第5話 星結の日
星結の日。
朝。
まだ境内に長い影が伸びる頃から、
星結神社には人が集まり始めていた。
石段を上ってくる人。
提灯を吊るす人。
屋台の準備を始める人。
「おはようございます」
「おはよう、ケータくん」
顔見知りの大人たちと挨拶を交わしながら、
ケータも境内を行ったり来たりする。
今夜使う松明。
神楽の道具。
参列者のための椅子。
運ぶものは、
いくらでもあった。
社務所では、
母たちが忙しそうに動いている。
神楽舞台では、
父たちが最後の確認をしていた。
いつもの境内が、
少しずつ祭りの姿へ仕上がっていく。
「…………」
ケータは、
神楽舞台を見上げた。
今日だ。
ずっと楽しみにしていた、
星結の日。
*
陽が高くなるにつれ、
境内の人も増えていった。
屋台には暖簾が掛かり、
甘い匂いと香ばしい煙が漂い始める。
蝉の声に、
人々の話し声が重なる。
走り回る子どもたち。
それを追いかける大人たち。
浴衣姿の人も、
ちらほらと見えるようになった。
「けーたん!」
声の方を見る。
ユキが、
石段の上から手を振っていた。
その後ろから、
とっちゃんも上がってくる。
「おはよ!」
「もう昼やぞ」
「細かい!」
三人が揃う。
けれど今日は、
いつものように遊びに来たわけではない。
今夜。
三人とも、
神前に立つ。
「とっちゃん、決めた?」
「何が?」
「夢」
「プロ野球選手」
「やっぱり?」
「当たり前やろ」
「ユキは?」
「私はテニス!」
「やっぱり?」
「うん!」
二人の答えは、
あの日から変わっていない。
「けーたんは?」
「…………」
ケータは、
少しだけ空を見上げた。
青い空。
白い雲。
「まだ決めてない」
「今日やぞ?」
「分かっとるよ」
答えはいくつもある。
でも。
今夜、
口にするのは一つ。
「まあ、なんとかなるやろ」
「ならんやろ」
*
真上近くにあった陽が、
少しずつ西へ傾き始めた。
境内は、
朝とは比べものにならないほど賑わっている。
提灯が並び。
屋台には人が集まり。
神楽舞台の前には、
少しずつ席が埋まり始めていた。
それでも。
まだ、
提灯に火は入っていない。
松明も、
まだ眠っている。
青かった空が、
ゆっくりと色を変え始める。
星結の日は、
これからだった。
*
「動かない」
「動いてないよ」
「動いとる」
母が、
ケータの襟元を整える。
「はい。腕上げて」
ケータは、
言われた通り両腕を上げた。
「これでいい?」
「まだ」
母が帯を整える。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
最後に、
肩の辺りを軽く払う。
「はい」
母が、
一歩下がった。
「できた」
ケータは、
自分の装束を見下ろした。
「どう?」
母は、
少しだけ目を細めた。
「似合ってるわよ」
「父ちゃんみたい?」
「それはどうかしら」
「なんで!」
母が笑った。
「まだ十歳でしょう?」
「いつかはなるよ」
「そうね」
母は、
ケータの髪を整えた。
「ゆっくり大きくなりなさい」
「母ちゃん」
「なあに?」
ケータは少し迷ってから、
聞いた。
「今日さ」
「うん」
「何て言ったらいいと思う?」
母は、
すぐには答えなかった。
「まだ決めてないの?」
「いっぱいあるもん」
「そうだったわね」
母が笑う。
「宇宙飛行士に、サッカー選手に」
「神楽も」
「宮司さんもね」
「うん」
「それから、お医者さんに……」
母は少し考えて、
ケータの顔を見た。
「あとは、世界中を旅したいんだっけ?」
「そう!」
ケータの顔が、
ぱっと明るくなる。
「母ちゃん、覚えとったん?」
「もちろん」
母は、
当たり前のように答えた。
「ケータの夢でしょう?」
「うん」
「じゃあ、今日のケータが一番なりたいものを言えばいいんじゃない?」
「今日の?」
「明日は変わるかもしれないでしょう?」
「いいと?」
「ケータの夢なんだから」
「…………」
どこかで。
同じようなことを、
聞いた気がした。
誰からだったか。
何と言われたのか。
思い出せない。
「ケータ?」
「……ううん。なんでもない」
母が、
もう一度襟元を整える。
「何を言っても、母さんは応援するわ」
「うん」
ケータは、
大きく頷いた。
*
日が、
