第4話 水道回路が、住民の寝床の真下を通っている
地図を描き始めて三日目に、面倒な問題が見つかった。
面倒な問題は常に、一番見つけたくないタイミングで見つかる。
レンは地図を広げて、ニコに見せた。
「この青い線が水系の回路。古代の水道管だ。これを直せば蛇口から水が出る」
「水!水でるの!?」
「出る。——たぶん」
「たぶん!?」
「いや、回路の状態と勾配と被覆の残り具合を見れば八割は出る」
「わかんないけど、なんかすごそう!」
「だろ」
青い線を指でたどる。中央区画から南に伸びて、そこで——住民の集落の真下を通っていた。
「問題はここだ。お前らが住んでる場所の、ちょうど足元を通ってる」
「うん」
「直すには掘らないといけない。でもその上に家がある。人が寝てる。荷物がある」
「……どかすの?」
核心を突いてくる子だ。
「どかしたくない。だから考えてる」
レンは地面に座って、炭筆で図を描き始めた。ニコも隣に座った。乾パンを齧っている。この子はいつも乾パンを持っている。非常食という概念を身体で体現している。
「やり方が三つある」
地面に三本の線を引く。
「一つ目。住民に移ってもらって、真下をまっすぐ掘る。一番速い。水の勢いも一番強い。ただし十年住んだ場所からどいてくれって頼まないといけない」
「それはいやだよね」
「だろ。二つ目。住民の家を避けて、東に回り道する。住民は動かなくていい。ただし遠回りだから水の勢いが弱くなる。時間も倍かかる」
「ふうん」
「三つ目が厄介だ。二つ目の回り道を選ぶとして——途中にこいつらがいる」
迂回路の途中に×印。
「岩蟲。回路の材料になる岩を食って育つ甲虫で、でかいのは人の背丈を超える。巣がある。で、こいつら厄介なことに糞が肥料になる」
「えっ、糞」
「その顔やめろ。糞にも役割はある」
「でも糞でしょ」
「糞だな」
「糞だ」
認めてしまった。
「この辺三日歩いて気づいたんだけど、迂回路のあたりだけ妙に土がいいんだ。地下の岩蟲の糞が染み出してるんだろ。さっき、誰か薬草育ててるっていってなかった?」
「あ、サーシャおねえちゃん!」
「そいつの畑が駄目になるかもしれない。だから三つ目は、岩蟲を殺さずに別の場所へ誘導して回り道を通す。住民も動かない。畑も守る。水も通す。——ただし一番難しくて、一番時間がかかって、水の勢いも一番弱い」
地面に三本の線と、それぞれの面倒くささが並んだ。ニコは乾パンを齧りながら図を見ていた。十歳の少女が回路設計のトレードオフを聞かされている。
「おにいサンはどれにするのー?」
「三つ目」
「いちばんめんどくさいやつだ」
「回路のほうを人に合わせるのが設計者の仕事だと思うんだ。人を動かすんじゃなくて、設計で解決する。——あと正直に言うと、回り道を掘ると地下の別の回路も見えるかもしれない」
「そっちが本音でしょ」
「……七対三」
「七もあるんだ」
「十分、人のことも考えてるだろ」
そのまま老ガルドのところへ行った。
老人はいつもの場所に座っていた。崩れかけた壁を背にして、杖を膝に立てている。壁の一点——ちょうど老人の背中が当たる高さに、何かの痕がうっすら残っている。文字か、紋様か。もう判別できないほど薄い。
「話がある」
「帰れ」
「今日は帰らないやつだ。聞け」
レンは地図を広げた。水系回路の経路、迂回路の案、岩蟲の巣の位置。手短に説明した。
「——で、回り道で通す。あんたの真下は掘らない」
「この下は掘るな」
「だから掘らないって言ってるんだけど——」
「周りもだ」
声が低かった。怒鳴ったわけじゃない。けれど、今までで一番強い拒絶だった。
「……何がそんなに嫌なんだ。ただの——」
ただの寝床だろ、と言いかけた。
老ガルドが立ち上がった。
杖を掴んで立ち上がるだけで空気が変わった。背は曲がっているのに、目だけが鋭い。
「ただの、何だ」
レンは口を閉じた。言い方を間違えた。
「ただの寝床と言いたいのか。お前にとってはそうだろうよ」
杖が石の床を叩いた。一度。強く。ひびが入った。
「ここで寝て、ここで起きて、ここで食った。冬も越えた。ここで——」
そこで声が止まった。飲み込んだ。
老ガルドの手が背後の壁に伸びた。皺だらけの手のひらが冷たい石に押し当てられる。
