第20話① 日田の巨人とアームド隊員
今村天主堂を出たころには、
時計の針は午後一時を回っていた。
真昼の陽射しが、
赤煉瓦の壁を明るく照らしている。
車へ向かいながら、
とっちゃんが教会を振り返った。
入口の前では、
玲子先生と野見山先生が、
最後まで何か言い合っている。
「先生たちが喧嘩しよるけん、
遅くなったやん」
「喧嘩じゃないわよ」
「では、
議論と訂正してください」
「野見山は黙ってて!」
「まだやりよる……」
とっちゃんが、
呆れたように車へ乗り込む。
ユキが、
小さく笑った。
ケータも最後に、
教会のほうを振り返った。
赤い煉瓦。
二本の塔。
その上に立つ十字架。
さっきまで知らなかった三人とは、
また学校で会う。
神社で育った自分たちとは、
祈る場所も、
教わってきたことも違った。
それでも。
別れ際に交わした言葉は、
ただの「またね」だった。
*
車は大刀洗を離れ、
東へ向かった。
最初のうちは、
景色もそれほど変わらなかった。
田んぼ。
畑。
道沿いの家。
夏の陽を浴びた稲が、
風に合わせて揺れている。
遠くには、
山が見えていた。
けれど。
まだ遠い。
窓を少し開けると、
熱を含んだ風の中に、
土と草の匂いが混じって入ってきた。
ときどき、
田んぼの水の匂いもする。
車は吉井を抜け、
浮羽へ進んでいく。
遠くにあった山が、
少しずつ
近づいてきた。
道の横を川が走るようになり、
家が途切れる。
窓の外に見える緑も、
田畑の色から、
山の色へ変わっていった。
ケータは、
流れていく景色を眺めていた。
空も。
さっきまで頭の上いっぱいに
広がっていたはずなのに。
いつの間にか、
山と山の隙間に見えるだけになっていた。
「……先生」
「なに?」
とっちゃんは、
しばらく窓の外を見たままだった。
「山やん」
「山ね」
「昨日、
山じゃないって言ったやん!」
「言ってないわよ!
登らないって言ったの!」
「同じやん!」
「全然違う!」
とっちゃんが、
窓の外を指差す。
「山ばっかりやん!」
「九州の真ん中を横切ってるんだから、
仕方ないでしょ!」
ユキも、
窓の外を見る。
「ほんとに山ばっかり」
「ユキまで言わないの!」
玲子先生の声が、
車内に響いた。
ケータは笑いながら、
もう一度外へ目を向ける。
道は、
近づいてきた山の裾へ入り込むように続いていた。
川は、
そのすぐ横を流れている。
陽射しは強いのに、
山の影に入るたび、
車内が一瞬だけ暗くなった。
「もうすぐ日田に着くわよ」
玲子先生が言った。
*
日田へ着いたのは、
午後二時を少し回ったころだった。
山あいを抜けると、
景色がふっと開ける。
町。
川。
橋。
陽を受けた水面が、
白く光っていた。
それでも。
遠くを見れば、
どちらにも山がある。
街を包むように。
ぐるりと。
「お腹空いた?」
玲子先生が聞いた。
「ちょっと」
ケータが答えると、
ユキも頷いた。
「けーたんと同じくらい」
「俺は食える」
とっちゃんが言う。
玲子先生が、
バックミラー越しに見る。
「朝、
あれだけ食べたのに?」
「叔父さんが食わせすぎなんよ」
「人聞き悪い言い方しないの」
今朝の食卓を思い出す。
ご飯。
味噌汁。
焼き魚。
卵。
漬物。
果物。
食べ終わったと思ったら、
まだ何か出てきた。
『育ち盛りなんだから、
遠慮するな』
叔父さんの声が、
まだ聞こえてくるようだった。
「俺、
あれ昼飯まで込みやと思っとった」
「入ってません」
「じゃあ何やったん」
「叔父さんのおもてなし」
「重い」
「失礼ね」
玲子先生が、
