第18話 十一月十一日
十一月十一日の朝、工場の警笛はいつも通り鳴った。
窓ガラスが細く震え、遠くの煙突から白い煙が上がり始める。床の上で古い外套にくるまっていたレオンは、片目だけ開けた。共同廊下から聞こえる足音も、扉の開け閉めも、いつもの朝より少し低い。
寝台では、ミラが毛布を胸まで掛けたまま起きていた。
見ているのは、机の端に置かれた小さな紙だった。昨日の夕方、公営労働者アパートの掲示板に貼られていた町の知らせを、レオンが部屋へ戻ってから写したものだ。ミラにはまだ読めない。けれど、「十一月十一日」「共同墓碑」「黙祷」という言葉がそこにあることだけは、昨夜レオンが指で示した。
「今日は、町が黙る日ですか」
レオンは外套を肩からはがしながら答えた。
「少しだけな」
学校も、今日は町の黙祷に合わせる日だった。
「工場も?」
「少しは黙る。警笛は朝だけ仕事をしたんだろ」
「働き者です」
「俺より評価が高いな」
ミラは紙を見たまま、すぐには笑わなかった。
レオンは体を起こし、寝台の脚に頭をぶつけないよう首を引いた。最近は、その動きだけ少しうまくなった。床で寝ることに慣れたというより、ぶつける場所を覚えただけだ。
「紙に、墓地ってありますか」
「ある。学校の帰りに寄る」
「誰の墓地ですか」
「俺の親の名前があるところだ」
親、という言葉に、ミラはすぐ踏み込まなかった。青い目が一度だけレオンを見て、それから紙へ戻る。
「名前だけですか」
「名前だけだな。墓も、うちだけのじゃない」
「名前は、ありますか」
「ある」
ミラはそれ以上聞かなかった。ただ、朝食のパンを小さくちぎり、皿の上に置いた。食べるまでに、いつもより少し時間がかかった。
身支度を終えて中庭へ下りると、掲示板の前に何人かの住民が集まっていた。
紙は昨日より少し湿って、端が板から浮きかけている。大きな字で十一月十一日の追悼と、共同墓碑への献花、正午前の黙祷について書かれていた。テレーズは水桶を足元に置き、腕を組んで紙を見ている。エリーズは籠を腕にかけたまま、いつもより声を落としていた。
掲示板の横には、片腕のヴィクトルが立っていた。
いつもなら朝から煙草をくわえているのに、今日は箱から出しかけただけで、結局しまっている。
ミラは掲示板を見上げた。
「これが、町が黙る紙ですか」
ヴィクトルがミラを見た。片方だけの手で帽子の縁を押さえる。
「今日は、騒ぐ日じゃないからな」
「怒られる日ですか」
「怒られる日じゃない。忘れてないか、確かめる日だ」
「忘れたら、戻れませんか」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。煙草をしまったポケットを、何も持っていない手つきで少し押さえる。
「戻れないものもある」
ミラは掲示板を見たまま、丁寧には頷かなかった。
レオンは帽子をかぶり直す。
「朝から難しい話を出すなよ、ヴィクトルさん」
「聞いたのはミラだ」
「俺が答えに詰まるでしょう」
「たまには詰まっとけ」
テレーズが水桶を持ち上げながら言った。
「今日はあんたも余計なことを言いすぎないんだよ」
「工場で黙る時間があるらしいので、そこでまとめて黙ります」
「黙祷を節約に使うんじゃないよ」
エリーズが小さく息を吐いた。笑いかけて、今日は口元にしまった。
「ミラ、学校が終わったら、レオンと一緒に帰るのよ」
「墓地へ行きます」
「うん。寒くなる前に戻っておいで」
ミラは小さく頭を下げた。
レオンはミラを市立初等校へ送り届けてから、工場へ向かった。
