第12話 ネガイヲカク
星結が終わっても、しばらく三人はその場を動かなかった。
さっきまで太鼓や笛、鉦で満ちていた境内に、いつもの夏の音が戻ってくる。蝉が鳴き、風に揺れた木々の葉がさらさらと擦れた。
ケータは舞台の中央で息を整えた。
胸の奥には、まだ神楽の熱が残っている。足も腕も少し痛むけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
舞台の向こうでは、とっちゃんが太鼓の前に座り、その隣にユキが立っている。
三人の目が合った。
最初に吹き出したのは、ユキだった。
「ふふっ」
「なん笑いよると」
「だって……『わたしは、プロ野球選手になります』ってめっちゃ練習しよったし」
「やめろ!」
とっちゃんの顔が、一気に赤くなる。
「手のひらの人も、いっぱい食べとったし」
「緊張しとったんやけん、仕方ないやん!」
「しとらんって言っとったやん」
「うるさい!」
ケータも堪えきれずに笑った。
張り詰めていたものが、それで少しだけほどけた。
「……ていうかさ」
二人がケータを見る。
「なんで、二人とも夢変えたん?」
今度は、とっちゃんとユキが顔を見合わせた。
「とっちゃん、ずっとプロ野球選手になるって言いよったやん。ユキもテニスやったやん。なのに、なんで囃子方と巫女なん?」
先に口を開いたのは、とっちゃんだった。
「……俺も、プロ野球選手って言うつもりやったとよ」
「ばり練習しよったもんね」
「そうっちゃけど……神前に立って、ケータが舞いよるの見たらさ」
とっちゃんは、さっきまで自分が叩いていた太鼓へ目をやった。
「俺が音出さんとって、思った」
「……なんで?」
「それが分からんちゃん」
困ったように頭を掻く。
「わたしも!」
ユキが自分の白衣の袖を見下ろした。
「本当にテニス選手になるって言うつもりだった。でも、ケータンが舞って、とっちゃんが太鼓叩いてるのみとったら……」
そこで一度言葉を止め、二人を見る。
「ここにいたいなって思った」
それだけ言って、ユキは少し照れたように笑った。
ケータは二人を見つめた。
プロ野球選手。
テニス選手。
二人がずっと楽しそうに話していた夢だ。
それがなくなった。
――本当に、そういうことなんだろうか。
何かが引っかかった。
けれど、その正体が何なのかまでは分からない。
今のケータには、まだ。
*
境内では、星結の片付けが始まっていた。
大人たちが祭具を運び、木箱の蓋を閉じていく。あちこちから家族の声も聞こえ、さっきまで儀式の場だった境内が、少しずついつもの神社へ戻り始めていた。
ケータも舞台を降りる。
「ケータくん」
呼ばれて振り向くと、少し離れたところで玲子が手招きしていた。
「ちょっといい?」
「はい」
ケータがそちらへ向かうと、とっちゃんとユキも当然のようについてきた。
玲子が二人を見る。
「……二人も?」
「おるけど」
「いるよ」
「いや、別にいいけど」
玲子は少し考え、持っていた紙袋を開いた。
「じゃあ、ちょうどいいか」
中から取り出したのは、三枚の紙だった。
「はい」
ケータが受け取る。
紙の一番上には、大きな文字で書かれていた。
――夢見学園 入学願書。
「……え」
「願書」
「それは見れば分かります」
「じゃあ書いて」
「今!?」
「今」
あまりにも当然の顔で言われ、ケータは願書と玲子を交互に見た。
「面接とかは?」
「してる」
「いつ?」
「今」
「これ面接なん?」
「さっきからずっと」
「知らんうちに面接されとるやん!」
「大人って、そういうものよ」
「絶対違う」
玲子は楽しそうに笑ったが、すぐに少しだけ表情を改めた。
「まあ、書くかどうかはその前にちゃんと聞くけどね」
三人を見る。
「夢見学園に来る?」
それまでの軽い空気が、少しだけ静かになった。
ケータは手の中の願書へ目を落とす。
「夢見学園って……何するとこなんですか」
「夢獣や夢害について学ぶ場所」
玲子はそう答えてから、言葉を続けた。
「それだけじゃない。自分の身を守る方法も、誰かを守る方法も学ぶ。それに――夢獣や夢害と戦うための力も」
「戦う……?」
その一言で、ケータの中にあの日の光景が蘇った。
紅い空。
黒い獣。
その前に立っていた父の背中。
宙を駆ける足と、爆ぜた白い光。
「……父ちゃんみたいに?」
玲子は静かに頷いた。
「そう。あの日、あなたが見たお父さんみたいに」
ケータはもう一度、願書を見る。
そこへ行けば、知ることができるかもしれない。
夢獣のこと。
夢害のこと。
あの日、星見宮で何が起きたのか。
父ちゃんが何をしていたのか。
母ちゃんに何が起きたのか。
そして、自分自身に何が起きたのか。
それだけじゃない。
あの日の父ちゃんのように、自分にも戦える何かがあるのなら。
「行きます」
ケータは顔を上げた。
「俺、夢見学園に行きます。ちゃんと知りたいです。父ちゃんのことも、母ちゃんのことも、あの日のことも」
玲子が小さく頷く。
「分かった」
「とっちゃんは?」
「行く」
即答だった。
「早っ」