呆れながら笑った。
「せっかく日田まで来たんだから、
日田やきそば食べていくわよ」
「やきそば!」
とっちゃんの声が、
急に大きくなる。
ユキが横を見る。
「やっぱりお腹空いとるやん」
「やきそばは別腹」
「そんな別腹ある?」
*
ジュウッ――。
鉄板の上で、
麺が焼けていた。
油の弾ける音。
ソースが焦げる、
香ばしい匂い。
店の中には、
昼を少し過ぎた時間の、
ゆったりした空気が流れている。
運ばれてきた焼きそばは、
麺のところどころが、
こんがりと焼かれていた。
ケータが、
一口食べる。
ぱりっ。
表面が弾ける。
そのあとに、
柔らかい麺が続いた。
「うまっ」
「おいしい!」
ユキも、
嬉しそうに頷く。
とっちゃんはもう、
次の一口を口へ運んでいる。
「朝飯あんなに食べたのに……」
玲子先生が、
呆れたように言った。
「先生も食べよるやん」
「私は大人だからいいの」
「なんそれ」
ユキが、
玲子先生の皿を見る。
それから。
玲子先生を見る。
「……大人の女の人のほうが、
危なくない?」
「え?」
「炭水化物」
「ユキ!?」
とっちゃんが、
吹き出した。
しばらく。
笑い声と、
焼きそばを食べる音が続いた。
窓の外には、
山が見える。
店の屋根の向こう。
街の向こう。
右を見ても。
左を見ても。
その先には、
山があった。
玲子先生も、
同じ方向を見ていた。
「日田ってね」
箸を置く。
「昔から、
人や物が集まる場所だったの」
ケータが、
顔を上げる。
「ここ?」
「そう。
いろんな方向へ道が伸びてるでしょ。
昔から九州の中を行き来する人たちが、
ここを通ってたの。
江戸時代には天領にもなって、
かなり栄えた街よ」
「天領って?」
「幕府が直接治めてた土地」
「えらい土地?」
とっちゃんが聞く。
「まあ……
ざっくり言えば、
大事な土地ね」
ケータが笑った。
「ざっくりって言った」
「……野見山がいなくてよかった」
玲子先生が、
ぼそっと言った。
とっちゃんが吹き出す。
「でも」
玲子先生が、
もう一度窓の外へ目を向けた。
「日田が面白いのは、
醒界だけじゃないの」
ケータも、
山を見る。
「レム層ではね。
この街そのものが、
守られてる」
「街が?」
「うん」
玲子先生が、
窓の向こうを指した。
店の屋根の、その先。
青い山の稜線が続いている。
ケータも、
その指を目で追った。
右。
左。
どちらにも山。
「醒界では、
ただ山に囲まれてるように見えるでしょ」
玲子先生の指が、
稜線をなぞる。
「でもレム層ではね。
山の頂上から、
次の山の頂上へ。
そこからまた、
その次の山へ。
谷を跨ぎながら、
巨大な壁が、
ずっと続いてるの」
とっちゃんの箸が止まった。
「……壁?」
「日田盆地を、
ぐるっと囲んでる」
「街全部?」
「街っていうより、
この盆地ごとね」
ケータは、
もう一度山を見た。
今は。
何もない。
ただの山だった。
「城の壁みたいな?」
とっちゃんが聞く。
「ちょっと違うかな」
玲子先生は、
少し考えた。
「人が石を積んで造った感じじゃないの。
山そのものから壁が生えて、
そのまま隣の山まで続いてるような……
そんな感じ」
「誰が作ったと?」
ケータが聞いた。
玲子先生は、
すぐには答えなかった。
窓の向こう。
街を囲む山々へ、
もう一度目を向ける。
「……誰かが作った、
っていうものでもないのよ」
「じゃあ、
なんでできたと?」
「願い、かな」
玲子先生は、
山を見たまま続ける。
「この街を守りたい。
ここで暮らす人を守りたい。
そういう願いや祈りが、