門の前では、ルノー先生が子どもたちを順に中へ入れていた。今日は町の黙祷に合わせて、授業もいつもより短い。迎えはいつもより少し早く、と先生は短く伝えた。レオンは分かった顔で頷いたが、ルノー先生に「分かった顔より、時計を見てください」と言われ、帽子の縁を押さえた。
ミラは教室へ入る前に、レオンを見上げた。
「墓地は、逃げませんか」
「逃げない。俺も工場からちゃんと出てくる」
「紙がなくても?」
「紙がなくても行く」
ミラは短く頷いた。丁寧すぎる頷きではなかったので、レオンは息をつけた。
工場は、いつも通り油の匂いで満ちていた。
鉄板を置く音、台車の車輪、奥の機械の低い唸り。レオンは流れてくる部品を受け取り、決まった棚へ置いた。手は動いている。けれど、頭の中には朝の掲示板と、机の紙と、ミラの「名前だけですか」という声が残っていた。
ロイが隣から声をかける。
「今日は静かな顔してるな」
「顔に音が出るのか」
「いつもは少しうるさい」
「俺の顔まで工場扱いするな」
ロイは笑いかけて、すぐに作業場の奥を見た。
デュラン工場長がいつもより早く現場へ出てきていた。手には時計を持っている。工場長が時計を持って現場に立つと、工員たちは自然と声を落とした。
「正午前に作業を止める」
デュラン工場長の声が、機械の音の間を通った。
「黙祷の間、機械も止める。持ち場の安全を確認してから手を離せ。慌てるな」
レオンは小さく手を上げた。
「機械も黙るんですか」
「人間が先だ」
「機械は、止めれば黙ります」
「お前は止めても余計なことを言いそうだな」
ロイが横で肩を揺らした。レオンは口を閉じる。今日はテレーズにも言われている。余計なことは、まとめて黙る日だ。
時刻になると、工場の音が一つずつ消えていった。
奥の機械の唸りが止まり、台車の車輪が止まり、鉄板を置く音が止まる。いつもは耳の奥まで入り込んでいる工場の音がなくなると、作業場は急に広くなったように感じられた。
油の匂いだけが残っている。
レオンは手袋をはめたまま、黙って立った。周りの男たちも帽子を取ったり、目を伏せたりしている。片足を引きずる男が壁に肩を預け、片腕の工員が棚の前で顎を下げた。
レオンは、自分の親の顔をはっきりとは覚えていない。
覚えているのは、声の切れ端と、寒い日に握られた手の温度と、古い部屋にあった薄い布の匂いくらいだ。けれど、共同墓碑には名前がある。レオンが子どもの頃に誰かに連れられて見に行き、それから何度か一人でも見に行った名前だった。
名前だけですか。
朝のミラの声が、機械の止まった工場の中で、やけに小さく戻ってくる。
名前だけだ。
でも、その名前がなければ、自分はどこへ行けばいいかも分からなかったかもしれない。
黙祷が終わると、デュラン工場長が時計をしまった。
「作業に戻れ。慌てるな。止めた機械は、順番に動かせ」
機械がまた一つずつ唸り始めた。
工場の音が戻ってくる。鉄と油と声が戻ってくる。レオンも部品を受け取り、棚へ置いた。だが、黙っていた時間の名残だけは、爪の間の油汚れのように少し残った。
その日の午後、レオンは時間通りに市立初等校へ着いた。
門の前は、いつもより早い迎えで少し混んでいる。子どもたちは鞄を抱え、大人たちは掲示板や時計を見ながら、それぞれの家へ帰る支度をしていた。
ミラは教室の入口から出てきた。
鞄を胸の前に抱え、レオンを見ると小さく頭を下げてから歩いてくる。走らない。けれど、立ち上がるのも歩き出すのも、最初の頃より少し早くなっていた。
「学校も、黙りました」
「先生も?」
「はい」
「ジュールも?」
「少しだけ」
「それは町の力が強いな」
ミラの口元がゆるんだが、すぐに鞄を持ち直した。
「墓地へ行きますか」
「行く」
「紙がなくても?」
「紙がなくても覚えてる」
