第20話② カベとキョジンとサクテキ
陽が、少しずつ西へ傾いていた。
山肌に落ちる光も、さっきより斜めになっている。
車は山肌に沿って、緩いカーブを曲がっていく。
右へ。
左へ。
そのたび、とっちゃんの頭もゆっくり揺れた。
「……とっちゃん?」
ユキが横を見る。
返事はない。
とっちゃんは窓にもたれたまま、目を閉じていた。
「寝とる」
「ちょっと!」
玲子先生がバックミラーを見る。
「起こして!」
ユキが、とっちゃんの肩を揺らした。
「とっちゃん。起きて」
「……」
「とっちゃん?」
もう一度、少し強く肩を揺らす。
起きない。
玲子先生の顔から、さっきまでの呆れた色が消えた。
「もっと強く!」
「え?」
「起こして!」
「とっちゃん!」
ユキが肩を掴んだ。
その瞬間。
とっちゃんの輪郭が、ふっと揺らいだ。
「……え?」
光でもない。
影でもない。
そこにいた身体が、水の底へ沈むようにぼやけていく。
「とっちゃん?」
ケータが手を伸ばした。
届く前に。
姿が、消えた。
「――っ!」
玲子先生がブレーキを踏んだ。
身体が一斉に前へ持っていかれ、タイヤが道路を噛む。
車は路肩へ止まった。
「とっちゃん!?」
ユキが空になった座席を見る。
「どこ行ったと!?」
ケータも身を乗り出した。
玲子先生だけが、とっちゃんのいた座席をじっと見ていた。
「……レム層」
「え?」
「落ちた」
玲子先生がドアを開ける。
むっとした熱気が、冷房の効いた車内へ一気に流れ込んできた。
「ここで寝夢に落ちて……境界に引っ張られたんだと思う」
「助けに行こう!」
ケータが言った。
「ダメ」
玲子先生は、すぐに首を振った。
「でも、とっちゃんが――」
「分かってる」
強く言い切ると、玲子先生はスマホを取り出した。
「先生?」
「応援を呼ぶ」
「誰を?」
「アームド」
画面を操作する。
ほどなく通話が繋がった。
「川中島です。日出生台管内、日田市、国道二一〇号線沿い。
夢見学園の児童一名が、レム層へ転落しました」
一拍置く。
「雅楽川としふみ。十歳。
夢見学園入学予定者。未訓練。寝夢からの転落です」
玲子先生はタブレット端末を開き、現在地を確認した。
「位置情報、送ります」
少しだけ声が低くなる。
「救助要請。至急、お願いします」
通話を切る。
「来てくれると?」
ユキが聞いた。
「この辺りは、日出生台の管轄だから。近くに隊員がいれば、すぐ来てくれる」
玲子先生が山を見る。
夏の山。
西へ傾く陽。
遠くから聞こえる川の音。
何も変わっていない醒界から、
とっちゃんの体温だけを残して、
ひとつの席が空いていた。
一分。
二分。
時計の針は、ひどくゆっくり動いているように見えた。
「先生」
ケータが呼ぶ。
「先生は……戦えんっちゃろ?」
「……うん」
「一人で行ったら、危ないやん」
「分かってる」
玲子先生がスマホを強く握る。
「だから待ってるの……」
もう一度、時計を見る。
五分。
七分。
陽は少しずつ山へ近づき、影もじわじわと道路へ伸びてきた。
そして。
十分ほど経ったころ。
道路の向こうから、一台の車が近づいてきた。
速度を落とし、路肩へ止まる。
ドアが開いた。
一人の男が降りてくる。
制服とかではなさそうだ。
カジュアルな格好をしている。
ただ、肩には簡素ながら大きめの鞄を提げていた。
男は小走りでこちらへ近づいてくる。
「川中島さんですか?」
「はい!」
「上野です。日出生台所属。
今日は非番だったんですが、近くにいたので要請を受けました」
玲子先生の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
上野は空になった座席を見る。
「転落から、どれくらいです?」
「十分くらいです」
「いわゆる、寝落ち?」
「はい」
「レム層での訓練は?」
「受けてません」
上野は、すぐに頷いた。
「今なら、向こうでもまだ寝ている可能性が高いです」
「……まだ?」
「自分から動いていないなら、夢獣に見つかってない可能性も高い」
玲子先生が顔を上げる。
「間に合いますか?」
「十分」
上野は迷わず答えた。
「救助申請は、要請を受けた時点でこちらで通してあります」
装備鞄を肩へ掛け直す。
「すぐ入ります」
「お願いします」
「その前に、川中島さんのレム内活動資格だけ確認します」
「川中島玲子。ダーレム所属。
九月から、夢見学園で教員予定」
一度、息を整える。
「拍流。行解門・上座」
「……行解門?」
ケータが口を挟む。
「なにそれ?」
玲子先生がケータを見る。
「あとで」
「え」
「今は、それどころじゃない」
「……うん」
上野が玲子先生を見る。
「戦闘経験は?」
「実戦という意味なら、ほとんどありません」
「メアは?」
「います。索敵なら、力になれます」