その手が震えていた。怒りだけじゃない。もっと奥にあるものが手を震わせている。
「触るな。掘るな。ここには来るな」
声は小さくなっていた。追い払う声じゃない。——守ろうとしている声だ。
ニコが横から顔を覗かせた。
「ガルドじい、いつもその壁のとこに——」
「ニコ」
低い、硬い声だった。ニコの体がびくりと止まる。
「お前だけは。軽々しく言ってくれるな」
老ガルドがニコにこんな声を出すのは初めてだった。ニコ自身が一番驚いた顔をしている。
数秒の沈黙のあと、老人は目を伏せた。
「……すまん。行け」
レンは老ガルドの背後の壁を見ていた。薄い痕。冷たい石。老人の手のひらが何度も触れた跡が、石の表面を少しだけ滑らかにしている。
——何かを守っている。この壁にあるものを。
だが今は掘り下げない。
「分かった。掘らない。真下は。ただ回り道では通させてもらう。このままじゃマズいんだ」
「……勝手にしろ」
「それ、便利な言葉だな」
「お前の独り言ほどではない」
妙に耳はいい。
ニコの案内で南のはずれの薬草畑へ向かい、サーシャという女に会った。泥だらけのエプロンで手を拭きながら、露骨に怪訝そうな顔で出てきた。
「誰」
「技術官。水道を直してる。地下の岩蟲を殺すとここの土が痩せるかもしれない。回り道を掘るが、岩蟲は殺さない。あんたの畑は守る」
「……早口だね」
「要点だけ言った」
「どうせすぐ壊れる。前の役人も似たようなこと言って三日で帰った」
「俺は帰らない。回路が面白いし」
サーシャの表情がほんの少しだけ変わった。住民のためじゃなく、回路が面白いから帰らない。そういう返事は予想していなかったらしい。
「……最低」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてない」
翌日から掘削を始めた。一人で。
鑿と槌で地面を削る。膝は初日に擦りむいた。二日目も同じ場所。学習しない膝だった。
三日目、迂回路の途中で空洞に出た。岩蟲が食い広げた巣だ。壁面に無数の齧り跡があり、床に消化された岩の残骸が堆く積もっている。
そして——巣の奥に、いた。
二体。
天井に届いている。
洞窟の天井は人が三人重なってようやく届く高さだ。その天井に甲殻の背が擦れている。六本の脚は大人の胴回りほどあり、壁と床に深く突き刺さっていた。灰褐色の甲殻に岩の結晶がびっしり張りつき、灯りを当てると洞窟全体がぎらりと光った。
「——ででででっっかぁ!」
声が裏返った。
二対の顎が壁を噛んでいる。一噛みで大人の頭ほどの岩が砕けていた。
一体の頭がこちらを向いた。複眼が灯りを反射する。
脚を踏み替えた。地面が揺れた。——揺れた、じゃない。洞窟全体が震えた。
来た。壁を蹴って突進してくる。甲虫というより城門が走ってくるようなものだ。
レンは通路の壁に手を叩きつけた。構築系の魔力を流し込み、地面から岩盤をせり上げる。
岩蟲が壁に激突した。衝撃で足元が揺れる。——顎が壁に噛みついた。岩蟲だ。岩を食うのだ。
食い破られるまで数秒。だが数秒で十分だった。
南東側の壁を薄くする。わざと弱くする。正面は硬く、横は柔らかく。
岩蟲は硬い壁をもう一度噛んで、止まった。頭が横に振れて、薄い壁を一噛み。崩れた。そちらには柔らかい砕石の層がある。食いやすい岩だ。
一体目が南東の通路に頭を突っ込んだ。二体目も続く。
通り過ぎた後ろに、硬い壁を立てた。戻れない。
「……はー……」
座り込んだ。膝の擦り傷は本日三回目。
岩蟲が退いた跡に回路を刻みながら掘り進めると、水系だけでなく火系と土系の回路の残骸が見つかった。六色統合回路は都市全体に張り巡らされている。掘れば掘るほど、古代の設計が見えてくる。
三つ目を選んで正解だった。遠回りは、無駄じゃなかった。
——だがそれ以上に、一本の回路がレンの目を引いた。
他とは明らかに違う方向——中央のやや南、塔の上から「核かもしれない」と思った区画に向かっている。
指先で触れると、微かに脈動が返ってきた。死にかけているが、この先の何かに繋がっている。
「……お前、まだ生きてるのか」
壁に話しかけている。自覚はある。
返事はない。——けど、あった気がした。嘘みたいに小さく、何かがそこにいる気がした。
気のせいだろう。たぶん。
レンは地図に線を一本、書き足した。