ミラは短く頷いた。
共同墓碑は、町の広場から少し奥へ入った場所にあった。
高い石碑ではない。町の大人なら見上げずに読めるくらいの高さで、表面にはいくつもの名前が刻まれている。新しい花は少なかったが、古いリボンや小さな紙片が置かれ、石碑の端には誰かが置いた小石がいくつも並んでいた。
周りには、帽子を取って立つ男、手を合わせる女、子どもの手を引いた老人がいる。大声で話す者はいない。風が吹くたび、花の紙包みだけが乾いた音を立てた。
レオンは石碑の前に立ち、少し時間をかけて名前を探した。
文字は多い。ミラには読めない。レオンも、こういう場所の文字は、工場の伝票よりずっと読みにくいと思う。けれど、何度か来た場所だったので、探す場所は覚えていた。
「ここだ」
レオンは石碑の一角を指で示した。
ミラは背伸びをして、その指先を見る。
「レオンさんの名前ではありません」
「俺の親の名前だ」
「同じ名前ですか」
「少しな。こっちが父親で、こっちが母親」
「二つあります」
「二人いたからな」
ミラは石碑を見上げた。読めない文字を、形として追っているようだった。
「ここに、いますか」
レオンはすぐには答えられなかった。
ここは墓ではない。レオンの親だけの場所でもない。骨があるのかどうかも、自分はよく知らない。町の人間が名前を刻み、十一月十一日になると花を置きに来る場所だ。
「名前がある」
レオンはそう答えた。
ミラはすぐには頷かなかった。
「名前だけでも、見に来ますか」
風が一度、石碑の前を通った。古い花の紙が、かすかにこすれる。
レオンは帽子の縁を押さえた。
いいことを言おうとすると、たいてい間違える。ベルナールにも、ルノー先生にも、エリーズにも、それは何度も証明されている。だから少し考えた。考えて、それでも、あまり立派な言葉は出てこなかった。
「名前だけだから、来るんだろうな」
「どうして?」
「ほかに置く場所がない時もある」
ミラは石碑を見たまま、動かなかった。
レオンは言い足した。
「でも、名前があると、見つけやすい」
ミラの指が、鞄の取っ手を握った。
「読める人がいないと、名前は困りますか」
「困るな」
「じゃあ、読みに来る人がいる方がいいです」
「そうだな」
ミラは石碑の文字を見ていた。
自分の親のことは言わなかった。戦争のことも、施設のことも言わなかった。ただ、読めない名前の並んだ石の前で、小さな靴をそろえて立っていた。
レオンはそこで、花を買っていないことに気づいた。
「花、買ってないな」
「必要ですか」
「あると、それらしくなる」
「名前を見るだけでは、だめですか」
「だめじゃない」
ミラは足元を見た。石碑の端に、小さな石がいくつか並んでいる。誰が置いたものかは分からない。大きさも形もばらばらで、花のようにきれいではない。けれど、ただの地面から拾われたものではなく、誰かがそこへ置いたものに見えた。
ミラはしゃがみ、小さな丸い石を一つ拾った。
「これは、置いても怒られませんか」
レオンは周りを見た。誰もこちらを咎めていない。石碑の端には、すでにいくつも小石がある。
「置いていい」
「ここですか」
「名前の上じゃなければ、大丈夫だと思う」
ミラは石碑の端に、そっと小石を置いた。
小さな石は、そこに置かれても大きな音を立てなかった。ただ、他の石の隣に並んで、自分のぶんの場所を取った。
「これも、名前ですか」
「いや。これは石だな」
「石だけですか」
「来たしるしにはなる」
ミラはその言葉を聞いて、石をもう一度見た。
それから、レオンが指で示した二つの名前へ目を戻した。読めない文字を、覚えるようにじっと見ている。読めないのに覚えようとする顔だった。
