第16話① 霊峰 宝満山を登る
宝満山登山
ついに第二章が始まります!
宝満山の麓。
竈門神社へ着いたころには、朝の空に浮かんでいた白い月は、もうどこにも見えなくなっていた。
木々の向こうから差し込む陽射しは少しずつ夏の色を濃くしている。それでも山の空気にはまだ朝の涼しさが残っていて、車を降りたケータは大きく息を吸い込んだ。
湿った土と、青々と茂る木々の匂い。
那珂川の山と、どこか似ている。
けれど、同じではない。
何が違うのかは、まだ分からなかった。
「ここが竈門神社?」
ユキが鳥居を見上げる横で、玲子先生は荷物を肩に掛け直し、そのまま背後にそびえる宝満山へ目を向けた。
「そう。正確には宝満宮竈門神社ね。宝満山は、古くから神が降り立つ山として信仰されてきたの。山そのものが御神体に近い扱いを受けてきた霊山ね」
聞き慣れない言葉にユキが首を傾げると、玲子先生は、神さまや仏さまと縁の深い山だと思えばいい、と簡単に説明した。
大宰府から見れば北東、いわゆる鬼門の方角にあたり、国を守るための祈りが長いあいだ積み重ねられてきた場所でもある。修験道の聖地として最澄や空海の名も伝わり、遣隋使や遣唐使が海を渡る前に、旅の安全や成功を祈ったとも言われているらしい。
「誰か知らんけど、昔の人って旅するだけでも大変やったんやな」
とっちゃんが感心したように山を見上げる。
「あー、その辺は授業ではまだ習ってないかしら。まあ、海を渡るだけでも命懸けだったからね」
玲子先生は少し笑ってから、宝満山は山全体が国の史跡に指定されているのだと続けた。信仰の山そのものが史跡になった例としては、国内でもかなり珍しいという。
そこまで話したところで、玲子先生は一度言葉を切った。
「……っていうのが、表向きのお話」
三人の視線が揃って玲子先生へ向く。
歴史として間違っているわけではない。ただ、今日ここへ来た理由は、それだけではないらしい。
玲子先生は鳥居の先、山へ続く道へ目を向けた。
「行けば分かるわ」
その言い方に、ケータは嫌な予感しかしなかった。
「それ、絶対しんどいやつやんーー」
*
竈門神社を抜け、一行は宝満山へ入った。
潮井川に沿うように伸びた細い道を登っていく。木々の間からは絶えず水の音が聞こえ、少し進むたびに古い鳥居が姿を見せた。道の脇には苔むした石垣や古びた祠が残り、張り出した木の根がところどころで地面を押し上げている。
夏の陽射しは、さっきより強くなっているはずだった。それでも深い森の中まで届く光は柔らかく、葉の隙間から落ちる木洩れ日が石段の上で揺れていた。
とっちゃんは何度目か分からない溜め息をつき、ユキも少しずつ息が上がってきている。そんな二人を気にも留めず、玲子先生だけは一定の足取りで先へ進んでいった。
*
しばらく進むと、道の先に古びた鳥居が見えてきた。
その手前で、玲子先生が足を止める。
「ここから先は聖域よ」
一の鳥居。
ケータは鳥居の向こうを見た。
森があり、石段があり、木々の隙間から淡い光が落ちている。
見たところ、今までと何も変わらない。
けれど、一歩鳥居をくぐった瞬間、肌に触れる空気がわずかに冷えた。
「……ん?」
風が吹いたわけではない。
森の匂いも、水の音も変わらないはずなのに、どこか音だけが遠ざかったように感じる。
玲子先生によれば、ここはまだレム層ではない。ただ、醒界の中でも夢側の影響が濃く、結界によって境目に近い状態になっているらしい。
ユキが警戒するように木々の奥を見る。
夢獣が現れることもある。
ただし、この山に棲むものは基本的に人へ危害を加えない。見かけても目を合わせず、追わず、触らず。何もしなければ、向こうも何もしない。
「野生動物みたい」
「ここでは似たようなものね」
その言葉を聞きながら、ケータは何となく木々の奥へ目を向けた。
白い何かが、枝葉の向こうを横切った。