「では、前提として戦闘にならないよう私が先行します。
万が一、戦闘になった場合は私が対応します。
川中島さんは雅楽川くんを探しつつ、周囲の警戒をお願いします」
「分かりました」
玲子先生は、ケータとユキを見る。
「二人は、ここで待ってて」
懐から札を取り出す。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
道路脇の木。
ガードレール。
標識の支柱。
地面近くの杭。
車を囲うように、四方へ札を貼っていく。
最後の札へ指先をそっと触れる。
薄い光が、紙の上を走った。
一枚。
また一枚。
四枚の札が同時に小さく揺れ、その内側だけ空気が少し重くなった……気がした。
「簡易結界」
ユキが周囲を見回す。
「これで、大丈夫なん?」
「醒界側なら。何もないより、ずっといい」
「何もないより……」
「そこは気にしない」
「気になるけど」
ケータがぼそっと言った。
「大丈夫」
玲子先生が二人の顔を見る。
「絶対に、車と札で囲った範囲の外へ出ないこと」
少し間を置く。
「それから。念を押すようだけど、絶対に寝ないで」
「……うん、分かった」
今度は、誰も笑わなかった。
「先生」
ケータが呼ぶ。
玲子先生が振り返る。
「とっちゃん……とっちゃんのこと。頼んだよ」
その横で、ユキも小さく頷いた。
「絶対、連れて帰ってきてね」
玲子先生は二人の顔をしっかり見る。
「うん」
一度、頷いた。
「絶対、連れて帰る」
上野が玲子先生の隣へ立つ。
「行きます」
「はい」
玲子先生が右手を上げる。
中指を眉間へそっと当て、そのまま眉の線に沿って指を滑らせる。
髪をかき上げ、耳へかける。
きらり。
耳たぶで、小さな石が光った。
玲子先生が、それを摘むように触れる。
上野も同じように指を動かした。
二人が目を閉じる。
「R.E.M.――」
周囲の音が、一瞬だけ遠ざかった。
「潜航」
足元が、ふっとなくなる。
身体が深い水へ沈んでいくような感覚。
白。
その向こう。
一瞬だけ、夢界へ意識が触れた。
夢を見るための、深い場所。
そこへ意識を潜らせる。
そして。
**
――レム層。
空が、朱かった。
醒界では、陽は西へ傾いていた。
けれど、こちらでは。
朱い空の中、太陽がゆっくりと上へ昇っている。
斜めに伸びていた影も、少しずつ短くなっていく。
時間が戻っているわけではない。
自分たちは、ちゃんと先へ進んでいる。
ただ、
ここで見える時間だけが、醒界とは逆へ向かう。
「川中島さん」
上野の声。
「はい」
「上を」
玲子先生が顔を上げた。
山の上に。
壁があった。
「……」
さっきまで醒界から、何度も見ていた山。
その頂を、巨大な壁が繋いでいる。
一つの山から谷を跨ぎ、次の山へ。
さらに、その先へ。
日田をぐるりと囲むように、どこまでも。
石ではない。
土でもない。
岩。
樹皮。
古い地層。
どれにも見えて、どれとも違う。
山そのものが、この街を囲おうとして、その背から立ち上がったようだった。
「……すごい」
玲子先生が小さく呟く。
その肩の横で、ふわりと空気が揺れた。
羽音。
小さな影が、玲子先生のすぐ横へ現れる。
梟。
武人を思わせる、古風な装い。
静かな目が、玲子先生を見ていた。
「サクちゃん」
『見物に来たのではあるまい』
「……分かってる」
玲子先生が一つ息を吐く。
「お願い。周囲を見たいの」
サクちゃんは、それだけで意図を汲み取った。
翼を広げ、音もなく上空へ舞い上がる。
玲子先生が目を閉じた。
「隠密憑依」
一瞬、暗くなった視界へ別の景色が重なった。
高い。
眼下に、道がある。
川がある。
点在する家がある。
サクちゃんの視界。
玲子先生が目を開ける。
目の前には上野の背中。
山沿いの道。
その向こうに、もう一つ。
高い空から見下ろす景色が、重なって見えている。
玲子先生が空を見上げる。
サクちゃんは、もうかなり先を飛んでいた。
「……いる」
「どこです?」
「右手。森の中に三体」
サクちゃんの視線が、森の奥へ滑っていく。
言葉にしなくても、玲子先生が何を探しているのか分かっている。
さらに奥。
「……五体」
また別の影。
「まだいる」
森の上から頭が出る。
肩が出る。
長い腕が、木々の間をゆっくり揺れている。
人の形。
けれど、人ではない。
「……巨人」
「はい」
上野は、もう壁を見ていなかった。
巨人たちを見ている。
どれも同じ方角へ歩いている。
壁へ。
「全部……」
玲子先生がサクちゃんの視野へ意識を向ける。
「日田に向かってる」
「ええ」
上野が頷く。
「なぜだか、ここの巨人は壁の中を目指して移動し続けるんです」
「理由は?」
「分かってません」
遠くで。
ドン――。
低い音。
一体の巨人が、壁へ身体をぶつけた。
山の奥から重い音が返ってくる。
少し遅れて。
また。
