第16話③レム層からの眺め
**
同じ山のはずだった。
けれど。
神すり岩を抜けた先は、
どこか違って見えた。
木々は深く。
影は濃い。
風が吹けば葉は揺れるのに、
その音だけが少し遅れて聞こえる。
足元の石には、
淡い光の筋が走っていた。
ケータは、
辺りを見回す。
この空気を、
知っている。
「……あの日と、似てる」
ユキも、
静かに周囲を見渡した。
「うん。でも……」
あの夜とは違う。
胸を締めつけるような怖さも。
肌を刺すような気配もない。
むしろ。
山全体に、
静かな何かが満ちていた。
「同じレム層でも、場所によってずいぶん違うのよ」
玲子先生が、
先へ進む。
そのとき。
ケータは、
木々の隙間から差す陽を見上げた。
「……あれ?」
さっきまで、
もう昼近くまで昇っていたはずの太陽が。
少し低い。
「先生……」
「気づいた?」
玲子先生が、
腕時計を見せる。
秒針が。
逆へ動いていた。
「レム層の大きな特徴のひとつよ。時間の流れが、醒界とは逆なの」
「逆?」
「時計も逆に進むし、太陽も逆に巡る」
玲子先生は、
空を見上げる。
「夜から昼へ。昼から朝へ。そして朝を越えれば、また夜へ向かう」
とっちゃんが、
腕時計を覗き込む。
「時間が戻っとるってこと?」
「違うわ」
玲子先生が、
すぐに否定した。
「過去に戻ってるわけじゃないの」
「違うと?」
「過去があって、現在があって、その先に未来がある。それは醒界と同じよ」
玲子先生は、
逆向きに進む時計へ目を落とした。
「私たちは、ちゃんと未来へ進んでる」
「じゃあ、なんで時計は戻っとるん?」
「それは……分からないのよ」
「分からんの!?」
「分からないものは分からないわ」
玲子先生は、
今度は空を見上げた。
太陽は、
ゆっくりと東へ戻っていく。
「レム層では、時間を表すものが醒界とは逆になる
時計も
太陽も
でも、私たち自身は過去へ戻ってるわけじゃない」
ユキが、
少し首を傾げた。
「じゃあ、時間そのものが逆なの?」
「それも分からない」
「分からないこと多くない?」
「多いわよ」
玲子先生は、
あっさり答えた。
「時間そのものが逆なのか。時間を見せる仕組みだけが逆なのか。そもそも醒界とレム層で、同じものを時間って呼んでいいのか」
少し笑う。
「理由は、まだ分かってないわ」
「学校でも分からんと?」
「分からないことを、分からないって教えるのも授業よ」
とっちゃんが、
もう一度時計を見る。
「じゃあ、どこのレム層でも絶対こうなるん?」
「今の所そうね。ただ絶対……とは断定できない。
レム層や夢界は広いもの。もしかしたら醒界と同じように時間が動く場所もあるかもしれないし、まったく違う動きをする場所だってあるかもしれない」
玲子先生は肩をすくめた。
「少なくとも、今まで確認されている多くの場所では逆向き。それだけ覚えておけば十分よ」
ケータは、
もう一度空を見上げた。
太陽は。
来た道を戻るように、
ゆっくり東へ向かっている。
そのとき。
木の上に。
何かいる。
犬のような。
狐のような。
白い獣。
ケータが見上げた瞬間。
それは、
枝から枝へ飛び移り、
森の奥へ消えた。
「今の……」
「見ても追わない」
玲子先生が、
前を向いたまま言う。
「ここはあの子たちの場所でもあるから」
ケータは、
黙って頷いた。
*
レム層に入ってからも、
山道は容赦なく続いた。
「もう無理……」
とっちゃんが、
岩に両手をつく。
「これ、登山じゃなくて修行やろ……」
「宝満山は修験道の山です」
玲子先生が答える。
「だからって俺らまで修験者にならんでいいやろ……」
「いい経験よ」
「先生だけ元気なの腹立つ」
ユキも、
すっかり無言になっていた。
ケータも、
腿が重い。
岩に手を掛け。
身体を持ち上げる。
さらに上。
また上。
そのあいだにも、
空は少しずつ朝へ戻っていく。
陽は低く。
影は長く。
木々の間を抜ける光も、
昼の白さから朝の淡さへ変わっていた。
ふと振り返ると。
木々の間から、
