第7話③ タタカウリョウシン
ぱちぱちと。
炎が、
燃えている。
父は、
動かない。
赤い鬼面だけが、
少し離れたところに転がっていた。
影に入ったのか。
煤がついたのか。
あれほど赤かった面が。
今は、
真っ黒に見えた。
「父……ちゃん……」
返事はない。
ケータの耳には、
炎の音しか聞こえなかった。
ぱち。
ぱちぱち。
さっきまで。
あんなに速く、
空を飛んでいた。
白い光を蹴って。
あんなに大きな獣を、
追い詰めていた。
なのに。
今は。
動かない。
「…………」
黒い獣が、
ゆっくりと顔を上げた。
赤黒い眼が、
ケータを捉える。
また。
最初と、
同じ。
父を倒したことなど、
どうでもいいみたいに。
「……っ」
ケータの足が、
一歩下がった。
ざり。
砂利が鳴る。
黒い獣が、
一歩踏み出した。
――ズン。
地面が、
揺れる。
身体から溢れた黒い妖気が、
地面へ落ちる。
ボッ。
黒い炎。
もう一歩。
――ズン。
逃げないと。
頭では、
分かっている。
なのに。
足が、
動かない。
「ケータン!」
とっちゃんが、
腕を引いた。
「逃げるぞ!」
「…………」
黒い獣が、
身体を沈める。
「っ!」
次の瞬間。
巨体が、
消えた。
「え――」
風。
熱いはずの境内を、
冷たい風が突き抜けた。
気づいたときには。
黒い獣が、
目の前にいた。
「ケータン!!」
ユキの声。
黒い爪が、
持ち上がる。
大きい。
空が、
なくなる。
ケータは、
見上げることしかできなかった。
黒い爪が、
落ちてくる。
そのとき。
誰かに、
強く抱きしめられた。
「――っ!」
柔らかい。
知っている匂い。
汗と。
煙と。
それでも残っている、
いつもの匂い。
「母ちゃん……?」
母が、
ケータを抱きしめていた。
背中を向けて。
黒い獣から、
ケータを隠すように。
「大丈夫」
耳元で、
母の声がした。
震えていた。
それでも。
「大丈夫やけん」
頭上で、
風が鳴った。
黒い爪が、
落ちてくる。
その瞬間。
――ボッ!
地面から、
白いものが噴き上がった。
黒い爪へ、
絡みつく。
――ズンッ!!
爪が、
止まった。
ケータたちの、
すぐ目の前で。
「……っ!」
低い呻き声。
「え……?」
母の腕の隙間から、
ケータが見る。
そこに。
父がいた。
「父ちゃん……!」
いつの間に、
そこまで来たのか。
片膝をつき。
片腕を、
だらりと垂らしている。
赤い装束は、
黒く焼け。
額から流れた血が、
頬を伝っていた。
それでも。
残った右手だけは、
強く握られている。
その先で。
白く濁った蝋が、
黒い爪を縛りつけていた。
父の膝が、
震えている。
爪が、
じりじりと下がってくる。
それでも。
父は、
離さない。
「まだ……」
父が、
息を吐く。
「まだ……
終わっとらん」
右手が、
ゆっくりと握られる。
その瞬間。
――ピクリ。
境内のあちこちで、
何かが動いた。
「……?」
ハゼの実が、
爆ぜた場所。
黒い獣から、
欠片が落ちた場所。
小さな獣たちが、
消えた場所。
戦いの跡に残された、
蝋。
一つ。
また、
一つ。
地面から、
剥がれる。
ずるり。
ずるり。
境内中の蝋が、
動き始める。
「父ちゃん……」
父が、
拳を握った。
「……全部」
掠れた声。
「持ってけ」
蝋が、
走った。
四方から。
黒い獣へ。
脚へ。
胴へ。
首へ。
二本の長い耳へ。
一本。
十本。
百本。
これまでの戦いで、
父が残してきたもの全部が。
黒い獣へ、
巻きついていく。
ギシッ。
ギシギシギシッ――
「グオオオオオオオオッ!!」
黒い獣が、
暴れる。
――ズンッ!