ドン――。
玲子先生の足元まで、かすかな震えが伝わってきた。
壁は、びくともしない。
それでも巨人は離れなかった。
一歩。
また一歩。
ただ、壁の内側を目指して歩き続けている。
玲子先生は、サクちゃんの視界をもう一度見た。
森の中。
木々の間を、いくつもの巨体がゆっくり進んでいく。
遠くから見れば、ひどく鈍い。
けれど。
その一歩だけで、人間なら何十歩もかかる距離が消える。
玲子先生が息を呑んだ。
「川中島さん」
「……はい」
「探しましょう」
上野の声で、玲子先生は巨人から意識を離した。
今、探さなければならないのは壁じゃない。
巨人でもない。
「とっちゃんを」
その言葉だけで、サクちゃんが高度を下げた。
高い場所から見えていた壁が、視界の上へ消えていく。
代わりに道路が近づく。
川沿い。
家の裏。
木々の間。
地面へ近づくほど、見える範囲は狭くなっていく。
そして。
視界の端を、大きな影が横切った。
「……っ」
一瞬だけ。
木立の向こうを、巨人の脚が通り過ぎていく。
さっきまで山の向こうに見えていたもの。
それが今は、同じ道のすぐ近くを歩いている。
「近い……」
「ええ」
上野が声を落とした。
「ここから先は、できるだけ見つからないように行きます」
「……はい」
サクちゃんが巨人の進路を避けるように、ゆっくり旋回した。
その視線が、道路へ。
川沿いへ。
家の裏へ。
木々の間へ。
次々と移っていく。
玲子先生はその視界を受け取りながら、上野の後ろを歩く。
自分の足元も見えている。
同時に、頭の奥にはサクちゃんが見ている景色が流れ込んでくる。
どこかに、とっちゃんがいる。
そして。
そのどこかを、巨人たちも歩いている。
『焦るな』
「……分かってる」
『分かっておらん』
「うるさい」
『呼吸が浅い』
「……」
玲子先生が、ゆっくり息を吸った。
吐く。
サクちゃんの視野が、ぶれることなく先へ進んでいく。
玲子先生が焦っても、サクちゃんは焦らない。
逆に。
玲子先生が何を見たいのか。
何を見落としたくないのか。
その意図だけは、言葉より先に伝わっている。
「……ありがと」
『礼は後だ』
玲子先生が、少しだけ笑った。
「行きます」
上野が前へ出る。
「私が先行します。川中島さんは、そのまま捜索を」
「はい」
**
――醒界。
陽は、さっきより低くなっていた。
西の空に淡い橙が滲み始め、山の影も道路へ向かって長く伸びている。
蝉の声。
川の音。
時折、通り過ぎる車。
四枚の札と車に囲まれた内側で、ケータとユキは二人並んで座っていた。
「……大丈夫かな」
ユキが山を見る。
「玲子先生、戦えんっちゃんね?」
「うん」
「巨人がおったら、どうするっちゃろ?」
「……」
ケータも、すぐには答えられなかった。
でも。
「上野さんもおるし」
「……うん」
「アームド……警察とか、レスキューみたいな人よね?」
「たぶん」
「助けに来てくれた人やし」
「……うん」
「先生も、絶対連れて帰るって言ったし」
ユキは山を見たまま、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「……うん」
二人の前で、夕方が少しずつ深くなっていく。
陽は西へ。
影は長く。
醒界は、ゆっくりと夜へ向かっていた。
**
――レム層。
こちらでは逆だった。
太陽は先ほどより高い。
朱かった空から少しずつ赤みが抜け、影も短くなっている。
玲子先生と上野は、山沿いの道を進んでいた。
その遥か上を、サクちゃんが飛んでいる。
「左。林の向こうに一体」
玲子先生が言った。
上野が足を止める。
「距離は?」
「遠い。こっちには気づいてません」
「なら右へ」
「待って」
サクちゃんの視界が、ふっと右へ流れた。
玲子先生もそちらへ意識を向ける。
木立。
道。
そのさらに奥。
「右奥にも二体」
少し先を、サクちゃんが旋回する。
次に安全な道を、玲子先生が考えるより先に探している。
「このまま真っ直ぐ。次の分かれ道を左」
「了解」
上野が、すぐに進路を変えた。
前を行く上野。
頭上を飛ぶサクちゃん。
玲子先生は、その間を歩いていく。
戦えない。
だから、戦わなくていい道を見つける。
巨人を避け、死角を繋ぎ、とっちゃんがいる可能性のある場所を一つずつ潰していく。
そのとき。
『玲子』
「なに?」
サクちゃんが急に向きを変えた。
共有された視界が道路を外れる。
木立の向こう。
古い家の裏。
さらに、その先。
道の端。
何かが倒れている。
「……」
金色の髪。
小学生にしては、大きな身体。
見慣れた服。
玲子先生の足が止まった。
「……いた」
「川中島さん?」
サクちゃんは、すでにその真上を旋回している。
玲子先生が右前方を指差した。
「いた!」
声が、少しだけ震える。
「とっちゃん……!」