長い時間をかけて積み重なった」
山。
その内側にある街。
ケータも、
窓の向こうを見る。
「だから、
壁になったと?」
「たぶんね」
玲子先生は、
そこで少し言葉を切った。
「でも。
壁って、
外から何かが入ってくるのを防ぐだけじゃないでしょ」
「……区切ったり、閉じ込めたりするため?」
「そうね」
玲子先生が頷く。
「中に暮らしてる人からすれば、
守られてるっていうより、
囲まれてるように感じることもあると思う」
とっちゃんが、
窓の外を見る。
「確かに。
山ばっかりやし」
「まだそれ言う?」
玲子先生は笑ってから、
少しだけ真面目な顔に戻った。
「特に若い人なら。
もっと大きな街へ行きたい。
外の世界を見たい。
ここから出たいって、
思うこともあるでしょうね」
店の外を。
一台の車が、
音を残して通り過ぎていった。
「この街を守りたいっていう想いと。
ここから出たいっていう想い」
玲子先生の指が、
山の稜線をゆっくりとなぞる。
「相反するような願いが。
ずっと、
ここに積み重なってる」
「それで壁になると?」
「……そこまでは分からない」
玲子先生が、
小さく首を振った。
「でも。
願いや祈りが積み重なって、
レム層に何かを生み出す。
その性質だけを見れば――」
少し考える。
「夢害や、
夢獣が生まれるのと。
そんなに遠い現象じゃないのかもしれない」
「じゃあ、
壁も夢害?」
とっちゃんが聞いた。
「……それは、
私には判断できないわ」
「先生でも?」
「先生でも」
玲子先生は、
あっさり認めた。
それから。
窓の向こうの山を、
少し眩しそうに見る。
「願いや祈りから生まれたものを。
全部まとめて、
『害』って呼んでいいのか。
私はね。
そうじゃないって、
信じたいのよ」
「なんで?」
ケータが聞く。
「だって」
玲子先生が、
少しだけ笑った。
「夢や祈りに。
希望がないなんて、
嫌でしょう?」
ケータは。
何も言わず、
もう一度山を見た。
「もし。
本当に誰かを救う夢害が見つかったら」
玲子先生が、
箸を持ち直す。
「そのときは、
私が名前を変えてあげるわ」
「先生が?」
「研究者ですから」
「勝手に変えてよかと?」
「……そこは、
偉くなってから考える」
「まだ偉くないんや」
「とっちゃん?」
ユキが、
くすっと笑った。
「ただし」
玲子先生が、
水を一口飲む。
「壁の外は、
そんな呑気な話じゃないけどね」
とっちゃんの顔が、
すぐに明るくなった。
「なんかおると?」
「なんで嬉しそうなのよ」
「なんとなく」
「巨人」
「巨人!?」
店の中に、
声が響いた。
「声大きい!」
「ほんとにおると!?」
「いるわよ。
巨人型の夢獣」
「どれくらい?」
「大きいものだと……
森の上から、
頭が見えるくらい」
「でか……」
とっちゃんの目が、
輝く。
「見たい」
「見せません」
「なんで!」
「危ないからよ」
玲子先生が、
ため息をつく。
「日田を出れば、
巨人型のバクがいる。
その先の玖珠って町まで行けば、
鬼みたいなバクも出るらしいわ」
「鬼も!?」
今度は、
ケータが反応した。
「私は直接見たことないけどね」
「父さんが付けとった面みたいな?」
「さあ。
そこまで似てるかは、
見たことないから分からないわ」
とっちゃんが、
しみじみと呟く。
「巨人や鬼もおるんか……」
「だから、
その顔やめなさい」
「かっこよかやん」
「危ないって言ってるでしょうが」
玲子先生は、
呆れながらも少し笑った。
「そういう夢害や夢獣と、
前線で対策を行う組織があるの」
「組織?」
「アームド」
三人とも、