「お前が行くなら、行く。あと――」
とっちゃんは仮設の舞台を見た。
「囃子方になるって言っちゃったし」
「そこ?」
「そこ大事やろ」
ケータがユキを見る。
「ユキは?」
「行くよ」
こっちも迷わなかった。
「わたしも、もっと知りたいし。それに巫女になったのに、二人だけ行ったらケータンの神楽、支えられないじゃん」
そう言って、少しだけ胸を張る。
ケータととっちゃんが黙ってユキを見る。
「……何?」
「いや」
「別に」
「なによ」
玲子は三人を見渡し、小さく息を吐いた。
「じゃあ、三人とも決まりね」
そして願書を指差す。
「書いて」
「ほんとに今なんだ……」
*
三人は社務所の一室へ通された。
低い机の上には、三枚の願書と鉛筆、それから冷たい麦茶が並んでいる。
「名前、住所、生年月日。保護者欄はあとでこっちでも確認するから、分かるところまで書いて。分からなかったら聞いてね」
三人が紙へ向かうと、部屋に鉛筆の音が続き始めた。
「……これ、漢字で書くと?」
「自分の名前くらい書けるやろ」
「書けるし! 確認しただけ!」
「なら聞くなよ」
「二人とも、静かに書きなさい」
「はーい」
玲子に止められ、二人がようやく黙った。
ケータも上から順番に欄を埋めていく。
星宮ケータ。
十歳。
住所を書き、生年月日を書き、そのまま下へ進んでいったところで、鉛筆が止まった。
「……長っ!」
「何が?」
「ここ」
紙の下半分を指差す。
そこには急に文字が小さくなり、細かな文章がびっしりと並んでいた。
「これ全部、読まないかんと?」
「本当はね。でも十歳にはちょっと酷だから、大事なところは説明する」
玲子が三枚の願書へ手を伸ばした。
「まず、夢見学園で知ったこと、聞いたこと、見たことを、勝手に外で話さないこと。写真や動画、文章、ネットへの投稿も禁止」
「なんで?」
「学園で扱うものの中には、一般には公開されていない情報があるから。それを知る代わりに、秘密を守りますって約束してもらう」
とっちゃんが願書を持ち上げ、小さな文字の列を見る。
「……それ、願書なん?」
「願書よ」
「なんか契約書みたいやん」
「鋭い」
「え?」
「兼ねてるから」
三人の視線が、一斉に紙へ落ちた。
「先に言ってよ!」
「今言ったじゃない」
「書き終わる直前に!」
「まだ最後の署名してないでしょ?」
「そういう問題?」
玲子は笑っていたが、最後の欄へ伸ばしかけた指が途中で止まった。
「それと、もう一つ」
声が変わった。
三人も顔を上げる。
「これは、ちゃんと聞いて」
玲子は一人ずつ顔を見てから、続けた。
「さっき、戦うための力も身につけるって言ったよね。そのために、危険な場所へ行くこともある。怪我をすることもあるし――」
一度、言葉を切る。
「死ぬこともある」
部屋から、鉛筆の音が消えた。
窓の外では、蝉だけが鳴いている。
ユキがゆっくりと顔を上げた。
「……死ぬの?」
「うん」
玲子は言葉を濁さなかった。
「絶対に安全だとは言えない。行った先から、戻って来られなくなることだってある」
ケータの指が、願書の端を握った。
帰って来なかった父ちゃん。
今も、どこにいるのか分からない母ちゃん。
ついさっきまでただの紙だったものが、急に重くなった気がした。
「もちろん、危険を避ける方法も教えるよ。生きて帰るために必要なことを学ぶ場所でもある。でも、どれだけ準備しても、何が起こるか分からないことはある」
三人は黙って聞いていた。
「怖がらせたいわけじゃない。ただ、知らないまま名前を書かせたくないの」
玲子が、まだ空いている最後の欄を指差す。
「今決めなくてもいい。やめてもいいし、考えてからでもいい。それで誰も責めたりしない」
机の上に、三枚の願書が並んでいる。
「ちゃんと考えて。それでも行くって決めたら、最後に自分の名前を書いて」
ケータは願書を見つめた。
死ぬかもしれない。
戻って来られなくなるかもしれない。
怖くないわけじゃない。
それでも、あの日のことを思い出す。
何も知らなかった。
父ちゃんが何をしているのかも、自分たちに何が起きているのかも分からないまま、ただ見ていることしかできなかった。
母ちゃんにも、手を伸ばすことしかできなかった。
知らないままは、嫌だった。
もう一度同じことが起きた時、何もできないままでいるのも嫌だった。
ケータは鉛筆を握り直した。
最後の欄へ、自分の名前を書く。
星宮ケータ。
隣にいたとっちゃんが、その文字を見た。
しばらく黙っていたが、やがて自分の鉛筆を取る。
雅楽川としふみ。
ユキも二人の名前を見てから、自分の欄へ鉛筆を走らせた。
高津ユキ。
「書いた」
「俺も」
「わたしも」
三人の声は、さっきまでより少し静かだった。
玲子が願書を順番に受け取り、内容を確認してから、机の上できれいに重ねる。
最後に三枚の端を指先で揃えた。
「はい」
そして、さっきまでの真面目な顔が嘘だったみたいに笑う。
「これで話せるわね!」
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