第7話① 爆ぜるハゼに想いを馳せて
炎が、社を包み、
あたり一帯を紅蓮に染め上げていた。
ぱちぱちと、
乾いた音を立てながら。
炎が、
柱を舐める。
火の粉が、
夜空へ舞い上がる。
夜のはずなのに、
境内は明るい。
揺らめく炎に照らされ、
木々の影が地面を這っている。
熱い。
離れているはずなのに、
頬がじりじりと焼ける。
焦げた木の匂い。
煙の匂い。
息を吸うたび、
喉の奥がざらついた。
その、
燃える社を背に。
黒い巨体が、
立っていた。
身体からは、
黒い妖気が絶えず溢れている。
地面へ落ちるたび。
ボッ。
黒い炎が、
また一つ生まれる。
紅蓮の中に、
黒い炎。
その二つに照らされながら。
黒い獣は、
微動だにしない。
そして。
その前に、
父が立っていた。
赤い鬼面。
燃える社よりも大きな、
黒い獣。
その足元に立つ父の姿は、
あまりにも小さい。
それでも。
一歩も、
退いていなかった。
「父ちゃん……」
ケータの声が、
小さく漏れる。
グルルルルル――
獣の唸り声が、
腹の底まで響いてくる。
空気が震える。
足元の砂利まで、
細かく震えている。
父は、
獣を見上げたまま動かない。
黒い獣も、
そこに立っている。
赤い鬼。
黒い獣。
二つの影が、
炎の中で向かい合っていた。
そのとき。
父が、
一歩。
横へ動いた。
「…………?」
ケータは、
妙なことに気づいた。
黒い獣の眼が、
動かない。
父を、
追っていない。
父がもう一歩、
横へずれる。
それでも。
赤黒い眼は、
同じ場所を見ている。
「……っ」
ケータの喉が、
ひゅっと鳴った。
目が、
合った。
見ていたのは。
父ではない。
父の向こう側。
ケータだった。
父と対峙しているはずなのに。
その刺すような視線は、
ケータを捉えて外さない。
父のことなど、
そこに立つ障害物としか見ていない。
そんな目だった。
ぞくり。
背中が、
冷たくなる。
顔も。
腕も。
炎に炙られて、
痛いほど熱いのに。
背中だけが、
ひどく冷たい。
父が、
もう一歩動く。
今度は、
黒い獣とケータの間へ。
そこで初めて。
赤黒い眼から、
ケータの姿が隠れた。
「ケータ」
父が言った。
「下がっとけ」
「でも――」
「大丈夫」
父は、
獣から目を離さない。
「父ちゃんがおる」
いつもの声だった。
朝、
境内を掃くとき。
神楽の稽古で、
ケータが失敗したとき。
転んで、
膝を擦りむいたとき。
何も変わらない、
父の声。
その一言で。
ほんの少しだけ、
息ができた。
「……うん」
ケータが、
一歩下がる。
砂利が、
足の裏で鳴った。
父が、
ゆっくりと右手を上げる。
――カラ。
小さな音。
何かが、
父の袖から飛び出した。
一粒。
二粒。
三粒。
丸い、
小さな実。
地面へ落ちることなく、
父の周囲に浮いている。
「……?」
その一粒が、
ケータの方へ飛んできた。
思わず、
身体を引く。
実はケータの目の前で、
ぴたりと止まった。
小さい。
少し皺のある、
丸い実。
見覚えがある。
「……ハゼの実?」
神社の周りにもある。
秋になると、
たくさん実をつける木。
父から、
何度か教えてもらったことがある。
そのハゼの実が。
今、
ケータの目の前に浮いていた。
「なんで……」
手を伸ばそうとした瞬間。
ヒュッ。
実が逃げた。
「えっ」
父のもとへ戻っていく。
カラ。
カラカラ。
また、
増える。
十。
二十。
もっと。
無数のハゼの実が、
父の周囲へ広がっていく。
一粒ずつが、
一定の間隔を空け。
父を中心に、
大きな円を描いた。
くるり。
円が、
回る。
カラカラ。
乾いた音を立てながら。
父の周囲を、
ハゼの実が巡る。
その一粒が、
淡く光った。
白い光。
炎の赤とは違う。
柔らかく。
温かい。
蝋燭の火を、
手のひらで包んだような光。
「父ちゃん……?」
父が、
腰を落とした。
左足を前へ。
右足を引く。
右手を、
鬼面の前へ。
ケータの知らない構え。
いや。
構えだけじゃない。
知らない。
こんな父を、
知らない。
そのとき。
黒い獣の前脚が、
持ち上がった。
ゆっくり。
ただ、
それだけなのに。
空が、
暗くなった。
巨大な影が、
父を覆う。
「父ちゃん!」
振り下ろされた。
――ズンッ!!
