第15話 旅の始まりはいつもDOKIDOKI
第二章突入です。
いよいよ学園に向けて出発です。
覚悟は決めた?!
夏休みの朝。
星見宮は、まだ蝉の声もなく静かだった。
淡い朝の空には、
白い月がまだ薄く残っている。
山から降りてくる風は、
夏とは思えないほど涼しい。
杉の葉と、
夜露を含んだ土の匂い。
社務所の前では、
姉さんが水を撒いていた。
細い水が朝日に光り、
石畳を濡らしていく。
境内の外まで流れた水が、
舗装された道に触れる。
ふっと、
濡れたアスファルトの匂いが立った。
ケータは、
小さく息を吸う。
夏の朝の匂いだった。
まだ蝉が鳴いていないぶん、
川の音がよく聞こえる。
さらさらと流れる水音。
葉擦れ。
そのすぐ脇を走る国道から、
時折、
車の音が境内へ入り込んでくる。
タイヤが路面を噛む音。
低く唸るエンジン音。
一台が通り過ぎれば、
また川の音が戻ってくる。
木々の隙間から差し込む朝日が、
鳥居や石段に木洩れ日を落としていた。
風が吹くたび、
光もゆっくりと揺れる。
ケータは、
しばらくその景色を見ていた。
何度も見てきた、
星見宮の朝。
それなのに今日は、
少しだけ違って見えた。
境内の端には、
一台のバンが停まっている。
荷物は、
ほとんど送り終えた。
服も。
本も。
学園で使うものも。
残すもの。
持っていくもの。
父と母の形見も。
とっちゃんとユキに託すものも。
全部、
決めた。
あとは――
ここを発つだけだった。
*
「……でかくない?」
最後部座席へ乗り込んだケータは、
前の座席を見て言った。
「なによ」
ユキが振り返る。
その隣には、
大きなバッグが鎮座していた。
「ほとんどの荷物、もう送ったんやろ?」
「送ったわよ」
助手席のとっちゃんも、
後ろを振り返る。
「じゃあ、それ何が入っとると?」
ユキは大きなバッグを抱き寄せた。
「女子はいろいろ大変なの!」
「そういうもん?」
「そういうものなの!」
ケータととっちゃんは、
顔を見合わせた。
「……女子って大変なんやな」
「分かればよろしい」
ユキが満足そうに頷く。
運転席の玲子先生が、
バックミラー越しに三人を見た。
「はいはい。荷物の話はそこまで。出るわよ」
その言葉で、
車内の空気が少しだけ変わった。
ケータは、
窓の外を見る。
鳥居。
社。
神楽舞台。
見慣れた境内。
ここから離れる。
ほんの少し前までは、
そんなことを考えたこともなかった。
玲子先生が、
ハンドルに両手を置く。
「いよいよ出発ね。覚悟はいい?」
ケータ。
とっちゃん。
ユキ。
三人とも、
真剣な顔で頷いた。
「もちろん」
エンジンの音が、
少し大きくなる。
これから。
知らない世界へ行く。
ケータは、
小さく息を吸った。
そして――
車が。
後ろへ進んだ。
「え?」
「ちょっ――」
「先生!?」
「え、なんで!?」
バンが、
そのまま社務所へ向かっていく。
「うわああああ!」
「先生、後ろ後ろ!」
「分かってる!」
キィィッ――!