遠くの町が見えた。
太宰府。
その向こうへ、
平野が広がっている。
現実で見る景色より、
少し霞んでいた。
まるで、
薄い膜越しに町を見ているようだった。
「もう少しよ」
「先生のもう少し信用できん」
「今度は本当」
「前も言った?」
「言ってない」
「……なら信じる」
さらに岩場を登る。
そして。
急に、
視界が開けた。
*
山頂。
上宮。
空が近かった。
雲が、
眼下を流れている。
さっきまで昼へ向かっていたはずの空は、
もう朝の色へ戻りつつあった。
淡い陽。
長く伸びる影。
風は、
ひんやりと冷たい。
ケータは、
しばらく何も言えなかった。
そこに。
何かいた。
上宮の前。
長い鼻。
赤黒い顔。
背には、
大きな翼。
天狗。
その首には。
太い白蛇が、
まるで襟巻きのように巻きついていた。
「……でか」
ケータが呟く。
白蛇が、
ゆっくりこちらを見る。
金色の瞳。
舌が、
細く伸びた。
「大丈夫」
玲子先生が言う。
「この山の守り手よ」
「メア?」
「そう」
玲子先生は、
天狗と白蛇の前まで進む。
そして。
深々と頭を下げた。
ケータ。
とっちゃん。
ユキ。
三人も慌てて真似をする。
スクネだけは。
なぜか反対側の空を眺めていた。
「お前も頭下げろよ」
「僕はいいの」
「なんで?」
「昔から知ってるから」
「知ってるからっていいの?」
そのとき。
小さな足音がした。
岩陰から、
白い獣が現れる。
「あ」
ケータが指さした。
「さっきの犬みたいなの!」
犬のような。
狐のような。
けれど、
近くで見ると狛犬にも似ている。
白い獣は、
天狗の前までやって来ると、
ちょこんと座った。
何かを伝えているように、
小さく鳴く。
天狗が頷く。
白い獣は、
また山の中へ走り去った。
「今の何?」
「報告……かな」
玲子先生が言う。
「この山で何か変わったことがないか、見回ってるのよ」
「山全部?」
「たぶんね」
「この天狗と蛇が?」
「この二人だけじゃないでしょうけど」
玲子先生は、
白蛇を見る。
「太宰府は長い間、守られることを願われてきた土地だから」
大宰府。
鬼門。
旅の安全。
国の安寧。
災いを退けたいという祈り。
「一人の夢じゃないの」
玲子先生は言った。
「何百年。何千年。同じ場所で、似た願いを何人もの人が重ねてきた」
天狗と白蛇を見る。
「そういう願いが、形になることもある」
「願いが?」
「そう」
玲子先生は、
少しだけ笑った。
「だから人は、祈ることをやめられないのかもしれないわね」
ケータが、
白蛇を見る。
「じゃあ……この二人、誰かのメアじゃないってこと?」
「そういうことーー
夢って、一人だけのものとは限らないのよ」
ケータは、
しばらく天狗を見ていた。
夢。
願い。
祈り。
似ているようで、
少し違う。
まだ、
よく分からない。
けれど。
この山そのものが、
何かを願っているような気がした。
*
「さて」
玲子先生の声が、
少し低くなる。
「ここからは、本当ならやっちゃダメなことをするわ」
「え?」
三人が振り返る。
「だから――今から見ることは忘れて」
「無理やろ」
「でしょうね」
「じゃあなんで言ったと?」
「言っておくのは大事だから」
玲子先生は、
肩から下げていた荷物を地面に置いた。
「学園でも組織でも、聞かれたら知らないって言って」
「それ、ほんとにダメなやつやん」
「だから言ったでしょ」
中から、
包みを取り出す。
布を解く。
金色。
四つの目。
ケータは、
息を呑んだ。
「……それ」
忘れるはずがない。
あの夜。
母を封じた……と言われた面。
「そう」
玲子先生が、
金色の面を両手で持つ。
「本来、これは何もせずに学園まで持ち帰るのが私の仕事」
「じゃあ、なんで出したと?」
「見せたいものがあるから」
玲子先生の目から、
いつもの軽さが消えていた。
「昨日からずっと考えてた」
金色面を見る。
「レム層からなら、夢界を覗ける……かもと思って」
「夢界……」
ケータが呟く。