境内が、
跳ねた。
「うわっ!」
ケータの身体が、
浮いた。
尻餅をつく。
砂利へついた掌に、
鋭い痛み。
それよりも。
「父ちゃん!」
土煙が、
舞い上がっている。
火の粉。
砂。
黒い妖気。
父がいた場所は、
巨大な足の下に消えていた。
「…………」
音が、
遠くなる。
ケータの耳に、
自分の鼓動だけが響く。
ドクン。
ドクン。
「……父ちゃん?」
返事はない。
「父ちゃ――」
――パンッ!
乾いた破裂音。
「っ!?」
上。
ケータが、
顔を上げる。
白い光が、
黒い獣の頭より高い場所で弾けていた。
その光の中に。
赤い鬼。
「……え?」
父だった。
空にいる。
父の足元に、
一粒のハゼの実。
その実が、
白く輝く。
父が、
踏み込んだ。
――パンッ!
実が、
爆ぜた。
白い光と、
乾いた破裂音。
父の身体が、
弾かれる。
違う。
自分から、
飛んだ。
横へ。
黒い獣の頭上を、
一気に駆け抜ける。
「飛んだ……」
とっちゃんの声がした。
ケータも、
目を離せなかった。
父の進む先へ、
一粒のハゼの実が飛ぶ。
父が、
それを踏む。
光る。
――パンッ!
爆ぜる。
今度は、
斜め上。
もう一粒。
――パンッ!
急降下。
また一粒。
――パンッ!
横。
父が、
空を駆ける。
赤い鬼が。
白い光を、
次々と蹴りながら。
巨大な黒い獣の周囲を、
飛び回る。
爆ぜたハゼの殻が、
ぱらぱらと境内へ降る。
けれど。
円は、
崩れない。
父の周囲を巡っていたハゼの実が、
次々と飛び出し。
父を運び。
残った実は、
また円へ戻っていく。
回る。
飛ぶ。
爆ぜる。
戻る。
まるで。
全部が、
父の手足であるかのように。
「すげぇ……」
とっちゃんが、
呟いた。
「おじさんのアレ、
何をしとるん……?」
ケータは、
答えられなかった。
知らない。
本当に、
何も知らない。
神楽を舞う父なら、
何度も見てきた。
鬼面を被って。
笛と太鼓に合わせ。
足を運び。
腕を振る。
今も。
よく見れば、
どこか似ている。
足の運び。
身体の捻り。
宙で向きを変える、
その瞬間。
神楽を舞っているようにも、
見える。
でも。
ケータの知っている神楽に、
こんな舞はない。
父が、
黒い獣の背後へ回った。
右手を振る。
円から、
五粒。
ハゼの実が飛び出した。
黒い獣へ。
一直線に。
けれど。
黒い獣は、
振り返らない。
赤黒い眼が向いているのは、
その向こう。
ケータ。
「――爆ぜろ」
その瞬間。
黒い獣の頭が、
わずかに下がった。
――パンッ!
――パンッ!
――パンッ!
白い光が、
その頭上を走り抜けた。
「……え?」
外れた。
父が、
黒い獣の横を抜ける。
円へ戻るはずのハゼの実が、
途中で止まった。
今度は、
左右から。
父が、
指を閉じる。
黒い獣が、
一歩だけ前へ出た。
まだ。
実は光っていない。
「爆ぜろ!」
――パンッ!
――パンッ!
左右から放たれた白い光が、
黒い獣の後ろでぶつかった。
また、
外れた。
「…………」
父が、
着地する。
砂利を滑る。
すぐに、
地面を蹴った。
ハゼの実が、
足元へ。
父が踏む。
まだ、
光っていない。
そのとき。
黒い獣の爪が、
動いた。
父のいない場所へ。
「……?」
ケータには、
そう見えた。
何もない空間へ、
巨大な爪を振っている。
次の瞬間。
――パンッ!
