第19話 本心
リビングを出たあと、俺とマイケルは並んで廊下を歩いた。
さっきまで四人で座っていた空間が、急に遠く感じる。
ドアを閉める音が小さく響いて、家の中が静かになった。
「……ケンジ」
マイケルが、いつもより低い声で呼ぶ。
「ん?」
「ユリ、優しいね」
その言い方に、少しだけ笑ってしまう。
「昔からだ」
簡単に答えると、マイケルは頷いた。
「ちゃんと、家族」
日本語は相変わらず拙いけど、意味は真っ直ぐだった。
玄関まで来て、マイケルが立ち止まる。
靴はまだ履かない。
距離が、自然に近づく。
「……さっき」
マイケルが言う。
「少し、緊張した」
「俺もだ」
即答すると、マイケルは驚いた顔をしてから笑った。
「Really?」
「ああ」
報告する側でも、される側でも、
家族の前に立つのは、やっぱり簡単じゃない。
マイケルが、そっと息を吐く。
「でも」
一拍。
「認めてもらえた」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
「……そうだな」
俺は、靴箱に手をついて答えた。
「ユリは、ちゃんと見てる」
誰を選んでいるかも、
どう向き合っているかも。
マイケルは、しばらく黙っていた。
それから、俺を見る。
視線はまっすぐで、逃げがない。
「ケンジ」
名前を呼ばれる。
「ボク、これからも確認する」
「急がない」
「ちゃんと、聞く」
宣言みたいな言い方だった。
俺は、少し照れて視線を逸らす。
「……知ってる」
もう、何度も見てきた。
距離を詰める前に止まるところも、
俺の反応を待つところも。
だから。
俺は一歩、前に出た。
マイケルの胸に、軽く額が触れる。
触れるだけ。
ハグまではいかない。
でも、離れてもいない。
「……ありがとう」
そう言うと、マイケルの肩が少し緩んだ。
「ケンジ」
囁く声。
手が伸びてくる。
触れる前に、止まる。
確認の視線。
俺は、小さく頷いた。
短いハグ。
抱きしめない。
包むだけ。
胸の鼓動が、近い。
数秒で、離れる。
「……今日は、ここまで」
マイケルが言う。
その判断に、安心する。
「ああ」
俺も答える。
マイケルは靴を履き、ドアを開ける。
玄関を出て、二人で並んだ。
夜の空気は冷えているのに、
さっきから胸の内側だけが妙に熱い。
マイケルは俺の方を向いた。
目が合う。
次の瞬間だった。
――早口。
それも、英語。
「To be honest…
your presence has been scrambling my better judgment lately.
There’s an urge I’m very aware of, and one I’m deliberately not naming.
Pushing too fast—or stepping past a certain threshold—
risks outcomes I’m not prepared to live with.
There’s an impulse toward you,
unmistakable, persistent.
Even so…
I’m opting for restraint,
choosing the posture of a gentleman over acting on it.」
一息に、流れるように。
区切りも、間もない。
感情だけが先に来る。
「……え」
俺は、思わず声を漏らした。
聞き取れた単語は、
honest と、gentleman と、
あと、restraint くらいだ。
意味は、つながらない。
「……今、なんて?」
聞き返すと、
マイケルはようやく我に返ったみたいに瞬きをした。
「あ」
短い声。
それから、肩に手を当てて、深呼吸。
「……Sorry」
今度は日本語だった。
速度も、落ちている。
「早すぎた」
自覚はあるらしい。
「感情、先に出た」
俺は、正直に言った。
「ほとんど、わからなかった」
否定でも、責めでもない。
ただの事実。
マイケルは一瞬困った顔をして、
それから、苦笑した。
「……OK」
「簡単に言う」
一歩、距離を取る。
ちゃんと、逃げ道を残した位置。
「キミの前だと」
一拍。
「ブレーキ、必要」
それだけだった。
短い。
でも、妙に腑に落ちる。
「……そうか」
俺は頷いた。
さっきの英語より、
今の一言の方が、ずっと伝わる。
マイケルは、少し照れたように視線を逸らした。
「英語だと、止まらない」
「知ってる」
即答すると、驚いた顔でこちらを見る。
「Really?」
「ああ」
早口になるときは、
大抵、抑えようとしてるときだ。
マイケルは、肩の力を抜いた。
「……Good」
小さく言う。
それ以上、言葉は続かなかった。
代わりに、軽く手を振る。
「またね」
「またな」
ドアが閉まる。
俺は一人になってから、
さっきの英語を頭の中で反芻した。
全部は、わからない。
でも。
急がない。
踏み込みすぎない。
抑えている。
その方向だけは、伝わっている。
「……十分だろ」
小さく呟いて、
俺は玄関の灯りを消した。
聞き取れなくても、
伝わるものはある。
それでいい、と思えた日だった。