スクネだけが、
黙っていた。
「でもね、夢界って簡単に行けないし、自由に見られる場所じゃないの」
玲子先生が続ける。
「何が見えるか分からない。何も見えないことだってある」
「じゃあ……」
「この面なら、もしかしたら」
玲子先生が、
ケータを見る。
「お母さんに繋がるものが見えるかもしれない」
ケータの胸が、
強く鳴った。
「ほんと?」
「分からない」
玲子先生は、
はっきり答えた。
「でも、繋がりが強いものほど見えやすいって話があるの」
金色面へ視線を落とす。
「これは、お母さんと繋がっているというより」
一度、
言葉を選ぶ。
「今は、お母さんそのものに近い」
ケータは、
面を見つめた。
母ちゃん。
「……見たい」
玲子先生は、
すぐには答えなかった。
「どうなるか分からない。危険よ?」
「それでも」
「見たものが本当になるとは限らない」
「うん」
「見たくないものを見るかもしれない」
「……うん」
「それでも?」
ケータは頷いた。
「見たい」
玲子先生が、
小さく息を吐く。
「分かった」
その声は。
先生というより、
一人の大人の声だった。
「絶対に、私が外すまで手を伸ばさないで」
「うん」
「何が見えても、向こうへ行こうとしない」
「分かった」
玲子先生は、
金色面をケータへ渡した。
「じゃあ」
少し間を置く。
「覗いてみて」
ケータは、
面を顔へ近づけた。
四つの目。
その向こうを。
覗く。
***
暗い。
何も見えない。
音もない。
ただ。
どこか遠くで、
誰かが泣いている。
少しずつ。
闇に、
色が生まれる。
黒。
白。
灰色。
花。
「……え」
白い花が並んでいた。
黒い服を着た人たち。
俯いている姉さん。
その隣には、
ケータがいる。
誰も、
こちらを見ない。
誰も、
喋らない。
ただ。
泣いている。
ケータは、
その先を見た。
写真があった。
母の写真。
「……母ちゃん?」
笑っていた。
いつもの顔で。
なのに。
母はいない。
「……なんで」
葬式だった。
母の。
「違う」
声が、
勝手に漏れた。
「違うやろ」
足が前へ出る。
「母ちゃんは……」
いなくなっただけだ。
まだ、
死んだって決まってない。
スクネだって言っていた。
生きている未来もあるって。
だから。
「これ……違うやろ」
返事はない。
写真の中の母だけが、
笑っている。
その笑顔を見ているうちに。
胸の奥で、
何かが切れた。
「……いやだ」
声が震えた。
「嫌だ……」
父ちゃんはいなくなった。
母ちゃんまで。
「嫌だよ……」
喉が痛い。
息がうまく吸えない。
それでも、
涙だけは次から次へと溢れてきた。
「母ちゃん……」
会いたい。
もう一回でいい。
声を聞きたい。
触りたい。
「母ちゃん……!」
その瞬間。
景色が、
弾けた。
白い天井。
病室。
ベッド。
母がいた。
「……え?」
目を閉じている。
けれど。
胸が、
ゆっくり上下している。
「母ちゃん?」
瞼が動いた。
ゆっくり。
母が、
目を開ける。
「……ケータ」
声。
母ちゃんの声。
「……っ」
何か言おうとして。
言葉にならなかった。
「ケータ?」
母が、
手を伸ばす。
その手を見た瞬間。
「母ちゃん!」
ケータは飛びついた。
腕が、
身体を包む。
温かい。
匂いも。
声も。
手の感触も。
全部、
覚えている母ちゃんだった。
「母ちゃん……母ちゃん……!」
顔を、
胸に押しつける。
もう離したくなかった。
「俺……」
言葉が、
次から次へと出てきた。
「俺、ちゃんとしよったよ」
母の服を、
ぎゅっと掴む。
「ちゃんとしようとしよった」
父ちゃんがいなくなって。
母ちゃんもいなくなって。
泣いたらいけない気がした。
姉さんもいる。
とっちゃんも。
ユキも。
自分まで、
ぐちゃぐちゃになったらいけない気がした。
「俺、ちゃんと学校にも行くけん」
涙で、
言葉が途切れる。
「ちゃんと勉強するし……」
母の腕に、
もっと強くしがみつく。
「神楽も……」
もっと。
もっと言いたい。
