第11話 触れても、崩れなかった
マイケルが帰ったのは、百合が風呂に入ったあとだった。
「そろそろ、帰る」
「……ああ」
玄関まで見送る。
夜の空気が、
昼より少し冷たい。
ドアの前で、
二人とも立ち止まる。
昨日までなら、
ここで終わっていた。
今日は、
違った。
マイケルが、
俺の方を見る。
視線が合う。
逸らさない。
「ケンジ」
低い声。
いつもより、
少しだけ近い距離。
俺は何も言わなかった。
急かしたくない。
急がれたくもない。
マイケルが、
ゆっくり手を上げる。
でも、
途中で止まる。
「……触って、いい?」
また、確認。
一貫している。
俺は一瞬、
自分の手を見る。
触れたら、
戻れなくなる気がした。
でも。
戻らなくていい場所に、
もう立っている。
「……うん」
短く答える。
声は、
震えていなかった。
マイケルの手が、
俺の手首に触れる。
掴まない。
包まない。
ただ、
指先が触れるだけ。
体温が、
はっきり伝わる。
思っていたより、
温かい。
逃げたくならない。
嫌でもない。
ただ、
呼吸が一拍遅れる。
マイケルは、
すぐに力を抜いた。
引かない。
でも、握らない。
俺が動くのを、
待っている。
俺は、
自分から少しだけ手を動かす。
指が、
マイケルの手に重なる。
一瞬。
それだけ。
でも、
はっきりした意思だった。
マイケルの肩が、
わずかに下がる。
安心した、という反応。
「……OK」
小さな声。
それ以上、
触れようとしない。
手が離れる。
でも、
さっきより距離が遠く感じない。
「ケンジ」
「ん」
「無理、してない?」
最後の確認。
俺は、
首を振った。
「してない」
即答だった。
それで十分だ。
マイケルは、
笑わなかった。
でも、
表情が柔らかい。
「Good」
それだけ言って、
靴を履く。
ドアを開ける前に、
一度振り返る。
「また、来ていい?」
当たり前の確認。
でも、
意味は重い。
俺は、
少し考えてから答えた。
「……ああ」
それも、
即答だった。
ドアが閉まる。
玄関に、
静けさが戻る。
自分の手を見る。
何も変わっていない。
赤くもなっていない。
でも、
確かに触れた。
それで、
何も壊れなかった。
百合が、
廊下の奥から声をかける。
「兄さん?」
「なんだ」
「マイケル、帰った?」
「ああ」
それだけ。
余計な説明はしない。
でも、
隠しているわけでもない。
俺はリビングに戻る。
ソファに座る。
さっきまで、
隣に誰かがいた場所。
そこが、
もう“他人の距離”じゃない。
触れたのは、
一度だけ。
でも、
それで十分だった。
進んだのは、
距離じゃない。
覚悟だ。
このまま、
ゆっくりでいい。
逃げずに、
ちゃんと向き合う。
それができると、
確かめられた夜だった。




