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拾われたのは俺の方だった  作者: Aramaki_mai
第二章 家の人になる日々
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18/23

第18話 十一月十一日

挿絵(By みてみん)

十一月十一日の朝、工場の警笛はいつも通り鳴った。


窓ガラスが細く震え、遠くの煙突から白い煙が上がり始める。床の上で古い外套にくるまっていたレオンは、片目だけ開けた。共同廊下から聞こえる足音も、扉の開け閉めも、いつもの朝より少し低い。


寝台では、ミラが毛布を胸まで掛けたまま起きていた。


見ているのは、机の端に置かれた小さな紙だった。昨日の夕方、公営労働者アパートの掲示板に貼られていた町の知らせを、レオンが部屋へ戻ってから写したものだ。ミラにはまだ読めない。けれど、「十一月十一日」「共同墓碑」「黙祷」という言葉がそこにあることだけは、昨夜レオンが指で示した。


「今日は、町が黙る日ですか」


レオンは外套を肩からはがしながら答えた。


「少しだけな」


学校も、今日は町の黙祷に合わせる日だった。


「工場も?」


「少しは黙る。警笛は朝だけ仕事をしたんだろ」


「働き者です」


「俺より評価が高いな」


ミラは紙を見たまま、すぐには笑わなかった。


レオンは体を起こし、寝台の脚に頭をぶつけないよう首を引いた。最近は、その動きだけ少しうまくなった。床で寝ることに慣れたというより、ぶつける場所を覚えただけだ。


「紙に、墓地ってありますか」


「ある。学校の帰りに寄る」


「誰の墓地ですか」


「俺の親の名前があるところだ」


親、という言葉に、ミラはすぐ踏み込まなかった。青い目が一度だけレオンを見て、それから紙へ戻る。


「名前だけですか」


「名前だけだな。墓も、うちだけのじゃない」


「名前は、ありますか」


「ある」


ミラはそれ以上聞かなかった。ただ、朝食のパンを小さくちぎり、皿の上に置いた。食べるまでに、いつもより少し時間がかかった。


身支度を終えて中庭へ下りると、掲示板の前に何人かの住民が集まっていた。


紙は昨日より少し湿って、端が板から浮きかけている。大きな字で十一月十一日の追悼と、共同墓碑への献花、正午前の黙祷について書かれていた。テレーズは水桶を足元に置き、腕を組んで紙を見ている。エリーズは籠を腕にかけたまま、いつもより声を落としていた。


掲示板の横には、片腕のヴィクトルが立っていた。


いつもなら朝から煙草をくわえているのに、今日は箱から出しかけただけで、結局しまっている。


ミラは掲示板を見上げた。


「これが、町が黙る紙ですか」


ヴィクトルがミラを見た。片方だけの手で帽子の縁を押さえる。


「今日は、騒ぐ日じゃないからな」


「怒られる日ですか」


「怒られる日じゃない。忘れてないか、確かめる日だ」


「忘れたら、戻れませんか」


ヴィクトルはすぐには答えなかった。煙草をしまったポケットを、何も持っていない手つきで少し押さえる。


「戻れないものもある」


ミラは掲示板を見たまま、丁寧には頷かなかった。


レオンは帽子をかぶり直す。


「朝から難しい話を出すなよ、ヴィクトルさん」


「聞いたのはミラだ」


「俺が答えに詰まるでしょう」


「たまには詰まっとけ」


テレーズが水桶を持ち上げながら言った。


「今日はあんたも余計なことを言いすぎないんだよ」


「工場で黙る時間があるらしいので、そこでまとめて黙ります」


「黙祷を節約に使うんじゃないよ」


エリーズが小さく息を吐いた。笑いかけて、今日は口元にしまった。


「ミラ、学校が終わったら、レオンと一緒に帰るのよ」


「墓地へ行きます」


「うん。寒くなる前に戻っておいで」


ミラは小さく頭を下げた。


レオンはミラを市立初等校へ送り届けてから、工場へ向かった。


門の前では、ルノー先生が子どもたちを順に中へ入れていた。今日は町の黙祷に合わせて、授業もいつもより短い。迎えはいつもより少し早く、と先生は短く伝えた。レオンは分かった顔で頷いたが、ルノー先生に「分かった顔より、時計を見てください」と言われ、帽子の縁を押さえた。


