第20話③ 玲子踏ん張り時
「とっちゃん……!」
玲子先生が駆け出しかけたところで、上野がその肩を掴んだ。
「待ってください。まだです」
玲子先生は足を止め、もう一度サクちゃんの視界へ意識を向ける。
とっちゃんは道の端で、横向きに倒れていた。ぴくりとも動かない。
けれど、胸はわずかに上下している。
「生きてる……」
『眠っているだけだ』
頭の中へサクちゃんの声が届き、玲子先生の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「よかった……」
その瞬間。
『玲子』
声が変わった。
共有された視界が、とっちゃんから木立の向こうへ移る。太い脚が一本、ゆっくりと木々の間を進んでいた。その上では長い腕が揺れ、頭が梢を越えていく。
「……一体います」
「距離は?」
「まだあります。でも……」
サクちゃんがさらに視線を巡らせた。
別の影が動く。
「いえ、もう一体。二体います」
玲子先生は、とっちゃんへ視線を戻した。
近い。
けれど、ここから真っ直ぐ走れば巨人に気づかれるかもしれない。
「迂回しましょう」
上野がすぐに判断した。
「右から回ります。川中島さんは、雅楽川くんを見失わないように」
「分かりました」
二人は足音を抑えながら道を外れ、草と木の根が張り出した斜面へ入った。
玲子先生は自分の足元を確かめながら、同時にサクちゃんの視界も追う。
とっちゃん。
巨人。
上野。
距離。
必要なものだけを、一つずつ頭の中へ置いていく。
『右へ』
「上野さん、少し右です」
「了解」
木立の間を、巨人の脚が通り過ぎた。
ズン。
地面が揺れる。
玲子先生は息を止めたが、巨人はこちらを見なかった。そのまま壁の方へ歩いていく。
「……行った」
少し離れた場所では、二体目も同じように壁へ向かっていた。
サクちゃんが、その背を追う。
『こちらへ戻る気配はない』
「二体とも離れていきます。今なら行けます」
「急ぎましょう」
二人は一気に斜面を下りた。
とっちゃんまで、五十メートル。
三十。
二十。
「とっちゃん!」
思わず声が大きくなる。
「川中島さん」
「……すみません」
けれど、もう目の前だった。
小学生にしては大きな身体。
寝癖のついた金色の髪。
無防備に口を少し開けて眠っている、その顔が。
一瞬だけ。
別の誰かに重なった。
*
『姉ちゃん』
声。
遠い、十年前の声。
『遅い!』
十歳。
よく食べて、よく走って、口ばかり達者で。
何かあれば、姉ちゃん、姉ちゃんとついてきた。
*
「川中島さん?」
上野の声で、玲子先生は我に返った。
「……大丈夫です」
もう一度、とっちゃんを見る。
違う。
この子は、あの子じゃない。
分かっている。
それでも時々、笑い方や生意気な言い方、小学生にしては大きな身体で無邪気に食べる姿が、どうしようもなく重なって見えることがあった。
『玲子。今は目の前を見ろ』
玲子先生は小さく息を吐く。
「分かってる」
今度こそ、とっちゃんへ向かった。
そのとき。
ズン――。
地面が大きく揺れた。
上野が勢いよく振り返る。
木立の向こうから、巨大な影が立ち上がっていた。
さっき壁へ向かっていった二体ではない。
別の巨人。
しかも、もっと大きい。
木々の上へ肩が現れ、そのさらに上から頭が覗く。
「大型……」
上野が玲子先生の前へ出た。
「下がってください!」
大型の巨人が、こちらを見る。
ゆっくりと腕が上がった。
『来る!』
「右!」
玲子先生が叫ぶ。
上野が彼女の身体を突き飛ばした。
直後。
ドン――!!
