第11話① ウタガワトシフミ
数日後。
ケータは、星見宮の鳥居の前に立っていた。
夏の朝。
空はよく晴れ、薄い雲が青の中をゆっくり流れている。
境内の奥からは蝉の声が響き、風が吹けば木々の葉がさらさらと鳴った。土と草、それに湿った夏の匂い。
そこまでは、いつもの星見宮だった。
けれど。
鳥居の向こうには、まだ黒が残っている。
煤のついた石畳。
焼け焦げた柱。
白い布で覆われた場所。
一部はもう片付けられ、新しい木材も運び込まれていた。それでも風向きが変わると、ふっと焦げた木の匂いが混じる。
「…………」
鼻の奥に、あの日の匂いが蘇った。
紅い空。
黒い炎。
父の背中。
「ケータン」
横から声がして、ケータは振り向いた。
「ん?」
とっちゃんが立っている。
その隣にはユキ。
二人とも、今日はいつもの服ではなかった。
とっちゃんは囃子方の装束。
ユキは白衣に緋袴を身につけ、すぐにでも巫女として動ける格好をしている。
「大丈夫か?」
「……うん」
とっちゃんはケータの顔をしばらく見ていたが、それ以上は聞かなかった。
ユキも何も言わない。
三人で、鳥居の向こうを見る。
やがてケータが一歩を踏み出し、そのまま鳥居をくぐった。
*
今日、星見宮では、あの日途中で中止された星結がもう一度執り行われる。
対象は、星結を終えることができなかった十歳の子供たち。
ケータは違う。
自分の星結は、もう終わっている。
あの日、神前で自分の夢を口にした。
だから今日は、夢を結ぶためにここへ来たんじゃない。
舞うために来た。
境内の中央には、仮の神楽舞台が組まれていた。
新しい木材で組まれた、まだ白さの残る柱。
あの日の舞台とは違う。
それでも、太鼓がある。
笛がある。
鉦がある。
舞う場所が、ある。
「ケータくん」
振り向くと、玲子がこちらへ歩いてきた。
「体調は?」
「大丈夫です」
「痛いところは?」
「まだちょっとありますけど。舞うくらいなら」
玲子はケータの様子を確認してから、少しだけ表情を引き締めた。
「無理はしないこと。少しでもおかしいと思ったら、すぐ止める。今日は何かあれば、儀式そのものを中止するから」
「はい」
「星結はやり直せる。でも、人はやり直せないからね」
ケータは小さく頷いた。
玲子はそれ以上言わず、仮設の舞台へ目を向ける。
「じゃあ、お願いね。神楽師さん」
「……はい」
ケータも舞台を見る。
「やります」
*
装束を整える。
袖。
帯。
足元。
一つずつ確かめてから、ケータは舞台へ上がった。
父がいた場所。
あの日、父が舞っていた場所。
そこへ今度は、自分が立つ。
ケータは大きく息を吸った。
――ドン。
太鼓が鳴る。
今日、最初の囃子を務めるのは星見宮の大人たちだった。
とっちゃんは、まだ星結を終えていない。今は舞台の脇で、ほかの子供たちと一緒に順番を待っている。
――ドン。
二つ目。
笛と鉦が重なった。
ケータが一歩、足を運ぶ。
神楽が始まった。
*
最初に名前を呼ばれるのは、雅楽川としふみ。
そのとっちゃんは、さっきから妙に静かだった。
右の人差し指で、左の手のひらに何かを書く。
人。
ぱくっ。
また書く。
人。
ぱくっ。
「……わたしは、プロ野球選手になります」
今度は、ぼそぼそと発表の練習まで始めた。
ケータは舞いながら横目で見る。
ユキも隣から、とっちゃんを見ていた。
「……めっちゃ緊張しとるやん」
「しとらんって」
「手のひらの人、もう五人くらい食べとーよ」
「数えるな!」
「あと、なんで『わたし』なん?」
「そりゃ、神前やけんね。丁寧に言った方がよかろーもん!」
「そこから練習しよるんか……」
そのとき。
「雅楽川としふみ」
「っはい!」
声が裏返った。
ユキが口元を押さえる。
ケータも、少しだけ笑った。
「見るなって!」
とっちゃんは真っ赤な顔で立ち上がると、大きく息を吸った。
それから神前へ向かって、一歩ずつ進んでいく。
さっきまでの落ち着かない様子とは少し違った。
神前へ近づくほど、背筋が伸びていく。
――ドン。
太鼓が低く鳴った。
とっちゃんは所定の位置で足を止め、両足を揃える。
神前へ、深く一礼した。
――ドン。
もう一度、太鼓が鳴る。
低い音が境内の奥へ沈んでいく。
風が止まった。
さっきまであれほど鳴いていた蝉の声が、ふっと遠くなる。
神前の奥から、淡い光が降り始めた。
一筋。
また一筋。
細い白い光がゆっくりと、とっちゃんの周囲へ集まっていく。
肩。
腕。
胸。
身体の輪郭を確かめるように、光が巡る。
その中心で、とっちゃんは目を閉じていた。
何かを聞いているように。
何かを受け取っているように。
やがて、身体を巡っていた光が一つ、また一つと胸元へ吸い込まれていく。
最後の光が消えた。
静寂。
とっちゃんが、ゆっくりと目を開けた。
そして顔を上げる。
さっきまで、何度も練習していた。
プロ野球選手。
そう言うはずだった。
だからケータも、次に出てくる言葉を知っているつもりだった。
とっちゃんが一度、息を吸う。
「わたしは――」
声は、もう裏返らなかった。
「ケータを――ケータの神楽を、俺の音で支えます。
囃子方になります」
「…………」
え。
ケータの足が止まりかけた。
プロ野球選手は?
舞台の脇を見る。
ユキも目を丸くしていた。
どうやら、ユキも知らなかったらしい。
とっちゃんは神前へもう一度深く頭を下げ、それから、くるりと舞台の方へ向き直った。
代理で囃子を務めていた大人が静かに席を立ち、とっちゃんへ撥を差し出す。
とっちゃんは両手で受け取った。
太鼓の前へ座る。
撥を握る。
ケータには、まだ分からなかった。
野球は、どうしたんだ。
ずっとプロになると言っていたのに。
あの日まで、あんなに楽しそうに話していたのに。
とっちゃんが顔を上げる。
目が合った。
にっ。
いつもの顔で笑った。
次の瞬間。
――ドンッ。
「…………!」
腹の底まで、音が突き抜けた。
空気が震える。
焦げた木の匂いも、蝉の声も、一瞬だけその一打に押し退けられた。
強い。
真っ直ぐな音だった。
迷っているようには、聞こえなかった。
とっちゃんが、もう一度ケータを見る。
――ドン。
二つ目。
さっきより、少しだけ柔らかい音。
ケータは小さく息を吐いた。
まだ何も分からない。
どうして夢を変えたのかも。
野球を、本当に諦めたのかも。
でも。
とっちゃんの目は、あの日までと何も変わっていなかった。
そして。
この音なら。
ケータは足を踏み出した。
――ドン。
とっちゃんの音に、背中を押される。
ケータは再び、舞い始めた。
とっちゃんイメージ画像
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