ミラは教室へ入る前に、レオンを見上げた。


「墓地は、逃げませんか」


「逃げない。俺も工場からちゃんと出てくる」


「紙がなくても?」


「紙がなくても行く」


ミラは短く頷いた。丁寧すぎる頷きではなかったので、レオンは息をつけた。


工場は、いつも通り油の匂いで満ちていた。


鉄板を置く音、台車の車輪、奥の機械の低い唸り。レオンは流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置いた。手は動いている。けれど、頭の中には朝の掲示板と、机の紙と、ミラの「名前だけですか」という声が残っていた。


ロイが隣から声をかける。


「今日は静かな顔してるな」


「顔に音が出るのか」


「いつもは少しうるさい」


「俺の顔まで工場扱いするな」


ロイは笑いかけて、すぐに作業場の奥を見た。


デュラン工場長がいつもより早く現場へ出てきていた。手には時計を持っている。工場長が時計を持って現場に立つと、工員たちは自然と声を落とした。


「正午前に作業を止める」


デュラン工場長の声が、機械の音の間を通った。


「黙祷の間、機械も止める。持ち場の安全を確認してから手を離せ。慌てるな」


レオンは小さく手を上げた。


「機械も黙るんですか」


「人間が先だ」


「機械は、止めれば黙ります」


「お前は止めても余計なことを言いそうだな」


ロイが横で肩を揺らした。レオンは口を閉じる。今日はテレーズにも言われている。余計なことは、まとめて黙る日だ。


時刻になると、工場の音が一つずつ消えていった。


奥の機械の唸りが止まり、台車の車輪が止まり、鉄板を置く音が止まる。いつもは耳の奥まで入り込んでいる工場の音がなくなると、作業場は急に広くなったように感じられた。


油の匂いだけが残っている。


レオンは手袋をはめたまま、黙って立った。周りの男たちも帽子を取ったり、目を伏せたりしている。片足を引きずる男が壁に肩を預け、片腕の工員が棚の前で顎を下げた。


レオンは、自分の親の顔をはっきりとは覚えていない。


覚えているのは、声の切れ端と、寒い日に握られた手の温度と、古い部屋にあった薄い布の匂いくらいだ。けれど、共同墓碑には名前がある。レオンが子どもの頃に誰かに連れられて見に行き、それから何度か一人でも見に行った名前だった。


