第17話 好きだ
大学の帰り道。
百合の帰りが遅くなると連絡を受けた日。
外の郵便受けを確認していたマイケルが、
俺に気づいて、家に呼ぶ。
玄関のドアが閉まる音が、
夜の空気を切り分けた。
外の冷たさが、まだ服に残っている。
それなのに、部屋の中は少し暖かい。
マイケルが、靴を脱いで振り返る。
「……ケンジ」
呼ばれただけで、
胸の奥が小さく揺れた。
「こっち」
リビングへ促される。
ソファの前で、
二人とも立ったまま止まる。
距離は、
腕一本分もない。
触れそうで、触れない。
マイケルが、ゆっくり近づく。
俺は、下がらなかった。
「……ちゃんと」
マイケルの声は低い。
「言いたい」
一拍。
「好き」
はっきりした発音だった。
逃げ道のない言葉。
胸の奥が、じん、と熱を持つ。
俺は一度、息を吸ってから答えた。
「……俺も」
短い。
でも、迷いはない。
その瞬間、
マイケルの表情が柔らかく崩れる。
手が、俺の肩に触れる。
指先は温かい。
押さない。
引き寄せない。
ただ、そこにある。
次に、
もう一方の手が上がる。
俺の髪に触れた。
耳を隠している、
いつもの長さ。
指が、ゆっくり髪をすくう。
櫛でとかすみたいに、
優しい動き。
そのまま、
髪を耳にかけられる。
久しぶりに、
空気に触れる耳。
少し冷たい。
でも、すぐに。
マイケルの顔が近づく。
耳元。
距離は、数センチ。
吐息がかかる。
温かい息が、
耳の縁をなぞる。
思わず、
肩がわずかに強張る。
「……好き」
囁きだった。
声は低く、
静かで、確かだ。
言葉と一緒に、
吐息が耳に触れる。
ぞくりと、
背中に細い震えが走る。
熱が、
耳から頬へ広がる。
「……っ」
声にならない音が、
喉から漏れた。
マイケルは、それ以上言わない。
離れない。
でも、触れすぎない。
耳元に残る温度。
髪をかけた指の感触。
それだけで、
頭が少しぼんやりする。
俺は、
反射的にマイケルの服を掴んだ。
強くはない。
逃げない、という合図だ。
マイケルが、
小さく息を吐く。
「……Oh」
英語が漏れる。
感情が、
抑えきれなかった証拠。
でも、
すぐに距離を戻す。
耳から離れる。
空気が冷える。
それが、少し惜しい。
俺は、
まだ熱の残る耳に手を当てた。
「……ずるい」
照れ隠しで言う。
マイケルは、
楽しそうに笑う。
「Sorry」
全然、
悪いと思っていない顔だ。
そのまま、
軽くハグをされる。
胸が触れる。
心臓の鼓動が、
近くで聞こえる。
自分の音と、
重なる。
安心する。
俺は、
腕を回した。
背中に手を置く。
温度が、
ちゃんと伝わる。
「……好きだ」
今度は、
俺が言った。
はっきり。
マイケルの胸が、
わずかに上下する。
「I know」
小さな声。
でも、
嬉しそうだ。
それ以上は、進まない。
今日は、
ここまで。
それでいい。
ソファに並んで座る。
肩が触れる。
さっき耳にかけられた髪は、
そのままだ。
戻さない。
耳が、まだ熱い。
でも、
嫌じゃない。
好きだと言った。
好きだと言われた。
それだけで、
十分だった。
言葉でも。
囁きでも。
俺たちは、
ちゃんと、
向き合っている。
それが、
今の答えだった。