急ブレーキ。
車が止まった。
社務所まで、
あと少し。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も喋らない。
数秒後。
とっちゃんが、
小さく呟いた。
「……覚悟、できてないかもしれん」
ケータも頷く。
「俺も。もう死ぬかと思った……」
ユキが、
真顔で前を見る。
「これが夢……? 夢って怖いのね」
「違うから! ちょっとギアを間違えただけだから!」
「ちょっとで済む?」
「済んだでしょ!」
「済んではいるけど……」
玲子先生は、
何事もなかったかのように前を向いた。
再び発進。
今度は。
ちゃんと前へ進んだ。
*
しばらく。
車内は、
とても静かだった。
とっちゃんは助手席で、
シートベルトをしっかり握っている。
ユキも、
妙に姿勢がいい。
ケータも、
前方から目を離さない。
「……そんなに緊張しなくても大丈夫よ。ちゃんと運転してるでしょ」
誰も返事をしない。
「…………」
「あと、今ちょっと話しかけないで」
三人の緊張が、
一段上がった。
*
それから、
しばらくして。
ようやく車内に、
普通の空気が戻ってきた。
玲子先生の運転も、
いつの間にか滑らかになっている。
「まずは太宰府に行くわよ。それから私の地元の小郡。今日はそこで一泊するわ。明日以降の予定は、今日泊まるところで説明するから」
「今日は小郡まで?」
とっちゃんが聞く。
「そう。今日はそこまで。明日からはもう少し移動するから、予定は夜にちゃんと説明するわ」
「はーい」
ユキが返事をする。
そのときだった。
「太宰府ねえ。ここから宰府の道を通って、竈門神社へ行くんだね」
知らない声がした。
「そうそう。あそこは私たちの世界を知るには重要な――」
玲子先生が、
普通に返す。
そして、
止まった。
ケータも止まった。
車内に、
一瞬だけ妙な静けさが落ちる。
「…………」
ケータは、
ゆっくり横を見た。
最後部座席。
自分の隣。
白いウサギが、
普通に座っていた。
「…………」
スクネが首を傾げる。
「なに?」
「なんでお前が乗ってるんだー!!」
「うさぎー!!」
「なになに!? 何がおると!? 俺には見えん!」
「ちょっと待って!」
玲子先生の声。
車が、
急に減速する。
「うわっ!」
「また!?」
「今度はちゃんと止めるから!」
バンは近くの駐車場へ入った。
車が止まる。
玲子先生はシートベルトを外すと、
勢いよく後ろを振り返った。
そして、
スクネを見る。
「あなた何!? メアよね? なんでここにいるの? 誰のメア? 野良メア? いや、そんな事例聞いたことないけど……!」
いきなり始まった。
スクネが口を挟む暇もない。
玲子先生は、
矢継ぎ早に質問を浴びせていく。
「いつから醒界にいるの? その姿でどれくらい活動できるの? 触れる? 実体はあるの? 宝珠は? どういう状態で顕現してるの?」
「待って待って待って! 質問が多い!」
スクネが両手を上げた。
玲子先生が、
ぴたりと止まる。
「……ごめんなさい。つい」
「ついで済む量じゃなかったけど」
スクネがむっとする。
そして、
胸を張った。
「僕はスクネ。ケータのメアになるのかな。よろしくね」
「ケータくんの!?」
玲子先生が、
勢いよくケータを見る。
「え、俺?」
「え、じゃない!」
すぐに、
スクネへ視線を戻す。
「もう顕現してるの!? ここ醒界よ? ケータくん、まだ何も修行してないじゃない!」
「そんなこと言われたって、僕はここにいるんだから仕方ないじゃないか。それに、見えたり話せたりした方が便利でしょ? ねえ、お嬢さん」
「お嬢さん……」
玲子先生が、
一瞬だけ止まった。
「……まあ、それは置いといて」
すぐ戻った。
「もしかして……あなた、あの夜のことも知ってる?」
「まあね」
玲子先生の目が変わる。
「あの夜、ケータくんの中にいたの、あなた?」
「そうだよ」
「……やっぱり」
玲子先生は、
少し考え込んだ。
今度は、
さっきのようにまくし立てない。
「じゃあ、これだけ聞かせて。あなたはケータくんのメアなの?」
「まあ、そういうことになるのかな」
「どうしてもう醒界に顕現できるの?」
「顕現できないよりいいでしょ?」
「答えになってないわ」
「そう?」
「じゃあ、あなたは何者なの?」
スクネは、
少しだけ首を傾けた。
「スクネだよ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……そういうタイプね」
「どういうタイプ……?」
玲子先生が、
さらに口を開こうとする。