犬のようにも見えたし、狐のようにも見えた。目を凝らしたときには、もう姿はない。
追いかける気にはならなかった。
それが正解だったらしく、玲子先生は満足そうに頷いた。
*
さらに登ると、一行の前に長い石段が現れた。森の奥へ吸い込まれるように、上へ、さらにその先へと続いている。
「百段ガンギ」
玲子先生がそう言ったが、下から見上げる限り、とても百段程度には思えない。
「名前の通り、石段がずーっと続くわ」
「百段どころじゃないように見えるんやけど」
「数えたら負けよ」
「もう負けた」
とっちゃんはそう言うなり、その場にしゃがみ込んだ。ユキも何も言わず、うんざりした顔で石段の先を見上げている。
帰りもここを通るのだろうか。
ケータがそう考えた瞬間、玲子先生と目が合った。
何も言っていないのに、玲子先生は意味ありげに笑った。
*
ようやく石段を登り切ったころには、三人ともすっかり汗だくになっていた。木陰へ入ると、山を抜ける風が火照った身体を少しずつ冷ましていく。
「ちょっと休憩……」
ケータが近くの石へ腰を下ろしかけたが、玲子先生はそのまま先へ進んでいった。
「もう少しだけ」
「先生、元気すぎん?」
「普段から歩いてるもの」
「絶対うそ」
三人の不満を軽く流しながら進んだ先に、小さな井戸のような水場があった。
「ここが閼伽の井。仏さまに供える水を汲む場所よ」
玲子先生は持ってきた小さな容器で水を汲んだ。澄んだ水面に陽が差し込み、ゆらゆらと光が揺れる。
その周囲には、淡い桃色のミゾソバや、赤い節が目立つミズヒキが咲いていた。少し離れたところには、吊り下がるような形のツリフネソウも見える。
湿った土の上を、細長い脚をした虫がふわりと横切った。
「うわ、蚊?」
ユキが思わず身を引く。
「ミスジガガンボ。刺さないわよ」
「長すぎて怖い」
「見た目で嫌われるタイプね」
そう言いながら、玲子先生はミズヒキを摘み、続けてツリフネソウにも手を伸ばした。
「先生、何しよると?」
「簡単な儀式の準備」
それ以上は説明せず、摘んだ花を丁寧に布で包んだ。
*
そこから、さらに山を登った。
やがて木々の間が開け、少し広い場所へ出る。
「ここが中宮跡」
かつては、この辺りにいくつもの建物があったらしい。玲子先生が周囲を見渡しながら説明していると、不意にケータの耳へ一つの言葉が引っかかった。
「ケータくん。ここには神楽堂もあったらしいよ」
「神楽堂?」
その言葉を聞いた瞬間、ケータの足が止まる。
ここにも、神楽を舞う場所があった。
そう思ったとき、風が吹き抜け、木々がざわりと鳴った。
視界の端を、白いものが横切る。
「……え?」
誰かがいる。
そう思って目を向けた先で、白い袖が翻った。
ほんの一瞬だった。
誰かが舞っている。
足が地を踏み、身体が滑るように回る。その姿を追おうとした瞬間、聞こえるはずのない鈴の音が耳の奥で鳴った。
チリン――。
ケータは目を凝らした。
けれど、そこにはもう誰もいない。風に揺れる木々と、何もない中宮跡が広がっているだけだった。
不思議と、怖くはなかった。
胸の奥に残ったのは恐怖ではなく、どこか懐かしいような温かさだった。
「よく来たね、ってさ」
突然すぐ近くから声がして、三人とも飛び上がった。
いつの間にか、スクネが石の上に座っている。
ケータが文句を言うより早く、玲子先生の目が輝いた。さっそく何か聞き出そうとしたものの、スクネは顔を見ただけで嫌そうに耳を伏せる。
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かる」
それだけ返すと、スクネは石から降り、さっさと奥へ歩いていった。
「こっち。休憩するよ」
休憩と聞いた瞬間だけは、誰も反対しなかった。
三人は迷わず、その後をついていった。
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