ハゼの実が、
爆ぜた。
父が、
飛ぶ。
爪が振られた、
その場所へ。
「父ちゃん!」
父が、
身体を捻った。
巨大な爪が、
胸元を掠める。
赤い装束が、
裂けた。
布の切れ端が、
火の粉と一緒に舞う。
「……っ!」
父が、
空中で二粒を爆ぜさせる。
――パンッ!
――パンッ!
強引に、
軌道を変える。
地面へ。
着地。
砂利が、
大きく滑った。
「…………」
父が、
黒い獣を見上げる。
黒い獣は。
まだ、
父を見ていない。
赤黒い眼は、
ケータへ向いたまま。
「……なんで」
ケータの口から、
声が漏れた。
父ちゃんを、
見てない。
攻撃も、
見てない。
ハゼの実さえ、
見ていない。
なのに。
避けた。
それどころか。
父ちゃんが飛んでくる前に。
そこへ、
爪を振った。
父が、
右手を上げる。
ハゼの実が、
三方向へ散る。
右。
左。
上。
父自身は、
動かない。
黒い獣も、
動かない。
一秒。
二秒。
父の指が、
わずかに動く。
黒い獣の身体が、
少し沈んだ。
父の指が、
止まる。
黒い獣も、
それ以上は動かない。
「…………」
父も、
気づいた。
父が、
突然地を蹴る。
ハゼの実を踏む。
黒い獣は、
父を見ない。
――パンッ!
父が右へ飛ぶ。
その前に。
黒い獣の前脚が、
右へ振られている。
父が、
空中で別の実を踏む。
その前に。
黒い獣が、
身体を沈める。
――パンッ!
父が、
上へ飛ぶ。
黒い獣の頭上を、
白い光が走る。
父が、
背後を取る。
右手を振る。
その前に。
黒い獣が、
半歩だけ横へずれた。
「爆ぜろ!」
――パンッ!
白い光が、
何もない場所を撃ち抜く。
一度じゃない。
二度。
三度。
何度やっても。
黒い獣は、
父を見ない。
赤黒い眼は、
ずっとケータを見ている。
それなのに。
全部、
避ける。
父が動く前に。
攻撃する前に。
まるで、
そこへ来ることを知っていたように。
「……速いんじゃない」
ケータの口から、
言葉が漏れた。
とっちゃんが、
ケータを見る。
「え?」
「避けるのが速いんじゃない」
ケータは、
黒い獣から目を離せなかった。
父が、
まだ何もしていない。
そのときには。
もう、
黒い獣は動いている。
「父ちゃんが何するか……」
喉が、
乾く。
「先にわかってみたいな」
「そんな……」
ユキが、
息を呑んだ。
ケータの背中を、
汗が流れた。
冷たい。
炎の熱で、
すぐに乾いていく。
父が、
黒い獣から距離を取った。
カラ。
カラカラ。
ハゼの実が、
父の周囲へ戻ってくる。
再び、
円を描く。
父は、
動かない。
黒い獣も、
動かない。
火が、
燃えている。
ぱちぱちと。
遠くで、
柱が崩れた。
――ドサッ。
その音の中で。
父が、
静かに息を吐いた。
「……なるほどな」
低い声だった。
焦りは、
なかった。
父の指が、
一粒のハゼの実に触れる。
「先が分かるなら――」
一粒。
円から、
離れる。
二粒。
三粒。
十粒。
二十粒。
次々と、
ハゼの実が広がっていく。
父の周りではない。
黒い獣の周囲へ。
前。
後ろ。
右。
左。
そして、
上。
逃げ道を、
一つずつ塞ぐように。
無数のハゼの実が、
黒い巨体を取り囲んでいく。
それでも。
黒い獣の眼は、
動かなかった。
見ているのは、
ケータだけ。
「分かったうえで――」
父が、
腰を落とす。
一粒のハゼの実が、
白く光った。
また一つ。
また一つ。
炎の赤。
獣の黒。
その狭間に。
無数の白い光が、
灯っていく。
「避けられんようにすりゃいい」
ケータは、
拳を握った。
まだ。
終わっていない。
父ちゃんは、
まだ戦っている。
赤い鬼と。
黒い獣。
その間を埋め尽くすように。
無数のハゼの実が、
静かに巡っていた。
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