玲子先生を見る。
「初めて聞いた」
ケータが言った。
「そうだっけ?」
「聞いとらん」
「私も」
「……じゃあ、
今説明する」
玲子先生が、
少し姿勢を正した。
「夢害や夢獣が、
人の暮らす場所へ影響を及ぼさないように。
現場へ出て、
調査したり、
守ったり、
必要なら戦ったりする組織よ」
「警察みたいな?」
ユキが聞く。
「近いところもあるかな。
醒界では、
自衛隊だったり、
警察だったり。
表向きは別の組織として動いてることもあるの」
「正体隠しとると?」
「まあ、
そんな感じ」
玲子先生が、
窓の向こうを指す。
「この辺りを担当してるのは、
玖珠にある、
日出生台の部隊」
「そこにもアームドってのがおると?」
「うん。
日田から玖珠。
九重、由布、
湯布院あたりまで。
巡回したり、
危険な夢獣を駆逐したり。
日田の壁を監視したりね」
ケータは、
窓の向こうに見える山を、
もう一度見た。
今は何も見えない。
ただ。
山が、
街を囲んでいるだけ。
けれど。
その向こうには。
巨大な壁がある。
さらに。
その壁の外には。
巨人がいる。
そう思うだけで。
さっきまでの山とは、
少し違って見えた。
*
店を出たのは、
午後三時を過ぎたころだった。
まだ陽射しは強い。
けれど。
山の影は、
少しずつ長くなり始めている。
車は日田の町を離れ、
再び、
山あいへ入った。
川沿いの道。
濃い緑。
濡れた岩肌。
冷房の効いた車内には、
タイヤが道路を擦る、
一定の音だけが続いていた。
昼食のあと。
揺れる車。
涼しい風。
とっちゃんが、
小さくあくびをした。
「三人とも」
玲子先生が、
バックミラーを見る。
「ここから先は、
本当に気をつけてね」
「何に?」
「さっき話したでしょ。
この辺りは、
巨人型のバクが出る危険区域なの」
玲子先生が、
前を向いたまま続ける。
「あなたたちは、
まだ自分の意思でレム層へ入れるわけじゃない。
でも。
何度も向こうへ行ったことで、
境界に引っ張られやすくなってる可能性はある」
「どうやったら入ってしまうと?」
ケータが聞いた。
「寝ること」
「……寝る?」
ユキが、
とっちゃんを見る。
「寝夢に深く落ちたとき。
こういう境界が不安定な場所だと、
意図せず向こうへ引っ張られることがあるの」
玲子先生は、
もう一度バックミラーを見る。
「だから三人とも。
絶対に寝ないでね」
「……」
「フリじゃないからね」
「……」
「寝るなって言ったら眠くなるとか、
本当にやめてよ」
とっちゃんが、
もう一度あくびをした。
「……先生」
「なに」
「それ言われたら、
眠くなってきた」
「もう眠いでしょうが!」
「やきそば食べたし」
「さっきまで巨人見たいって騒いでたでしょ!」
「それとこれとは別やん」
ユキが、
とっちゃんの顔を覗き込む。
「もう目、
半分閉じとるよ」
「閉じとらん……」
「閉じとる」
「起きろって」
ケータが笑う。
「起きとる……」
*
車は、
山肌に挟まれた道を進んでいく。
右へ。
左へ。
緩いカーブが続く。
陽射しが木々に遮られるたび、
車内が暗くなって。
また、
明るくなる。
とっちゃんの頭が、
ゆっくり揺れていた。
右へ。
左へ。
ゴン。
「痛っ!」
「寝たやろ」
「寝てない!」
ユキが笑う。
玲子先生は、
大きくため息をついた。
「ほんとにお願いだから、
今日は頑張って」
また。
車の音だけが続いた。
ケータも、
窓の外へ目を向ける。
遠くの山。
その稜線。
本当に。
あそこに、
壁があるのだろうか。
少しだけ。
見てみたいと思った。




