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置いた。次の部品が来る。手を伸ばす。置く。油で黒くなった指先を作業着でぬぐう間もなく、また次が来る。


戦争が終わって三年になる。


工場には、片腕で器用に部品を押さえる男も、足を引きずりながら台車を押す男もいた。レオンは戦争に行っていない。戦争中はまだ子どもで、せいぜい配給の列に並び、年上の工員たちの背中を見上げていただけだ。


それでも、毎朝鳴る警笛と、煙突から上がる白い煙と、油の匂いは、レオンにとって自分の暮らしそのものだった。


「レオン」


横から声をかけられ、レオンは部品を置いた手を止めた。


年上の工員が顎で事務棟の方を示す。


「工場長が呼んでるぞ」


「俺、また何か壊しました?」


「壊してたら、もっと騒ぎになってる」


「じゃあ給金が上がる話か」


「その顔で行ったら下げられるぞ」


周りの男たちが笑った。レオンも笑い返し、手袋を外して事務棟へ向かった。


デュラン工場長の部屋は、現場とは匂いが違った。


油ではなく、紙と煙草と、少し古い木の匂いがする。壁には時計があり、机の上には束ねられた書類と、役所の印が押された封筒が置かれていた。


デュラン工場長は、いつものように椅子の背にもたれていなかった。机の前に立ち、封筒を指で押さえている。


「座れ、レオン」


「本当に何か壊しました?」


「壊した話なら、現場で怒鳴って終わりだ」


「じゃあ、怒鳴られない話ですか」


「怒鳴るより面倒な話だ」


レオンは椅子に座った。工場長がそう言う時は、たいてい役所か税金か、誰かの親戚がまた働き口を頼みに来た時だった。


デュラン工場長は封筒から一枚の紙を取り出した。


「移民局から調査が来ている」


「移民局?」


「工場で働いている者の中に、永住権のない移民、手続きが途切れている者がいないか調べている。戦争が終わって、あちこちの名簿を整理しているらしい」


「へえ」


レオンは他人事のように返した。工場にはいろいろな土地から来た者がいる。戦争前に移ってきた者、戦争中に逃げてきた者、戦争が終わってから家を失って流れてきた者。そういう話なら、珍しくはない。


デュラン工場長は、紙を机の上に置いた。


「この中に、お前の名前がある」


レオンは笑いかけて、途中でやめた。


「俺の?」


「そうだ」


「同じ名前の誰かじゃなくて?」


「年齢、住所、勤務先。全部お前だ」


レオンは机の上の紙をのぞき込んだ。名前があった。何度見ても、自分の名前だった。見慣れたつづりなのに、役所の紙の中にあるだけで、他人の名前のように見える。


「でも、俺はここで育ったんですけど」


自分でも、少し間の抜けた声だと思った。


デュラン工場長は、強くも弱くもない声で言った。


「育った場所と、役所の紙に書いてある場所は違う」


レオンは口を閉じた。


工場長は続けた。


「記録では、お前は幼い頃に両親と入国している。両親は永住の手続きを進めていたが、途中で止まっている。二人とも亡くなった後、誰も続きを出していない」


「俺、市民じゃないんですか」


「お前がそう思っていたのは知っている。俺も、正直そうだと思っていた。だが移民局の記録では違う」


「違うって、何がですか」


「書類上は、永住権のない移民の子だ。送還対象の名簿に入っている」


送還。


その言葉だけが、部屋の中で変に大きく聞こえた。


レオンは窓の方を見た。工場の煙突が見える。朝からずっと鳴っていた機械の音が、窓一枚を挟んで少し鈍くなっている。


帰る国、と言われても、レオンには家の形が浮かばなかった。


浮かんだのは、公営労働者アパートの共同廊下に干された洗濯物と、雨の日に油の匂いが濃くなる工場の門と、朝になると腹に響く警笛の音だった。両親に連れられて来たという土地のことは、地図の端にある名前としてしか知らない。