巨人の手が地面へ叩きつけられた。
土が爆ぜ、小石と岩が一斉に飛び散る。
「――っ!」
拳ほどもある岩が、玲子先生の左脚へまともにぶつかった。
身体が地面を転がる。
鈍い衝撃。
けれど、痛みは思ったほど強くない。
ここは醒界ではない。
「川中島さん!」
「大丈夫です!」
玲子先生はすぐに身体を起こし、立とうとして――止まった。
「……え」
左脚が、膝から下で不自然な方向を向いている。
「……うそ」
サクちゃんが、すぐそばへ舞い降りた。
『動くな。その脚では歩けん』
「でも、とっちゃんが……だったら」
玲子先生は近くの木へ手を伸ばした。
幹がざわりと震え、二本の枝が急速に太く、硬く育っていく。添え木に使えるほどになると根元からぽきりと折れ、彼女の手元へ落ちた。
さらに樹皮が長く裂け、帯のように伸びる。
玲子先生は折れた脚の両側へ枝を当て、その上から樹皮を巻きつけて固定した。
「……よし」
『治ったわけではないぞ』
「分かってる。でも、固定はした」
地面へ手をつき、立ち上がる。
左脚へ、ゆっくり体重を乗せた。
身体がぐらりと傾く。
「歩ける」
『玲子』
「歩ける」
もう一度、自分に言い聞かせる。
「ここはレム層。想いが、身体をつくる」
一歩。
脚が前へ出た。
「ほら」
『無茶を理屈で押し通しているだけだ』
「研究者だから。理屈は大事なの」
『それは屁理屈』
「今、それ言う?」
その前では、上野が大型の巨人と向き合っていた。
空気が急に冷える。
上野の身体へ、薄い影が重なった。
人のようで、人ではない。
その影は上野の動きに合わせ、同じように構える。
吐いた息が白くなる。
上野が片手を地面へ向けた。
「――凍れ」
白い霜が地面を一気に走り、大型の足元へ絡みついた。氷は脛から膝まで這い上がり、両脚を地面へ縫い止める。
「川中島さん! 今のうちに!」
玲子先生は返事の代わりに、とっちゃんへ向かって歩き出した。
一歩。
また一歩。
その後ろで。
バキ。
バキバキッ。
大型を覆う氷に亀裂が走る。
上野の手元へ白い冷気が集まり、細長く伸びて尖った。
「氷槍」
青白い槍が大型の膝へ突き刺さる。
氷が傷口から広がり、巨体がわずかに傾いた。
けれど、倒れない。
バキン。
足元の氷が砕けた。
「……大型を相手にするには、少し厳しいですね」
上野が息を吐く。
「通常装備はありますが、今日は非番です。同調補助も術式補助もありません」
大型の腕が横薙ぎに振られ、上野が後ろへ跳ぶ。
「ですが――」
着地した足元から、再び氷が走った。
「救助要請ですから」
上野は大型の正面へ立つ。
「こいつは私が引きます! 雅楽川くんを!」
「分かりました!」
大型が上野を追う。
一歩。
また一歩。
上野も攻撃を受け流しながら後退し、二人の距離が少しずつ開いていった。
玲子先生は振り返らない。
とっちゃんまで、十五メートル。
十。
八。
『玲子』
サクちゃんが急に高度を下げた。
共有された視界が、とっちゃんの向こうへ振れる。
木立の陰に、何かが立っていた。
「……まだいるの」
さっき壁へ向かっていった二体ではない。
上野が相手をしている大型でもない。
もう一体。
大型ほどではない。
それでも人間から見れば、十分すぎるほど巨大だった。
その巨人が、眠ったままのとっちゃんを見下ろしている。
「とっちゃん!」
玲子先生が走ろうとする。
固定した左脚がわずかにもつれた。
「っ……!」
それでも前へ出る。
「上野さん!」
返事が遠い。
振り返れば、大型と上野はすでにかなり離れていた。
氷の壁が大型の拳を受け止める。
砕ける。
上野がさらに下がった。
「すみません! 今、戻れません!」
遠くから声だけが届く。
玲子先生はすぐに前を向いた。
巨人が、とっちゃんへ腕を伸ばしている。
「サクちゃん!」
呼ぶより早く、梟が巨人の顔へ一直線に飛んだ。
『分かっている』
翼が翻る。
周囲の木々が一斉にざわめき、何本もの枝が伸びて巨人の腕へ巻きついた。
さらに足元から根が這い出し、足首から脛へ絡みつく。
締め上げる。
引き戻す。
巨人の手が、とっちゃんの手前で止まった。