山の向こうへ沈んでいく。
茜色だった空が、
少しずつ紫へ変わる。
境内の提灯に、
一つ。
また一つ。
灯りが入った。
昼間は目立たなかった小さな光が、
辺りが暗くなるほど鮮やかになっていく。
やがて。
ゴォン――
鐘が鳴った。
入相の鐘。
夕暮れの空を、
低い音が渡っていく。
ケータは、
空を見上げた。
西の端が、
紅く染まっている。
その上から、
夜の色がゆっくりと降りてくる。
昼でもなく。
夜でもない。
ほんの刹那にだけ現れる、
逢魔の時。
*
境内を照らすのは、
提灯の明かりだけ。
神楽舞台の前には、
人々が集まっている。
さっきまで境内を満たしていたざわめきも、
今はすっかり静まっていた。
ケータは、
舞台の脇から父を見ていた。
父が、
面を手に取る。
赤い鬼面。
吊り上がった眼。
裂けた口。
額から伸びる、
二本の角。
「…………」
父が、
面をつける。
父が――
鬼になる。
何度も見た。
稽古でも。
去年の祭りでも。
それでも。
本番の鬼は、
いつも違って見える。
大きい。
自分もいつか、
あそこに立ちたい。
赤い面をつけて。
父のように、
舞いたい。
――ドン。
腹の底を震わせる、
太鼓の音。
闇の中。
赤い鬼だけが、
静かに立っている。
――ドン。
二つ目の太鼓が、
夜を打つ。
刹那――
松明に、
一斉に火が灯った。
炎が、
夜の境内を照らし出す。
笛が鳴る。
鉦が鳴る。
太鼓が轟く。
鬼が舞う。
足を踏み鳴らし。
袖を翻し。
赤い面が、
炎の中を駆ける。
ケータは、
瞬きも忘れて見ていた。
父の舞が、
一番好きだった。
*
夜の帷が、
すっかり降りていた。
空には、
星が瞬いている。
神楽は、
まだ続いている。
笛が鳴る。
鉦が鳴る。
太鼓が響く。
その音の中。
十歳を迎えた子供たちが、
神前に並んでいた。
今宵は、
星結の日。
己の夢を見つけ、
星へと結ぶ夜。
とっちゃん。
ユキ。
同じ年の子供たち。
みんな、
さっきまでとは違う、
緊張した面持ちをしていた。
ケータも、
少しだけ緊張していた。
やがて。
最初のひとりが、
呼ばれる。
「星宮ケータ」
「…………はい」
一歩。
また一歩。
神前へ進む。
教えられた通りに、
頭を下げる。
そして、
目を閉じた。
「…………」
笛の音が、
遠ざかっていく。
鉦も。
太鼓も。
人々の声も。
虫の声も。
世界から、
少しずつ音が消えていく。
暗闇の中。
小さな光が、
一つだけ見えた。
星。
そう思った。
光は、
ゆっくりと降りてくる。
ケータの胸へ。
触れた。
「…………」
何かが、
流れ込んでくる。
知らないものではなかった。
ずっと、
自分の近くにあったもの。
朝、
境内を掃く父。
神前で、
祝詞をあげる父。
人々を迎え、
この神社を守る父。
そして今。
神楽舞台で、
鬼となって舞う父。
自分が生まれ育った、
この神社。
そのすべてが、
一つの言葉になった。
――宮司。
「…………」
ケータは、
ゆっくりと目を開けた。
胸の奥が、
熱い。
嫌じゃない。
むしろ――
嬉しかった。
父ちゃんと、
同じだ。
いつか。
朝早く、
境内を掃いて。
神前で、
祝詞をあげて。
ここを訪れる人たちを迎えて。
この神社を、
守っていく。
父がしてきたことを、
今度は自分が受け継いでいく。
「…………」
ケータは、
神楽舞台を見た。
炎の中。
鬼は、
まだ舞っている。
大きく踏み込み。
袖を翻し。
太鼓の音に合わせて、
赤い鬼が舞う。
何度見ても。
やっぱり、
格好いい。
「…………」
ケータは、
神前へ向き直った。
授かった夢を胸に、
顔を上げる。
「僕は、この神社を継ぎます」
それから――
もう一度、
舞台で舞う鬼を見た。
父が、
舞っている。
ケータは、
笑った。
「父さんを超える、鬼になります!」
**
――ドンッ。
腹の底を震わせる音。
「……え?」
ケータが、
空を見上げた。
白い光が、
境内を呑み込んだ。
鬼も。
舞台も。
社も。
夜も。
すべてが、
白く染まる。
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9/4 第6話を更新予定です
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