名前だけですか。


朝のミラの声が、機械の止まった工場の中で、やけに小さく戻ってくる。


名前だけだ。


でも、その名前がなければ、自分はどこへ行けばいいかも分からなかったかもしれない。


黙祷が終わると、デュラン工場長が時計をしまった。


「作業に戻れ。慌てるな。止めた機械は、順番に動かせ」


機械がまた一つずつ唸り始めた。


工場の音が戻ってくる。鉄と油と声が戻ってくる。レオンも部品を受け取り、棚へ置いた。だが、黙っていた時間の名残だけは、爪の間の油汚れのように少し残った。


その日の午後、レオンは時間通りに市立初等校へ着いた。


門の前は、いつもより早い迎えで少し混んでいる。子どもたちは鞄を抱え、大人たちは掲示板や時計を見ながら、それぞれの家へ帰る支度をしていた。


ミラは教室の入口から出てきた。


鞄を胸の前に抱え、レオンを見ると小さく頭を下げてから歩いてくる。走らない。けれど、立ち上がるのも歩き出すのも、最初の頃より少し早くなっていた。


「学校も、黙りました」


「先生も?」


「はい」


「ジュールも?」


「少しだけ」


「それは町の力が強いな」


ミラの口元がゆるんだが、すぐに鞄を持ち直した。


「墓地へ行きますか」


「行く」


「紙がなくても?」


「紙がなくても覚えてる」


ミラは短く頷いた。


共同墓碑は、町の広場から少し奥へ入った場所にあった。


高い石碑ではない。町の大人なら見上げずに読めるくらいの高さで、表面にはいくつもの名前が刻まれている。新しい花は少なかったが、古いリボンや小さな紙片が置かれ、石碑の端には誰かが置いた小石がいくつも並んでいた。


周りには、帽子を取って立つ男、手を合わせる女、子どもの手を引いた老人がいる。大声で話す者はいない。風が吹くたび、花の紙包みだけが乾いた音を立てた。


レオンは石碑の前に立ち、少し時間をかけて名前を探した。


文字は多い。ミラには読めない。レオンも、こういう場所の文字は、工場の伝票よりずっと読みにくいと思う。けれど、何度か来た場所だったので、探す場所は覚えていた。


「ここだ」


レオンは石碑の一角を指で示した。


ミラは背伸びをして、その指先を見る。


「レオンさんの名前ではありません」


「俺の親の名前だ」


「同じ名前ですか」


「少しな。こっちが父親で、こっちが母親」


「二つあります」


「二人いたからな」


ミラは石碑を見上げた。読めない文字を、形として追っているようだった。


「ここに、いますか」


レオンはすぐには答えられなかった。


ここは墓ではない。レオンの親だけの場所でもない。骨があるのかどうかも、自分はよく知らない。町の人間が名前を刻み、十一月十一日になると花を置きに来る場所だ。


「名前がある」


レオンはそう答えた。


ミラはすぐには頷かなかった。


「名前だけでも、見に来ますか」


風が一度、石碑の前を通った。古い花の紙が、かすかにこすれる。


レオンは帽子の縁を押さえた。


いいことを言おうとすると、たいてい間違える。ベルナールにも、ルノー先生にも、エリーズにも、それは何度も証明されている。だから少し考えた。考えて、それでも、あまり立派な言葉は出てこなかった。


「名前だけだから、来るんだろうな」


「どうして?」


「ほかに置く場所がない時もある」


ミラは石碑を見たまま、動かなかった。


レオンは言い足した。


「でも、名前があると、見つけやすい」


ミラの指が、鞄の取っ手を握った。


「読める人がいないと、名前は困りますか」


「困るな」


「じゃあ、読みに来る人がいる方がいいです」


「そうだな」


ミラは石碑の文字を見ていた。


自分の親のことは言わなかった。戦争のことも、施設のことも言わなかった。ただ、読めない名前の並んだ石の前で、小さな靴をそろえて立っていた。


レオンはそこで、花を買っていないことに気づいた。


「花、買ってないな」


「必要ですか」


「あると、それらしくなる」


「名前を見るだけでは、だめですか」


「だめじゃない」


ミラは足元を見た。石碑の端に、小さな石がいくつか並んでいる。誰が置いたものかは分からない。大きさも形もばらばらで、花のようにきれいではない。けれど、ただの地面から拾われたものではなく、誰かがそこへ置いたものに見えた。


ミラはしゃがみ、小さな丸い石を一つ拾った。


「これは、置いても怒られませんか」


レオンは周りを見た。誰もこちらを咎めていない。石碑の端には、すでにいくつも小石がある。


「置いていい」


「ここですか」


「名前の上じゃなければ、大丈夫だと思う」


ミラは石碑の端に、そっと小石を置いた。


小さな石は、そこに置かれても大きな音を立てなかった。ただ、他の石の隣に並んで、自分のぶんの場所を取った。


「これも、名前ですか」


「いや。これは石だな」


「石だけですか」


「来たしるしにはなる」


ミラはその言葉を聞いて、石をもう一度見た。


それから、レオンが指で示した二つの名前へ目を戻した。読めない文字を、覚えるようにじっと見ている。読めないのに覚えようとする顔だった。


帰り道、町の空は少しずつ夕方へ傾いていた。


広場を抜けると、通りにはいつもの匂いが戻ってくる。パン屋の焼けた匂い、馬車の車輪が石畳をこする音、遠くから聞こえる工場帰りの男たちの声。町はもう黙っていない。それでも、朝とは違う静けさが少し残っていた。


