第16話② レム層からの眺め
休憩すると言って奥へ向かったスクネの後を追い、ケータたちは中宮跡のさらに奥へ進む。
古い石の台座や、何かの建物があったらしい跡を抜けると、小さな石祠の裏に大きな岩があった。
スクネはその前まで行くと、満足そうに腰を下ろした。
「ここ、落ち着くんだよね」
とっちゃんが、ウサギにもそういう場所があるのかと半ば呆れたように言うと、スクネは当然だという顔をした。
「あるよ。ケータだってあるでしょ?」
そう言われて、ケータの頭に浮かんだのは那珂川の大岩だった。
何度も登った場所。
神楽の練習を眺めた場所。
そして、スクネと出会った場所。
ほんの少し前のことなのに、こうして別の山にいると、ずいぶん遠くまで来たような気がする。
玲子先生は休憩中も相変わらずスクネが気になるらしく、隣へ座るなり顔を覗き込んだ。
「ねえ、スクネくん。一個だけ」
「その一個が長いんだよ」
最初から嫌そうな顔をしているスクネに、ユキがくすりと笑う。とっちゃんは岩にもたれたまま、ようやく落ち着いてきた呼吸を整えていた。
ここまで登ってくると、麓から続いていた川の音も聞こえない。葉擦れと、ときおり木々の向こうから届く鳥の声。それだけが静かな山の中に残っている。
しばらく身体を休めたところで、玲子先生が膝を払って立ち上がった。
「そろそろ行くわよ」
スクネは岩の前から動こうとしない。
「あとちょっと」
「ダメ。ここでのんびりしてたら日が暮れるでしょ」
「横暴だ」
ぶつぶつ言いながらも、スクネは諦めたように立ち上がる。
その様子を見た玲子先生が、どこか楽しそうに笑った。
「せっかくの研究対象なんだから、ちゃんとついてきてもらわないと」
「僕、研究対象になった覚えないけど」
「今日から今日から♪」
「やだなあ」
*
休憩場所を出てからは、足元に土よりも石が目立つようになった。傾斜も少しずつきつくなり、張り出した木の根や岩へ手を掛けなければ登れない場所も増えていく。
ケータが足元ばかり見ながら進んでいると、前を歩いていた玲子先生が水場の前で足を止めた。
「ここが益影の井」
玲子先生は閼伽の井で汲んできた水をほんの一口だけ口に含むと、残りを地面へ流した。
「え、捨てると?」
「ここから先は、ここの水を使うの」
空になった容器で改めて水を汲む。その様子を横から眺めながら、ケータはいつの間にか森の匂いまで変わっていることに気づいた。
湿った土や木々の青い匂いに混じって、冷たい岩を濡らしたような匂いがする。
また少し登ると、木々の間に巨大な岩がせり出していた。
「……でか」
「竈門岩よ」
玲子先生は足を止めることなくその脇を抜けていく。その先にあったのは、表面に馬の蹄を押しつけたような跡を残す石だった。
「馬蹄石」
そこでようやく玲子先生が荷物を下ろした。
取り出したのは、閼伽の井で摘んでおいたミズヒキとツリフネソウ。二つの花を指先で揉むと、赤と淡い紫の汁が滲み、その手へ益影の井の水を少しずつ加えていく。
「何するん?」
「あなたたちを連れて入る準備」
花を混ぜた水を指につけ、玲子先生はまず自分の額へ触れた。それからケータ、とっちゃん、ユキの順に、額と肩へ数滴ずつ落としていく。
「つめたっ」
ケータが思わず首をすくめる。
玲子先生は笑いもせず、残った水を足元へ静かに撒いた。
ぽたり、と一滴。
乾いていた石に水が染み込む。
さらにもう一滴が落ちた、そのときだった。
目の前の景色が、ゆらりと歪んだ。
「……え?」
森も岩も、そこにあるものすべてが一瞬だけ輪郭を失う。
暑さで揺らぐ空気にも見えた。
水面に映った景色が波紋で崩れたようにも見えた。
けれど瞬きをしたころには、もう元へ戻っている。
「今の何?」
「通してもらうための挨拶よ」
玲子先生は濡れた指先を払いながら立ち上がった。
一人なら、こんな手順を踏む必要はないらしい。けれど、ケータたちはまだ自分の意思でレム層へ出入りする方法を知らない。その状態で境界を越えるため、ここに残る古い作法を借りるのだという。
「じゃあ、これで安全?」
「帰って来られる可能性が高くなる、くらい」
安心するには微妙な答えだった。
玲子先生によれば、こうした作法は聖域ごとに異なる。宝満山では、二つの井戸から汲んだ水と、山に咲く花を使う。
「ほら。次はあそこ」
示された先で、二つの岩が人一人通れるほどの隙間を作っていた。
「袖すり岩」
名前を聞いて、ケータはその細さに納得した。
身体を横へ向けなければ、とても通れそうにない。
岩の間へ入り込むと、すぐに肩が冷たい岩肌へ触れた。片側を避ければ反対側へ擦れそうになるほど狭く、足元まで見ながら少しずつ進んでいく。
背後からは、とっちゃんたちの声が聞こえていた。
けれど。
一歩進むごとに、その声が遠くなる。
きっと、岩に遮られているだけだ。
前に見える細い光へ向かい、最後の一歩を踏み出す。
その瞬間。
**
ケータは思わず足を止めた。
何かが違う。
振り返ると、袖すり岩はちゃんとそこにある。木々も、登ってきた山道も消えてはいない。
なのに、さっきまで聞こえていた登山者の話し声がしなかった。
足音もない。
風の音さえ、ひどく遠い。
同じ場所のはずなのに、森そのものが少しだけ姿を変えている。
木々の緑は深く沈み、葉の隙間から差す光には青白さが混じっていた。見上げた空も、木々のすぐ向こうにあるはずなのに、いつもよりずっと遠く感じる。
「……ここ」
声を出した途端、それすら森の中へ吸い込まれていくような気がした。
音が消えたわけではない。
どこかでは葉が擦れ、遠くから鳥に似た声も届いている。
それなのに、妙に静かだった。
ケータは森の奥へ目を凝らす。
何かがいる。
姿が見えたわけではない。
ただ、木々の向こうからこちらを窺われているような感覚だけが、どうしても消えなかった。
遅れて袖すり岩を抜けてきた玲子先生が、ケータの様子を見てから、ゆっくりと周囲を見渡した。
「ようこそ」
そして、三人へ振り返る。
「ここからがレム層よ」
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