第8話 帰る理由
マイケルと別れたあと、
一息ついた俺は空を見る。
夕方の空は、
まだ少し明るい。
口の周りが、
わずかに熱い。
さっきの感触が、
完全には消えていなかった。
触れたのは一瞬。
でも、確かに口だった。
――嫌じゃなかった。
その事実だけが、
胸の奥に残っている。
でも、
それを今、
誰かに話すつもりはなかった。
特に、
百合には。
玄関の鍵を開ける。
家の中の空気は、
昼と同じだ。
靴を脱ぐと、
自然に息が整う。
逃げるためじゃない。
戻るための場所だ。
リビングに向かう途中、
百合が立ち上がるのが見えた。
「おかえり」
声は、
いつも通りだ。
「……ああ」
返事が、
思ったより軽く出た。
それは、
ごまかしじゃない。
重かったものが、
一つだけ、ほどけたからだ。
俺は、
百合の前で足を止める。
「百合」
「……なに」
一度、息を吐く。
言うべきことは、
決まっている。
「ごめん」
百合が、
こちらを見る。
逃げない。
「勘違いだった」
余計な前置きはしない。
「マイケルは」
言葉を選ばず、
はっきり言う。
「百合目当てじゃない」
それだけは、
確実だった。
俺は、
ちゃんと聞いた。
誤魔化されていない。
視線も、
言葉も。
百合は、
すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、
責めてこない。
「……そう」
短い返事。
それで十分だった。
これ以上、
話さない方がいい。
今の段階では。
キスのことも。
男が恋愛対象だという話も。
俺が対象だったことも。
全部、
百合には関係ない。
関係なくしておく。
それが、
今の俺の選択だった。
百合は、
代わりじゃない。
俺が前に出ることで、
百合の位置が変わるなら。
その前には、
一度、立ち止まる。
それだけだ。
その夜、
自分の部屋で、
耳に触れる。
髪で隠れている、
いつもの形。
今日、
否定されなかった。
それだけで、
十分だった。
百合の部屋の灯りが、
しばらく消えなかったのを、
俺は知っている。
でも、
声はかけなかった。
今日は、
これ以上進まない。
進まなくていい。
軽くなったのは、
気持ちじゃない。
誤解が一つ、
解けただけだ。
それで、
今は足りている。