聞いてほしい。
「だから……」
頭を撫でてほしい。
頑張ったねって。
偉かったねって。
もう大丈夫だって。
「母ちゃん……」
抱きしめてほしかった。
ずっと。
けれど。
腕の中から、
温もりが消えた。
「……え?」
病室。
母が、
ベッドに横たわっている。
動かない。
「母ちゃん?」
返事がない。
「……母ちゃん」
また。
白い花。
母の写真。
「いや」
また。
「ケータ」
笑う母。
「母ちゃん!」
また。
病室。
動かない母。
「やめて」
また。
家。
台所に立つ母。
「母ちゃん」
また。
黒い服。
白い花。
「やめてって……」
生きている。
死んでいる。
笑っている。
動かない。
抱きしめてくれる。
いなくなる。
「やめろよ……!」
もう。
何を見ているのか分からなかった。
嬉しいのか。
悲しいのか。
会えたのか。
失ったのか。
涙が止まらない。
息も苦しい。
それでも。
景色の向こうには、
母がいる。
「……母ちゃん」
手を伸ばした。
今度こそ。
捕まえないと。
また消える。
「母ちゃん!」
指先が、
景色の向こうへ沈んでいく。
もう少し。
あと少し。
母ちゃんのところへ。
「ケータくん!」
強い力で、
身体を後ろへ引かれた。
世界が、
消えた。
**
「っ……!」
身体が、
強く後ろへ引かれた。
足がもつれる。
倒れそうになったケータを、
玲子先生が抱き止める。
「ケータくん!」
「母ちゃん……!」
まだ。
見えていた。
母の顔が。
笑っていた顔が。
白い花の中の写真が。
ケータは、
もう一度前へ手を伸ばした。
「母ちゃん……!」
「ダメ!」
玲子先生が、
腕を掴む。
「離して!」
「ダメ! もう戻ってきて!」
「母ちゃんがおる!」
身体を捩る。
それでも、
玲子先生は離さない。
「母ちゃんが……」
声が、
崩れていく。
「母ちゃん……」
「母ちゃん……!」
もう、
そこには何もなかった。
病室も。
家も。
白い花も。
母も。
あるのは、
宝満山の山頂。
冷たい風。
逆へ巡る朝の空。
それでも。
ケータは、
何もない場所へ手を伸ばしていた。
「母ちゃん……」
呼んでも。
返事はない。
「母ちゃん……!」
とうとう、
膝から力が抜けた。
玲子先生が、
支えようと手を伸ばす。
その前に。
ユキが、
ケータを抱きしめた。
「……けーたん」
小さな身体で。
ぎゅっと。
逃がさないように。
「…………」
ケータは、
ユキの腕の中でもまだ前を見ていた。
「母ちゃん……」
手を伸ばそうとする。
ユキが、
その手まで抱き込んだ。
「……うん」
それだけだった。
「母ちゃんが……」
「うん」
「おったんよ……」
「うん」
「生きとった……」
声が、
震える。
「でも……」
息を吸おうとして。
うまく吸えない。
「死んどった……」
そこから先は、
言葉にならなかった。
「う、ぁ……」
泣き声だけが出た。
「うぁぁ……」
ケータは、
ユキの服を掴んだ。
強く。
「母ちゃん……」
何度も。
「母ちゃん……!」
ユキは、
何も言わなかった。
ただ。
背中に腕を回している。
ケータが、
どれだけ泣いても。
どれだけ名前を呼んでも。
離さなかった。
少し離れたところでは。
とっちゃんが、
太宰府の町を見ていた。
背中を向けたまま。
見ていないふりをして。
しばらく。
山頂には、
ケータの泣き声だけが響いていた。
やがて。
肩の震えが、
少しずつ小さくなっていく。
息を吸う。
吐く。
また吸う。
それが、
ようやくできるようになってきた。
「……ごめん」
玲子先生が言った。
ケータは、
ユキに抱きしめられたまま顔を上げる。
「ごめんね」
玲子先生は、
金色面を胸元に抱えていた。
「私……こうなる可能性があるって、
分かってたはずなの」
いつもの調子は、
なかった。
「夢界を見るって、
そういうことだから」
少し、
言葉を切る。
「見たくないものを見るかもしれない」
「感情が追いつかなくなるかもしれない」
「向こうへ行きたくなるかもしれない」