帰り道、町の空は少しずつ夕方へ傾いていた。
広場を抜けると、通りにはいつもの匂いが戻ってくる。パン屋の焼けた匂い、馬車の車輪が石畳をこする音、遠くから聞こえる工場帰りの男たちの声。町はもう黙っていない。それでも、朝とは違う静けさが少し残っていた。
ミラはしばらく黙って歩いた。
レオンは歩幅を落とした。前ほど意識しなくても、足が勝手に少し遅くなる。
「石は、紙より消えにくいですか」
「石だからな。すぐには消えない」
「でも、読みに来る人がいないと困ります」
「そこは、紙も石も同じかもな」
ミラは少し考えた。
「声もですか」
「声は、誰かが覚えてたら残る」
レオンは言ってから、自分で少し驚いた。今日の自分にしては、まともなことを言った気がした。
ミラが横から見上げる。
「今の、先生に直されますか」
「たぶん、少し褒められる」
「少しですか」
「かなり褒められると怖い」
ミラはかすかに笑った。
公営労働者アパートへ戻ると、中庭ではテレーズが洗濯場の水を片づけていた。エリーズは籠を抱え、マノンとルルがトトの尻尾を追いかけるのを見ている。いつもの夕方の音と匂いが、共同廊下から流れてきた。
テレーズがミラを見て、声を少し落とした。
「行ってきたかい」
「はい」
「寒くなかった?」
「少しだけです」
「少しなら、上出来だね。レオン、余計なことは言わなかっただろうね」
「かなり選びました」
「選んでそれなら、明日はもっと減らしな」
「まだ何も聞いてないのに厳しい」
エリーズがレオンの顔を見た。
「ちゃんと行けたのね」
「行けた」
「花は?」
「忘れた」
「でしょうね」
「石を置いた」
エリーズはミラへ目を向けた。ミラは小さく頷く。
「置いても怒られませんでした」
「なら、よかった」
エリーズはそれ以上、詳しく聞かなかった。テレーズも、ヴィクトルのように重いことは言わなかった。ただ、ミラの外套の襟を少し直してから、部屋で温まるようにと言った。
三階の部屋へ戻ると、窓の外では工場の煙突が夕方の煙を吐いていた。
レオンは黒い鍋に残りの豆のスープを移し、火にかけた。硬いパンを二つに割り、机の上に置く。ミラは鞄を壁際に置いてから、朝と同じように机の端の紙を見た。
十一月十一日。共同墓碑。黙祷。
レオンが写した文字は、少し曲がっている。急いで書いたせいで、ところどころ線が強すぎた。
「これは、もういりませんか」
「掲示板の紙は、明日には外れるかもしれないな」
「この紙も?」
「残してもいい」
「名前があるから?」
「今日行った場所を忘れないためだ」
ミラは紙を畳まなかった。机の端から、皿一枚ぶん奥へ置き直す。スープをこぼしても届かない場所だった。
レオンはその手元を見ていた。
「レオンさんの名前も、今度書きますか」
「俺の名前か」
「はい。レオンさんの名前です」
「まだ曲がるぞ」
「名前は、曲がっても読めますか」
「読めれば勝ちだ」
「じゃあ、今度、書きます」
レオンは少し笑った。
「俺の名前は長くないからな。たぶん勝てる」
「たぶんは、少なくしてください」
「今日はそれ、二回目だな」
「今日は、そういう日です」
スープが小さく煮え、黒い鍋の縁で湯気が上がった。外では誰かが共同廊下を歩き、遠くでトトが短く吠えた。町はもう黙っていない。工場も、アパートも、いつもの音へ戻っている。
その音の中で、朝に写した紙は、皿一枚ぶん奥に残っていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
レオンとミラの生活が少しずつ変わっていく様子を、気軽に楽しんでいただければ嬉しいです。
よろしければ、最後までお付き合いください。