スクネが、
先に遮った。
「もういいでしょ! とにかく、宝満山には行くべきだ。ケータはこの世界のことを知らなさすぎる。ちゃんと知るべきなんだよ」
車内が静かになる。
玲子先生も、
しばらく考えた。
「……本当は、太宰府天満宮に行って、竈門神社の下宮を見て、梅ヶ枝餅でも食べながら説明するつもりだったんだけど」
スクネを見る。
「上まで行きましょうか」
「上?」
「竈門神社の上宮。宝満山の山頂よ」
「山登ると!?」
「初日から?」
とっちゃんも振り返る。
ユキは、
横の大きなバッグを見る。
「荷物どうするの?」
「車に置いていけばいいでしょ」
そのとき。
スクネが、
ふと窓の外を見た。
「あ」
「ん?」
「あー、もうこんな時間。急がなくちゃ」
「は?」
「じゃあね」
ふっ。
スクネの姿が消えた。
「またそれ……」
ケータが呟く。
「あ、いなくなった」
「……また?」
玲子先生の声。
「ん?」
「今、“また”って言った?」
「言ったけど」
玲子先生が、
ゆっくりケータを見る。
「ケータくん。スクネくんと、前にも会ったことあるの?」
「うん」
「うん!?」
玲子先生が、
身を乗り出した。
「いつ!?」
「えっと……」
ケータは、
少し考える。
「はっきりとは覚えてないんだけど、あの日より前にも会ってる。あと、病院でも話した」
「聞いてないわよ! 他には?」
「最初は、意味の分からないことばっかり言ってた気がする。ほとんど覚えてない。病院では……名前を教えてもらって、あと、あの夜、俺の体を借りたって」
玲子先生の表情が変わった。
「なんでそんな大事なこと黙ってたの?」
「だって……」
ケータの声が、
小さくなる。
「ずっと寝てたし、頭も痛かったし、ちゃんと思い出せなかったし……」
窓の外を見る。
「それに、言ったら頭おかしいって思われそうだったし……」
玲子先生が黙る。
「俺、この世界のこと、何も知らなかったから……」
声が、
少し震えた。
目の奥が熱くなる。
「……ごめん」
玲子先生が、
すぐに言った。
「そうよね。私たち、何も説明してなかった。知らないものを説明しろって言われても、無理よね」
ケータは、
黙ったまま頷いた。
「たしか……スクネ、椅子が必要とか、ほんと意味分からないこと言ってた」
「椅子?」
「うん。それから……」
ケータの表情が変わる。
「母ちゃんは、生きてる未来も、死んでる未来も、両方あるって」
玲子先生が黙った。
とっちゃんも。
ユキも。
何も言わない。
「この世界のことを知れば、何か分かるかもしれないって思った」
ケータは、
拳を握る。
「もしかしたら、助けられるかもしれないって」
少しだけ、
顔を上げる。
「だから、学園に行くって決めたんだ」
玲子先生は、
しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……ケータくん」
「なに?」
「スクネくんを、自分から呼び出せる?」
「ううん」
「帰すことは?」
「できない」
「さっきも勝手に帰ったわよね」
「いつもそう。勝手に出てきて、勝手にいなくなる」
「なるほど……」
玲子先生の目が、
少しずつ輝いていく。
「先生?」
「研究したいわ……。ものすごく研究したい」
「先生」
「分かってる、分かってる」
全然分かっていない顔だった。
玲子先生は、
ひとつ咳払いをする。
「普通のメアはね、人間と繋がって存在しているの。人間側とは無関係に好きなときに現れて、好きなときに帰るなんて普通はできない。それに、醒界であれだけ自由に動き回れるのも異例よ」
「スクネって、そんな変なん?」
「変」
「即答やん」
「かなり変」
玲子先生が断言する。
「まあ、詳しい話は今夜ね。スクネくんのことも、もう一度ちゃんと聞かせてもらうわ」
そう言って、
玲子先生は前を向いた。
「まずは太宰府。宝満山まで行くわよ」
とっちゃんが、
すぐに手を挙げる。
「梅ヶ枝餅は?」
「あとで! 食べます!」
「よかった」
ユキが、
ほっと息をつく。
「そこは絶対なんや」
ケータも笑った。
玲子先生が、
ハンドルを握る。
エンジンが低く唸った。
「行くわよ!」
アクセルを――
思いきり踏み込む。
ヴォンッ!!
「うわあああ!」
「先生!」
「怖い怖い怖い!」
「ちょ、ちょっと待って!」
バンが、
勢いよく駐車場を飛び出した。
その騒ぎの中。
どこからともなく。
スクネの声だけが聞こえた。
「……安全運転でお願いします」
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