地面が揺れる。
それでも。
蝋は、
離れない。
父が、
震える指を上げた。
「――灯れ」
ボッ。
一つ。
ボッ。
二つ。
ボッ。
ボッ。
ボッ。
境内中に、
火が灯る。
紅蓮でもない。
黒炎でもない。
橙色の、
小さな灯。
一つ一つは、
頼りない。
けれど。
それが、
百も。
千も。
黒い巨体を、
覆っていく。
「グオオオオオオオオッ!!」
黒い妖気が、
蝋に絡め取られる。
橙色の火が、
その黒を焼いていく。
父が、
地面へ手をついた。
「……今や」
母が、
顔を上げた。
「…………」
二人の視線が、
重なる。
母が、
小さく頷いた。
そして。
ふらつきながら、
歩き出す。
「母ちゃん……?」
その先。
倒れた柱の陰に、
黒い箱があった。
火に囲まれているのに。
その箱だけが、
焼けていない。
母が、
蓋を開ける。
中にあったのは。
面。
金色。
四つの眼。
人の顔にも。
獣の顔にも、
見えない。
見ているだけで、
胸の奥がざわつく。
「母ちゃん、
それ……」
遠くから。
黒服の一人が、
声を上げた。
「待ってください!」
母が、
振り返る。
「それは――」
「グオオオオオオオッ!!」
黒い獣が、
暴れた。
ギシギシッ!
蝋が、
軋む。
父の身体が、
大きく揺れる。
「……早く」
父が、
顔を上げる。
母を見る。
「…………」
母が、
金色の面を見つめた。
一瞬だけ。
そして。
顔へ、
当てた。
刹那――
光が、
溢れた。
「っ!」
金。
紅蓮に染まった境内を、
金色の光が塗り替えていく。
母の身体が、
淡く輝く。
髪が、
風もないのに揺れる。
金色の面。
四つの眼が、
ゆっくりと開いた。
空気が、
変わった。
熱いはずの境内に。
一瞬だけ。
甘い香りが、
漂った。
「……桃?」
母の左手に。
枝が、
現れる。
淡い桃色の花をつけた、
一本の枝。
その枝が、
弧を描く。
弦が張る。
弓。
桃の、
弓。
右手には。
細長い、
一本の葦。
母が、
それを弦へ番えた。
ギリ……
弓を、
引く。
金色の光が、
葦へ集まっていく。
「グオオオオオオオッ!!」
黒い獣が、
暴れる。
それでも。
父の蝋が、
押さえ込む。
母が、
指を離した。
――ヒュッ。
葦の矢が、
飛んだ。
速くはない。
轟音もない。
ただ。
真っ直ぐに。
黒い獣の胸へ。
――トン。
軽い音。
矢が、
刺さった。
「…………?」
何も、
起こらない。
一秒。
二秒。
そのとき。
黒い獣の足元に、
金色の線が走った。
一つ。
二つ。
地面を、
這っていく。
線が、
円を描く。
黒い獣を囲んで。
そして。
母も。
その円の中に、
立っていた。
「……母ちゃん?」
胸の奥が、
ざわついた。
「母ちゃん」
母が、
ケータを見る。
金色の面の向こう。
顔は、
見えない。
それでも。
母が笑った。
そんな気がした。
「母ちゃん!」
ケータが、
走り出す。
「来たらダメ!」
母が、
叫んだ。
ケータの足が、
止まる。
金色の円が、
強く輝く。
黒い獣が、
身を捩る。
ギシッ。
父の蝋が、
黒い獣へ食い込む。
金色の光が、
その巨体を包んでいく。
黒い獣が、
低く身を沈めた。
ギシ……
蝋が、
軋む。
それでも。
離れない。
父の右手が、
さらに強く握られる。
蝋が、
黒い身体へ深く食い込んだ。
「グ……」
黒い獣の喉から、
低い音が漏れる。
金色の光が、
少しずつ強くなっていく。
いける。
ケータは、
そう思った。
このまま。
このままなら――
「グオオオオオオオオッ!!」
黒い獣が、
突然大きく身体を捩った。
――ズンッ!
地面が、
大きく揺れる。
ギシッ。
ギシギシッ。
父の蝋が、
激しく軋む。
「……っ」
父の肩が、
揺れた。
それでも。
右手は、
離さない。
黒い獣が、
もう一度身を捩る。
ギギギギギ――
一本の蝋が、
細く伸びる。
伸びて。
伸びて。
――ブツン。
一本。
切れた。
「……っ」
父の身体が、
わずかに揺れる。
黒い獣が、
さらに身を捩る。
ギシッ。
もう一本。
蝋が、
軋む。
父が、
歯を食いしばる。
右手を、
握り込む。
けれど。
――ブツン。
二本目。
切れた。
「父ちゃん!」
父の呼吸が、
荒くなる。
それでも。
残った蝋が、
黒い獣へ食い込んでいる。
「まだ……
や……」
声が、
掠れる。
母が、
もう一本。
葦の矢を番える。
父の指が、
震える。
ぎゅっと。
残った蝋を、
握りしめるように。
「父ちゃん……」
ケータは、
父を見た。
血の気が、
ほとんどない。
呼吸も、
浅い。
それでも。
手だけは、
離さない。
黒い獣も、
動かない。
いや。
違う。
「……?」
赤黒い眼が、
ケータを見ていた。
じっと。
何かを、
待つように。
父の指が、
また震えた。
ほんの少し。
力が、
緩む。
その瞬間。
黒い獣は、
もう動いていた。
「――っ!?」
ブツンッ!!