「……止まった!」
『まだだ』
サクちゃんが巨人の頭上を旋回する。
木々の葉が一斉に宙へ舞い、風に乗った。
次の瞬間、無数の葉が刃となって巨人の顔へ走る。
シュッ。
シュシュッ。
頬、額、瞼へ浅い傷が次々と刻まれ、巨人がたまらず顔を背けた。
『今だ!』
玲子先生が、とっちゃんへ急ぐ。
歩ける。
歩ける。大丈夫。
あと六メートル。
五。
その顔が。
また。
十年前の弟に重なった。
*
あの日。
玲子は十三歳だった。
夢見学園も、レム層も、夢害も。
メアという言葉さえ知らなかった。
父と母と、玲子。
そして、十歳だった弟。
四人とも、あの事件に巻き込まれた。
気がついた時には知らない世界にいて、玲子だけが一人だった。
父も、母も、弟もいない。
何が起きたのか。
どうすれば帰れるのか。
何も分からない。
それでも探した。
父を。
母を。
弟を。
名前を呼びながら、知らない道を何度も走った。
やがて、三人を見つけた。
父と母と、弟。
三人は先に合流していた。
あと少しだった。
もう少しで、玲子もそこへ辿り着けた。
なのに。
間に合わなかった。
「……」
誰かがいた。
三人のそばに。
玲子がそこへ辿り着くより、ほんの少しだけ早く。
だから。
欲しかった。
見つける力が。
どこにいるのか分かる力が。
誰かが手遅れになる前に、その場所へ辿り着くための力が。
サクちゃんと何度も視界を重ねた。
何度も繋いだ。
少しずつ。
遠くまで、見えるようになった。
*
そして。
今日は、見つけた。
「……今度は」
玲子先生が、とっちゃんへ手を伸ばす。
「ちゃんと見つけたんだから……!」
あと四メートル。
『玲子!』
バキッ。
巨人の腕に絡んでいた枝が一本、千切れた。
続けてもう一本。
バキ。
バキバキッ。
「サクちゃん!」
『慌てるな! 左の樹を使え!』
サクちゃんが巨人の右目へ飛び込み、葉の刃を浴びせる。巨人が顔を庇った隙に、玲子先生は左手の木へ意識を向けた。
一本の木が大きくしなり、伸びた枝が巨人の胴へ巻きつく。
「これで――」
『足だ!』
玲子先生が視線を落とす。
根が土を割って走り、巨人の両足へ絡みついた。
縛る。
引く。
巨人の身体が、ぐらりと傾く。
「……いける?」
『倒す必要はない。時間を稼げればよい』
倒さなくていい。
とっちゃんへ辿り着ければいい。
玲子先生が、また一歩進んだ。
あと三メートル。
*
ドン――!!
遠くで大きな音がした。
玲子先生が振り返る。
上野と大型の戦いも続いている。
大型の足元を氷が覆い、上野の周囲には何本もの氷槍が浮かんでいた。
一斉に放たれる。
肩。
胸。
膝。
次々と突き刺さり、青白い氷が巨体へ広がっていく。
それでも大型は止まらない。
拳が振り下ろされる。
氷壁と激突し、砕けた。
上野が押し戻される。
「……上野さん」
*
『そちらを見るな!』
玲子先生が前を向く。
こちらの巨人も、拘束された腕へ力を込めていた。
ぎし。
ぎしぎし。
枝が軋む。
『玲子』
「分かってる」
玲子先生は周囲の木々へ意識を広げた。
もっと。
もう少し。
枝を。
根を。
繋ぐ。
巨人を、ここへ縛りつける。
サクちゃんの視界が、さらに深く重なった。
言葉がなくても分かる。
どこを縛るのか。
次に、どこへ力がかかるのか。
「右腕」
言うより先に、サクちゃんが動いた。
葉の刃が巨人の手首を何度も走り、玲子先生がその腕へさらに枝を重ねる。
「次、左足」
根がさらに巻きついた。
巨人の動きが、また止まる。
「……できる」
玲子先生が呟いた。
戦える。
こんなふうに。
サクちゃんと。
『気を抜くな』
「分かってるって」
それでも、ほんの少しだけ嬉しかった。
その瞬間。
バキン。
太い音が響いた。
「……え?」
巨人の足元。
絡んでいた根が一本、引き抜かれている。
さらにもう一本。
土が大きく盛り上がった。
巨人が拘束された腕ごと木を引き、根元を地面から浮かせる。
土が弾けた。
『玲子!』
サクちゃんが玲子先生へ飛ぶ。
巨人の腕が横へ薙ぎ払われた。
「――っ」
避けられない。
サクちゃんが、玲子先生の前へ入った。
ドン――!!
