第5話 蛇口をひねると水が出る。それだけで泣く人がいる
迂回回路の完成に十日かかった。
一人で掘り、一人で回路を刻み、一人で接続を繋いだ。途中でニコが水を運んできてくれたのと、サーシャが何も言わずに握り飯を置いていったのが唯一の助けだった。
握り飯は、不味かった。
いや、不味いという言い方は正確ではない。味がしない。味がしないのに苦い。この二つは矛盾しているが、同時に成立していた。三日目から中に薬草が一枚挟まれるようになり、苦味が倍になった。五日目から二枚。七日目に三枚になった時、レンは一口食べて空を見上げた。
「……握り飯って……こんなに人を試す食い物だったか……?」
「サーシャおねえちゃん、体にいいって言ってたよ」
「体にいいと食えるは別の話だろ……」
九日目、レンはこっそり握り飯の中身を確認した。薬草が四枚になっていた。量が日数と連動している。恐ろしいことにこれは意図的だ。
修行とも言える握り飯を食らいつづけて十日目の朝を迎えた。最後の接合部だ。
ここまでの迂回回路を全部繋いできた。あとはこの一点を接続すれば、地下の水系回路から地上の蛇口まで一本の道ができる。水系魔術の素養はレンにはないが、回路の「道」を作ることはできる。道さえ正しければ、水は勝手に流れる。
深呼吸して、構築系の魔力を最後の接合部に流し込んだ。
回路が繋がった。
蒼い光が接合部から走り出した。地下の回路を伝い、迂回経路を経由して、地上に向かって駆け上がっていく。
「ニコ!上の蛇口ひねってくれ!」
「まかせて!」
地上から、どたどた走る音。数秒の沈黙。古い蛇口が軋む音。
「——出た!水出た!!」
ニコの叫び声が地下まで響いた。
レンは地下から這い出た。泥だらけの手で瓦礫の縁を掴み、地上に顔を出す。ゴーグルは泥で片方が見えない。膝の擦り傷は四層構造になっていた。もはや考古学的地層である。
蛇口から水が流れていた。細い流れだ。勢いはない。透明とは言いがたい。だが水だ。
ニコが蛇口の下で両手を広げて水を受けていた。水が指の間からこぼれて、少女は声を上げて笑っていた。
子供たちが先に集まった。水に手を突っ込んで掛け合って、濡れて、怒られて、また笑う。
「おい!顔から突っ込むな!」
「ニコが押した!」
「押してない!」
押した顔をしている。
大人たちは遅れて来た。サーシャが蛇口を見て足を止めた。
「……ほんとに出た」
「十日間泥まみれだったから信用できなかった?」
「あと薬草握り飯の件は感謝してね」
「あれが応援?握り飯への冒涜すぎる」
「あら、たまには野菜も食べないと」
薬草は野菜の括りじゃない。
野菜はおいしいから食うんだよ。
老人たちは、すぐには近づかなかった。
老ガルドは蛇口から離れた場所に立っていた。杖に両手を重ねて、動かない。
しばらくして、ゆっくり近づいた。蛇口の前で止まる。
皺だらけの手が伸びて——水に触れる寸前で、止まった。
指先が震えている。触れるのが怖いみたいだった。
それから、思い切ったように指先を水に入れた。
冷たい水が手のひらの上を流れていく。
老ガルドの肩が一度だけ震えた。
「……こんな音だった」
小さな声だった。水のほうへこぼれた声だった。
「朝になると、あいつが先に水を出す。その音で目が覚めた」
老人の指が蛇口の縁をなぞる。
「壁も温かかった。冬でも」
水音だけが続いている。ニコが笑うのをやめた。
「水が止まって……壁が冷えて……」
声が低くなった。
「ひとり減った」
——間。
「またひとり」
——間。
「わしだけ残った」
拳が杖を握り締めた。骨が浮くほど強く。
「——あいつらのほうが、この街をなんとかできた!わしが死ねばよかった!」
空気が凍った。ニコの目が大きくなった。
レンは動かなかった。
老ガルドの目から涙がこぼれた。拭おうとして、水で濡れた手が顔を拭った。意味がなかった。
「だが、街が先に死んでたんだな。わしのせいじゃなく——街のほうが先に…!」
声を殺そうとして殺しきれない。五十年ぶんの何かが、蛇口の水と一緒に溢れていた。
レンは立ち上がった。
老ガルドの背後の壁に近づいて、手を当てた。冷たい。ただの石だ。
——だが、指先に微かに返るものがあった。水系回路を繋いだおかげで、枝回路の一部が息を吹き返している。温度調整回路の残骸。完全には死んでいない。
レンは構築系の魔力を、細く流し込んだ。
壁の奥で、ごく小さく何かが噛み合った。
石の表面から、冷たさが消えた。温かいとは言えない。ほんの少し、冷たさがゆるんだだけだ。
老ガルドが壁に手を当てた。
掌が広がった。
「——こんなだった」
声が割れた。
「冬の夜。壁が、こうだった」
額を壁に押し当てた。肩が何度も震えた。
レンはその背中を見ていた。
「あんたのせいじゃない」
静かに言った。
「回路が切れたんだ。回路が切れた街は、誰がいたって冷える。——あんたにはどうしようもなかった」
老ガルドは動かなかった。
「でもあんたがここにいたから、この枝回路が残ってた。五十年、そばにいてくれたから——俺はこれを見つけられた」
技術者の言葉だった。慰めに来たんじゃない。
でも、事実で十分だった。
ニコがそっと老人の服の裾を掴んだ。
「ガルドじい」
老ガルドはしばらくそれに気づかなかった。やがて、裾を引く力に気づいて——ぎこちなく手を伸ばし、ニコの頭に置いた。
「……さっきは悪かった」
「うん」
「お前に怒る筋合いじゃなかった」
「うん」
「忘れたみたいに言うなと——思った」
ニコは少し考えてから、首を傾げた。
「じゃあ、忘れない」
老ガルドの目が見開かれた。堪えるような顔だ。
レンは見ないふりをした。
見ないふりをして座り込んだ。
「……疲れた」
サーシャが無言で椀を差し出した。湯気が立っている。
「今度は苦くないやつ」
「最初からそうしてくれ」
「頑張った人間にしか出さない」
「じゃあ最初の十日間は何だったんだ」
「そりゃあんたあれよ」
「?」
「人体実験」
「許せない!!」
ニコが吹き出した。老ガルドまで、壁に手を当てたまま口の端がわずかに動いた。
その夜、報告書を書いた。
結論欄に一行。「放棄非推奨。再生可能。」
技術官の職務範囲を超えていた。だが書いた。風伝紙に写し、夜風に乗せた。
眠りかけた時だった。
地面の下から、何かが触れた。
音ではない。振動でもない。回路を通じて、都市の深いところから、何かが一瞬だけ伝わってきた。
声だったかもしれない。ひどく小さくて、空耳と区別がつかない。
でも——「つないで」か「ありがとう」か、そういう響きの何かが、指先に触れた気がした。
レンは暗闇の中で、自分の擦り切れた指先を見た。
「……今の、何だ?」
答えはない。風が壁の隙間を鳴らすだけだ。
空耳だろう。たぶん。
翌朝、蛇口のそばに見慣れない陶器の器が置かれていた。
根菜の蒸し焼き。重くて温かくて、土の底から湧いてくるような味。
器の底に掌を地面に押しつけたような紋が刻んである。
遠くの丘に大柄な人影が一瞬見えて、消えた。
握り飯に薬草を詰める女といい、壁に話しかける技術官といい。
この廃墟には変な人間しかいない。