玲子先生は、
視線を落とした。
「全部、
分かってたはずなのに」
「それでも私は、
見せた」
ケータは、
何も言わない。
「私が確かめたかったから」
玲子先生は、
金色面を握る。
「お母さんに繋がる何かが、
本当に見えるのか」
「……」
「ケータくんに、
辛い思いさせた」
玲子先生が、
頭を下げた。
「ごめん」
ケータは、
しばらく黙っていた。
鼻をすすって。
袖で目を拭う。
「……でも」
声はまだ、
掠れていた。
「俺が見たいって言った」
玲子先生が、
顔を上げる。
「見たかった」
ケータは、
ユキの腕の中で小さく息を吸う。
「辛かったけど」
一度、
目を閉じる。
「母ちゃんに……会えた」
玲子先生は、
何も言わなかった。
ただ。
小さく頷いた。
「……そうだね」
その声を聞いて。
スクネが、
岩の上で少しだけ姿勢を変えた。
「あのさ」
ケータが見る。
スクネは、
珍しく少し困った顔をしていた。
「僕、
こういうとき何て言えばいいか、
あんまり知らないんだけど」
片耳を、
指で掻く。
「先生の言ったこと、
たぶん間違ってないよ」
玲子先生が、
スクネを見る。
「夢界って、
そういうところだから」
ケータは、
黙って聞いていた。
「でも」
スクネは、
ケータを見る。
「さっき見たものも、
どっちも嘘じゃない」
「……どっちも?」
「うん」
「生きてる母ちゃんも」
「死んでる母ちゃんも」
「どっちも、
まだ未来にある」
ケータの指が、
ユキの服を少しだけ握る。
「まだ、
決まってないんだ」
スクネの声は、
いつもより静かだった。
「だから」
少し考える。
「今は、
どっちだったか決めなくていいよ」
「……え?」
「まだ決まってないんだから」
ケータの目から、
また涙がひとつ落ちた。
スクネが、
少しだけ笑う。
「会いたいなら、
会いたいって思ってていいし」
「生きててほしいなら、
そう思ってていい」
ケータは、
俯いた。
「俺……」
声が、
まだ震えている。
「母ちゃんに会いたい」
「うん」
「生きててほしい」
「うん」
「また……」
一度、
息が詰まる。
「抱きしめてほしい」
スクネは、
ゆっくり頷いた。
「うん」
少し間を置いて。
「じゃあ、
ひとつだけ覚えといて」
「なに?」
「母ちゃんのこと、
忘れないでね」
ケータは、
顔を上げた。
「……忘れんよ」
「うん」
スクネは頷く。
「夢を見る人がいなくなったら、
消えちゃう可能性だってあるんだから」
玲子先生が、
ゆっくり顔を上げた。
「あーあ……」
「なに?」
「全部言っちゃった」
スクネが首を傾げる。
玲子先生は、
じっとスクネを見る。
「っていうか……なんで君、そこまで詳しいのよ」
「え?」
「夢界のことよ。スクネ君……あなた、なんなの?」
「僕はスクネだよ」
「それは聞いた!」
「あ」
スクネが、
ふと空を見る。
「何?」
「時間だ」
「また!?」
スクネが立ち上がる。
「じゃあ、またね」
「ちょっと待ちなさい! まだ聞きたいことが――」
スクネの後ろ。
空間が、
ゆらりと揺れた。
何もないはずの場所に、
水面のような光が浮かぶ。
鏡にも似た。
向こう側の見えない境。
「じゃあ、またね」
スクネは、
振り返りもせず。
その中へ、
一歩踏み込んだ。
水面が、
スクネの身体を静かに呑み込む。
波紋が、
ひとつ。
ゆっくりと広がり。
やがて消えた。
そこにはもう、
スクネの姿もなかった。
「…………」
玲子先生が、
口を開いたまま固まっている。
「先生?」
「…………」
「玲子先生?」
ようやく。
玲子先生が呟いた。
「今……」
金色面を持つ手に、
力が入る。
「夢界に入った?」
誰も答えられなかった。
眼下には、
太宰府の町が広がっている。
朝へ向かって逆に巡る空の下。
現実と。
夢と。
まだどちらにもなっていない未来が。
同じ場所に、
重なっていた。
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