世界が横へ吹き飛んだ。
空と木と地面が、ぐるりと回る。
玲子先生の身体が木の幹へ叩きつけられ、肺から一気に空気が抜けた。
「――」
声が出ない。
少し先には、サクちゃんも落ちていた。
翼が地面へ広がっている。
「……サク……ちゃん」
返事がない。
「サクちゃん!」
少しして、地面に伏せたままサクちゃんが口を開いた。
『……聞こえている』
生きている。
けれど、動かない。
玲子先生も起き上がろうとするが、身体が言うことを聞かなかった。
痛みではない。
もっと身体の奥。
レム層へ繋がる感覚そのものが、大きく乱れている。
『待て。同調が乱れている。今動けば、余計に戻れなくなるぞ』
「待てない……とっちゃんが……」
玲子先生が顔だけを上げる。
巨人は残った拘束を一本ずつ引き千切り、足元の根を踏み潰していた。
そして、眠るとっちゃんへ向き直る。
「……上野さん」
遠くを見る。
大型巨人の前で、上野が氷の槍を構えていた。
息が荒い。
大型の片脚を氷が地面へ縫い止め、もう片方へ氷槍が突き刺さる。
それでも大型は前へ出た。
氷が砕ける。
上野がさらに押し戻された。
「上野さん!」
玲子先生が叫ぶ。
上野が一瞬だけ、こちらを見た。
その瞬間。
大型の腕が上から振り下ろされる。
「上野さん!」
氷壁が一枚、二枚、三枚と重なる。
巨人の拳が叩きつけられた。
バキン――!!
一枚目。
二枚目。
三枚目。
すべて砕け、上野の身体が吹き飛んだ。
地面へ落ち、転がり、そのまま木の根元へ叩きつけられる。
「……上野さん?」
動かない。
玲子先生が前を見る。
とっちゃん。
その前に、巨人がいる。
もう邪魔する枝はない。
根もない。
サクちゃんも動けない。
上野も、遠くで倒れている。
玲子先生は地面へ手をついた。
「……動いて」
身体へ言い聞かせる。
「大丈夫。動ける」
腕が震えるだけで、身体は持ち上がらない。
「さっき、歩けたでしょ……お願い……」
巨人がしゃがんだ。
とっちゃんは、まだ眠っている。
「起きて……」
玲子先生の声が掠れる。
「とっちゃん。起きてよ……」
届かない。
巨人の手が、ゆっくりと伸びていく。
「サクちゃん……」
『……すまん』
「謝らないでよ……あと少し。あと少し動ければ……」
歯を食いしばり、もう一度腕へ力を込める。
上がらない。
巨人の指が、とっちゃんの身体へ近づいていく。
あと少し。
「……やだ」
十年前。
見つけた。
それでも、間に合わなかった。
今度は。
ちゃんと見つけたのに。
また、目の前で。
「……としふみ」
巨人の指が、さらに近づく。
「起きて……」
玲子先生の目から、涙が落ちた。
「としふみ……!」
指先が、服へ触れようとする。
「としふみ――!!」
もう。
誰も動けない。
玲子先生にも。
サクちゃんにも。
上野にも。
間に合わない。
**
――醒界。
西の空は、もう赤みを増していた。
山の影は長く道路へ伸び、さっきまで耳を埋めていた蝉の声も少しずつ薄くなり始めている。
四枚の札に囲まれた車のそばで、ケータとユキは玲子先生たちが消えた場所を見つめていた。
「……けーたん?」
ユキが隣を見る。
ケータは返事をしない。
「けーたん?」
「……ん?」
少し遅れて、声が返った。
ユキの眉が寄る。
「どうしたと?」
「分からん……なんか、眠いかも」
ケータが目を擦った瞬間、ユキの顔色が変わった。
「ダメ! 寝ちゃダメって先生言ってたやん!」
「うん……」
返事をしたつもりだった。
けれど、自分の声が妙に遠い。
ユキが何かを言っている。
すぐ隣にいるのに、その声まで少しずつ遠ざかっていく。
「けーたん!」
肩を掴まれた。
「起きて! けーたんまで寝たらダメ!」
「……寝て……ない……」
たぶん。
まだ、起きている。
そう思ったところで、視界がふっと暗くなった。
「けーたん!?」
ユキの声だけを残して。
ケータの意識が、途切れた。
**
――レム層。
巨人の指先が、とっちゃんの服へ触れようとしている。
玲子先生は動けない。
サクちゃんも。
上野も。
もう、間に合わない。
そのとき。
「やれやれ」
声がした。
ひどく場違いな、軽い声。
「ずいぶん粘ったもんだね」
玲子先生が顔を上げる。
巨人の肩。
白い毛。
長い耳。
小さな帽子。
白いウサギが、そこに立っていた。
「でも」
スクネは眠ったままのとっちゃんを見下ろし、それから玲子先生へ目を向けた。
「ここからは、僕の仕事かな」
「……スクネ君?」