「俺、そっちの言葉なんて、挨拶くらいしか分かりませんよ」


「移民局が気にするのは、そこじゃない」


「じゃあ、何を気にしてるんですか」


「紙だ」


デュラン工場長は短く答えた。


レオンは、机の上の名簿を見た。薄い紙一枚に、自分の居場所が負けている気がした。


「戦争に出ていれば、恩赦の対象になった者もいる。だが、お前は当時まだ子どもだった」


「子どもで悪かったですね」


「悪くはない。だが、役所の手続きでは助けにならん」


「工場で働いてる証明は?」


「出す。もちろん出す。だが雇用証明だけでは弱い。永住を認める理由としては足りないと言われる可能性が高い」


レオンは椅子の上で少し前のめりになった。


「じゃあ、何なら強いんですか」


デュラン工場長は机の端に置いた灰皿を少し横へずらした。言いにくい話をする時の癖だった。


「家族関係や、保護責任があれば、送還の手続きが一時的に止まることはある」


「家族」


「配偶者や、扶養している子どもだ」


レオンは自分の膝を見た。


配偶者。扶養している子ども。


どちらも、朝の工場で油まみれになっていた自分とは、かなり遠い言葉だった。


デュラン工場長は、重くなった空気をごまかすように鼻を鳴らした。


「まあ、嫁を取るか、養子でも取ったらどうだ」


冗談だった。


少なくとも、デュラン工場長の顔はそう言っていた。あまりに困った話を、少し乱暴な軽口で流そうとしただけだ。


だが、レオンはそこで止まった。


「その手があったか」


デュラン工場長の目が細くなった。


「待て」


「養子なら、保護責任ですよね」


「待てと言っている」


「嫁は無理です」


「そっちの話もしていない」


「急に頼んで来てくれる人間なんて、借金取りくらいしかいませんし」


「お前は結婚を何だと思ってる」


「今は役所を止める方法の話ですよね」


デュラン工場長は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。


「だから、その考え方が危ないと言っている」


レオンは首をかしげた。


危ない。


どこが危ないのか、すぐには分からなかった。送還される方がよほど危ない。住んだ覚えのない国へ戻され、言葉もろくに分からず、工場もアパートも失う。それに比べれば、養子という手続きに道があるなら、そちらへ進むしかないように思えた。


「養子支援施設ってありますよね」


「ある」


「戦争で親をなくした子を、家に迎える制度ですよね」


「制度の名前だけ覚えていても駄目だ」


「でも、保護者になれば、俺の送還手続きは止まるかもしれない」


「かもしれない、だ。確実じゃない」


「何もしないよりはいいです」


デュラン工場長は机を指で叩いた。怒っているというより、どう止めればいいか考えている顔だった。


「養子は道具じゃないぞ」


レオンは真面目に頷いた。


「分かってます。子どもですよね」


デュラン工場長は返事をしなかった。


沈黙が落ちた後、レオンは自分が何か足りないことを言ったらしいと気づいた。けれど、何が足りないのかまでは分からない。


「子どもは、飯を食うし、寝る場所もいる。お前の部屋に椅子が一つ増える話じゃないぞ」


「飯と寝る場所なら、何とかします」


「何とかします、で済む話じゃない」


「でも、何とかしないと俺が済みません」


デュラン工場長は額に手を当てた。


「お前は時々、言い方だけは正しい方向へ行くな」


「褒めてます?」


「褒めていない」


レオンは少しだけ肩を落としたが、すぐに名簿へ視線を戻した。


紙の上にある自分の名前は、消えない。


工場で働いていることも、朝の警笛を知っていることも、この街の雨の匂いを覚えていることも、その紙には書かれていなかった。なら、別の紙で止めるしかない。


レオンは椅子から立ち上がった。


「養子支援施設の場所、分かりますか」


「本気か」


「本気です」


「今日行く気か」


「早い方がいいですよね。役所は待ってくれないんでしょう」


デュラン工場長は、しばらくレオンを見ていた。止める言葉を探しているようだったが、最後には机の引き出しを開け、古い案内書を一枚取り出した。


「行くなら、話だけ聞け。すぐ決めるな。相手は子どもだ。お前の送還を止めるための重しじゃない」


「そのつもりです」


「そのつもりの顔でもない」


「じゃあ、そのつもりの顔で行きます」


「顔の問題じゃない」


レオンは案内書を受け取った。紙の端は少し黄ばんでいて、施設の住所と、役所へ提出する書類の名前が並んでいる。


そこに書かれた文字を見た瞬間、レオンの中で、送還という言葉が少し遠のいた。


道がある。


そう思ってしまった。


それがどんな道なのか、そこに誰がいるのか、何を背負うことになるのかは、まだ考えていなかった。


工場長室を出ると、現場の音が一気に戻ってきた。鉄を打つ音。台車の車輪。誰かの笑い声。朝から何も変わっていないはずなのに、レオンには少しだけ違って聞こえた。


それでも、足は止まらなかった。


レオンはその日、自分の人生に子どもが入ってくることを、まだ手続きの一つだと思っていた。



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