残った蝋が、
一斉に引きちぎられる。
橙色の灯が、
舞った。
黒い巨体が、
金色の光を突き破る。
「ケータン!!」
とっちゃんの声。
黒い獣が、
ケータへ迫る。
速い。
父が、
顔を上げた。
母も、
振り返る。
黒い爪が、
ケータへ伸びる。
「…………」
逃げられない。
そう思った瞬間。
二つの身体が、
ケータへ飛び込んできた。
「――っ!」
父。
母。
二人が、
ケータへ覆い被さる。
母の腕が、
頭を抱く。
父の手が、
背中を引き寄せる。
何も、
見えなくなる。
父と。
母。
二人の身体の下。
熱い。
二人の体温が、
ケータを包んでいる。
「父ちゃん……」
「母ちゃん……」
その瞬間。
――ズブッ。
鈍い音。
二人の身体が、
大きく跳ねた。
「…………?」
ぽた。
何かが、
ケータの頬へ落ちる。
温かい。
もう一滴。
ぽた。
鼻の奥へ、
匂いが届いた。
鉄みたいな。
嫌な匂い。
「……え?」
ケータの指が、
頬に触れる。
赤い。
「母ちゃん?」
母の腕は、
まだケータを抱いている。
「父ちゃん?」
父の息が、
耳元で漏れた。
「……ぐっ」
ケータが、
顔を上げようとする。
「見るな」
父の声。
弱い。
掠れている。
「でも……」
「見るな」
父の手が、
ケータの後頭部を押さえた。
その手が、
震えている。
けれど。
見えてしまった。
二人の向こう。
黒い爪が。
父と母を、
貫いている。
「…………」
声が、
出なかった。
黒い獣が、
爪を引く。
ずるり。
父の身体が、
大きく傾く。
母も、
膝をつく。
「いや……」
ケータが、
二人へ手を伸ばす。
「いやや……」
父が、
片膝をついた。
母も、
胸元を押さえながら身体を起こす。
金色の面は、
まだ外れていない。
四つの眼が、
黒い獣へ向く。
「母ちゃん……?」
母が、
立とうとする。
ふらつく。
それでも。
立つ。
金色の円は、
まだ消えていない。
「まだ……」
母が、
息を吐く。
葦の矢を、
握り直す。
「まだ……
終わってない」
黒い獣が、
母を見る。
その足元で。
橙色の灯が、
また一つ消えた。
父が、
地面へ手をついている。
「父ちゃん……?」
返事はない。
ケータが、
父を見る。
父の眼は、
うっすらと開いていた。
母を。
ケータを。
交互に、
見ている。
そして。
ほんの少しだけ、
笑った。
「…………」
父の指から、
力が抜ける。
すとん。
手が、
地面へ落ちた。
「……父ちゃん?」
一つ。
ボッ。
橙色の灯が、
消える。
また一つ。
ボッ。
消える。
「父ちゃん……?」
次々と。
境内から、
父の灯が消えていく。
暗く。
暗く。
なっていく。
「父ちゃん」
返事は、
ない。
「父ちゃん!」
黒い獣が、
立ち上がった。
「グオオオオオオオオッ!!」
金色の円が、
大きく歪む。
「……っ!」
母が、
弓を引く。
けれど。
黒い獣の脚が、
円の外へ出る。
金色の光が、
弾ける。
封印が。
破られる。
「母ちゃん!」
黒い獣が、
もう一歩。
円の外へ。
*
チク。
タク。
「…………?」
ケータが、
顔を上げた。
チク。
タク。
炎が、
燃えている。
黒い獣が、
吼えている。
母が、
何かを叫んでいる。
なのに。
その音だけが、
やけにはっきりと聞こえる。
チク。
タク。
どこかで。
時計が、
時を刻んでいる。
――カチッ。
『やれやれ』
「…………」
聞き覚えのある声が、
した。
『困るなあ……』
『封印くらい、
ちゃんとやってくれないと』
「……え?」
誰。
いや。
知っている。
この声を。
ケータは、
知っている。
『僕の出番には、
早すぎるんだよ』
チク。
タク。
『まあ――』
『早すぎるってことは、
間に合うってことなんだけど』
くすりと。
笑った気がした。
『でもさ』
『僕は忙しいんだよ』
――カチッ。
ケータの意識が、
途切れた。
本編をお読みいただきありがとうございました!
もし「面白い!」「続きが気になる!」と少しでも思っていただけたら、画面をもう少しだけ下にスクロールしたところにある……
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9/6 19:00 第7話④を公開予定です。そちらもお楽しみください