ミラはしばらく黙って歩いた。


レオンは歩幅を落とした。前ほど意識しなくても、足が勝手に少し遅くなる。


「石は、紙より消えにくいですか」


「石だからな。すぐには消えない」


「でも、読みに来る人がいないと困ります」


「そこは、紙も石も同じかもな」


ミラは少し考えた。


「声もですか」


「声は、誰かが覚えてたら残る」


レオンは言ってから、自分で少し驚いた。今日の自分にしては、まともなことを言った気がした。


ミラが横から見上げる。


「今の、先生に直されますか」


「たぶん、少し褒められる」


「少しですか」


「かなり褒められると怖い」


ミラはかすかに笑った。


公営労働者アパートへ戻ると、中庭ではテレーズが洗濯場の水を片づけていた。エリーズは籠を抱え、マノンとルルがトトの尻尾を追いかけるのを見ている。いつもの夕方の音と匂いが、共同廊下から流れてきた。


テレーズがミラを見て、声を少し落とした。


「行ってきたかい」


「はい」


「寒くなかった?」


「少しだけです」


「少しなら、上出来だね。レオン、余計なことは言わなかっただろうね」


「かなり選びました」


「選んでそれなら、明日はもっと減らしな」


「まだ何も聞いてないのに厳しい」


エリーズがレオンの顔を見た。


「ちゃんと行けたのね」


「行けた」


「花は?」


「忘れた」


「でしょうね」


「石を置いた」


エリーズはミラへ目を向けた。ミラは小さく頷く。


「置いても怒られませんでした」


「なら、よかった」


エリーズはそれ以上、詳しく聞かなかった。テレーズも、ヴィクトルのように重いことは言わなかった。ただ、ミラの外套の襟を少し直してから、部屋で温まるようにと言った。


三階の部屋へ戻ると、窓の外では工場の煙突が夕方の煙を吐いていた。


レオンは黒い鍋に残りの豆のスープを移し、火にかけた。硬いパンを二つに割り、机の上に置く。ミラは鞄を壁際に置いてから、朝と同じように机の端の紙を見た。


十一月十一日。共同墓碑。黙祷。


レオンが写した文字は、少し曲がっている。急いで書いたせいで、ところどころ線が強すぎた。


「これは、もういりませんか」


「掲示板の紙は、明日には外れるかもしれないな」


「この紙も?」


「残してもいい」


「名前があるから?」


「今日行った場所を忘れないためだ」


ミラは紙を畳まなかった。机の端から、皿一枚ぶん奥へ置き直す。スープをこぼしても届かない場所だった。


レオンはその手元を見ていた。


「レオンさんの名前も、今度書きますか」


「俺の名前か」


「はい。レオンさんの名前です」


「まだ曲がるぞ」


「名前は、曲がっても読めますか」


「読めれば勝ちだ」


「じゃあ、今度、書きます」


レオンは少し笑った。


「俺の名前は長くないからな。たぶん勝てる」


「たぶんは、少なくしてください」


「今日はそれ、二回目だな」


「今日は、そういう日です」


スープが小さく煮え、黒い鍋の縁で湯気が上がった。外では誰かが共同廊下を歩き、遠くでトトが短く吠えた。町はもう黙っていない。工場も、アパートも、いつもの音へ戻っている。


その音の中で、朝に写した紙は、皿一枚ぶん奥に残っていた。


読んでくださり、ありがとうございます。

レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。

よろしければ、最後までお付き合いください。


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